孫正義氏が「竜馬がゆく」に感銘を受けたことは世に知られている、最近ではホテル雅叙園東京にて、6月1日から25日まで、龍馬没後150年高知県立坂本龍馬記念館巡回展「土佐からきたぜよ! 坂本龍馬展」が開催され孫正義氏が登壇し「ソフトバンクのロゴマークは、海援隊の旗から勝手にいただいたもの。」「竜馬がゆく」を読んで人生観が変わり事業家を目指したとコメントした。
筆者も折に触れて孫正義氏が「竜馬がゆく」に感銘を受けていることを感じたが、幾つかのエピソードを紹介したい。牽強付会(こじつけ)と思われるエピソードもあるかもしれないし、「竜馬がゆく」の美学ではなく史実のしたたかな竜馬になぞらえるものもある、つまり善悪ともに合わせた竜馬に魅せられている。孫正義氏の今後の振る舞いは「竜馬がゆく」を熟読することである程度見えてくるものがあるかもしれない。
エピソード1 万国公法
司馬遼太郎の名作「竜馬が行く」の文中、竜馬が子分の陸奥宗光に「刀などより、これからはこれぜよ」とピストルを見せる。早速陸奥がそれをまねてピストルを持ち歩くようになり、竜馬にほめてもらいたくてそれをみせると、今度はふところより万国公法をとりだし、「これからはこれぜよ」と見せるというシ-ンがある。万国公法は今で言う国際公法で、国際標準と考えてもあながち間違いではないだろう。会議の中でも、竜馬の海援隊が他藩の船と衝突し、その処置に万国公法によったという「いろは丸事件」は度々聞かされた。
ADSL干渉問題の渦中、孫正義氏は社内会議で度々いろは丸事件について述べた。「おいk君、いろは丸事件で竜馬は何を持ち出したと思う」と質問を投げかけ、答えに躊躇しているk君に「万国公法だよ」と説明し、国際標準が強いことを力説した。会議メンバーに説明しながら自らにも言い聞かせていたに違いない。
2004年9月総務省の「800MHz帯におけるIMT-2000周波数の割り当て方針案」をめぐって総務省と対立した際、国際的な事件を担当して著名な米国弁護士団を呼びよせ、ブロ-ドバンド推進協議会主催の講演会を開催するなど、米国オピニオンを見方にするための行動をすばやく取った。米国弁護士たちはとりたてて日本の通信事情に詳しいわけではなく、通り一片の意見を述べて行っただけで、効果のほどはわからないというよりも無かったかもしれない。いずれにしても孫正義氏の国際標準を重視する行動パタ-ンの一つだとみることができる。
1867年5月26日23時頃に伊予国大洲藩所有で海援隊が借り受けて長崎港から大坂に向かっていたいろは丸と、長崎港に向かっていた紀州藩の軍艦・明光丸が備中国笠岡諸島の六島付近で衝突した。
長崎奉行所で海援隊・土佐商会および土佐藩は紀伊藩と争った。土佐側はミニエー銃400丁など銃火器3万5630両や金塊など4万7896両198文を積んでいたと主張し、明光丸の航海日誌や談判記録を差し押さえ、事故原因の解明を図った。龍馬は万国公法を持ち出し紀州藩側の過失を追及した。(wikiを参照した)
エピソード2
司馬遼太郎の名作「竜馬が行く」では魅力的な男を描くが、史実は竜馬のしたたかな事業家としての顔をも暴き出す、つまり善悪ともに備えた男なのだと捉えられる。下記の記事で「2006年に行われたいろは丸の調査では、龍馬が主張した銃火器などは発見されなかった」に注目してほしい、結構な悪ぶりである。
民衆を煽り紀州藩を批判する流行歌「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」を流行らせた。この事故は、日本で最初の海難審判事故とされている。事故から1か月後に紀州藩が折れ、賠償金8万3526両198文を支払う事で決着した。江戸時代後期の一両は、日本銀行金融研究所貨幣博物館によれば、現在の価値に換算すると米価から計算して3万円から5万円となり、8万3526両198文は約25億円から約42億円に当たる。なお、2006年に行われたいろは丸の調査では、龍馬が主張した銃火器などは発見されなかった。賠償金はその後紆余曲折があって、7万両に減額され、11月7日に長崎で支払われたが、その8日後の11月15日、龍馬は京都川原町の近江屋で暗殺された。(wikiを参照した)
