サラ☆の物語な毎日とハル文庫

『凍死しなかった少年と少女について』でマキシム・ゴーリキーが言いたかったこと。そしてアンデルセンの『マッチ売りの少女』

 ↑ 童話館出版 の大型絵本、『マッチうりの女の子』の画像を拝借しました。


★クリスマス物語では、むかしから貧しい少年・少女を毎年数人ずつ凍死させることになっています。

ちゃんとしたクリスマス物語の少年・少女は、ふつう、大きな家の窓ぎわに立って、ガラス戸越しに、りっぱな部屋のなかできらめいているクリスマス・ツリーに見とれ、やがて、たくさんの不愉快なこと、つらいことを味わってから、凍死していくことになっています。

 

こういったクリスマス物語の作者が、登場人物を残酷な目にあわせていますが、言おうとする事柄はりっぱなものだ、と私にも分かっています。

作者たちが貧しい子供たちを凍えさせるのは、金持ちの子供たちにそういった貧しい子のいることを思い出させるためである、と分かっていても、私個人としては、たとえそんなごりっぱな目的があったとしても、貧しい少年または少女をひとりとして凍えさせる気にはなれません。

 

★これから私が凍死しなかった少年と少女のことを物語ることにしたのもそのためなのです。

 

 

という語り起こしからはじまる『凍死しなかったし幼年と少女について』という短編は、マキシム・ゴーリキーが1894年に『ニージニー・ノーヴゴロド新聞』に発表したもの。

『ゴーリキー 児童文学論』の編者によると、

「この物語は、児童文学においてとくに流布している、センチメンタルなクリスマス物語に反対したものである」ということらしい。

 

 

親のいない子供たちに真冬の寒気のなかでものごいをさせ、子供が手にしたいくばくかのお金を吸い上げては酔っ払うやくざな女。

ゴーリキーの物語では、アンフィーサおばさんだ。

 

表向きは「ええ、わたしはね、親のいない子供たちを引きとって世話をしてるのよ。社会奉仕よ。感謝してもらいたいものだわよ」…

ディケンズの世界にもそういう大人はいたし、

日本の時代劇にも出てきそう。

きっと第二次世界大戦後の都会にも、浮浪児たちを束ねる、そういう大人がいたに違いない。

 

いま現在の中東やアフリカの戦闘地域などでも、ひどいものだろう。

 

子供は保護されなければならない存在なのに。

 

冒頭のクリスマス物語うんぬんというくだりに登場する貧しい子供たちに、ゴーリキーは胸を痛めたのにちがいない。

 

物語の中でまで、子供を凍死させたりはしない。

 

いや物語のなかだけではなく、子供が凍え死にしたりしない社会をつくらなければならないんだ、というゴーリキーの思想がこの物語では語られているのだと思う。

 

この物語の中では、頭の働くたくましい浮浪時の少年が、稼いだお金をむしりとる大人の裏をかいて
ものごいで稼いだお金の上前を確保し、路地裏の薄汚い飯屋で暖かい食事にありつく。

 

少年と少女は暖かいご飯をお腹いっぱい食べ、体もあったまって、ほっかりしている。

凍え死んだりしてはいない…というところで話は終わる。

 

 

物語のなかで子供を酷い目に合わせるわけにはいかない、というゴーリキーの気持ちがよくわかる。

 

そうだよね。

 

児童文学は、こどもに「人生とは生きるに値するものだ」と伝える役割がある

と誰かが言っていたけれど、

まさにその通りだと思う。

 

クリスマスに凍死するだなんて

そんな悲しいことを、わざわざ子供に語って聞かせることはない。

そんな目にあわせてはいけない。

 

 

そういうクリスマス物語が、ゴーリキーの時代にはたくさんあったらしい。

ゴーリキーが言っているのは、そういう数々の物語なんだけど、

日本では翻訳すら出ていない。

ということで、例えばとして引き合いに出されるのは、しばしばアンデルセンの『マッチ売りの少女』だ。

 

それでもういちど『マッチ売りの少女』をひっばり出して読んてみた。

雪が積もった大晦日の日に、少女は木靴すら失くして

紫色になった素足で雪道を歩くのだ。

寒くて寒くて、少しでも温まろうとマッチをすっては幻覚をみる。

その幻覚はそれはそれは素敵で、

少女は祖母のあたたかい腕に包まれ、天国に上っていく。

少女は少しも不幸じゃない。

幸せにつつまれて…凍死するわけ。

 

 

ゴーリキーの視点で読むと、憤りを感じる。

 

子どもの本の主人公を凍死させるなんて、そんなひどい話はない。

そうだよねー、とあらためて共感するのだ。

 

 

でもこの場合、アンデルセンの視点からも物語を見てみたい。

北欧もロシアも冬は厳しい寒さに耐え偲ばないといけないだろう。

アンデルセン、そしてゴーリキーが生きていた時代には

親の庇護がうけられない子供が凍死するということも

けっこう頻繁にあったのかもしれない。

 

アンデルセンはそういうニュースのひとつに胸を痛めた。

そして、そんな女の子の死も、幸せに包まれた優しいものであるよう

童話の世界で描いてみせた。

「せめてもの」というアンデルセンの願いが込められているんじゃないかなー。

子どもの本の世界と、厳しい現実と、どう折り合いをつけるか。

 

 

でもねえ、いまの日本社会からみると、

「マッチ売りの少女」は明らかに児童虐待になってしまう。

大人の作家が小さな女の子を凍えさせる。

死ぬ間際に幸せな幻想を抱かせたとしても、

やっぱり腹立たしい。

「死ぬことが救い」ではなく、

「より幸せに生きるための救い」について物語ってほしかったと思うのだ。


 

コメント一覧

紫苑
こんにちわ。いつも楽しく拝見させていただいています。私も「マッチ売りの少女」には子どもの頃から違和感抱いていました。今もクリスマスになると思い出します。どうしてこんな話を? 天国で幸せに?いえ、やはりそれはないでしょう。童話って残酷なところいっぱいありますね。
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