Paradise for Stupids

愚者の楽園たるこの国周辺で起こる愉快なことをつぶやきます

民主党・社民党・共産党らの所得再配分の主張は、国家を危うくする。

2013-07-15 16:19:30 | 選挙
残念ながらわが国には信頼できるマスメディアは皆無に等しい。東京新聞と言えば地方紙ということでその認知度は高くはないが、毎日・朝日と並んで香ばしい新聞社の一つである。しかし東京新聞の論説副主管を勤め、エグゼクティブの一人とも言える長谷川幸洋氏は、本人も度々言うように、一風変わっている。一言で言えば、極めて全うなジャーナリストである。東京新聞っぽくないだけでなく、相反する主張をすることも少なくない。私は、その現実的でバランス感覚の取れた論評にはしばしば共感を抱いている。氏は現代ビジネスにコラムを連載しているのだが、最近印象深い投稿があったので、その核心を次に引用してみたい。

民主党は「所得再配分が成長を促す」という考え方である。世界標準の経済政策は「まず成長を目指して、次に所得を再配分する」と考える。まったく因果関係、優先順位が逆なのだ。
現代ビジネス 長谷川幸洋「ニュースの真相」7月12日投稿記事より


引用において、氏は主語を民主党としているが、社民党、共産党、緑の風、生活の党等も加えるべきだろう。再配分の原資は税金である。税金の源泉は経済活動であり、その主体は企業である。彼らの主張には、企業に対する政策が希薄あるいは皆無であり、共産党に至っては敵視しているようにさえ見える。企業による経済活動なくして、再配分の原資たる税金は枯渇する。そして原資のない再配分は国家財政を疲弊させる。だから彼らの所得再配分政策は駄目なのだ。

また、氏によると、民主党の論客である枝野氏は、経済成長に否定的な見解を示しているようだ。成長は幻想であり、リスクとコストの再配分こそ現代日本に必要なのだというのが、経産相を経験した枝野氏の主張だという(この辺り1$50円がやってくると主張していた紫頭の浜矩子氏を髣髴とさせる)。軍事力を否定する日本において、経済力は世界でプレゼンスを示す唯一の拠り所であったわけだが、それを軽視あるいは否定するということは亡国の道を推し進めようとしていると取られても仕方が無い。いよいよ海外移住を本気で考えたくなってしまう。

長谷川氏は、デフレ脱却のための経済政策を打てるかどうかという観点で、今度の参院選はつまらないどころではなく、歴史的な選挙と主張する。一方で、与党の圧勝は望ましくないとする。野党の弱体化は政策論議の幅を小さくしてしまうというのがその理由だそうだ。今度の選挙が歴史的かどうかは置いておいて、重要であることは私も同意である。しかし与党の圧勝が望ましくないとは思わない。与党は圧勝しなければならない。なぜなら、デフレを脱却するためには抜本的な対策を素早く大量に決めて、実行に移さなければならないからだ。これを実現するには、執行部に強力なリーダーシップが必要であり、参院選での圧勝はその必要条件である。無教養・無責任・反日の野党と政策論議や妥協を重ねていたら、抜本的対策が骨抜きにされてしまう。また敵は野党だけではなく、与党内にもうようよいる。これらのStakeholderとの戦いに打ち勝つためには、与党に圧勝してもらわなければならないのである。

表現の自由:自由には義務がつきものであることは世界の常識である

2013-07-13 23:24:44 | 政治
参院選まで残り1週間、選挙運動も佳境に入りつつある。毎日のように各党派のキーマンが報道番組に出演し、それぞれの主義主張を訴えている。自民党と公明党を除き切羽詰っているようで、一歩引いて見てみるとなかなかに面白いエンターテインメントである。ここでいう"面白い"は"興味深い"ではなく"下らない"ですけとね。

なかでもやはり民主党の面々はその表情を眺めているだけで、イッちゃっている感じである。本日ウェークアップ・プラスにはモナ男こと細野氏が出演していたのだが、その必死さは滑稽さを通り越し悲哀が漂っていた。例によって無責任な与党批判に雄弁をふるっていたが、看過できなかったのが憲法改正、特に自民党の憲法21条改正案についての批判であった。

