サラ☆の物語な毎日とハル文庫

黄金の時間

「幸福の一つのかたちが
少年時代にある、ということは
よく言われる。

確かに、一つの蝶を追いかけ、
竿を握りしめて森の中に立っていた
あの静寂は忘れがたい。
純粋で、強烈で、黄金だったあの頃。」

この文章は、東大教授の茂木健一郎さんが
「クオリア日記」というブログの中で書いていた一節。
蝶を追いかけて標本箱をつくった小学生低学年の頃を
茂木先生は、こんなふうに表現していた。
そして、茂木先生はあの黄金だった時間を再現したいと思うのでした。

黄金だったあの頃…
それは人によって違う。
サッカーかもしれないし、
鉄道かもしれない。
カードのコレクションかもしれないし
友だちとやった、ちょっとした冒険かもしれない。
たとえば、知らない場所に自転車で出かけるとか
山に見つけた洞穴で、山賊にでもなった気分で儀式をして遊んだこととか。

人それぞれ、黄金の時間の記憶はあると思う。

本もまた、そのなかの一つ。

本を読むのは楽しい。
いくつになっても、本好きは本を読む。
でも、子ども時代、本を読んで過ごしたあの時間ほど
純粋に熱中し、胸をときめかせ、本の世界に入り込んだことはないかもしれない。

何もかもが初めての体験だった。
海に出るつもりはないのに、海に出てしまった船。
フック船長の恐ろしい鉄のかぎ。
真冬の雪のなかに見つけた四月に咲く松雪草。
姉がこしらえた白いブラマンシュを携えて
お隣の男の子のお見舞いに行くジョー。
ボストンの街並み。
特別な提げ方をしないと柄がはずれてしまう
壊れかけたトランクに全財産を詰め込んで、島にやってきたアン。
無人島に流れ着いたロビンソン・クルーソー
雁の首にまたがって、スウェーデンの湖の上を飛ぶニルス。
叔母さんから罰として言いつけられた塀のペンキ塗りを
うまいこと言って友達にやらせてしまったトム。
アヒルが普通にしゃべっている動物の病院。
アルプスの山の上でヤギを追うペーター。

日常生活、現実の生活とは別に、物語の世界があると知ったころ。
どの物語も、はじけるような物語世界のパワーがあって
やすやすと、その世界に取り込まれたんだった。

駄々っ子のようにひたっていたい黄金の時間。
過ぎ去ってしまった子ども時代。

でも、あの頃に読んだ本の世界は、未だに本の中に存在している。
相変わらず、生き生きと物語を語りつづけている。

子どもだった私たちは大人になり、知識も経験も増えた。
現実生活のダイレクトなパワーに対応するのにタジタジで、
山ほどの時間をそのことに使っている。
もうものの感じ方も違ってしまっているのかもしれない。

でも、私たちは本当に変わってしまった?
もうあの黄金の時間は取り戻せない?

どうでしょう…
わたしはそうは思わない。
黄金の時間の記憶は、そのまま心の中に封じ込められている。
そのトビラを開きさえすれば、
きっとあのころの気持ちがあふれ出してくる。

そのトビラを開ける方法はあるのでしょうか?

絶対あると思う。

じゃあ、どうすればトビラを開けられる?

わたしは、物語の始まりのシーンを思い出せばいいんだと思う。
物語には、「さあ、始まるぞ」というシーンが必ずある。
その瞬間、本のこちら側の現実世界から物語の世界に瞬間移動するようなシーン。
「このカバンは柄のところが壊れているので
特別な提げ方をしないといけない」と
まじめくさった顔でアンが話したとき。
お母さんが子どもたちを寝かしつけている部屋の窓の外に
ピーターパンがやってきて、じっと中をうかがっているとき…。

そういう始まりのシーンをもう一度読み返せば
そこから、物語の世界に瞬間移動できる。
忘れてなんかいない。
あの、永遠とも思えるような静止した黄金の時間の中で
夢中になってひたった物語の世界を、忘れてなんかいません。
…わたしはそう思うんだけど。

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