写真俳句~~一生感動 一生青春  松風庵

森林公園、動物公園、松風公園より

都幾川の花火大会

2006年08月27日 | Weblog
しばらくは湖いっぱいの花火かな 小林 一茶
述懐し孫の手をとる花火会  松風の一句

花火尺玉 文字縦































昨夕、孫につられて娘夫婦と連れ立って、久しぶりの花火見物に行って来ました。
尺玉5連発&スターマインの光と音の饗宴を真近で見る醍醐味は、思わず拍手の感動をもって夏の宵を楽しんできました。5c220092.jpg天を裂く光は夜空を虹色に染め、心臓の底に響く音は短パンの裾を震わせ、終わった瞬間観客席から拍手と歓声が沸き起こり少年時代の子供心をそこはかとなく呼び起こしてくれました。大宮公園のボート池の上で又、荒川の土手で東京側と埼玉側の両岸から上がる光の競演が見事だったあの頃を、ふっと思い出される都幾川の夏の宵でした。

尺玉や握った孫の手に響き   松風

防衛から歴史認識について考える

2006年08月12日 | Weblog
防衛庁が省に格上げされるのではといわれる昨今、滅多に防衛など考えたことが無いというより考えようとしなかったが、原爆が日本に落とされ、690c738b.jpg終戦記念日を控え首相の靖国神社の問題で騒がれ世間では又、マスコミでは盛んに書きたてているので、人並みにチョッと「歴史認識」なるものについて考えてみた。
司馬遼太郎著「世界の中の日本・防衛のこと」(P271)を読んで防衛について、いろいろ考えさせえられたのが、その切っ掛けになった。
中国、韓国の2国(北朝鮮も入るが論外にして)が(戦争責任を擦り付ける為の)歴史認識を国家間の問題と唱え又マスコミも迎合していろいろ議論盛んな今、その歴史につい考えてみた。まず、その切っ掛けとなった「世界の中の日本・防衛のこと」より一部を抜粋
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【薩摩藩主島津斉彬という人は幕末のぎりぎりではすでにこの世になかったが、この時期のあらゆる人物の中で、学殖識見ともにもっともすぐれた人物であった。
かれは、オランダ語と中国語が出来たばかりで無く、この時代の日本という制約かにあってあつめられるだけの海外情勢の情報をもっていた。この斉彬は安政四年(1857)の段階において「清国(中国)は長髪賊(太平天国の乱)のためにその国土の大半をうしない、国家としては殆ど滅亡しようとしている。
おそらく将来は外国のわけどりになるであろう。日本はこの外国の属領になるであろう中国大陸から大きな脅威をうけざるをえず、日本防衛のためにはすすんで中国大陸をかこむかたちをとらざるをえない。
そのためには山陽山陰の大名に対してはオーストラリヤを制しめよ。九州の大名には東南アジアをおさえしめ、東北の大名は、沿海州から満州へ入らしめよ」といっている。
肥前佐賀藩の藩主でこの藩に洋式産業を導入した鍋島閑叟の意見はやや規模が小さく「九州の大名は西からくる外国の侵略から日本をまもらなければならない。
このため国内防衛に任じ、東北の大名をして沿海州、満州をおさえしめるがよい。そのためには首都を思いきって秋田あたりにおく必要がある」といった。
19世紀の半ばというのは、地球上を帝国主義のエネルギーがおおっている。
その被害の立場にあった日本ですら、この世界史的な風潮の例外ではなく、その防衛論ですら、帝国主義であった。むろんこれをもって後世のわれわれは、斉彬や閑叟の愚をわらうことはできないが。
その時代に対してはその時代の条件で歴史を見てやらねばならないからである。
このようなことどもを列挙したのは、日本の防衛問題というものの原型は幕末にあり、いまも日本列島の地理的条件がかわらない以上、参考材料としての価値はうすらいでいないとおもうからである。
話が飛躍するが、この島の防衛は至難さから考えて、一発の弾ももたずに日本の防衛をなしうる魔術的な政治力だけが、今後の日本の首相になりうる唯一の条件ではあるまいか。】以上引用終わり
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この島の防衛問題というものの原型は幕末にあるとして、当時を考えるとまず、米国の東インド艦隊の司令長官ペリーが1853年琉球那覇港に入り、ここをもって米国の海上基地とし、さらに小笠原列島を米国領と宣言した。
又ロシアが対馬を占領して独立国と決め付け幕府と交渉して幕藩体制の曖昧さを暴露した。この当時の開国、佐幕、から尊王攘夷と入り乱れ防衛問題が噴出した時代でもあった。
夷人を斬って海岸へ追い払えと粗暴の攘夷浪士が闊歩したり「ナポレオンを起こして自由をとなえ」と吉田松陰のように「とりやすい朝鮮、満州、シナを切りしたがえ」とすさまじい時代だった。
徳川幕府も幕藩体制の曖昧さから崩壊し絶対主義的統一国家の誕生となるのだが、この時代はこの時代で純粋に国を守るという防衛問題が沸騰した時代でもあった。
翻って靖国史観を含む太平洋戦争の歴史を考えみるとき、地球上を帝国主義のエネルギーがおおっている、その時代の条件で事象を見なければ正確な判断が出来ない。一方的に現在の尺度で、その昔の事象を当てはめて戦争責任を云々するのは、平行線を辿って結論の出せない、捏ね返し論にしかならない。
その昔蒙古が攻め、その後英国が海軍力を駆使して植民地を作り日清日露戦争を経て、太平洋戦争にいたった帝国主義の時代背景で歴史を辿って戦争とは何かを考え、その時代に対してその時代の背景と条件で歴史を見てやらねばならないのではないか。
A級戦犯合祀、南京大虐殺、従軍慰安婦云々の中国、韓国の圧力に屈して自虐的な戦争の歴史認識で靖国史観を論じる報道には目を覆いたくなる。
又現在の経済条件で昔の靖国問題を論じたりする経済団体が存在したりする。歴史を取引に利用しようとする中国の本性を見てか見えないのか知らないが、経済団体の金優先主義の経済まで利用して、日本の戦争の歴史が書き換えられようとしている。
近隣の中韓によって教科書を使って歴史認識を歪めてまでして追及しようとする意図は何処にあるのだろうか。
やはり最終的には済んでいるはずの戦争責任による賠償が目的ではないのだろうか。
「この島の防衛は至難さから考えて、一発の弾ももたずに日本の防衛をなしうる魔術的な政治力だけが、今後の日本の首相になりうる唯一の条件ではあるまいか。」とこの項で締め括っているように次期首相が取りざたされている今、果たしてこの魔術的政治力を駆使できるに値する人であるかどうか、願いをこめて期待したい。
又、一発の弾も持たないこの島の人間として参拝するしないの「不毛」に魔術的な政治力で早く終止符をうってもらいたい。

