サラ☆の物語な毎日とハル文庫

アーサー・ランサムと上橋菜穂子

偉大な物語──冒険に満ちていて、生き生きと血の通った、心躍らされる物語は、次代の物語の語り手たちの心の中に、深く根を下ろすようである。
例えば、アーサー・ランサムは、ロビンソン・クルーソーや『宝島』を心の肥やしにしていた。『ツバメ号とアマゾン号』を読んでいるとよくわかる。
そして今度は、アーサー・ランサム自身の作品がまた、次代に大きな影響を与えている。

梨木香歩がアーサー・ランサムに誘われて、水辺にカヤックで漕ぎ出したように。
上橋菜穂子がオーストラリアのブッシュへと誘われていったように。
(物語の冒険に刺激されて、自らも冒険に着手する。その例をあげると、女性ばかり。これはどうしたことかと考えたが、男性諸氏はスピルバーグの「スターウォーズ」や鳥山明の『ドラゴンボール』、尾田 栄一郎の『ワンピース』、あるいは宮崎駿の一連のアニメといった具合で、他のメディアに鞍替えした模様である。)

上橋菜穂子は『ツバメ号とアマゾン号』の最後に「永遠の夏の光り」という一文を寄せているが、その中で次のように語っている。

★十代で出会い、私のその後の人生を大きく左右した物語が三つある。ひとつは、ローズマリ・サトクリフの歴史物語。もうひとつは、トールキンの『指輪物語』、そして、このランサムの『ツバメ号とアマゾン号』のシリーズである。
この三つの物語は、作家としての私の「根」をつくってくれただけでなく、考えてみると、文化人類学者を志すような気持ちを植え付けてくれた物語でもあったようだ。
 サトクリフとトールキンの著作で、私は、多様な民族が、あるときはせめぎ合い、あるときは思いがけぬ絆をつくりながら生きていく世界のあり方に出会った。
 そして、ランサムの著作は、私の心に、海にのりだし、原野でキャンプするような、リアルな「冒険」への憧れを宿してくれたのだ。

★『ツバメ号とアマゾン号』シリーズのことを思うと、いつも、透明でくっきりした明るさを感じる──小学校低学年の頃、今日から夏休みだ、と思いながら目覚めた朝の、晴れ晴れとした気分を照らしていた、あの夏の光りだ。

★ランサムは「休暇」というものがもつ光りを、おおらかに、まっすぐに描いている。休暇というもの──楽しさというもの──が、いかに人の生を豊かにするか知っていて、しっかりと腰を据えて、その光りだけをくっきりと描きだすことに専念している。だからこそ、読者は、余計な雑音に煩わされることなく思いっきり物語に没入し、物語をくぐりぬけた後には、夕立の後の青空を見上げているような、清々しさを感じることができるのだ。

★子どもたちは、現実をよく知っている。日常というものの感覚を、よく知っている。彼らが「原住民的」と表現するすべてが、休暇が終われば戻らねばならない「向こう側にある日常」で、子どもたちはいつも、それをマジかに見ている。…略…
 面白いのは、ふつうなら「文明」の側として意識されるはずの、農場や港町などの「現実のイギリスに住んでいる人々」を、子どもたちが「原住民」と見做していることで、つまり、子どもたちにとっては、「原住民」とは、「向こう側」の象徴なのである。

★楽しかった記憶は、思い返せば、どんなときでも揺らがぬ光を感じさせてくれる。
『ツバメ号とアマゾン号』は、私にとっては、命を終えるその日まで心の底で輝きつづける永遠の夏の光だ。
 

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