豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

あなたは神様です

2014-09-19 16:44:47 | 日記
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こんばんは!

「それ」が望むものを常に愛で満たす皆様。


本日は14時半ごろに起床して座禅1時間を無事に終えました。

相変わらずの姿勢、筋肉の緊張、悪想念、妄念、心の痛み、憎しみ、等々の連想大爆走の状態ですが、戻していきます。

心の調整をするのが座禅ですかね。

そのあとで『グルジェフ弟子たちに語る』の読書です。

肉体・本質・人格のお話。



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肉体とは遺伝されてきた、動作する、この体ですね。

本質は、感覚と感情による情緒の働きですが、これは生まれもったもの、気質です。

人格とは、読んだり、聞いたりしたことから形成された自分ではないものです。


思考・感情・動作・本能・性の各中枢が、この肉体・本質・人格に影響していますが、これはイコールではないですね。

そして思考、感情、肉体(動作・本能・性)の中枢が3つの魂を著している。

どうも勘違いしていたようですが、グルジェフさんによれば、連想は、どの魂にも、発生していて、これが途絶えることは、即、死に繋がると書かれています。

これに対して、連想器官というのは、この各中枢の働き、連想に対応している機関であり、これには生命が無く、機械なのだとしている。

この機械は現在自己意識のことだろう。

この連想器官は、肉体・感情・思考の魂の記憶テープから生まれた連想を、ラベリングしてある場所から、適当な対応を引き出している。

ということは、僕が、胸から溢れてくる、悪想念と思っていたのは、感情中枢の連想を、処理している部分だけを指していて、そのほかにも、肉体中枢・思考中枢の連想を処理しているということだろう。

ここに『迷い』『怒り』『欲望』があって、これが、エゴ(連想器官)をして、生きているという錯覚を生ませているようだ。


この思考は本来の役割は、霊の声を、各中枢に到達させることである。

このように思考が→感情・肉体の『悪魔』を導ける状態へ移行することによって、なすことができる人間になるのである。

なったのではなく、起こったのではなく、意図的に望む行為を実現することができるようになるためには、心と体を変えなくてはならないということだ。


この変えるのは、肉体の緊張と、感情の感覚と情緒であるが、これを理性によって達成しようというのが、グルジェフさんの目指した方向である。

しかし、これは、無理なのだ。


肉体と感情と知性の中枢が別々であり、これに目覚めることは、どうしても必要なことであって、この着眼点と言うか、教えは、凄まじく、素晴らしい。

が、この内の、変化を及ぼすワークについては、統制では不可能なのである。

変えなくてはならないのは、感覚と感情である。


この変化はエネルギーによって為されるのであるから、このエネルギーをどのように生み出すかに力点を置かなければならないのだ。

自己を客観的に見ること、自己同一化の解除と、自己想起は肉体と感情に対する働きかけであるが、これは、意識と心を自己から引き剥がす作業である。

そうして自己が、つまり、エゴが解放されたときに、魂の側が、生きるということを目指していたのがワークであるが、この方法は、エゴの無い人になって、初めて生きてくる手法であって、普通に生きている、つまり、我々には適さないのである。

この高度な、修練を、普通の人に広めることも意味が無いし、また、この手法自体が、欠陥を抱えているのであるが、それは、過激さである。

自己破壊の衝撃が、眠りを突破させるのではなく、愛の力が突破させるのだ。

反応体の仕組みである、肉体→感情→思考→魂が、魂→思考→感情→肉体になる必要はないのである。


このようなものは、エネルギーの波によって、到達可能なものなので、思考センターにそれを記憶させる必要はなく、逆に有害になる。

到達してから、可能であることを、そうでない人に、伝えようとしても不可能だ。

しかも、可能であるというだけのことで、そうする必要も無いことなのである。

この世界で『為す』必要は無いのだ。

なぜなら、元々、この世界は、あなたの、あなただけの物語だからである。


エネルギーの波は、手放すことによって到達するのであって、意図的行為が、それを為すことなど絶対にない。

であるからして、悪魔ベルゼバブの手法は、感情の崩壊である。

ワークは絶望させることに主眼があるのであって、自己を想起すること、意図的に苦悩をすることが、その戦闘を激化するように常に煽るのである。

ついに崩壊の瞬間がきて、ワークは捨てられるが、その理論は、なんと、崩壊後も行き続けるのだ!!!!

だが、それは必要の無いことなのだ。


優しく包まれた記憶があるだろうか?

