
今日で3週目になりました“日帰り「三国史跡」巡り”ですが、前回の更新で書いたとおり「高密市」に行って来ました。

朝7:08発の「火車(列車)」なので、6:30に「M先生」と学校を出発しました。

「火車」に乗るのも、5月に「M先生」と一緒に行った「中国・悠久の古都」旅行(4月29日~5月5日ブログ参照)以来です。

あの頃の俺はまだ「三国史跡ハンター」では無く、ただの「世界遺産ハンター」だった…

それが今では…「三国史跡」専門ハンターです。
これは、もう来週に迫った「国慶節」旅行で実証されると思いますが…


6:45ごろ駅に着くと、あるクラスのカップルと、その女子生徒の妹がいました。
その女子生徒の方は最近「東京」の某大学に「合格」したんで、妹を「青島」から「青州」に連れて来ていたらしいです。
で、今日は妹を「青島」に連れて帰るらしく、男子生徒は「見送り」で来てたんだって。
でも、その女子生徒の妹って「5歳」ですよ…。

確か、その女子生徒は「20歳」くらいだから…えらい歳の差だよね。
けっこう中国って、そういう歳の差が激しい「兄弟姉妹」って多いですよ。
「火車」は7:08発だったのに、20分以上遅れて来ました。
女子生徒も同じ「火車」だったんだけど、お互い「無座」だったんで別れました。

9:00ごろ「高密站」に着きました。


これが「高密站」です。
町も「青州市」の方が、まだマシです。

次は「バス」で「双羊鎮」まで行くため、「汽車(バス)站」に向かいますが…ここで「高密市」が実家の男子生徒とその彼女にバッタリ会いました。
彼は春に「岡山県」の某大学に「合格」してて、本来ならもう「日本」に行ってなければいけないんですが「ビザ」が下りてないんです。

彼もこれから「青島」に行く彼女を「駅」まで送りに行くとこでした。

彼女(うちの生徒ではない)とは「春の遠足」で一度会っていますけどね。

「高密站」から徒歩5分くらいで「汽車站」に到着。

そして10:15「双羊鎮」に着きました。


それから15分ほど歩き、10:30「鄭玄像」に着きました

今日の目的は、この「鄭玄」の故里である「高密市双羊鎮」を訪ねることです。
だって「X」の墓がメインだと…見つけられなかったり、「ニセモノ」や「ガセネタ」だったらイヤだしさ。

さて、次はここから西にあるという「鄭公祠」へ行きます。
でも「史跡アタッカーさん(仮)」のサイトでは、この「鄭玄像」のある場所から「約6、7Km」と紹介されていますが…歩くのはキツイし、西ってどっちだろう?

しかも「タクシー」なんて通りゃしない…


近くの店の人かな?
「とうもろこし(写真)」を干してる?人に「M先生」が尋ねてくれました。
そしたら主人が「バイタク(バイクタクシー)」してくれると言うんです。

じゃ、「ヨロシク



ずっと、こんな感じの道を進みます。


農道だし、3ケツだし、「バイク(写真)」もボロい…30分くらい掛かって、ようやく11:00「鄭公祠」に着きました。


「鄭公祠」前の道だって、こんなですよ…

「諸葛亮故里」(7.22ブログ参照)の時の場所も凄かったが…今回の場所は1人だったら行けてないよ。

入場料も「2元」という安さです。


入ると奥にある「碑」です。


そして、これが「鄭公祠」と「鄭玄」が植えたとされる「柏の木」です。
…が「柏の木」は、もう枯れています。

「廟」に入ってみましょう。

「鄭玄(128-200)」です。
「三国志」に出てきた時の「鄭玄」は晩年の「オジイサン」の印象しかありませんが…。

息子の「鄭益恩(170-196)」。
若くして「孔融」(9.10ブログ参照)を救うために「死亡(戦死?)」してるんですね。

「鄭玄」の孫「鄭小同(196-259)」。
彼は「魏」に仕えていたようです。


「祠」の裏手にある「墓陵」と「墓碑」です。

そして、この「人民政府」が認定した「碑」、これが無い墓は「ニセモノ」か、単なる「言い伝え」ですよ…。
ここで「運チャン」に「X」の墓の事を聞いてみると、「ある」って

