「言葉を覚えた方がいい」
そう言ったとき、美紗緒は少しだけ照れたように笑って、鞄の中から小さな文法書を取り出した。
その手元には、びっしりとメモが書き込まれた付箋が挟まっている。
「ええ、だから勉強しようと思って……」
ページの端には、かすれた鉛筆の跡。
一人で、ここまで努力してきたのだと、痛いほど伝わってきた。
エリックは、本を受け取ることも、彼女の手に触れることもせず、ただ見つめていた。
彼の心には、尊敬と不安が入り混じっていた。
(フランス語は……難しい)
単語を知っていても話せない者は多い。
書けても、発音が通じなければ意味を成さない。
特に東洋の発音体系では、フランス語の鼻母音や流れるようなリエゾンは致命的に難解だ。
それを、彼女は――一人でやろうとしていた。
(限界がある。いや……危険ですらある)
彼女がどれだけ真面目に勉強しようとも、誰もが好意的とは限らないこの街で、言葉を知らぬまま笑って頷くその行為が、どれほど誤解を招くか。
誤解だけで済めばいい。
だが、時には“承諾”と受け取られ、彼女自身が知らない間に境界を越えられてしまう。
そんなことは、絶対に――許さない。
けれど、押しつけがましいのは、彼女の自由を奪うことになる。
だから彼は、慎重に、言葉を選びながら、静かに口を開いた。
「Je pourrais t’enseigner le français. Si tu veux bien.」
(私が君に、フランス語を教えるよ。……もし君が望むなら)
その声音は、柔らかく、決して彼女を囲い込もうとするものではなかった。
むしろ、彼の想いを押し殺して、彼女の意志を尊重するように――優しく、穏やかに。
美紗緒は少し驚いたように、彼の目を見た。
言葉の意味を完全には理解していない。それでも、彼の声色が、彼女の心を打ったのだろう。
小さく、唇の端をゆるめて笑った。
「……あなたのフランス語、好きです。歌みたいで、すごく綺麗」
「歌……?」
「うん。耳で覚えたくなるくらい、心地よい。私……聞くのは、得意かもしれない」
エリックの胸に、微かな灯がともるような感覚が走った。
それは恋情だった。
彼女の無邪気な反応が、ただの語学の話ではないものを運んでくる。
(君に、フランス語を教えられたなら――)
それは、ただの言葉ではなく、想いを渡せる手段になる。
そして、君が誰かに誤解される前に、俺の声が届けば――君の未来に、安心を届けられるかもしれない。
「Alors… on commence demain ?」
(じゃあ……明日から始めようか?)
美紗緒は、また微笑んだ。
まるで、春の陽射しのように、柔らかく、あたたかく。
「……Oui.(うん)」
その一言に、エリックの心はほどけた。
言葉が壁ではなく、橋になるように。
心が、すれ違わずに繋がるように。
それを彼は、彼自身の声で叶えたかった。
仮面の奥で、エリックはそっと目を閉じる。
教えるという行為の中に、自分の気持ちを乗せてしまうかもしれないという怖さ。
それでも、彼は進もうとしていた。
**彼女が笑って、「わかった」と言ってくれたのなら――それだけで十分だった。