墓は故人を偲ぶものだが維持していくのが結構大変な時代に入っている。仏陀の時代も亡くなると舎利(お骨)が8つに分割され、さらに滅後アショーカ王の時代に8万4千に分割されたとの伝説が伝わる。
8万4千はいくら何でも無理な誇張だが数千に分けられてインド各地にストーパができたのだろう。遺骨の一般的な重量が10キロ前後と言われているので8万4千に分けると0.1グラム以下になるがこれではいくら何でも微細すぎることや発見されているストーパの数からも誇張であることが推測される。お釈迦様でも舎利がそのまま存続しているのは少ない。
釈迦はさておき我々凡人にもそれぞれ墓があるが果たして何代くらいまで存続していくものだろう。核家族化や各地に住む縁者の維持管理の難しさで、歴史上に名を残す人は例外として時代を経るにつけ忘れ去られていく墓の方が多いのではないか。
周りを見渡しても共同の永代供養塔に納める人や海への散骨、樹木葬などが増えている。これなどいつしか忘れ去られることを前提に墓を考える人が多いことをあらわしているのだろう。
お寺の側から見てもかつては檀家として多額のお布施を出してきた家でもいつしか子孫は各地に飛び檀家として維持する家はどんどん離れて少なくなっていく。
寺としても寺院維持理由から現在の檀家として存続している家の墓でもなければどんどん古くから残る墓を整理して新たな墓として提供したい。
わたしも池田にある古刹から、遠い先祖の管理料を毎年要求され、直系子孫ではないので断ったところ合法的に整理されて今では恐らく他の方のお墓が立っているのだろう。もちろん寺の事情に合意した上で納得付くのことだが。
要は墓が永続的に続く前提での永代供養と言うのは本音のところでは誰も信じてはいない。欺瞞を暗黙の了解としていると言えば言い過ぎだろうか。
では現代では墓をどのように考えればいいのだろう。故人をしのぶとの意味からSNSが墓標になるのではなかろうか。もちろんブログも墓標としてふさわしいと考えています。