半信半疑で「高密市」まで来たんだけど、本当に「ある」とは。

…でも肝心な「人民政府」の「認定碑」や「墓碑」があるかは「知らない」って。

「X」の墓までは、また「運チャン」の店まで戻り、今度は北に行くんです。
じゃあ、ちょっと「鄭玄」について説明しておきましょう。

「後漢」時代の学者で、「宋」代の「朱子」と並ぶ「経学」の大成者でした。
若年は「下級官吏」となりますが「党錮の禁」に連座して10年間「獄」につながれ、その後は生涯仕えずに学問に専念しました。
ここらも「後漢」時代は「青州」でしたが、ここを統治していた「袁紹」に慕われていて、「曹操」に攻め込まれようとしていた「徐州」の「劉備」を助けるよう「袁紹」に手紙を書き、「袁紹」が「曹操」を攻めることで「劉備」の窮地を救っています。
が、その後「曹操暗殺計画」に「劉備」も賛同していたのが「曹操」に発覚してしまい、「徐州」は「曹操」に落とされ「劉備」は「袁紹」のいる「冀州」に逃げ延び、「張飛」は行方不明に、「関羽」は「下邳」で「曹操」軍の「張遼」の説得により降伏(8.16ブログ参照)します。
で、「鄭玄」ですが、その後「袁紹」軍Vs「曹操」軍の「官渡の戦い(200年)」で「袁紹」に従軍させられ、その途中で「病死」してしまいます。
だって「72歳」だもん…可哀想に。

11:30「鄭公祠」を出て、「X」の墓へ向かいます。

ここから先は日本の「史跡アタッカーさん」もレポートしていない、俺の「情報収集」だけでの探索です。

もう「超メジャー人物」である「X」を発表しましょう。

この「鄭玄」の説明でも出てきた「袁紹」の墓が、この「高密市双羊鎮」にある…らしいんですよ。


「運チャン」の店から、こんな道を10分ほど行って…

12:05ごろ、とある「畑」の前で降ろされました。

奥に入ると、「これが袁紹の墓だよ」と。

確かに中国サイトから出した地図とほぼ間違いない場所だし、地元民が何の迷いも無く連れて来たんだから「袁紹」の墓なのかも知れない。
でも肝心な「墓碑」や「人民政府」の「認定碑」が無い

一般の中国サイトでは「袁紹墓」は「河北省滄州市滄県高川郷前高龍華村」にある、と言われているんです。
だから、この「高密市双羊鎮」の「袁紹墓」には「信憑性」が無かったんだけど…。
その「河北省滄州市」の墓にも「墓碑」や「人民政府」の「認定碑」が無いらしいんです。
でも「冀州」が「袁紹」の居城だった事を考えると、やはり「河北省」の方が「信憑性」はありますからね。
ここ「山東省」にも全く「縁」が無いわけじゃ無いけど…「鄭玄」の故里との「つながり」から考えるのは、ちょっと難しいかもね。

上にも登ってみたけど、やっぱ「何も無い」。

残念だけど確実に「袁紹墓」だとは言い難いな…。
12:20「言い伝え?」の「袁紹墓」をあとにし、「バス」で13:30「高密」市内に到着。
最後は「タクシー」で「文化広場」に行きます。


13:40すぎ「文化広場」に到着。
先週「高密市」出身の女子生徒から「文化広場」にも「鄭玄像」がある事を聞いてたんです。




「高密三賢」と呼ばれている、左から「鄭玄」「晏嬰」「劉墉」。
13:50「文化広場」を出て、14:00「汽車站」へ。
そして14:20発の「バス」で「濰坊」へ。

16:00に「濰坊」に着き、「味千ラーメン」で遅い昼食です。

また「濰坊」で「凧」を買って来ました。
「関羽」の「京劇バージョン・凧」ね。

そして17:00すぎ「濰坊」から「バス」に乗り、学校に19:00ごろ着きました。
今日は「M先生」が一緒で良かった~。
てか、「M先生」が一緒だから難易度の高い「高密市」の史跡巡りにしたんだけどね。

「袁紹墓」は…もし、そう言い張るなら、「山東省」よ、ちゃんと調査して正しいのなら「墓碑」と「認定碑」を設置しなさい


また“日帰り「三国史跡」巡り”は「国慶節」休暇後も続けますから、お楽しみに~

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます