こんにちは
旅行をしていますと、たまに、思いがけずラッキーな経験をすることがあります。
今年イタリア旅行でヴァチカンに行った時、サン・ピエトロ大聖堂で思いがけず、目も冴えるよう
な奇抜な制服を着た衛兵を見ることができました。
↓下の写真がその衛兵です。
全身、足の先まで縦縞。何という斬新さでしょうか。しかも古典的なフォーム。
まるでルネサンスの時代から抜け出してきた人たちのようではありませんか。
目が釘付けになり、しばらく足を止めてその姿を鑑賞させて頂きました。
イタリアの有名デザイナーがデザインしたのかもしれない、などと旅友と話したことです。
この場所は大聖堂のエントランスの一つです。
ここで少し大聖堂のことに触れますと。
↓下は、そのサン・ピエトロ大聖堂。ご存知のように世界のカトリック教会の総本山です。
キリストの弟子、聖ペテロが逆さ十字架に架けられて処刑され埋められた場所にこのサン・ピエ
トロ大聖堂が建てられました。ピエトロはペテロのことです。
人間がアリのように小さく見えることでも、この大聖堂の大きさが想像できます。
↑上のファサード(正面外観)の両サイドはアーチ型の通路になっていて、通路の前にもあの制服の
衛兵が立っていました。
聖堂の入口を入りますと、まず長い玄関廊があり五つの扉が並んでいます。礼拝堂には五つの身廊
があり、それに対応して扉も五つありました。
とにかく何もかもが桁違い。世界一の大金持ち寺院というのが率直な感想です。
↓先ほどもお話ししましたように、ファサードの両サイドにあるアーチ型の通路は大聖堂の裏庭に
通じており、通路の前に衛兵が直立不動で警備していました。
↓かっこいいですね。
制服のことが知りたくて帰ってから調べますと、まず、彼らはイタリア人ではなくてスイス人
の衛兵隊でした。
年齢は19歳から30歳まで。厳しい年齢制限ですね。110名ほどいます。
スイス人衛兵隊は、16世紀にローマ教皇の護衛に雇われて以来500年以上続いているそうです。
そして気になる制服のことも分かりました。
なんと、彫刻家のあのミケランジェロがデザインしたというのが最も有力な説だそうです。
これは驚きでした。でも、なんとなく腑に落ちるような気がします。
しかも、あの奇抜な青、赤、黄の三色はイタリアのメディチ家のカラーなのだそうです。
メディチ家はフィレンツェのあるトスカーナ地方の領主で、フィレンツェで興ったルネサンスの芸術
家たちのスポンサーになり、長くサポートをしてきた一族。ミケランジェロもその芸術家の一人です。
というわけで、あの制服は16世紀以来続いてきた歴史のある制服なのでした。
何故イタリア人ではなくて、スイス人がわざわざやってきて教皇を護衛してきたのでしょうか。
スイスという国はずっと貧しかったので、青年たちは外国の軍隊に雇われて糧を得てきました。
傭兵です。そのため戦場ではスイス人同士が殺し合いをしなければならなかった史実も山ほど。
スイス兵は強靭という定評があり、最初はそれで雇われたそうです。
ところが1527年、神聖ローマ帝国のドイツ系のカール5世がローマ教皇クレメンス7世を攻撃
してきた時に、ドイツ側の傭兵だったスイス兵や教皇側のスイス兵が団結し大勢が自ら犠牲になって
教皇を守りました。
教皇は、ローマの城壁の上を走る「パセット」という狭い通路を通ってサン・タン・ジェロ城に逃げ
込んで無事でした。
それ以来スイスの傭兵は信頼を得、何世紀もローマ教皇の護衛を務めてきたということです。
軽い興味で調べ始めたのですけど、想像以上に長くて深い衛兵の歴史でした。
Yahoo画像に、素人には撮れないような素晴らしい俯瞰画像がありましたのでお借りしました。
↓下は、サン・ピエトロ大聖堂とサン・ピエトロ広場。右手には重要な建物が寄り合っています。
ミケランジェロが設計した大聖堂の巨大なクーポラ(ドーム屋根)は、なんとも優しい風情の、
安心できるような、気持ちの良い丸みの、母なるクーポラでした。
↑上の写真の大聖堂の右後方に、民家のような切妻屋根の茶色の小さな細長い建物が見えますけど、
ミケランジェロが描いた「最後の審判」があるシスティーナ礼拝堂です。
教皇を選出するコンクラーベもシスティーナ礼拝堂で行われます。
右手の真ん中辺にある、大きな四角の建物(屋根に何か載っている)がローマ教皇の住居である
サン・ピエトロ宮殿。
ヴァチカン市国はローマの中にある世界一面積の小さな国。
高い市壁で囲まれており、面積は0.44㎢。日本の皇居の半分以下です。
人口は約800人で、そのほとんどが聖職者とスイス人衛兵で構成されているそうです。
↓下の写真は、オバマ大統領(中央)がバチカンを訪問した時に警備したスイス人衛兵。
Yahoo画像より
↓下は衛兵交代。先ほどの写真にあったアーチ型の通路の前です。