憲法21条は表現の自由に関する条文であるが、自民党案はこれに「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」と付け加えるものである。規制の対象が曖昧であり、このままだと国家権力による表現の自由の侵害を招きかねない。よって条文の洗練化や関連法の整備が必要と、私は考える。しかし、自民党案の基本的ま考え方には賛同する。

なぜならばこの憲法下での戦後70年を振り返ってみると、表現の自由という権利のみを主張する無責任な体質がしみついてしまったと心から思うからだ。特にマスメディアによる国益に反する報道、度を過ぎた政府批判、事件にすらならないゴシップの連呼による個人攻撃、過度な弱者の保護、これらによって我が国は確実に弱体してしまった。確かに、国家権力は怖い存在であり、常にその挙動を監視しておく必要はある。しかし心ある政治家や官僚が守ろうとしている日本国とは、我々一人一人が構成員となっているコミュニティなはずだ。我々には、我々の生命・財産を守るため、我々のコミュニティを壊しかねない過度な報道を規制する術が必要なのだ。具体的には、法的な規制であり、それが自民党案には組み込まれている。だから、私は自民党の憲法21条改正案に賛成する。

更に言えば、これは以前当blogで触れたことであるが、1966年国連で採択された市民的及び政治的権利に関する国際規約第19条第2項は表現の自由を定めたものであるが、表現の自由の行使は「特別の義務と責任」を以て為されなくてはならず、「他の者の権利、国の安全、公衆の健康や道徳の保護の目的のため、一定の制限を科すことができる」ことが、明記されている。自由には責任がつきものであると言っているのだ。これを自民党案と比較してみると、驚くなかれ本質的には同じことを言っている。1976年、日本国は同規約を批准しており、効力が発効している。つまり自民党の憲法21条改正案は、同規約に沿って条文を改正し、国際標準に合わせているに過ぎないのだ。

自民党の憲法21条改正案に反対しているのは民主党だけではなく、社民、共産、緑の風等無責任な反日政治団体が多い。モナ男氏が"市民的及び政治的権利に関する国際規約"を知らないのは、浮気に忙しくて、単純に不勉強なだけかもしれない。しかしこれらの反日党派にとっては死活問題であるから、多くの国民が無関心である憲法21条改正案を殊更クローズアップして、反対の意思表示をしているのである。自民党の憲法21条改正案が通り国際標準なみに表現の自由に義務が課せられるようになれば、彼らによる国益を損なう反日活動が制限されるからだ。

更に、マスメディアも反対の大合唱である。別に反日メディアじゃなくても、報道や出版に規制が増えれば、これまでの仕事のやり方を改める必要が出てくるわけで、歓迎という態度からは程遠いことは容易に想像できる。しかし、我々は心しなければならない、マスメディアも権力であるということを。これまで彼らは大した責任も追わず、あっけらかんと野放図に、愚劣な報道を続けてきた。国民の意思として、そんな彼らにNoを突きつけるべきである。

マドリッド出張で思う英語の重要性

2013-07-07 13:45:59 | カルチャー・ギャップ
勤務先の本体が米国なので、これまでの海外出張は、ほぼ北米地域に限られていた。一方で、昨年、複数の企業や各国代表から成る国際会議の評価委員に任命され、会議出席のため北米以外の国々を訪問する機会が増えそうだ。そのデビュー戦ということで、ちょっと前の話だが、スペインのマドリッドに10日ほど滞在した。

クラシック音楽が好きだったので若いころはヨーロッパに強い憧れを抱いていたのだが、気が付いたら20年ぶりのヨーロッパ訪問であり、スペインは初めての地である。出発前珍しく緊張してしまった。とは言え、到着してみるといつもの米国出張と変わることは無い。マドリッドは地下鉄網が発達しているのでレンタカーを借りることは無かったが、ホテルの従業員はもちろん、タクシーの運転手も英語を話すので、スムースにホテルにチェックイン出来た。

