ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」

2014-06-16 23:52:02 | 絵画

 

  

  こんにちは お元気でしょうか。

   

  今年の一月に長年の念願がかなって、イタリアのミラノに「最後の晩餐」を見に行っ

  てきました。

  旅行から帰ってすぐにブログに書いたのですけど、その時は他の話題もありました

  ので詳しくはお話しできなくて心残りでした。

  もう一度改めてレポートしたいと思います。

 

  この絵は、中学校の美術の教科書にも載っていましたので、ご存知のかたも多い

  ことでしょう。

  イエス・キリストが処刑される直前に、12人の弟子たちとともに最後の会食をした

  情景を描いた作品で、世界で最も有名な絵画の一つ。

  ルネサンス時代の1494年~1498年、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた傑作です。  

  絵といっても、ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会に付属している修道院の

  食堂の壁一面に描かれた壁画なのです。

 

  ↓下の写真は、そのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会。

  世界中からやってきた人々が、絵を見る予約時間がくるのを待っているところです。

   

  ↑教会に接続した左側のベージュ色の壁の建物が、壁画への入場口。

 

  下はその拡大です。

  下のほうの柵の中には「最後の晩餐」のレプリカが飾られていました。  

  時間が近くなりますと、ピンクの垂れ幕の下の入口を入って控室で静かに待ちます。

       

 

  ↓その入場券。8ユーロ―ですので約1120円。この良心的な価格には驚きます。

  たとえこの10倍でもチケットはすぐに売り切れるでしょうに。

  1999年の大修復後、何かと脚光を浴びてブームになり、観覧希望者が激増しま

  した。満員御礼状態になって、一時は旅行社でさえチケットは取れなかったのです。

  最近はブームも落ち着き、だいぶ取りやすくなっているようです。

 

  チケットによって写真がイエスだったり他の弟子たちだったり。わたしのチケットに

  は、謎の女性として論議を呼んでいるMが。名刺より一回り小さいサイズです。

  振り向いている手前の男が裏切った弟子のユダで、真ん中の手を出している男性

  が弟子のペテロ。教会関係者はこの女性像を弟子のヨハネ(若い男性)だと主張

  しているそうです。

         

    

  観覧は完全予約時間制になっていまして、一回につき25人、しかも15分間という

  時間制限付きでした。

  15分経つと「退場してください」(たぶんそんな意味)という事務的な女声のアナウ

  ンスが流れ、退場しますと、待機していた次の25人が入ってくるといった具合です。  

  食堂の中は薄暗くて、壁画の前には近付けないようにロープが張ってありました。

  壁一面の「最後の晩餐」の大作がぼんやりとした光に照らし出されており、まるで

  感動的な舞台の劇を見るようです。

 

  撮影禁止でしたので、下はレプリカを写したもので、色彩がやや違うのですけど。

  イエスが、「この中にわたしの居所を密告した者がいる」と言った直後の場面。

  騒然となり、とげとげしく詮索する弟子たち。

  その動きがまるで生き生きとしたストップモーションのように描かれていて、一秒経

  ったらまた全員が動き出すような迫力のある描写です。

  

  密告したユダは報奨金の袋を握ってイエスのほうを振り向いている左から5人目。

  随所に置かれている青い色が何とも言えない寂しさを感じる洗いざらしのような

  ブルーで、イエスの虚ろな悲しさ、その心理を素晴らしく代弁しているように思え

  ました。

  イエスはこの後、磔の刑に。

 

       

 

  西洋では、壁画や天井画はふつう、永続的に保存できるフレスコ画の技法で描か

  れたそうですが、ダ・ヴィンチはフレスコ画のいろんな制約を嫌って、テンペラ画法

  でこの作品を描きました。

  フレスコ画では一度漆喰(しっくい)を塗り、それが乾ききるまでの8時間以内に絵

  を描き上げなくてはならず、使える色彩は限られているうえに、重ね塗りや描き直

  しもできないなどのおよそ絵の創作には向かない制約がありました。

  ところがテンペラ画のほうは自由に制作できる代わりに、温度の変化や湿気に弱

  くて壁画には向いていないという欠点があるそうです。

 

