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家康は弱腰すぎるし秀吉は媚び媚び…大河「どうする家康」はキャラ造形に違和感
家康は弱腰すぎるし秀吉は媚び媚び…大河「どうする家康」はキャラ造形に違和感 - ライブドアニュース
戦国武将には気が休まるときがなかった。奪うか奪われるか、殺すか殺されるか、いつも紙一重の状況に置かれ、ひとつの判断ミスが文字どおり命とりになった。だから、常に情実を排除した冷静な判断が求められ、キレイごとをいっている余裕などなかった。
むろん家臣たちも、正しい判断を重ねられない主人に仕えて一緒に滅ぶのはいやだから、主人に判断力がなければすぐに離れた。また、すぐれた武将ほど、家臣の力量や人間性をシビアに評価した。天下をねらうほどの名将であれば、人を見る目も一級だった。
ところが、NHK大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康(松本潤)は情にほだされてばかりで、ほかの武将たちも、よくいえばエッジが立ち、厳しくいえば、一面的なキャラクターでわかりやすく描かれすぎている。
感情の起伏を誇張したほうがドラマとして描きやすい、という事情はわかる。だが、その結果、歴史への理解どころか誤解を促してしまうとしたら、いかがなものだろうか。
たとえば、第17話「三方ヶ原合戦」。元亀3年(1572)10月、遠江(静岡県西部)に侵攻した武田信玄(阿部寛)は家康の支配下の城を次々と攻略し、いよいよ居城の浜松城を攻めるか、と思って籠城に備えていたら素通りし、北方の三方ヶ原方面に進んでいった。そこで家康は、兵力が圧倒的に劣るにもかかわらず打って出て、生涯最大の惨敗を喫した――。そこまでは史実だが、問題は打って出た理由の描き方だった。
岡崎の家族を守るために打って出た?
ドラマでは、家康が三河(愛知県東部)の岡崎城外に住む、有村架純演じる築山殿(ドラマでは瀬名)を訪ね、家族への思いを募らせる。そして、浜松城を素通りした信玄のねらいについて重臣たちと推し量っているときのこと。信玄は浜松より、織田信長(岡田准一)がいる岐阜を狙っているのではないか、という話になり、続いて、岐阜を攻めるならその前に岡崎城を落とすはずだという方向に話が進む。
そこで家康は家族の姿を思い浮かべ、「信玄を岡崎に行かせては……」と思う。家族への思いが、岡崎を守るべきだという判断の唯一の根拠として描かれているわけではないものの、ドラマは家康が家族への情を優先したと受けとれるように展開した。
だが、そもそも、このとき家康が2万5,000といわれる武田軍に、信長からの加勢を足しても1万1,000とされる兵力で討って出た理由を、岡崎を守るためだったとする研究者はほとんどいない。
むしろ、信長から加勢まで送ってもらいながら、武田軍をやりすごすわけにはいかなかった、遠江の国衆を徳川方につなぎとめるには、戦って存在感を示すしかなかった、という見方が多い。あるいは、三河方面から浜松への補給路を武田方に断たれないようにするため、という分析もある。
いずれにせよ、自分の家族を守ることをここで優先するような家康なら、天下をとれたはずがない。のちに正妻の築山殿にも、嫡男の信康にも、武田方に通じていたという疑いで死を命じたのが家康なのである。
ほんとうの家康は先を読みしたたか
家康は三方ヶ原では大敗したが、常に冷静な判断をしている。たとえば、信玄に不信感をもった永禄12年(1569)の時点で、すぐに信玄の宿敵の上杉謙信と接触をはじめ、翌元亀元年(1570)10月には、対武田氏を目的とした同盟を結んでいる。常に先を読むとともにしたたかなのである。
ところが、第16話「信玄を怒らせるな」では、滅ぼされたくなければ「家臣になれ」という信玄からの伝言を受けとった家康が、「一人では決められぬ」からと、信玄の家臣になるべきかどうか重臣たちに打診した。そして「わしは信玄になにひとつ及ばぬ」と弱音を吐いたが、こんなに弱腰だったら、信玄と戦う前に重臣たちが離反していただろう。
第15話「姉川でどうする!」も同様だった。浅井長政(大貫勇輔)と朝倉義景との姉川の合戦を前にして、長政から「信長に義はない、共に討ち取らん」という書状を受けとった家康は、迷った挙句、「わしは浅井長政につく。織田信長を討つ。いまなら討てる」と言い出したのだ。
むろん、ここで家康が迷ったという記録はない。しかも、ドラマで家康が迷った理由がお粗末で、家康は「わしは浅井につきたい。浅井殿が好きだからじゃ。立派なお方じゃ」と言うのだが、この時代、そんなふうに迷った武将はたちまち滅んでいた。