その空気感が、この世界を、満たしているとき、宇宙と人間、また、その眠りの意識、それぞれの認知、すべてが放たれていく。

アートマンもブラフマンも、神も仏も、悟りも、自覚も、目覚めも、天国も地獄も、そのほかにある生も、死も、病も、老いも、一切の認識が、、、

一切の戯論が宿滅したとき、無所有の境地が現れるという。

あなたは、どこにも、いないのだ。


無我であるのだから、元々、純粋にして穢れなどないのである。

この無我であるというのは、生きていることである。

この生きている世界に、あなたは、もともといないのだ。

それが、不生無始のわたしである。

大空と魂の認識や、わたしは在るの状態でさえ、すべて夢なのだ。


が、生きているwwww

宇宙と人間の、この奇蹟!!!!

この生きている世界、瞬間は、2度とやってこない、神の、贈り物なのである。

驚くべき、神々の、技であるが、その神々とは、あなたのことなのである(爆笑)

至高なる、もののあはれ

2014-09-18 16:23:08 | 日記
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こんにちは。

柔らかで優しい空気感とひとつになっている皆様。


本日は14時ごろに起床して座禅1時間は無事に終わりました。

『グルジェフ弟子たちに語る』の読書も楽しみ、お茶漬けを食べる。

千鶴さんと悠聖1歳の誕生日の予定を調整するが、仕事なので、勢和多気でのお祝いは短時間での訪問となりそうです。

本当は鳥羽水族館に連れて行ってあげる話もあったけど、まあ、千鶴さんたちで楽しんできてくれたら、いいかな、笑

のんびり煙草吸って、ぐだぐだしていたら、千鶴さんが『女性自身』に載っている、座禅の記事を「これだけ、あんたにやるわ」と言って見せてくれました。



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東京にある禅寺の住職さんのお話。

「不安や心配を捨てるために座禅をするのですが、それは、何かを得ることではないのです」

これは、完璧回答じゃないか。


やっぱり、きちんと戒律を守って修行してきた禅僧の人は違うよなあと思います。

大峰山の千日回峰行をされた僧侶の方の話も感動したけど、知識が、身になっているんですよね。

それで、普通の生活の中で、楽しんでいるのですね。

一生懸命、生きることを、臨機応変に、固定化されずに、人を大切にして過ごしている。

頭でっかちではないですね、苦笑


僧侶に限らずとも日本の文化には「助け合い」というものがある。

お陰様という言葉もあり、和をもって尊しとすという聖徳太子の名言もある。

大和とは、大きな和の国という意味だろうか。

ほんらい、とてつもなく生活に染み込んだ優しさを持っている。


しかし時代は厳しいので、その流れも、欲にまみれた戦争という悲劇の洗礼を受けながら、一方では着々と受け伝えられてきたに違いない。

もともと「自然なる神」を体感するのが当たり前の文化である。

正月に神社の森を拝むことが延々と太古から繰り返されている、素晴らしい、無私の文化を持っているのが日本人ではないか。

日本人は自己主張が苦手であるというのは、エゴがないからです。

西洋文化がもたらした「人間中心主義」は、人々の間を切り裂いてしまった。


まあ、昔から綺麗ごとだけで済んできたわけではないけれど、根底に『自然の詩』を楽しむ精神が日本人には浸透していると思う。


『もののあはれ』という無常観と自然林を愛でる生命観が、大和という史上最強の精神文化を育んできたのだ。

元々、日本人は文字の文化をもたなかったらしいし、言葉の音を非常に大切にしていたらしい。

言霊は、この精神文化の中に、様々な個性を大調和させる、つまり『大和』という国家を作るのに『概念』や『固定化された文字』に拘らない姿勢を表すだろう。


日本人は「改善」が得意だと言われるが、この改善の中には脈々と流れくる古代からのオリジナルな精神性が、こめられているのである。

神道・仏教・キリスト教・人間中心主義・資本主義・民主主義・心霊主義等々の形を持つ思想や、またそのほかの文化、文明に対して、調和の心を、もつのである。

これは人を大切にしているからである。

正に、神の慈悲を、生活の中で実践してきた仏集団こそ、日本ではないか!

大きな流れで見れば、このように素晴らしい文化は、インド、中国、日本の古代には存在していたに違いない。


もちろん餓鬼の氾濫は常にあったわけだが、この『もののあはれ』を知る我々は、常に、この世界において、あらゆるできごとの無常観と生命観を心に持っている。

大いなる流れの中で、ひとり、ひとりが、夢のような日々を送っているのだ。


人も逝く、我も逝く、人生、夢のまた夢。


全て善し!

