豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

自分自身に帰ることをあなたは求めている

2016-01-15 07:29:07 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。



おはようございます。

本日は4時20分ごろに起きてきました。

寒い。

洗面を済ませて座禅40分をします。

普段の無意識さは際立っている。

自分のことをほとんと覚えていないと言っても差し支えないくらいだ。

座禅を終えると読書です。



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コーヒーを入れて玄関わきでタバコも吸う。

この辺りで千鶴さんが起きてきたので会話する。

枝豆スナックを食べた。

何か面白い話をたくさんしていたのだが、完全に忘れてしまった、笑

麦茶を作るために湯を沸かす。

千鶴さんが沸騰したらお茶をいれてくれるというパターン。

あとは僕が絡むので嫌がっていた。

『新しい宇宙像』は奇蹟を求めての章。

スフィンクスとサファイアの眼をした仏像。

眼差しが、自己ではない遠くを見ているのはグルジェフさんと共通しますね。

読書を終えると着替えを済ませて、お茶漬けを食べます。

千鶴さんにお弁当をお願いして、煙草を吸って、ブログの更新へ来たのでした。


さて心と宗教のテーマです。

えーっとですね。

みんなが求めているのは幸せであることでしょう。

だいたい、まあ、この幸せには条件があって、うまいものを食べるとか、愛されるとか、認められるとかが必要になっています。

ところが、この愛されるとか認められることは稀ですね。

まあ、お互いが幻想を見て、愛したり、憎んだりしているのですから当然です。

で、もっともっと努力したら、認められるかもしれないとか考えているのです。

ところが、この認めるのは他者ではなく、自分自身しか無理なのです。

自分自身が、問題ないとなれば、それが自信であり、他者が何を言うかではないのであります。

それだと我がままだと思われますが、そうでもないと思いますよ。

だいたいですね。

今まで生きてきて、褒められたときというのは、相手が非常に寛大な人か、相手が何らかの利益をそこから得る時だけです。

基本的には、人間は、緊張した関係の中で生きている。

その緊張の根本には、恐怖心があるのです。

なぜ恐怖心が生まれたのかと言えば、今までに不用心でいたら痛い目にあってきたからですね。

それでオッサン、オバチャンになると『現実を見ろ』と連発しますwwww


しかし現実(リアル)には明確な心情はありませんよね。

リアルの世界は、ただ動いていくだけで、掴まるものは何もありません。

だから現実を見たら、何も確かなものはないと分かるわけです。

しかし、この『現実を見ろ』と発している人たちは、もうひとつの言葉を持っています。

それが『自分の立場が分かっているのか?』という言葉ですwwwww

よく聞きませんか?

このような発言をする人たちが想定しているのは、現実ではなく、私の都合ですね。

私のことをもっと考えてください、尊重してください、愛してくださいと訴えているわけです。

なぜ、そうなっているのかと言うと、その人が自分自身のことを考えてないし、尊重してないし、愛していないからなのですね。


だいたい人が怒って相手に訴えていることは、その人が欠けていることです。

例えば、僕が、冷たいなあと怒っているとすると、自分自身が『冷たい』人間なのです。

もしくは、あの人は『理解力』がないなあと怒っていたとすると、自分自身が『理解力』がないのです。

すべてのことに、これが当てはまります。

じーっと見てみてください。

自分が相手を卑下する場合は、それは、相手に、自分自身の欠点を見ているだけなのです。


なぜそのようになるかというと、感情というものも、徹底的に自分の中で形成されているからです。

相手とのつながりは、自分とのつながりなのです。

そこに本来、外も内もなく、事実も想像もない。

それを考えると幸せになるには、どうしたらいいのか?

なんと外側の環境を変えたり、お金稼ぎに努力したり、お洒落に血道を上げなくてもいいのです、笑


自分自身が変わればいいのですよ!

単純です。

そして、その変わる方法も、超、単純です。

『自分自身でいることに寛いで』いればいいのです。

そうして怒りが湧いて来たら、流れていきます。

欲望が湧いて来たら、流れていきます。

迷いが出てきたら、流れていきます。

不快感は、自分を内省するチャンスです。

不快感が出てきたら、それは、自分の問題点を明らかにしてくれているのです。

それを受け入れる余地は、寛いでいることでしか齎されません。


ちょっと自分を離れてみて、冷静に、見てみる。

そうしておいて、怒りが出たら、それが、自分自身に怒っていると知る。

欲望が出てきたら、それが自分自身を変える事だと知る。

迷いが出てきたら、それは見解を、観念を見ているのだと知る。

このようにして、自分から離れていきます。


結局、仏道というのは、自分自身を生きることなのであり、何の奇蹟も魔術もありません。

ただ、その結果である安らぎが、人々に、そのような裏をイメージさせたにすぎないのです。

私たちの本体は、この世界に満ちています。

解放が解放を呼ぶ、これぞ真理の言葉だとグルジェフさんは言います。


ほいでは!