テレビでなんかが典型的だけれど、ネットでもそうだし、新聞雑誌で同じなんだけれど、僕が「なんだかイヤだなあ」と思うことがある。
ちょうど3・11の頃にそのような思いをよく抱いていたように思う。有名人やタレントが被災地への励ましのメッセージを送ったり、なんだかみんなで歌を唄ったりしている時だ。僕のような偏屈な人間であっても、さすがに被災地の人たちの慰めや励ましになっているのなら、さすが何も言うことはない。
ただ有名人がタレントが被災地での悲しみや苦しみを想像であるにしても受容しているのだろうかと疑問に思うことがあった。案の定、当時の被災者の方々の中に、このようなパフォーマンスを冷ややかに見ていたという話を見たり聞いたりしていた。
そもそもパフォーマンスであるとの自覚さえなく、被災の悲しみや苦しみを実は受け留めるでもなく、与えられた状況で行うことを無自覚に、あるいは空気を読んで行なってしまうだけかもしれない。
作家の故橋本治さんが『バカになったか、日本人』(集英社2017)の中で、当時の被災状況でプロを名乗る歌手の歌声が「あまりに下手すぎ」であったり、自分に酔っているのが見え透いていると書いているところがある。
「下手すぎ」はなんだかアイドルのような気もするが、誰だかはわからない。プロの歌手であれば、このような被災という過酷にあってでさえ、歌手として作品を届けるように唄うこともできるだろう。そういう時の歌がなぜか心に響くということがあるに違いない。
橋本さんは「うまいか?下手か」という話をしているのではない。こんな例を取り上げている。若い女性ボランティアが愛用のトランペットで被災者の前で「演奏させてください」と「上を向いて歩こう」を演奏したという。決してうまい演奏ではなかった。音が外れたりもしていたという。
しかし説得力があったと言うのである。なんだか人の心の奥にあるものが引き出されるような演奏であった。僕は貧しい想像力ではあるが、橋本さんの文章からなんだか情景を想像し、こみ上げるような思いが立ち上がってきた。
このような事実をこのボランティアに心があるからだと短絡化してはいけないような気もする。確かにそう言う心があったと僕も信じる。そして、その状況の中で「私が可能なこと」を手繰り寄せ実践することは違うことだ。「私が可能なこと」を考え、それを実践する勇気行動力。
それが被災者の中にある「何かに触れ」てしまったということだ。それだけではない。橋本さんも「何かにも触れ」、今ここでブログを書いている僕も「何かに触れ」てしまったということである。あえて言えば、魂だろうか?
それにしても、無意識に落とし込まれているような気がするが、パフォーマンスで、あるいは空気を読んで行動するだけであるとすれば、「イヤだなあ」と思ってしまうのである。日本人が変わってしまったと橋本さんも書いている。