頭の裂け落ちること

2014-09-17 14:48:35 | 日記
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こんちには。

柔らかで優しい精気を体いっぱいに満たしている皆様!


本日は12時半ごろに起床して座禅1時間は無事に終了したよ。

ずーっと悪想念さんが、がんばっています、苦笑

どうにかしようという思考のがんばり、ジタバタが、落ちたときに、リアルな体と心が見えてきます。

透き通った感覚です。

チャンネルが違うヴァイヴレーションに切り替わったからですね。



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このヴァイヴレーションの中にいることを忘れてしまうので、様々な、ゴミが、心に満載になってしまうようです。


解放と言う言葉は、手放すことです。

何を手放すかというとエゴ君です。

エゴ君とは何かと言うと、コントロール思考です。

欲望と理性が対立して、この理性の側が、肉体を統制しているわけですが、これは、感情の抑圧にも繋がっているのです。

そうして、あれがいい、あれが悪い。

判断が働いてきますが、思考は、常に『正義』の位置にいるのです(笑い)


この生きている世界に、リアルに委ねていくときに、溶け出すのだ。

心の葛藤は必要ない。

3つの中枢のバランスが、欠けているのは、魂、思考、感情、肉体の、各能力が、分断されているからである。

この分断を、魂→思考→感情→肉体という間にある物質を生み出すことで、解消して、魂の意志を生きようとするのが、グルジェフワークである。

そして、魂→思考間の物質とは理性であり、思考→感情間の物資は精気であり、感情→肉体間の物質は注意力・集中力である。

これらのエネルギーは頭部・肉体・感情体を統一的に調和させて、魂の、意志を現実世界に繁栄させるのであるが、その際に、抵抗が生まれる。

この抵抗に、感情中枢が乱れて、これを乗り越えるために、理性と精気と、注意・集中力の全てが要求されるというわけだ。


しかしながら、このひとつ、ひとつの物質を獲得、理解して、ワークの方法で、修繕するのは不可能であるか、もしくは、1生涯でも足りなくなるくらいに時間がひつようであると考える。


なにしろ人間は『忘れてしまう』生き物だから・・・・・・。

毎日、師と共に、生活をしていた人なら、可能であったのかもしれないが、このワークは外的形態を必ずや、必要とするのである。

現代日本で、これが、実現する環境は、僅かしかないだろうし、この、真の、偉大なる、知識の断片は、打ち捨てられる方法として機能するしか、ないだろう。

一時期、役に立つのだが、これは、捨てられなければならない。

ワークは、その人にとって必要な目的のために、ある一定期間だけ存在するのである。



解放は手放すことである。

エゴのコントロールを手放して、ここにあることなのである。

そうして作為を捨てて、何かの目的も捨てて、ただ、ここに生きることである。

これ以上の至福があるだろうか。

求めることによって、我々は、ここを地獄に変えてしまったのだ。

地獄とは地球の獄舎のことではないか?

天の王国とは、意識の飛躍のことではないか?


体があって、心がある。

これを見失ってしまった、わたしたちが、そこに帰る。

これらを超えた、超越者は、いつもわたしを見ていて、滅ぶことは無い。

この超越者は、わたしではないが、わたしを見守っている。

魂である私は、そこへ帰っていく。


もはや、何も、問題ではない!

正しいものも、間違ったものも、この世界にはないのである。

何が起ころうとも、ここは、夢の国なのだ。

それ以外に、世界はないのである。

頭が、心と体を忘れて、この世界の神秘も忘れて、自分が、どこからやってきて、どこへ帰っていくのかも忘れてしまったのだ。


なぜなら、お父さんも、お母さんも知らなかったからだ。

見つけたものがあったなら、そこに、開いていかなくてはならない。

これは、疑いなく、飛翔なのだ。


ヴァイブレーションの違いを生むのは、思考の状態である。

この思考中枢が、変容することによって、落ちることによって、無為になることによって、すべてが見える状態へと移行するのだ。

それは判断を超えた世界である。

私たちは、ただ見て、感じているのだ。

この世界、あの世界、の、どこにもいないのだ。

ただ考えること、求めること、努力することを捨てて、いま、この場で目覚める!


思考の「すること」ではないのだ!!!!