これまでの出張との違いを感じたのは、翌日地下鉄を利用した時のことである。まず地下鉄駅構内の案内板がことごとく意味不明である。全てスペイン語"だけ"で記されているのだ。日本では、今や公共の場に設置される案内板が英語、中国語、韓国語で記されることは珍しくはないが、スペインの首都マドリッドではスペイン語だけなのだ。券売機はどうかというと、モニター上のUnion Jackのアイコンをクリックすると最初の画面は英語表示に切り替わるのだが、画面を進むとスペイン語に戻ってしまい、訳が分からない。英語なんて外国語の一つでしかないということか・・・。流石、現在も中南米に多くの話者を持つスペイン語の故郷であり、かつての大帝国の首都、誇り高いなぁと妙に感心してしまった。

仕方なく、窓口に行って、どこそこに行きたいとゆっくりと英語で伝えたのだが、返ってきたのはスペイン語だ。イングレス(英語)がどうこうと聞こえたので、恐らく英語は分からない、と言っていたのだと思う。文章にして伝えているのが良くないと考え、行きたい場所のみをゆっくりと発音し、ウノ(=1)と付け加えた。今度はうまく意思疎通できて切符を手渡してくれたのだが、その際、何かスペイン語で付け加えられた。もちろんちんぷんかんぷんである。後で分かったことだが、どうやら、途中で乗換の際に、追加料金を払うようにということを言いたかったらしい。目的地の地下鉄駅自動改札で足止めをくらってしまい、駅員(やはり英語を理解してくれない)を呼び止め、身振り手振りで数分間コミュニケーションをして、ようやく彼の言いたかったことを理解したのである。

スペイン滞在中の10日間の経験から推測すると、マドリッドでは一般的に英語はまず通じないと考えたほうが良いと思う。もちろん、ホテルや空港、そこに出入りするタクシー等交通機関、そして博物館など文化施設では"ある程度は"通用する。また観光客も多く利用するレストラン等でも、英語を解するスタッフが居ることもあった。しかし、鉄道駅やバスターミナル、スーパーマーケット等地元民が普通に利用する場所では、英語でのコミュニケーションには無理があった。英語に対するリテラシーという観点では、我が日本国と同レベルと思われる。

外国で、コミュニケーションの問題が発生するのは当然である。"問題"ではあるけれども、プライベートの観光であれば、海外旅行で起こりうるの"非日常"の一つとして、楽しむことが出来る。しかし、ビジネスで訪問している身にはそれなりにストレスであった。

私のマドリッドに対する印象は、悪くは無い。食べ物は美味しいし、歴史に裏打ちされた文化を感じる。しかし、この地に住んでビジネスに従事するかと問われれば、躊躇するであろう。理由は、コミュニケーションの問題にある。この地で暮らすには、新たにスペイン語を学ばなければならないと知ったからだ。それなりに投資をして事実上の国際的標準語としての英語をマスターしたのに、新たにもう一つ言語を学ばなければならないと思うと、無力感にかられてしまう。私は、勤勉ではないし頭が良いわけでもない。なにより、スペイン文化圏に住む強い動機が無い。よって私にはスペイン語を学びたいという強い動機が無い。ビジネスをするなら、外国人にとって、より利便性の高い都市を選択するだろう。英語と片言の現地語の知識で普通に生活できる場所だ。同じヨーロッパであれば西欧や中欧の大都市になるだろうか。

さて、同じ視点でアジアを俯瞰してみると、どうだろう。日本は外国人にとってビジネスがしやすい場所か。そして住みやすい場所であろうか。そうではないことは、国際企業のアジアの拠点が、日本から他国にシフトしていることを見るにつけ、明らかである。国際企業にとってみれば、法人税一つとっても日本が魅力的ではない。では従業員の立場ではどうか。駐在員は一時的に海外に住むに過ぎない。日本に好意を持ったとしても、そのような異国に対する興味を満足させるには観光旅行で十分である。より重要なのは、国際的ビジネスを構成する各要素に対するリテラシーが高いかどうか、である。事実上の国際的標準語の英語はその一番基本的な要素である。英語を母国語としないドイツ人やイタリア人のビジネスマンでも、日本では流ちょうな英語を駆使して働いているではないか。そんな彼らが、この東京(日本)でプライベートでも英語で生活できるのか、これが重要である。