  ダ・ヴィンチは、一応湿気対策をほどこした上でテンペラ画法で描いたのですけど、

  ところが食堂という場所柄、湯気などが立ち湿度や温度の変化も大きくて、湿気対

  策は役に立たず、20年後には絵は浸食され顔料が剥離しシミの塊ができました。

 

  それ以来この壁画の受難の歴史が始まりました。

  嘘のようなほんとうのお話なのですけど。

  世界の絵画の中で、これほど悲惨な目にあった絵はないでしょう。

  知れば知るほど、この名画の受難とイエス・キリストの受難の生涯がオーバー

  ラップしてきて、その奇妙な類似に、まるでイエスが受けた迫害がこの絵の運命

  に転写されたかのように思えてくるのでした。

    

  作品が描かれてから500年の間に幾度となく修復が行われてきたのですが、

  16世紀から19世紀にかけての修復は技術自体も修復者のレベルも低かった

  ためにさらに悪化するような、修復という名の破壊が行われました。

  たとえば、画面の剥離を防ぐためにニカワや樹脂を上から塗ったのですけど、かえ

  ってそれが埃やススを吸い寄せて黒ずんでゆき、通気性が悪くなったために画面

  に湿気がたまりカビを発生させて、そのニカワや樹脂がオリジナルの絵具と一緒

  に剥離し、絵はかえって破壊されるといった具合でした。

 

  また、18世紀には修復補筆と称して剥離した部分に色を塗ったり、顔を描き換え

  たり、おまけに描かれていないものを描き足したり。

  もはやダ・ヴィンチの表現したかったものが何であったのかも分からなくなってゆき。

  その上19世紀には、壁画自体を壁から剥がそうとした修復者がいて、失敗し、

  壁面に大きな亀裂が入りました。

 

  それだけではありません、17世紀には絵の下の部分の中央あたりに、この食堂と

  台所の間を出入りできるように扉を作るために、絵の一部分を切り取ってしまった

  のです。

  上の写真の下に四角を描いて隠してある部分が扉の上部の跡です。

  絵は床から2メートル上に描かれています。

 

  また18世紀末、ナポレオンに侵略され支配されていた時代に、食堂は馬小屋とし

  て使われており、動物の呼気や排泄物のガスなどで劣悪環境になり浸食はさらに

  進みます。

  しかもこの間、ミラノは2度大洪水に見舞われ、壁画全体が水浸しになりました。

  そして、ナポレオン軍の兵士たちが壁画に石を投げつけて遊んでいたという記録

  も残っているそうです。

 

  レオナルド・ダ・ヴィンチは当時から著名な画家であり、ロシアの女帝エカテリーナ

  2世などはエルミタール美術館にダ・ヴィンチの絵を飾りたくて、必死に探し求めて

  いたほどでした。

  何故そのダ・ヴィンチの作品がここまで粗末にされて、酷い目にあってきたのか。

  ダ・ヴィンチの絵だとは思われていなかったからです。

  シミが出て劣化していたので、のちの16世紀にはダ・ヴィンチのオリジナルとは分

  からず、ダ・ヴィンチが描いた壁画は消失して、もうこの世には無いと考えられてい

  たということです。

  彼らにとっては質素な食堂に描かれた巷の壁画でしかなかったのでした。

  もし、ダ・ヴィンチの作品ということが分かっていれば、もっと手厚く保存されていた

  でしょうに。 

  これがトリックでした。

  

  イエス・キリストが自分を迫害する者たちのことを「神よ、この者たちを許したまえ。

  知らざればなり(真実を何も知らないからなのです)」と祈ったという言葉を思い出し、

  まるでそれが、この壁画のイエス・キリスト像の言葉のようにさえ思えました。

  両者が妙にダブってきて不思議な気分に。  

  わたしはキリスト教信者ではありませんし、傍観者として感じたことを卒直にお話し

  しているに過ぎません。

   

  受難の最後の極めつけは、第二次大戦でした。

  ミラノは連合軍の空爆を受けます。

  サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会も爆撃を受け、食堂も半壊状態になりました。

  ところが間一髪で壁画には当たらず、奇跡的に助かったのです。

  修道士が爆撃がくることを心配し、壁画の前に足場を組み土嚢を積み上げて保護

  していましたので、破壊の破片などでダメージを受けることもありませんでした。

  たとえ保護があっても、直撃されていればアウトですけど。

 