これは神の身元へと還ることであって、それは、エゴには達成不可能なのだ。

なにをしても、やれることは、ここに、ある、柔らかな存在に、戻ることである。

戻ることとは、やめることである。

探していている、到達しようとしている、その、あなた自身が消えることなのだ。


どこかへ行くのではなく、ここで、即座に、手放すことだけ、融合するだけ。

問題があるのは、頭の中、だけなのだ!

我々は、完全に、救われているのに、居場所を間違えているのである。

居場所はハートであり、このハートは、神のハートのことである。


繋がることが全てだ。

繋がるためには、何もしてはならない。

何もしていないと心と体が、復活してくるのである。

美しい景観に、心奪われるように、わたしを思い出すのである。

わたしを思い出すのだ。

懐かしい、温かい、存在としての、至福の我は、永遠の至福と共に在るのだが、この我は、頭の中の想念ではないのである!!!!

わたしを勘違いしてしまっているのだ。

その勘違いしてしまっている私は、永遠ではなく、必ず、滅び去る。

わたしは、わたしではないのだ。


どのような言葉をもってしても、この、思考を超えた次元にはたどり着けない。

落ちなければならないのである。

常に、心と体を見失わない核心が、到達した証拠である。

目が見えるようになり、感じられるようになり、心が癒されるようになる。


これは、努力なしで『居る』ことなのだ。

未熟な僕の本質

2014-09-16 11:44:22 | 日記
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こんにちは!

世界創造と世界維持に関する哲学をもっている皆様!


本日は7時半ごろに起きて、座禅1時間を無事に終えました。

そのあとで『グルジェフ弟子たちに語る』の読書を何章か楽しみ、千鶴さんの焼いた、バタートーストをいただきました。

悠聖は、庭で、介護施設の迎えを待つ父と戯れていた。


ブログを書こうとしたら、珍しく、コメントをいただけたので、じっくりと読んで返信をしていました。

非常に興味深い内容!



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というわけで、僕の考えていることを、もう一度、整理したいと思います。

まず、我々は連想(悪想念)の中で生きています。

この連想というのは知性中枢が、感情中枢から湧き上がってきたデータを回転させることで、空想世界を楽しむことです。

主に、今日明日の問題や、過去の痛みなどを思い出しては、再演していますね。

ここに世界や他者というものが、登場して、刺激を、あなたに与えます。

すると、その瞬間、あなたは対応をするのですが、このとき、知性・感情は分離しており、外側と内側が別々である我々は、教え込まれてきた人格によって、反応するか、生まれ持った本質をもって反応するかになります。

その『苦しみから形成された』人格のパターンが、だれこれ用に形成されています。

父親にはこれ、会社ではこれ、彼女にはこれ、ブログではこれ、レストランではこれ、などなど、数え切れないくらいに分裂した演技する人格を生きているのです。

そうなると内部では矛盾した自己がいくつも生まれます。

昨日は、ああいったけど、こっちではこうと嘘を付かざるを得なくなります。


このようにして複数の自分(人格)に対応している間に、ひとつの本質(生まれ持った自分)は様々に考察しますが、もはや、見ることは苦しみでしかないので、見て見ぬ振りをはじめます。

最初は意識的に無視(スルー)していたのですが、そのうちに、スルーしていることすら忘れてしまいました。

そして、なんと、最後には、見ていることすら、感じていることすら忘れてしまったのです!!!!


これが現代文明に生きる最先端のスタイリッシュな、人類様ですね。

もちろん、僕も、このような状態ですので、ここから逃れようと、座禅してみたり、考察してみたり、読書してみたりしているわけです。

また働いているときも、沈黙を保とうとしたり、瞑想的であろうとしたり、禅定を維持しようとしてみたり、その他、様々に、この機械性から逃れようとするわけです。


しかし、できません!

そこで、様々に考えてみた結果、これは感情中枢の問題であると思っているのです。

知性中枢が理解していることを、感情、肉体の各中枢は興味が無くて、理解できないようなのです。

そして本質(如来)は、この感情中枢を通して働くために、いくら知性が管理しようとしても無理なのです。

ここが落ちたときに、出現する本質の側が成長しなければならないのです!


