昔は外食のことを「めしや」といっていたらしい。その後大衆食堂になりファミリーレストランからファミレスになって時代とともに呼び名も変るものだと車の中から道沿いの看板を眺めながら家路に着いた。そんな時吉川英治著随筆集「折折の記」で同じ心境を読んだことを思い出した。
昔の話を「折折の記」より1部を引用
《めし屋は、なくなった。都会も地方も、食堂になった。食堂なら都心、場末、地方の駅前、どこにも見られる。一番多い看板が大衆食堂。
外観は変わったが、元来は同一目的のものだろう。だが同質ではなくなったようだ。焼き豆腐や、芋の煮しめが、カツドン、コロッケに変わったように。過去のめし屋には、客のわが身が、うら悲しくなるのや、不精ったい家も多かった。しかしまた、大都会の朝の活動は、ここの食欲から明けるといったような、さかんなる縄のれんも少なくなかった。
朝の常連、晩の常連、そこでは、きまった顔が出会う。
今云うニコヨン組から、下月給取、職工、学生、職人衆、集金屋さんといったような顔ぶれである。中に必ず異彩ある風貌の持ち主や〃めし屋〃の先生なる人物もあって、時事を論じ、風刺を好み、大臣富豪をあげつらい、一杯何銭汁と一ぜん飯は食っていたが、和気あいあい、卑屈やニヒルの陰影がなく、社会力の岩盤らしい不屈さと、洒落があった。何よりは、どこは、希望に泡立っていた。あれはやっぱり、時代が醸したあのころだけの、雰囲気に過ぎなかったのか。とすれば、めし屋亡んで庶民に夢なし、の感が深い。》
以上引用終わり
多分この飯屋と大衆食堂の間に定食屋もあったと思う。板橋や葛飾の下町の駅前には必ずあった。染みの付いた暖簾だったり縄暖簾だったりする入り口を入ると細長い店内に、長いカウンターが設けられておりその上にバットに入った芋の煮しめや鯖の味噌煮、イカの丸焼き、キンピラ牛蒡などが所狭しと置いてある。その中から好みのオカズを注文して味噌汁とご飯で食べた思いが懐かしい。学生時代から社会人に成りたてのころの時代だ。そして今は西洋風、イタリアン風、中華風、和食風等々、街道筋には必ず決まって見慣れた看板がどこへ行ったもみうけられる。焼き豆腐や芋の煮っ転がしから、カツ丼、コロッケに変わり、カレーハウスやラーメン屋からハンバーグランチがランチなのに午後五時過ぎに行っても食べられ、牛丼が昔の定食屋風のカウンターで手軽に食べられるようになった。そうした刻々変わっていく今、現在も、やっぱり時代が醸したあのころの雰囲気に過ぎなかったのかもしれない。いつの時代も異口同音に世の中は過ぎていく。
昔の話を「折折の記」より1部を引用
《めし屋は、なくなった。都会も地方も、食堂になった。食堂なら都心、場末、地方の駅前、どこにも見られる。一番多い看板が大衆食堂。
外観は変わったが、元来は同一目的のものだろう。だが同質ではなくなったようだ。焼き豆腐や、芋の煮しめが、カツドン、コロッケに変わったように。過去のめし屋には、客のわが身が、うら悲しくなるのや、不精ったい家も多かった。しかしまた、大都会の朝の活動は、ここの食欲から明けるといったような、さかんなる縄のれんも少なくなかった。
朝の常連、晩の常連、そこでは、きまった顔が出会う。
今云うニコヨン組から、下月給取、職工、学生、職人衆、集金屋さんといったような顔ぶれである。中に必ず異彩ある風貌の持ち主や〃めし屋〃の先生なる人物もあって、時事を論じ、風刺を好み、大臣富豪をあげつらい、一杯何銭汁と一ぜん飯は食っていたが、和気あいあい、卑屈やニヒルの陰影がなく、社会力の岩盤らしい不屈さと、洒落があった。何よりは、どこは、希望に泡立っていた。あれはやっぱり、時代が醸したあのころだけの、雰囲気に過ぎなかったのか。とすれば、めし屋亡んで庶民に夢なし、の感が深い。》
以上引用終わり
多分この飯屋と大衆食堂の間に定食屋もあったと思う。板橋や葛飾の下町の駅前には必ずあった。染みの付いた暖簾だったり縄暖簾だったりする入り口を入ると細長い店内に、長いカウンターが設けられておりその上にバットに入った芋の煮しめや鯖の味噌煮、イカの丸焼き、キンピラ牛蒡などが所狭しと置いてある。その中から好みのオカズを注文して味噌汁とご飯で食べた思いが懐かしい。学生時代から社会人に成りたてのころの時代だ。そして今は西洋風、イタリアン風、中華風、和食風等々、街道筋には必ず決まって見慣れた看板がどこへ行ったもみうけられる。焼き豆腐や芋の煮っ転がしから、カツ丼、コロッケに変わり、カレーハウスやラーメン屋からハンバーグランチがランチなのに午後五時過ぎに行っても食べられ、牛丼が昔の定食屋風のカウンターで手軽に食べられるようになった。そうした刻々変わっていく今、現在も、やっぱり時代が醸したあのころの雰囲気に過ぎなかったのかもしれない。いつの時代も異口同音に世の中は過ぎていく。