      

  

  その半壊状態の食堂の写真が、待機する控室の壁に展示されていました。

  屋根や壁が半分叩き壊されたように無残に崩れ落ちています。  

  偶然の幸運にしては出来過ぎており、何かの見えざる力が爆撃者の気持ちに働き

  かけて的を外させ救ったのではないかとさえ思えました。

  それでもなお、3年間は食堂に屋根が無く、風雨にさらされないように土嚢が積み

  残されていたものの、壁画はこの期間にも激しい損傷を受けました。

 

  こんなにひどい目に遭ってきた絵画があったでしょうか。

  この500年間よく生き残っていた・・と感嘆するばかりです。

  建築物がどこかの時代で改築された(ましてや食堂ですから)などということはよく

  あることですけど、ルネサンスの時代からずっとそれもなかったというのも驚きです。

  

  というわけで、壁画にはダ・ヴィンチのオリジナルの部分がどの程度残っているの

  か、20世紀の後半まで不明だったということです。

  1977年から、現代の高度な修復技術を駆使した本格的な修復作業が始まり、

  20年かかって、1999年の5月に修復が完成しました。

  ということは、わたしたちが中学校の教科書で見た「最後の晩餐」は一体何だった

  のでしょう・・?ということになります。(笑)

 

  修復作業は、ピニン・ブランビッラという修復家(女性)が一人で行ったそうです。

  高度な洗浄作業によって表面の汚れや、上から塗り重ねられてきた顔料の除去

  を続け、また修復し、科学的な検証からも、ダ・ヴィンチのほぼオリジナルに近い

  「最後の晩餐」が復元されたと言われています。

  イエス・キリストの復活伝説のように、ようやく作品も復活できたのでした。

  そのためには500年という歳月を待ち、科学の進歩を待つしかありませんでした。   

  それでもなお、元の色が分からないほどに剥げ落ちていて修復のしようのない、

  壁の地が出たままの箇所があるそうです。

  将来もっと科学が進歩すればその部分の色も復元できる日がくるかもしれません。

 

  ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に描かれているイエス・キリストは、宗教的な立派な

  偶像として描かれているのではなく、泣きもすれば笑いもし、怒ることもある一人の

  男性として描かれていました。

  自分を無にして愛を伝えることに徹したイエスという人は、意識は人間のはるか先

  を行くほどに進化していたにもかかわらず人間として生きることに、常に限界を痛感

  していたのではないか、そんな苦悩さえも感じられました。

  イエスという人はきっとこういう人だったのだろうと思え、初めてイエス・キリストと

  いう人に会えたような気がしました。

   

           

  ↑上の写真は、教会の中庭です。控室にゆく途中に撮ることができました。

  バシリカ形式の身廊(正面)と、円筒形に近いアプス。ルネサンス時代の建築です。

  このサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会と「最後の晩餐」を所蔵するドメニコ会修道

  院の食堂は、世界遺産に登録されています。

         

  最後にミラノ、スカラ座前の広場に立っていたレオナルド・ダ・ヴィンチ像です。

  ご存知のように「最後の晩餐」のほかに、「モナ・リザ」、「岩窟の聖母」、「受胎告知」

  など、多くの名画が遺っています。

       

 

  「最後の晩餐」につきましては、もう一つ大きな、謎の話題があります。

  それまでイエスの右隣りには若い弟子のヨハネ(男性の顔)が描かれていたので

  すけど、今回の修復で洗浄してみますと、その下から女性としか見えない像が浮

  かび上がったのでした。

  その人物は一体誰なのか。ダ・ヴィンチは男を描いたのか女を描いたのか。

  2003年に推理小説「ダ・ヴィンチ・コード」にそれはマグダラのマリアだという謎解

  きが書かれ、ヴァチカンも巻き込んだ世界的なセンセーションを起こしました。

  その「最後の晩餐」の謎のことも、また機会を見つけてお伝えできれば、と思って

  います。

 

                            

     

 

    

  

  

 

 

      


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