しかし、この低次感情中枢は、生きてこなかったために、社会生活に参加していなかったために、凄まじく未熟です。

まるで5歳児レベルの対応しかできませんので、社会の中で、この本質が開花した状態を生きるのは不可能だと思われます。

そうなると、人格の助けを借りて、本質が成長していくしかないとなります。


本質は理解しようという欲求を持たないといけませんが、この理解しようという欲求が、すぐには起こりません。

赤ん坊のように未熟な本質が、成長するのを、知性の側が面倒を見て、励ましてあげなくてはならないのですが、これが、本当に難しい。

感情は一時的に知性で抑制することはできますが、そんなものは、全く、役に立ちませんので、解放した状態で、成長していかないといけない。

この成長のことを、常に無欲が貪欲を制するように働きかけることとアシアタシーマッシュが語ってしますが、これは、直接、感情中枢で起こらなければ意味が無いのです。


そうしないと生きてはいるが、何も、成長していないまま、いつかは、苦しみの中で朽ち果ててしまわないといけなくなります。

無我の境地に達するには、欲望を捨てよと、釈迦が言ったのではありますが、この無所有の境地に立つのは、知識ではなく、実際の心であり、これを理解するのが智慧である。

実質的な縁起の理解が智慧なのであって、これは、生の体験からしか出てきません。

生の体験をするには、ここで、感情が直接、変化していく環境を作らなくてはならないのです。


実は、沈黙というか、瞑想的であるときに、全部見えています。

思考も感情も動作も、すべて、高次思考中枢には見えているのですが、それを見なかったことにしているのです。

今、現在も、すべての働きが把握されているのですが、感情の不調和が原因で、その本来の力を発揮できずにいるのです。

そうして現実の指令。

つまりは、肉体に対する刺激に、反応するだけのロボットと化してしまったのです。


他の人は、はっきりと知りませんが、僕は、こうなっています。

ここを突破することが、可能であることは、間違いないのですが、ただ、その明確な方法が未だに分からないのですね。

瞬時の覚醒はだれにも起こりえますが、この、本来の本質の生を生きていくことは、それよりも、格段に難しいことなのであります。

眼が覚めてからでないと死ぬことはできないが、暫時の目覚めでは、嘘と恐怖に打ち勝つには弱すぎるのだ。

この『存在すること』を維持すること、ただ、在ることに到着するように、不快感に耐えながらも、じわじわと少しずつでも、向かっていかないといけない。


もしかして、どこかに理解が、凄い人がいたりするのかもしれないなあ?

と、今日は珍しく考えた。

世界は広いしねw

引き寄せの原理

2014-09-15 08:08:02 | 日記
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おはようございます。

天空と地上を繋ぐヴァイブレーションの中に自己を開放した皆様!


本日は、昨日から起きている豊田です。

中途半端に寝たり起きたりしていましたが、7時ごろから座禅1時間は無事に終えることができました。

もう少しで、変化が出てくる2ヶ月に到達するので、ここでやめるわけにはいきません。

心の悪想念は知性がいくら注意しても、意味が無いことが分かりました。

知性中枢と感情中枢は、まったくの別物で、関連しあっているとはいえ、独自の欲求と、独自の興味を持っているようです。



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悪想念が生まれているのは知性中枢ではなく、感情中枢のほうです。

ここに、普段の小さな思いが種のようにばら撒かれて、それが、いつしか現実に形となって現れてくるのですね。

僕は自分の不純さは、心にこそあることに気がついた。

この不純さを取り除くには、知性ではなく、感情が、直接、学ばなくてはならない。


『ザ・シークレット』のヒットで引き寄せの法則が有名になったので、思いは実現するという言葉を、皆さん、アチコチで聞かれる、または読まれたりしていると思います。

僕は連想の中で、凄まじく色んな欲望を妄想してきましたが、そんなものは全く実現してきませんでしたので、この説には懐疑的でありましたが、なぜか効果がある場合もあったりして混乱していました。

その本当の意味を、思いというのは、心の中の状態のことであると確信しました。

もちろん、あの書籍にも、感謝することが最大の引き寄せであるといったことが書かれていたようにも思いますが、どうもイメージが、引き寄せるという印象が強く、感情的な事柄には理解ができていなかったようです。

心で思っていることと頭で空想していることに距離がある人は、現実の中での実効性が、かなり低い生き方をしているのではないかと想像します。

僕が、そのとおりだったので、たぶん、当たっている。


空想のイメージの中、つまり、連想器官においては、心の欲求に従って、様々な映像が流れていきますが、これに対して、感情中枢が、否定的になっているのです。

この否定的になっている原因は、罪悪感です。

それで、この、罪悪感が、欲求と反してイメージを打ち消します。

例えば、お金持ちになろうとする人、いい女をゲットしようとする人が、そのイメージをするたびに、欲求に反して、それを否定的感情で捉えているということですね。

悪いことをしていると、心が思っていると、それは実現しても、悪いように実現していくことになるだろうと想像されます。


『原因と結果の法則』が、この世界を作っているわけですので、原因に悪想念があれば、必ず悪い結果になるわけですので、これは、僕の経験からは間違いないと思います。

環境が人を作るので、原因とは、現在自己意識の置かれた環境ですね。

この環境は、いる場所、仕事、家族等々でもありますが、もっと直接的には、自分の心の中身の問題です。

普段の心の底で、何を望んでいるか?

