三日月堀のぶろぐ

お城・歴史の記事がメインのぶろぐです〈(_ _)〉

思川流域の城館巡り 小山市編 その2

2016年05月29日 | 栃木 城址

思川流域の城館巡り 小山市編 その1の続きです

〇千駄塚古墳・石棺(栃木県小山市千駄塚)
千駄塚古墳は墳頂に浅間神社を祀っているので、「浅間山古墳」とも称されています。
墳丘の高さは、およそ十メートル、直径七十メートル、周囲に幅十五~二十メートルの周湟(堀)をめぐらし、二段に築かれた円墳です。その規模が雄大で関東でも屈指の円墳であります。古墳内部は未調査で詳しくはわかりませんが、六世紀頃のものといわれています。この古墳の周辺には多くの古墳群があり、その中心をなすものと考えられています。昭和三十二年八月二十七日県指定文化財(史跡)
同古墳の北側にある石棺と巨石は、明治三十四年、近くの桃塚という古墳から発掘され、地元の谷内仙三郎氏の尽力で、地元住民の協力の下、大正四年に現在地に移されました。凝灰岩の家形石棺で、その蓋石と、同じく発掘された巨石が置かれています。その規模から、当時の有力者の小児を葬ったものと考えられ、いずれも古墳時代の貴重な遺跡・遺物です。昭和三十二年件指定(考古資料) 間々田商工会・小山歴史研究会(千駄塚古墳解説板より)

至徳四年(1387)に小山若犬丸が祇園城で挙兵した際、鎌倉府軍が千駄塚に布陣しています。
千駄塚の何処に布陣したのかは分かりませんが、千駄塚古墳の前に野木方面からの古道が通っており、安房神社方面へと続いていますので、当時は物見の役割も果たしたのでしょうか(?_?) 古の時代のランドマークですね。
ちなみにワタクシの住んでいる町にも浅間神社があり今は削られてしましましたが、以前はこの古墳のように高さが十メートル近くあったそうです。

   


〇千駄塚浅間遺跡の館跡((栃木県小山市千駄塚)
「小山氏の盛衰」(戎光祥出版)や「中世小山一族」のパンフレット(小山市発行)などに館跡の記載があったのですが、正確な場所の情報がなく付近を探索しました。
ワタクシの下調べが不十分で、お付き合い頂いた和平さまにはご迷惑おかけしました(>_<)
思川の東側、台地緑辺部をぐる~りと廻りながら台地内部に突入出来そうな場所を探し、やっと入れそうな道を発見しましたが館の正確な場所、遺構等は見つける事は出来ませんでした。
写真は館跡のある台地、館跡と思われる周辺、台地の崖線部、そして思川から館跡のある台地へ登る道(おそらく古道)です(^_^;)

    

※後日関連資料を読み直したのですが、館跡と思われる周辺は「十二所」と呼ばれる小字があり、館跡を「十二所館」とも呼ぶようです。
平成19年度に小山環状線建設に伴う遺跡内の発掘で中世の薬研掘が発見され、館跡との関連性が指摘されています。

ここで一言
鉄は熱いうちに打て
ぶろぐはすぐに書け
自分への自戒でした・・・(~o~)
続く 

〇参考資料
・小山氏の盛衰 松本一夫著 戎光祥出版
・栃木県埋蔵文化財センターだより 2008年7月号
・角川日本地名大辞典 栃木県
・中世小山一族
・市制60年記念  小山の歴史
・現地解説板
・おやまわが街ガイドマップ 埋蔵文化財情報


思川流域の城館巡り 小山市編 その1

2016年05月22日 | 栃木 城址

戦国時代の小山 小山市博物館 第66回企画展の続きです。
多少順番が入れ替わりますが、まずはこちらから・・・

〇乙女の土塁(栃木県小山市乙女)
乙女幼稚園の北東に土塁で囲まれた区画があります。
ここから県道50号線を思川の流れる乙女大橋に向かうと乙女河岸があり、また土塁のある場所は亀田遺跡内にありますが、詳細は不明です(?_?)
  

〇小谷城(栃木県小山市下生井)
小谷城は小山市の南西端標高十六メートルに位置し、西の赤麻草原、旧巴波川や旧思川を天然の塞とし、堀・土塁をめぐらした平城でした。西北面に、円形の緩やかな流れを持った高さ約三メートル、幅約一〇メートルの土塁は整地後消滅し、郭内は田畑となっています。

築城者は小谷三郎俊景で、後に小山政光が城主となり、居住したと伝えられています。南北朝時代(一三三六-九二)には、小山一族網戸村重が生井八郎と称し、小山の支城の役割を担っていましたが、結城合戦(一四四〇-四一)に敗れ、奥州に逃れました。
その後、秀綱が再興し、大橋左京亮を城代としましたが、天正一八年小山城落城とともに廃城となりました。 間々田商工会・小山歴史研究会(小谷城解説板より)
旧思川から県道174号線を80mほど北西に進んだ十字路に神明宮があり、ここに小谷城の石柱と解説板がありました。