「義」のために存亡をかける余裕はない
浅井長政が当時、信長の妹の市を正室に迎え、織田家と縁戚関係による同盟を結んでいたのは事実だが、同時に朝倉家に従属する国衆でもあった。つまり、織田と朝倉に両属する立場だったため、織田と朝倉が争えば、どちらにつくかという選択を必ず迫られる。
結局、長政は朝倉を選んだが、それはその時点で、みずからの領国を守るための最良の道を判断したということである。柴裕之氏は長政の選択について、「自身の地域『国家』存立に努めることが求められた戦国時代の大名や国衆らの持つ特質であり、そこから選択された結果である」と表現する(『織田信長 戦国時代の「正義」を貫く』)。
ドラマでは長政も、信長を裏切った理由を「信長には義がない」と語っていたが、戦国大名には「義」などのために存亡をかける余裕はなかった。
それは家康も同様で、「立派なお方」だという理由で浅井につくという選択肢は、当時は皆無だった。ドラマでは家老の酒井忠次(大森南朋)に「義とはなんでござる?義なんてものはきれいごとだ!」と言われ、家康ははじめて気づくのだが、戦場には「義」だの「立派」だの「好き」だのという情趣が入り込む余地はない。
家康も、浅井長政も、ドラマで描かれているよりも冷静かつ複雑だったことは疑いない。
戦国大名が判断に次ぐ判断を強いられたのはまちがいない。その意味では、『どうする家康』というタイトルに違和感はないが、すでに述べたように、判断は常に冷静でないと、あっと言う間に敗者になった。視聴者の関心を惹くために、感情の起伏を誇張した感傷劇、すなわちメロドラマ仕立てにするのは、いかがなものだろうか。
秀吉も光秀もキャラクターが一面的すぎる
同様のこと、すなわちキャラクターの極端な単純化は、ほかの登場人物の描き方にも指摘できる。たとえば、周囲のだれもがわかる体で信長に露骨に媚びを売る、ムロツヨシ演じる木下秀吉(のちの豊臣秀吉)である。
朝倉を討つために越前(福井県)の金ヶ崎にいた織田信長は、浅井の裏切りを知って急いで逃げ、しんがりを秀吉に託す。なんとか役目を果たして京都に帰った秀吉は、家康が見ている前で額に鉢巻を巻き、それを木の実で赤く染め水で濡らし、這う這うの体で帰ったように見せかけて信長に面会した。
秀吉はいつもこのように描かれているが、コバンザメのように主君だけを見て周囲を顧みない人物が、家臣を厳しい目で見て、信賞必罰を貫いた信長のお眼鏡にかなったはずがない。周囲を惹きつけて天下をとることもできなかっただろう。
明智光秀(酒向芳)も同様で、ひたすら陰湿で嫌味っぽい人物に描かれている。 第14話「金ヶ崎でどうする!」では、家康が重臣とともに信長に、浅井が裏切った可能性を打診した際には、「戦には流言が飛び交うもの」「三河者は臆病にすぎる。足手まといにならぬといいが」と、家康に嫌味を言う。
だが、以前は足利義昭に仕えていた光秀は、信長の家臣としては新参者なのに、うなぎ上りの出世を遂げた人物だ。このように外れたことばかり言っていたら、信長が登用したはずもなく、その後、出世を遂げたわけもない。
あの光秀に本能寺の変は起こせない
脚本家の古沢良太は『コンフィデンスマンJP』と同じ感覚で、戦国武将たちのキャラクターを設定したのだろうか。詐欺師の世界を描いたコメディなら、人物のキャラクターは一面的なほうがおもしろく描けるかもしれない。
しかし、当時の信長や家康、その周囲にいた人たちは、生き馬の目を抜くような連中ばかりのなかで生き残ってきた人物である。みなしたたかで、冷静で、複雑だったはずで、人前で簡単に馬脚を現さなかったと思われる。
たとえば、昨年の『鎌倉殿の13人』では、主役の北条義時は冷徹に判断して人を殺しながら、心に負の感情を積み重ね、私情を殺して鎌倉のために働きながら、私情とのせめぎ合いに苦しむ、複雑な人物に描かれていた。
残念ながら、『どうする家康』の登場人物は、いずれもあまりにも単純だ。光秀がたんに陰湿でものの見方が浅薄な武将だったら、信長は彼に大軍を預けていない。だから本能寺の変も起きなかったことになる。そのあたりの真実味を、せめて後半から少し増してはもらえないものだろうか。
香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
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