豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

『空』とは何ですか?

2016-01-16 10:02:41 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。



おはようございます。

本日は、6時20分ごろに起きてきました。

千鶴さんと悠聖は、まだ眠っている。

洗面をのんびりとして座禅を40分します。

座禅始める頃に千鶴さんが起きてくる。

両足を組むのは痛いけど、できるだけ上の方にしないと崩れるので最初だけ我慢。

なぜか、しばらくすると痛くなくなり、外すときに激痛がするのだ。



《いつも応援クリック、ありがとうございます!》
哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へにほんブログ村



座っていると千鶴さんが「気を抜かない! 曲がってるよ。もうちょい右」というので姿勢を正す、笑

「そう、そこ」と言って、何処かへ行った。

背中が曲がっているのは意識していたが、右側へ直す必要があるのは分かっていなかった。

どうも左へ普段傾いていて、気が付いていないようだ。

右へ傾けて、まっすぐの状態だと、自分の意識では曲がっている感じがする。

ということは、やはり誰かに見てもらわないと、正しい姿勢は、自分の感覚に頼っては無理なのだろう。

まあ、この後、千鶴さんが朝のニュースを見だして、注意が引かれまくったので、協力されたのか妨害されたのかよくわからないww

座禅を終えると読書です。

食事を途中で採ったり、悠聖が起きてきたので相手していたら、全然、進まない。

タージ、マハールだっけ?

の章。

まあ、自分が飲み込まれる表現をしていますね。

って、これは僕が、いつも書いているリアルが自分に躍り込んでくると一緒のことなのだが……。

なぜか、僕の文章には、平凡極まりない響きがあるなあww

まあ才能が違いすぎるので、仕方ありませんが、神秘というのは、日常にあるのですが、気が付いていないだけです。


読書中に、玄関脇で煙草を吸って、コーヒーを飲んでいる。

悠聖が絡んでいて、千鶴さんは洗濯物を干している。

僕は悠聖に『あっかんべー』をジェスチャー付きで教えていたら、千鶴さんがタオルで思いっきり頭叩いた!

それが目に入って激怒ww

それから、読書を終えて、家に入ると暴れまわる千鶴大先生。

おもちゃのブロックやタオル、服、などが宙を駆け回るのと、ガチャンガチャンと床に当たる壮麗なるメロディーを楽しんだのであった、笑


ああ、同じ玄関脇で、もう少し早い時間には「亀山は寒いからね」と僕が、そんな感じの話していたら千鶴さんが「千昌夫」と言った瞬間に、カラスがカァカァと鳴いて、二人で大笑いしたのが、遠い記憶にww

まあ、今は落ち着いて、隣で母親と羊羹を食べている様子です。

悠聖は母親の作ったバナナと100%蜜柑ジュースを飲んでいたようだ。


で、煙草を吸って、ブログ更新へ来たのでした。

悠聖が、絵本読んで欲しそうだったので『はなさかじいさん』を読んであげたが、途中で飽きて、どっか行った。


さて心と宗教のテーマです。

日常にあるものはすべて当たり前と思っているので、僕たちは、なんの感嘆もそこに感じなくなっています。

ところが子供たちは、同じような遊びを何度しても、笑っている、楽しんでいる。

違いは、記憶の問題だと思われます。

あるお寺の超偉人である人に聞いた話では『空』というのは、ですね。

僕は聞いたのです。

「空とは何ですか?」

すると、その超偉人である老齢のお坊さんは、お茶の湯飲みを手に取り、僕の目の前に差し出しました。

「空っていうのはね、よく見てよ」と言って、湯飲み茶碗をアピールします。

老師「ここに確かにあるよね。湯飲み茶碗がある。でも、こうしたらどうだ」

と、言われて、湯飲み茶碗をさっと自分の衣の後ろへ隠しました。

老師「目にはもう映っていない。でも、あると思うのは、それが認識、我だよね。そこにあるじゃないかと思っている」

「あなただって、ここでこう話しているから、確かにいるのだけれど、話が終わって別れたらいないじゃない」


つまり、空というのは、日常のありよう、そのままということですよね、笑

別に『空』という特別な状態であったり、意識があるわけではない。

しかし、この現実の諸行無常を真に感じる時に、自己意識が解き放たれて、未知の無限世界が現前してくる。

それが悟りなのだ!


ありとあらゆるものの希少さ、儚さ、そして奇蹟を感じるのは、このリアル世界の中にあるのである。

宇宙、そして、人間の世界は、人間の意識なんか全く及びもつかないほどの無数の縁に紡がれて、次々に消滅を繰り返している。

そこの世界に自己が投入された時、つまり手放しされた時、流れのままに、流れた時に、解放がある。

それは、また戻るが、また帰るのだ。


抵抗は常にある。

しかし、また、それをジャンプ台にして飛んでいける。

日常生活の中で開放感を感じる瞬間と、悟りの瞬間は、程度の違いがあるだけで、同じである。

ただ、その開放が、思考、感情、動作のすべてを圧倒しているのが、完璧であるが故に、自己の見解が全く入らなくなったのが、悟り。


リアルが、自分に躍り込んでくるのだ。

まるでジェットコースターに乗っている時のように、また、夜空の星々の荘厳さに、心奪われて恍惚となっている時のようになる。

だから、感情が開かれるのだ。

金持ちが天の王国に入るのが、難しいのは、自分が開かれないからである。


これは、この小さな自己が、本来の自己、つまり究極の実在に目覚める話なのである。


ところが、この大げさな話は、日常の中にあるのだ。

自分自身でいることに寛いでいることで、これが達成されるのである。

だから、その単純な世界に『純粋で在る』ことだ。

天真爛漫な精神がなければ知りえないとクリシュナムルティは言ったが、そのとおりだ。

無邪気さ、清廉さ、なんというか、そう『平静なる心構え』が必要なのである。


まあ、今日はこの辺で!

皆様、幸せな休日をお過ごしください。