城域の東側には堀跡を思わせる水田がありました。
   

〇網戸城(栃木県小山市網戸)
網戸城は思川と巴波川を自然の砦とする面積約十・八ヘクタールの平城でした。
築城は鎌倉時代(一一八五-一三三三)の初めで、初代城主は網戸十郎朝村です。結城家出身で、父は結城朝光、寒河尼(小山政光の妻・頼朝の乳母・地頭職)を祖母とし、結城家領の網戸郷を治めました。
網戸氏は代々の城主を継承しましたが、南北朝期(一三三六-九二)の争乱で、重朝が奥州で討死し、子の村重は結城合戦(一四四〇-四)で敗れ、会津の葦名氏の家臣となり遂に廃城となりました。
城址は大字網戸字追切・折本の両字にわたり、西城・中城・外城・御古座・陣屋、その他御城沼・しらじ沼と称する城囲堀などの地名が残っています。城址には網戸神社・旧網戸小学校・称念寺(寒河尼と朝村の墓所)があります。 間々田商工会・小山歴史研究会(網戸城解説板より)
網戸神社に網戸城の解説板がありました。
ここから称念寺・旧網戸小学校・長慶寺周辺を探検、長慶寺周辺には堀跡を思わせる水田がありました~
    

まだまだ続きます~
でも早く更新しないと、訪れた記憶がうすれそうです(^_^;)

〇参考資料
・栃木県の中世城館跡
・角川日本地名大辞典 栃木県
・中世小山一族
・市制60年記念  小山の歴史
・現地解説板
・おやまわが街ガイドマップ 埋蔵文化財情報


戦国時代の小山 小山市博物館 第66回企画展

2016年05月21日 | 企画展

思川流域の城館巡り 野木町編の続きです。
ワタクシのリクエストで、小山市博物館で開催されている企画展「戦国時代の小山」を見て来ました。小山氏といえば源頼朝の乳母、寒川尼や小山義政の乱などが有名です(よね)が、今回の企画展では戦国時代の小山氏に光を当てた内容でした。文書の中には野木郷とか今回訪れた場所の地名があったりしたのですが、年未詳の文書(特に古河公方関係)が多かったです。

 

写真左は企画展のチラシ、右は図録になります。
図録は64ページ、お城のついては祇園城が2ページにわたって解説されています。
お値段500円になります。
企画展は5月29日までになりますので、お時間ある方は行かれてみては如何でしょうか~(`_´)ゞ


思川流域の城館巡り 野木町編

2016年05月19日 | 栃木 城址

先日城跡ほっつき歩きの和平さまをお誘いして、思川流域の城館巡りに行って来ました~

 
〇野木神社 栃木県下都賀郡野木町野木
寿永2年(1183)小山朝政が野木神社周辺で待ち伏せし激戦の末、源頼朝の伯父志田義広を破った(野木宮合戦)
勝利を収めた小山氏は北関東で大きな勢力となっていった。
後日調べたのですが、野木神社周辺には「別所」「馬場東」「馬場西」「堀切」などの小字があり、また野木城との関係も気になりました。

 

  

 
〇野木城(野木宮城) 栃木県下都賀郡野木町野木
清水谷と稲荷谷に挟まれた舌状台地に位置する。
現在、野木水辺の楽校として台地緑辺部を遊歩道が巡り歩く事が出来る。
城内に木になる場所はありましたが(^_^;;)ハッキリとした遺構は見当たりませんでした 
「栃木県の中世城館跡」では土塁と壕の遺構をとどめるとあります。
野木城の年代・城主等ハッキリしないようですが、戦国時代には小山氏が野木郷を支配していたようですので、小山氏の勢力下にあったようです。

 

  

   
〇法音寺城 栃木県下都賀郡野木町友沼
野木町友沼は町の北部に位置し、小山市乙女と接する。
法音寺(真言宗)の裏手に主郭の土塁と空堀が残る。
戦国期には足利公方の御料所、そののち小山氏が友沼郷を支配(横領)したようです。
法音寺城は天正年間に小山氏の家臣菅谷氏によって築城されたようです。

〇参考資料
・栃木県の中世城館跡
・角川日本地名大辞典 栃木県
・とちぎの古城を歩く
・中世小山一族
・市制60年記念  小山の歴史


多摩の城館巡り

2016年05月08日 | 東京 城址

先日お城の先達お二人方と多摩の城館巡りに行って来ました~
この日は10カ所以上巡りましたが、その中から印象に残ったお城をピックアップしてみました(^_^)


〇志村館(引田館) 東京都あきる野市引田
秋川に臨んだ河岸段丘上舌状地先端に位置し、背後は殿沢が流れ舌状地先端から秋川の氾濫原へ流れ落ちる。村の伝承や、天正十七年(1589)の絵馬版木などから、後北条氏配下平山右衛門太夫の臣、志村肥前守影元の居館であろうといわれてきた(増補改訂青梅市史上巻)

 
〇戸吹城(二城城址・新城・根古屋城) 東京都八王子市戸吹町・あきる野市上代継千代崎
秋川南岸に屹立する加住北丘陵の断崖上にあるが、砂礫層の崩壊が進行している。城地の北の郭群はあきる野市、南の郭群は八王子市側に属し、八王子市側には堀が比較的よく残っている。来歴不詳(東京都の中世城館 戎光祥出版)
北の郭群は道が崩落し危険で行けませんでしたが、南の郭群は竹が少し伐採されたようで、遺構がよく分かりました~

 
〇八王子城太鼓曲輪地区 八王子市元八王子町3丁目
太鼓曲輪地区は、居館地区と城山川の谷を挟んだ南方対岸の尾根稜線を中心に展開する遺構群である。主要な堀切は深く鋭角に切れ込んで、尾根を完全に切断する。また、現状では崩落が著しいけれども、堀切に面して石積みの堡塁または櫓台を設置していたと考えてよい箇所がある。(東京都の中世城館 戎光祥出版)
堀切のありこちに石積がちりばめられていて、堀切はこんなに削ったの?と思うくらい凹でました(^_^;)

この日は日差しが強くて首回りが紅白状態になり、お風呂でヒリヒリ状態でした(>_<)
お城の先達の二人方、御同行頂きありがとうございました~<(_ _)>