松風公園の悲しい出来事

2006年08月08日 | Weblog
一ヵ月半ほど前の出来事にさかのぼるが、家の前の松風公園に地獄坊池と名のつく池がある。池の波打ち際の階段の先に蓮の群生が花弁を開いている。その先にカルガモが朝の空気を一杯に吸って長閑に浮いている。
そのカルガモの周りにゴミのようなものが纏わりついているのに気づく。良く見ると雀の大きさのコガモが5羽纏わりついて泳いでいる姿に思わず目をこすった。20年以上住んで始めてみるこの池の生命の誕生の景観に感動した。
fec19c05.JPG思わず近寄ってみると遠ざかってしまった。警戒心が強く人を見かけて離れていく姿に、早速翌日、光学3倍ズームのデジカメを持ち出し遠巻きに撮り鳥して、近接を狙ったがなかなか近寄って来ない。
そこで又、翌日望遠レンズをカメラにセットして池に向かった。二羽のカルガモ夫婦を認めたが、どこを探してもコガモは見えない。蓮の葉の間、岸辺の茂みの木陰、どこを探しても見当たらない。
最近このあたりで雀の餌付けと称して餌を与え野鳥を呼び寄せている犬の散歩人がいる。この散歩人に雀の他に3羽のカラスが盛んにやって来ては、ついに居座りついてしまっている。このカラスとコガモの関係から多分、カラスの餌食になったのかもしれない。
他に思い当たる事例として猫だとしたら周りに羽が散乱していると思われるが、それも無いので猫ではないらしい。
この三日で消えたコガモの例を見ても此れまで目に触れないコガモの災難が、幾度となく行われていたかもしれないと想像すると、原因を突き止めておきたい思いにもかられる。
発見した時のあの感動と、脳裏からなかなか消え得ない残念で悲しい印象は、一ヶ月半経った今でも、未だ記憶から遠ざからない。
このカルガモ家族にとっては地獄だったかもしれない地獄坊池の出来事を、ブログに閉じ込め記録に封をしようと思ったしだいです。

カルガモの親子
コガモと夫婦大


















コガモと母親


















コガモと夫婦

帰れなかった日本人

2006年08月04日 | Weblog
45e66eed.JPG外国に出て母国の体制が崩壊したり変わったりして帰れなくなった日本人が如何にたくさんいたか思い知らされて愕然とした。
最近読んだ長洋弘先生(現東松山市立南中学校長)著「帰らなかった日本兵」を読んで自分の生まれた当時に思いをはせてみた。
大東亜共栄圏のもと軍人として又軍属として東南アジア、中国、満州に出て行った人がまことに沢山いて、今まで想像していたその想像をはるかに超えるものがある。
自分の意思で帰国を断念した人の多くは帰りたくても環境が許さず帰らなかった或いは帰れなかった、自分の意思に背いた或いは背かざるをえなかった人々がその大半をしめている事に気付かされる。そして現地に留まり現地で功成り名遂げ2世に引き継がれ活躍されている方々も多数居られる。
いままでに読んだこの種の帰れなくなった日本人を主人公にした本として小野田寛郎著「わが回想のルバング島」、竹山道雄著「ビルマの竪琴」などがある。又時代は違うが司馬僚太郎著「韃靼疾風録」がある。まず時代順に韃靼疾風録から記したい思う・・・続く