これが、とてつもなく重要で、普通は自分の欲求にフタをしているので、その欲求の大きさに気がついていません。


で、この欲求の質が、人生の計画図なのです!

とっても小さなことですよ。

普段、何気なく、満たされたい思いを投影していることです。

こうなったら満たされるのにな、とか、ああ、あれがしたい、これがしたいと反応的にやっている心の動きが、実は、とんでもなく自分を縛っている。

これは頭が考えていることではないのです!


重要なので繰り返してみますが、頭は自分のやっている正しいことにしか興味が無く、心は自分の欲求にしか興味が無いのです。

そして、この心の欲求は知性の欲求に反しています。

その心の欲求が体の欲求と、よりリンクしているからなのです。

体は、食欲、性欲、睡眠欲があり、心は、愛情欲求が満たされたいと思っていますが、これも、また相反している事実に、心は気がついていません。


グルジェフさんの例え話に、狼と羊とキャベツを川の向こうに運ぶにはどうするかというのがありました。

狼は肉体で、羊は感情、キャベツは知性を代表しています。

そして人間は霊魂です。

狼は羊を食べようとするし、羊はキャベツを食べます。

人間は全てを食べることができますが、自制することもできます。


川の向こうに渡すには、2度わたることと、注意して見守ることが大事だと思われます。

狼とキャベツをまず、川の向こうにわたし、その間、自分が食べてしまわないように忍耐しなければなりません。

更に、今度は自分だけ、もう一度、川を戻り、羊を乗せて、渡る。

狼とキャベツが肉体と知性を現すとすると、人間が知性中枢を使って、肉体の動作、本能、性の各中枢を覚醒させたあとで、もう一度、今度は感情中枢を覚醒させなければならないということになる。


この話は、非常に重要だと思われます。

現在自己意識は、知性中枢を自己だと思い込み、この知性中枢が、肉体と感情の反応を管理することができると思っていますが、実際は何もできていません。

反応するロボットが現状です。

しかし、この知性中枢は、動作と姿勢を見ることができます。

そういう役割を果たすときに、自己は感情の奥にある魂が揺さぶられて、目覚めてきます。

ここで、この魂の側が、知性中枢から独立権をもってこなくてはならないのです。

そうして初めて、感情中枢の悪想念が、知性中枢の連想器官を乗っ取っている事象に対して、魂の側の意志が働くようになり、為すことができるようになります。


この為すことは、感情中枢の変化のことを指しているのです!!!!


日々現れてくる、欲望と憂い、怒りと高慢が、小さなことから沸き起こってきていて、この小さな気持ちの累積が、大きな現実を創造している。

魂の潜在的傾向とは、この心の、本質のことを言っているのでしょう。


思いが実現するとは、文字通りの思いが現実に表れるという意味だったのです。

こうなったら皆さん!

例え、小さな日々の欲求であっても、ぜったいに悪想念をもっては不幸です。

悪想念が罪悪感を心に引き起こし、この思いは、必ず現実化してしまうのですよ!

ぶったまげますね。


ですから、僕は、何をやっても、向上しないのは、心の奥底の、思いが、知性の欲求とずれまくっているからなのです。

人格はワークに興味があるが、本質はそうではないか、また、その逆かはっきりしませんが、ずれていることは間違いありません。

おそらく、見過ごしている出来事の中に、とんでもない宝がある。


いろんな出来事に、心の動き、体の動き、頭の動きに気づいているのに、見過ごしている、その部分を変えなければ、環境は変わらないということだ。


我々は非常に正確に、見ているのに『スルー』しているのである。

これは知性が知っていることを感情や肉体が理解していないことが原因である。

教えてあげなければならない。

もしも、心が、ほんとうに心底、小さなことから思い続けていれば、何事も、実現する可能性があるのだと思う。

非常に危険であり、有益でもあるので、これを実践しない手は無い!