Drマサ非公認ブログ

天に逆らう社会

 数学者の岡潔と司馬遼太郎の対談で、ふと考えさせられたことがあったので、それについて記させてもらおうと思う。

 二人が中世の頃の話をして、当時の人は「感情が激しい」と評しています。そして感情の抑制ができないことを「天に逆らわなかった」と位置付けます。

 僕たち現代人は、どうなのでしょう。感情が抑制できない人がいれば、アンガーマネジメントなんか持ち出して来て、感情は一次的であるから、長期的視野に立ち、その感情を抑え込み、状況判断して行動しましょう・・・こんな感じでしょう。

 感情をコントロールする。それは感情がコントロール可能な存在であると位置付けていることになるでしょう。日常生活に落とし込んでみます。コンビニで態度悪い客がいても、感情をコントロールして接客することがいいという社会になってしまいますし、実際なっていると思います。

 その弊害を指摘する用語として、感情労働とか「魂の労働」が指摘されています。僕はいつも思うのです。まあ、そこそこでしょっと。結果客の横暴を認めることになっては、バカバカしいことです。そうすると、法律で規制ってことになり、狭苦しい生き方になると思います。

 司馬遼太郎は、抑制できない感情を「清らかです」と言います。あくまで天理に逆らわないという点で。ですから感情をコントロールすることは「汚い」ことになってしまいます。あくまで天理に逆らうという点で。そもそも感情をコントロールすることに無理がある、そういうことだと思います。

 さらに司馬は「嫉妬した相手を殺すまで嫉妬するという清らかさ」と我々の通俗化した考え方に釘を刺しています。あくまで中世の人を理解するためには、そこまで行かなければ理解できないということではあるのですが。

 そこに岡潔は「念が澄み切っているから、そこまでいく」と言い、その念に「悪知恵が働いていない」と評しています。現代は悪知恵で動いていると懸念しているのです。

 面白いことに、悪知恵の正体は社会秩序や国家秩序に飼いならされていることだというのです。つまり現代人は家畜になっている、馴化されていると。

 感情のコントロール、これはまさに秩序形成のために心理学的手法です。僕は感情の予防と名付けています。これらが私たちから素直さを奪っていく、岡先生はそう言います。

 示唆に富む言葉だと思いますが、心理学的手法がデフォルトになってしまっては、示唆を感じることさえできないでしょう。

 作られた感情で、作為的な感情で生きていく社会。感情は自然さを失ってしまいます。天に逆らうことでしょうか。そんなことを考えました。

参考文献 岡潔『岡潔対談集』朝日文庫2021

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