力強い成長と、激しい競争を続けるアジアの中で、日本が生き残るには、何はともあれ教育、そして初めて一歩として抜本的な外国語教育の改革が必須であると確信する次第である。

税金って再分配なんだから、なんとか1000円行って欲しいですね。

2013-07-06 23:22:40 | 社会
盛り上がっていた話を白けさせる人ってどこにでもいる。一つのテーマがいい感じで展開して新たな知見を生んだり、共感を呼んで来たのに、その流れをぶち壊してしまう輩だ。そんな彼らの主張は、決まって取るに足らないつまらないことだったり、話の本筋と全く関係ない話だったりする。

本日2013年7月6日、TBSの情報7days ニュースキャスターでは、東京都内のビアホールの盛況ぶりを取り上げ、景気回復の兆しを報じていた。つられてスタジオの中も景気の良い話で進んでいた中で、明治大学教授の齋藤孝氏は言うのだった。

「学生は(景気回復は)まだですね。・・・中略・・・アルバイトの最低賃金1000円欲しいですけど、まだギャップあるので、何とかしてほしいですね。・・・中略・・・税金って再分配なんだから、なんとか1000円行って欲しいですね。・・・中略・・・(もともと)お金がある場所に、(お金が)集まってしまうのが問題。」

安住アナは適当に受け流し、話題は白けた雰囲気の中で終わってしまった。氏の発言が話の流れを、何か面倒くさい袋小路に追い込んだのは明らかだ。

氏の発言を言い換えれば、最低賃金と実際の賃金のギャップは、税金で埋めるべきと仰っているようだ。「お金がある場所に、(お金が)集まってしまうのが問題。」というのは分かりにくいが、投資の結果として資本の回収をするような行為を否定しているようにも読み取れる。ひょっとして資本主義を否定したいのか。

このコメント一つ取っても、氏の思想信条、そしてその浅はかさが分かる。社民党や共産党、あるいは例のマニフェスト(笑)で評判の民主党が提唱する極端な社会保障重視政策と重なることは明らかだ。私は社会保障制度を否定するものでは無いし、しっかりしたセーフティーネットを設けることは最低限の文化的生活を送るうえで必要であることは言うまでもない。しかし、度を超した社会保障とそのテクニカルな財政的裏付けである再分配機能の過度な活用は、社会から活力を奪うだけではなく国家財政の窮乏を招きかねない。なにより日本は、単純にバランスシートの観点で断じれば、財政破たんとみなされてもおかしくない状態である。この状況を脱する現実的な方策として、現政権はまずは経済を活性化し、その結果として所得向上を目指していることは、'12の衆院選以前から盛んに報道されてきた。それを受けて、言っているのがこの程度のことかと思うと、情けなくなる。

一応東京大学法学部卒で有名私大の教授職を務めているようなので、勉強は出来るのかもしれない。だが、以前論評した植草一秀氏と同様に、現実世界における物事の処し方が全く分かっていないように見受けられる。そういえば、この御仁は、かつて幼少期の英語教育不要を唱えていた。こんな現実離れした荒唐無稽なことばかり言ってるから、海千山千の政界・官界・実業界から「学者風情に何が分かる」と馬鹿にされるのだ。実業界とタッグを組んで新たなビジネスを発明・創業し、時には政治家として国をまとめる欧米の学者の爪の垢でも煎じて飲んでほしいものだ。

またTVメディアは、コメンテーターと呼ばれるロールの意義をよくよく考えるべきである。見識の低い、素人の意見など聞きたくはない。まぁ、特にTBSだから永遠に無理だと諦めてはいるが。


社会が許す犯罪と許さない犯罪

2013-07-04 18:04:57 | 社会
2000年代脚光を浴びた二人のエコノミストの事をしばしば思い起こすのだが、その都度、いろいろな思いが交錯する。二人のエコノミストとは植草一秀氏と高橋洋一氏だ。

植草氏は、2004年品川駅での迷惑防止条例違反で逮捕されて以来転落の人生を歩んでいるように見える。ミラーマンと揶揄された一件の後、一度は名古屋商科大学教授として迎えられるも、今度は痴漢をはたらき再逮捕されてしまった。その後自身のWebサイトを中心に、執筆や講演活動をしているようであるが、贔屓目に見てもエコノミストとして活躍しているとは言いがたい。言わば終わった状態である。付け加えれば、彼の主張には、その妥当性について疑問を感じる内容が多く、勉強はできたかもしれないが、そもそも現実社会を論評したり舵取りをする能力が欠けているのではないかという印象を持っている。

かたや高橋氏は、2009年温泉施設で窃盗をはたらき書類送検、後に教授を務める東洋大学を懲戒解雇となっている。その後暫くメディアで見かけることはなかったが、約1年後嘉悦大学に教授としてのポストを得て以来、テレビやネットで以前同様、高い露出を誇っている。リフレ派とされる高橋氏の主張が、安倍政権の方針と重なることもあり、特にこのところ見かける機会が多い。

メディアを含む社会の両者に対する扱いは、それぞれのエコノミストとしての力量に依存するところがあるだろう。しかし、何事にも表裏がある。リフレ派がいればそれに反対する勢力が存在する。高橋氏だけではなく浜田宏一氏や竹中平蔵氏に相対する論客として、植草氏に声がかかってもよいはずだが、現実にはそうではない。植草氏は9年前のミラーマン事件を機に我々の前から姿を消した。なぜか。そこには犯した犯罪の回数に加え、犯罪の内容があるのではないか。

一般的に、性の問題は難しい。誰もが興味を持つ話題ではあるが、状況に応じて周りの受け止め方が大きく変わる制御することがとても難しいテーマ、それが"性"である。扱い方を一歩間違えれば、その人物の人格否定に繋がりかねない。表面上は取り繕っているが、その実、こんな恥ずべき本性なのだ、と認識されてしまうからだ。

我々が性について敏感に反応してしまう背景には、理性的であるべき人間に残された動物的な特徴であることが影響していると私は考えている。普段はあんなに理知的に振る舞っているのに、実はこんなに動物的(≒恥ずべき性癖を持っている)なのか、野蛮だね・・・というロジックである。より分かりやすく言えば、"キモい"ということだ。なお誰しも関係する性の問題であるが、他人の性を批判する際、自分のことを棚に上げている。他人の不幸は蜜の味、ということである。

さて、テレビで見かけた植草氏に対する私の印象は、過大な自己顕示欲が鼻についたが、基本真面目な人物で、仕事や勉強一図なんだろうな、というものであった。真面目な人物の性犯罪というように、印象とのギャップが大きければ大きいほど、ダメージもより深刻なものとなる。お笑いで売っていた田代まさし氏ですら、最初の盗撮事件後、タレントとしてのイメージや価値を復活させることはできなかったことを思い出してほしい。

一方、窃盗はどうか。言うまでもなく窃盗も犯罪であり、再犯の可能性は低くはないと言われる。しかし窃盗に対する世間の目は、性犯罪に比較して、厳しくはないと、私には感じられる。俗に言う"手癖が悪い"で済まされるような雰囲気があると思うのだ。事実、高橋氏は、エコノミストとして、更には"教育者"として復活している。高橋氏の犯した犯罪は"キモくない"からだ。

再犯率が高いということから言えば、窃盗犯には、窃盗癖とでもいうべき、その人格に根差した問題点があるのだと私は思う。しかし、あくまで"印象"として言えば、窃盗には性犯罪にあるような動物的本性に根差した"キモさ"が無い。"他人の持ち物を自分のものとしたい"という欲望を露わにすることは上品ではないが、我々の社会のプロトコルは、そのような欲望を吐露することを禁じてはいない。暗黙的に、誰もがそのような欲望を共有しているという前提で成り立っている。他人の持ち物を羨むことは日常的な会話の随所で見られるではないか。そのため、万が一、一線を越えて窃盗をはたらいても、"出来心"として許す準備が我々の意識の中に用意されているのだ。

要するに、建前と本音の垣根の高低(性欲は高く、物欲は低い)、あるいはキモイかキモくないかが、社会の犯罪許容度に影響していると思うのである。