こんにちは。
今回はストラトフォード・アポン・エイヴォンの最終回。
シェークスピアの妻アン・ハサウェイの実家を見学に行きます。
妻の実家が観光スポット!?と驚く人が多いのですけど、この街では、シェークスピアの生家や
妻の実家だけではなくて、彼の長女が結婚して住んだ家も彼の孫娘が住んでいた家も、彼の母親
の実家もすべて現存しており、それぞれがシェークスピア関連の観光スポットになっていました。
一族郎党でお出迎え頂く感じです。
それと言うのも、皆15世紀16世紀の家ですので、古民家としての稀少価値があるのでした。
妻のアン・ハサウェイの実家は裕福な豪農で、シェークスピアの生家から1.6kmほど離れた
街外れのショッタリー村にありました。
↓下は、そのアンの実家の農家です。
惚れ惚れするようなたっぷりとしたカヤ葺屋根の、なかなか素敵な農家でした。
15世紀に建てられ、アンの兄の代になって(16世紀に)更に増築されたということです。
↓反対側からも。当時は木材が高価でしたので、このように壁に木を組み込んで建ててある家は
富の象徴だったそうです。
↓農家らしくお庭がとても広いですし、野菜畑や果樹園、森の小道、四季折々の歌壇なども楽し
める好評の観光スポット。中世の農家なんて、なかなか見る機会はありませんので。
↓お庭からの入口。材木はだいぶボロボロですけど、15世紀からよく持ちこたえたものです。
↓ダイニング・キッチン。民家にしてはデラックスな暖炉でした。
暖炉で煮炊きをし、壁に造り付けた窯であのようにパンを焼いていたそうです。
シェークスピアの生家もそうでしたけど、一階の床は全部石造りで二階から上は板の床でした。
床の石材も凝っていますしテーブルの脚もみな彫刻入りですのでインテリアに気を使っています。
↓台所。壁の黒い木材は外壁に出ています。
秤もあります。パン生地をこのテーブルでこねていたような。
↓家事部屋。水道も無い時代ですので大きな水樽が置いてあります。
天上から鳥が首を吊るされていますので、家畜の肉などもここでさばいたのかもしれません。
どれも道具が大きいので、使用人なども沢山いる大所帯だったようです。
この家は、ハサウェイ家の子孫がずっと住んでいたのですが、1892年に「シェークスピア・
バースプレイス・トラスト」という保存協会が家具ごと全部買い取って当時を再現したそうです。
家具や調度品も15、16世紀のものが無事に残っていたそうで、貴重品です。
この協会がシェークスピアの生家(バースプレイス)なども保存管理しており、シェークスピア
観光事業を熱心に展開してきたのです。
もちろん、生家もこの家も見学は有料でした。
下の3枚の写真は繋がっていて、一部屋の写真。ここは応接間のようです。
テーブルの上のティーセットは15、6世紀に西洋に磁器はありませんでしたので、飾りとして
置いているのでしょう。壁に並んだお皿は、拡大して見てみますと図柄が中国の物のようです。
↓上の写真に続いた廊下と階段。
↓ここから下の写真は二階になります。
窓も高価な物でした。当時は窓税というのがあって、窓に税金が課せられていたそうです。
アン・ハサウェイは、1582年にシェークスピアと結婚するまでこの家に住んでいました。
結婚したのはシェークスピアが18歳、アンが26歳の時。8歳年上の妻でした。
子供ができてしまったので大急ぎで結婚したということです。
その後シェークスピアは妻と子供たちを故郷に残して単身ロンドンに移り、亡くなる3年前に
ロンドンを引き上げてストラトフォードに戻ってきて、家族の傍で晩年を過ごしました。
一階は暖炉があり、生活の場。二階は寝室ばかりのようで。それに暖炉も見かけませんでした。
↓下のベッドは文献のシェークスピアの遺言の中に書かれているベッドだそうで、彼が妻のアンに
渡した遺品。「アン・ハサウェイには二番目に上等なベッドを譲る」と書いてあったそうです。
劇作品の原稿のことなどは一切書かれていなかったということです。
↑当時の民間家具の工芸は現在と変わらないくらいのレベルですね。
↓この家が観光地になった時、記念に設置された柳のモニュメント。
↓お庭の中にカフェがあり、折しも雨が降り出して傘を差してお茶している人たち。
コーヒーの中に雨が入らないのかしら。
正面に見えるのは、さっきのアン・ハサウェイの実家です。
以上でストラトフォード・アポン・エイヴォンを終わります。