豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

神秘に開くのである

2016-01-24 12:03:54 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんにちは。

本日は9時ごろに起床しました。

ホントは4時ごろに起きるつもりだったのが、見事に熟睡してしまった、笑

昨夜はYくんが遊びに来てくれたので、みんなでゴビアンで食事して楽しめた。

昼間は会社でお世話になった人の送別会だったし、賑やかでいい日だったのだが、疲れていたようだ。

洗面はせずに、いきなり座禅です。

悠聖が最初だけ絡んで、抱き着いたり、ツンツンしていたが、飽きて何処かへ行った。



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淡々と座っていたのだが、どうもアラームが鳴らない、笑

いらんこと考えているから今日は時間が経つのが長く感じるのだろうなあと思っていた。

が、隣室から流れてくるラピュタの物語の進展がだいぶ進んでいる。

千鶴さんが「まだ座ってるの」みたいに来たので、目を開けたら1時間以上たっていた、笑

タイマーのセットをせずに座っていたようだ。

いつもの如く、空想の世界に入りまくっていて、自分の行動を忘れていたのだろう。


で、座禅を終えると読書です。

悠聖はラピュタを未だに見ていて、千鶴さんは途中で浅尾美和の出ている番組を見ていた。

鈴鹿のケーキ屋さんが紹介されていて「知ってる?」と聞かれたが、知らない。

煙草を吸ったり、コーヒーを飲んだりもする。

悠聖は、僕の後をつけてきて、灰皿持ってきたり、玄関を掃いたり、コーヒーカップを渡したりしてくれるww

もちろんタイミングなんて関係なくやっているのだが「偉いなあ」と褒める。

千鶴さんがバタートーストを2枚焼いてくれたので悠聖といただきます。


本の内容は、永劫回帰についてですね。

要するに、僕が1977年に生まれて、もし、うまく長生きして2058年まで生きたとする。

すると死んだ瞬間か、後に成ってかは諸説あるが、また同じ1977年に、同じ両親のもとに生まれてくるのだ。

何もかもが全く同じで、内的傾向だけが、変わっていく。

俄かには信じがたい話ですが、ウスペンスキーは大まじめで、この可能性について、また輪廻について語る。

もしも、僕が、この同じ人生を生きていたのなら、デジャブも簡単に説明が付くが、そうなると、何もかも一切の行為と感情が、こうなるとおりになっていることになり、非常に気に食わない!

昔から、運命論は大嫌いなのだ。

運命に沿ってすべてがあるというのなら、人間の進化も幻想に他ならない。


で、読書を終えると、着替えを済ませて、ブログの更新へ来たのでした。


さてさて心と宗教のテーマですね。

この宗教と言うのは圧倒的な感情的体験を伴っています。

何というのか、屋久島を登っていた人が、幻想的な雰囲気に飲まれて「ここからわたしは生まれてきた」と感じたという話を、その昔に聞いたことがありますが、そのように、自己がファンタジーの世界に開かれていき、自然、もしくは象徴が、言葉に出来ない感情を、開かせるのである。

それはまるで宇宙に投げ出されて、体が、その宇宙に拡張していくような感覚である。

自己の壁が、取り払われて、生き生きとした顕な感情が復活してくるのである。

それは、普段の喜怒哀楽の感情とは明らかに違う種類―神秘的な―状態である。

その、開かれる可能性は、見解の、観念の、強烈さの度合いによって、異なる。

子供や女性のように、感情が開かれやすいタイプの人たちは、より容易に感情が変性して、日常的に神秘とファンタジーを感得できる。

しかし、この場合『理性』は非常に弱いことがある。

直観的に、この感情体験の向こうにある『真我』もしくは『おおいなる何か』と接触する可能性は、大人の男性の方が圧倒的に可能性があると思われます。

ここには2段階があるのですね。

自己が世界に開かれる体験と、その次の、世界が、大いなる何かに吸収される体験です。

この後者の体験が、あって、初めて苦の幻が、分かるわけです。


ですから日常の中に全てがあるからと言って、普通の生活をしている人が、普通の意識の中で悟っていると言う意味ではありません。

最初から救われているが、そのことには気が付いていないのです。

それが全世界に開かれることで、また自己が手放されることで齎されるので宗教が必要なわけですね。


この体験は、非常に素晴らしい心理的な状態を作り出すので、人間の根本を揺さぶることは疑いありません。

同時に、自分の体験したものは、どのような書籍に書いてあることとも同じであると理解できます。

また、様々な宗教の書籍に目を通す際に、それが、ずれているか、真理をついているか、即座に分かるようになります。

疑いは残りません。

だれかに確認してもらう必要はないのです。


ただ、自分自身が問題なのであり、それを解決するのは、自己を解放することなのです。

何から解放するか?

『見解』であるのですが、それは別の言い方をすれば、物事の見方です。

普段のわたしたちは、自己を含めずに対象だけを見ているのです。

だから、この角度を自己も含めてみることで、ダブル視点の中心が生まれますね。

その中心は『見ている私』です。

その見ている私は、頭の斜め上か、首の後ろか、どちらかで感じられます。

その見ている意識が自我の正体なのです。

それを消すには、目の前の世界と自己を同時に見ながら、それに受動的であることが必要です。

それは禅定と言われている状態で、見る事、聞く事、等々が、それだけである状態なのです。


そうしておいて、そこに、不意に現れてくる、空想と否定的感情を切り離していく。

それらは自己の本体ではないのだ。

自己の様々な機能から解放されてくるに従って、この世界の神秘を体験する確率があがるが、最終的には『絶望』が契機に成る。

自己が忘れられる契機は、他にも可能性があるかもしれないが、僕の場合『絶望』であった。


とにかく、これらの宗教体験は、社会の全員が学ぶべきである。

戦争が2度と起こらない世界である核心が齎されるのは、宗教の教えの中にしかない。

つまり教育の中にしかないのである。


では!

千鶴さんが急かすので、椿大社へ参拝に行ってまいりまーす。

ばいばい。