孫正義氏も携帯事業で他社に対して飛び抜けて高い接続料金を設定することや、かつて2005年当時主張した電波オークションにその後は沈黙するなど、したたかなダブルスタンダードの面も見せる。「竜馬が行く」には記されていない竜馬まで学習してしまったかのようだ。
エピソード3
2002年頃の孫正義氏はユニクロの柳井社長からプレゼントされたポロシャツを愛用していて、2001年ごろはそのまま総務省に出かけることも多かった。「竜馬が行く」で竜馬はなりに構わないで北辰一刀流桶町千葉道場の千葉定吉二女さな子を辟易とさせているが。
エピソード4
大阪城の近くにハイヤ-が差し掛かったときに道路の向こう側に薬局が見えた。やおら車を止めさせてあれよあれよと車が行き交う中を向こう側に渡り、風邪薬アンプルを2本飲んできた。2本飲んだから早く治るわけでもないが。
孫正義氏がNTT西の上野社長を訪れた帰りのこと、予約の飛行機よりも30分早い便があるとわかるとそれにチェンジして、乗り換えるために伊丹空港内の別ウィングへ駆け足で移動することに、結局その便は1時間遅れという皮肉な結果になった。
「竜馬が行く」の竜馬はどこか生き急いでいるところがあり、そして滑稽という言葉では表せない人間のおかしみが随所に漂う。
エピソード5
NTT東西の課長を相手に社長室で2時間も議論するかと思えばNTT東西の社長にも直接交渉に出向き、まったく同じ調子で議論する。(言葉づかいまで同じで、誰に対してもあまり変わらない)電話セ-ルスやパラソル営業では、地方に優れた派遣社員やアルバイトがいると聞くと、現地で熱心にその人のノウハウや意見を聞く、役所の本省のトップの事務次官、大臣にもかみつく。それが意識的にではなく無意識にできるところが孫正義氏のやり方であり、これがファンやシンパを作る(敵も多いが)一つの要因、魅力となっている。
筆者にはこのあたり、司馬遼太郎「竜馬が行く」で竜馬が陸奥宗光や人斬り以蔵、盗人の寝待ノ藤兵衛などを引き寄せる、人たらしぶりを感じ取る。
エピソード6
ADSLのパラソル営業などの新戦略を語るとき、自前光ファイバによる事業展開を考えるときなど自らホワイトボ-ドの前に立ち、誰もが半信半疑で(いや疑いの方が大きい)見つめる中で持論の正しさを細かな数字を使って計算しながら説得するとき、それが長時間でも疲れを見せず、むしろ恍惚となってくる。こうした作業に熱中するとき快楽物質エンドルフィンがふんだんに出ているに違いない。こういうとき、孫正義氏はまるで美酒に酔ったような表情を浮かべることさえある。
司馬遼太郎「竜馬が行く」の竜馬も説得しだすと羽織の紐を噛みながらぶんぶん売り回し、紐のツバが相手に飛び困っているのを構わずに、恍惚となって新政府を語るところがある。
エピソード7
「竜馬がいく」によると竜馬は維新後は新政府の表舞台に立つ気はなかったとあるが、このあたり、司馬遼太郎の美学によると思われ、実際の竜馬はそこまで恬淡としていたかどうか、作中と史実にギャップがあるように思う。孫正義氏も60歳でリタイアして画家になると述べていたがその後60代引退として10年伸ばした。
エピソード8
「竜馬がいく」によると竜馬は勝海舟に師事し松平春嶽に可愛がられた。孫正義氏もシャープの佐々木元副社長などに可愛がられている。これは真似をしようとしてできることではないので本来の特質だろう。
エピソード9
アメリカと中東、サウジアラビアの政府系ファンドやAppleらが出資する10兆円規模のビジョンファンドを設立し、「薩長同盟」になぞらえ、「龍馬が薩長同盟をするのに経済の力で利を結びつけたように、僕にとってのビジョンファンドも経済面のメリットからある意味刺激を受けて派生していったということ」と孫正義氏は述べている。