まさおレポート

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紀野一義の研究71 授記品 

2022-02-25 | 紀野一義 仏教研究含む

紀野一義講演(youtube)メモです。


授記品の授記は禅では見性したことを認める、つまり印可することになる。

白隠禅師は晩年に弟子に大量印可した。情に流されたんでしょうね。印可ということは物騒な世界が隠れている。

大般涅槃経では「阿難よ人が死んでいくことは不思議なことではない。あの人は涅槃にはいったかと一々如来に尋ねられるのは煩わしいことである」と釈尊が言われる。

これが自分が自分を授記することの根拠になっている。わたしは「勝手に自記なんてやっていいのかなと今でも疑いをもっている。面倒でもおしゃかさんに言い渡してもらうべきではなかったのでしょうか。自授記を認めないですね。

何故なら他人をみるのは厳しくても自分には甘いのが人間だからです。わたしは自分にいいように解釈することは一切やらないことに決めたんです。


最悪に備えておかないと最悪の事態になった場合に周章狼狽することになる。落ち着くとはどん底にまでおちてからのことを言う。


この間、死にたいという若い人から電話がありました。

なんでわたしのことをしっているんですかと尋ねると、東大の印度哲学に電話したそうで、そういう話は紀野先生にされたらいいと言われたと言う。

「本当に死にたい奴は電話すると思うかね」

「いやあ・・・」

「ほんとうは死にたくないんじゃないの。俺止めないよ」

「それは酷いじゃないですか」

そのうちその青年はげらげら笑いだして「わたし死ぬのはやめました」

死ぬ奴なんてあっけなく死んでしまいますよ。わたしは一切こういうひとには同情しないんですよ。こういう人は自分の心の中にある甘えがあるんですよ。わたしにできることは甘えをぶっ潰したりぶったたいたり笑い飛ばしてやるとかで目を覚ましてやることしかできないんですね。


自分は果たしてふさわしい人間であるか、自分で判断しなければいけない。

当時のインドと比べて今は快楽も多いしそら大変だと。当時は山の中にはいって自分の心の中だけの誘惑と戦えばよかったが今は心の外の世界でも大いに誘惑がある。 

釈迦在世当時も釈迦が死んでせいせいしたと放言した弟子もいた。 提婆達多は教団を作って出て行った。釈迦在世当時の弟子が素晴らしくて今がだめだとはいえないですね。自授記するなんて当時も甘ったれた人が多かったんじゃないでしょうか。


これはお坊さんとしてちょっとこまるね、という人が増えている。10年前と比べて多い、今後どうなるんですかね。

道元は坊さんを無条件で尊敬しなさいと。そうでないとかならず罰を受けると。この線を崩したら仏教はなくなるんじゃないか。

一方でお坊さん自身は深く反省し授記に値するかを反省していかなければいけない。社会人の方が謙虚な人が多い。是非考えていただきたい。


なんでもいいから絶対的な信じる人をもつというのが最低限の条件じゃないでしょうか。奥様でも子供でもなんでもよい。絶対的に信じられる人を一人もつことが大切ですね。


コンピュータ関係の人がよくわたしの会に来ます。コンピュータばかりやっているとこのままいくと人間でなくなるんじゃないかと迷いがある。コンピュータが必要なものであるのはわかっているが、絶対的な信頼をおけるかどうかと迷っていると。


大迦葉は教団を創設した。地味な人だが素晴らしい弟子。釈迦の問いかけに一人彼だけが拈華微笑した。拈華とは花を折ることですね。他の弟子は全くわからない。迦葉のみが微笑して応えた。

まあ事実ではない伝説でしょうが。頭陀第一の人であり釈迦が半座を分かつ唯一の弟子。大迦葉をよく知らない新米の弟子がそれをみてびっくりした。宝塔品ではこの大迦葉は多宝塔で釈尊と二仏並座する。

お婆さんが地面にこぼれた米を集めて水がゆをつくっていた。大迦葉はそのお婆さんに乞食をした。もっとも貧しいわたしにどうして乞食をするのか、他を当たれとお婆さんが抗議した。大迦葉は貧しいひとにこそ乞食をする意味があると。


氏は入ってきた金の中で何割かは施すことを続けている。講演料や印税などの入ってきた収入の1割か2割は困っている人に還元することをもう数十年続けている。会社がやる税金逃れなどの不純でなくこういうことを行うのが大事なことですね。

こういう乞食の精神をもった大迦葉は釈迦の後継者にふさわしい人です。 


悪魔と菩薩について。菩薩が最上のものであるからもし悪魔が菩薩をやっつけるのであればその悪魔は菩薩である。なぜなら菩薩をやっつけられるのは菩薩しかいないから。


日蓮上人は当時の政治家やお坊さんに悪魔のように憎まれたのではないでしょうか。しかし行動はすばらしい。あれをみてお坊さんは反省しなければいけない。

日蓮上人はインテリにすかれない。それは日本のインテリは本物のインテリではないからですね。英語ができる、フランス語ができる、カタカナばっかりやっている人は日本人のにせものですね。それに比べて内村鑑三や矢内原は本物のインテリであり、日蓮上人のことを「典型的日本人」と称賛しています。

わたしが上智大学で日蓮上人について講演した時に聞いていた若い助祭が帰りの駅まで送ってくれたんです。ぽつりぽつりと暗い道をあるきながら云うんですね。

「わたしは日蓮が書いた手紙が大好きなんです。毎晩のように佐渡から当てたお手紙をよんでいます」と言っていました。わたしは「それはありがたい」と応えました。日本人のインテリももっと日蓮上人のことを好きになって欲しいなと思いますね。

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