朝ドラ『エール』は史実に基づくドラマのモラルを逸脱していないか?

大半の日本人は、8月15日以降、嘆き悲しんだり、怒ったり、反省したり後悔したりせず、新しい君主であるマッカーサー元帥の下で、平和と民主主義へ向かって走り出した

NHKも 同じです それを批判されたら困るので この番組を利用しているのです

 

朝ドラ『エール』は史実に基づくドラマのモラルを逸脱していないか?(中川 右介) @gendai_biz

 

『エール』を見て、実在の古関裕而がああいうナイーヴな人だったと勘違いする人は多いだろう。

『エール』は、実在の人物を題材にしたドラマとして、根本的なところでの誤りがある・・・

 

「古関裕而」を「古山裕一」として、フィクションとして描くことには、問題はない。

だが『エール』では、フィクションのはずなのに、作中で「古山裕一」が作曲する曲は、実在の「古関裕而」が作曲した曲をそのまま使っている。

これは、不自然だ。古関裕而の曲をそのまま使いたいのであれば、役名も古関裕而とするべきだろう。・・・

 

『エール』では、古山裕一が作曲した曲なのに、古関裕而の曲を使っている。フィクションとして中途半端だ。

古関裕而の曲をそのまま使ったのは、「古山裕一作曲」の曲を新たに作る予算と才能がなかったからなのか。

それもあるかもしれないが、フィクションの作り手が現実の前に敗北している・・

 

結論から言えば、話題になった「戦争を真正面から描いた週」は、大半がフィクションだ。

たしかに古関裕而も慰問のために戦地へ行くが、そこで恩師と再会し、その恩師が死んだという事実は、まったくない。あんな危険な前線にまでは行っていない。

戦地から戻った古山裕一は虚脱状態で敗戦を迎えていたが、古関裕而は元気に敗戦を迎えた。・・・

 

『エール』では、敗戦直後にラジオドラマの仕事の依頼が来るが断わり、以後、1年半にわたり、曲が書けなかったことになっているが、それもフィクションだ。

現実の古関裕而は敗戦直後は福島にいたが、10月初めに、NHKから連絡があり、ラジオドラマの音楽を受注した。それまでの2ヵ月ほど、作曲していないのは、悩み苦しんでいたからではなく、単に、仕事の依頼がなかったからだ。混乱期で、レコード会社も放送局も、まだ何をしていいか分からなかったのだ。・・・

 

モデルとなった人物の本質にふれる部分で、事実を正反対にしてしまうのは、おかしい。

敗戦後、古関裕而は軍歌を作ったことに、「複雑な思い」は抱いたとしても、それを悔いたり、自分がしたことに悩んだり、曲が書けなくなったり、スランプに陥ったり、しない。

古関裕而は、早稲田大学の応援歌を作った後、慶應義塾大学の歌も作った。タイガースの歌を作ったかと思えば、ジャイアンツの歌も作った。

同じように戦意高揚の軍歌を頼まれれば作るし、原爆被害者への鎮魂をこめた『長崎の鐘』も作ってしまう。そういう人なのだ

 

古関裕而だけではない。軍歌を作った作詞家、作曲家、あるいは戦意高揚映画を作った映画人も、小説家も演劇人も、大半の文化人・芸術家が、何の反省もなく敗戦後は民主主義礼賛、平和主義志向の作品を作った

何年か前までトヨタのコマーシャルに出ていた木村拓哉が、今年は日産のコマーシャルに出ているように、75年前の文化人・芸術家たちは、昨日までのクライアントである大日本帝国と日本陸軍と日本海軍が倒れると、あっさりとマッカーサーの連合国軍へとクライアントを変えた

 

虚構が現実よりも陳腐になっている

いまの感覚では、「軍歌」から「平和の歌」へと転向するには、さぞや反省と後悔と苦悩があったはずだ。

そこで『エール』では、軍歌作曲家のこういうストーリーが生み出された。

軍の依頼で戦意高揚の歌を作曲した。評判がよく、その歌を聞いた若者たちが鼓舞されて戦場へ行った。自分も戦場へ行き、その残虐非道な現実を知った。親しい人を戦争で失くし絶望した。自分の音楽が多くの若者の死につながったことを後悔した。曲が書けなくなった。しかし、今度はその音楽で平和な世の中を作るのだと思い直す。軍国主義・日本へのエールを書いた者だからこそ、平和国家・日本へのエールも書けると。

たぶん、そんな陳腐な、それゆえに感動的な物語として『エール』は展開していくだろう。

そういう事実と異なる物語にしたいのなら、『なつぞら』のように、古山裕一が作曲する曲も新たに作るべきだ。曲だけは実在のよく知られている曲を使うのは架空の物語の作劇法として、一貫性がない。

さらに、古山裕一のキャラクターを、見る者が共感できるように陳腐なものにしてしまうのは、『エール』の作り手たちが、古関裕而を理解できなかったからではないか。

たしかに、いまの感覚だと、「元気に敗戦を迎え、2ヵ月後にはラジオドラマを書いていました」という音楽家は、共感を呼びにくい。

だから、それまでの自分を否定しなければならないほど大きな苦難と、それを乗り越える物語が必要になり、創作したとしか思えない。その陳腐なキャラクターに多くの人が感動するのであれば、番組としては成功だ。

だが、事実はドラマよりも、ぶっ飛んでいる。

古関に限らず、そして文化人・芸術家に限らず、大半の日本人は、8月15日以降、嘆き悲しんだり、怒ったり、反省したり後悔したりせず、新しい君主であるマッカーサー元帥の下で、平和と民主主義へ向かって走り出したのだ。

その滑稽さこそ、ドラマになると思うのだが

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