11/22 ガラーンとしている…

残念ながら非情の店休日

格子の向こうに「準備中」
柱の右に「店休日」の貼り紙
火曜日は休みだそうです。
「すべっても転んでも四海楼の前でチャンポン一杯食わなきゃ腰しゃ立たぬ」と大正時代の民謡で歌われた四海楼のちゃんぽんですが、店休日ではどうにもなりません。
ちゃんぽん屋は他にもあるのですが、どうしても四海楼のが食べたくて出直すことにしました。
満を持して12/8
さあ今日こそはと勇んで行ったら

大きく「満席」の看板

四海楼の1階はお土産屋さん、2階はちゃんぽんミュージアム、3・4階は予約専用の個室、そして5階がレストランとなっています。
レストラン入り口にも

なにか拒絶されているような気持ちになりましたが、めげずに待つことにしました。
待つこと15分、注文してからさらに10分。
待ちに待った「ちゃんぽん」

ていねいに作ってあるなと感じられる一杯、具のイカなども新鮮でさすがの味でした。
レストランは建物の5階にあるだけあって展望は抜群

大きな窓に長崎の港や稲佐山の大パノラマが広がっています。
四海楼にこだわったのは、ここがちゃんぽん発祥の店ということもありますが、私が興味をもって調べている歌人吉井勇と縁がある店だからです。
吉井勇も四海楼を2回訪れていますが、そのことが2階のちゃんぽんミュージアムに記録として残っていました。
吉井が四海楼を訪れたのは大正8年と昭和11年ですが、その頃の四海楼は新地広馬場にありました。
今の松が枝町に移ったのは昭和48年のことです。
ちゃんぽんミュージアム(四海楼2階)

吉井が訪れた頃の四海楼の写真も展示してありました。

年表

吉井勇の名前も

年表には「大正8年 吉井勇来崎、茂吉と一緒に四海楼へ来店」とあります。
吉井にとっては2回目の長崎でしたが、以前から交流のあった斎藤茂吉に連れていってもらい、そこで茂吉が熱を上げていた玉姫(創業者の娘)とも会っています。
当時は、茂吉と玉姫の仲をスキャンダル風に書き立てた新聞もありました。
さらに、年表には「昭和11年7月 吉井勇 四海楼へ再来店」とあります。
このときも吉井は玉姫と会い、東京に戻った茂吉を話題にして手紙を茂吉に出しています。色あせた新聞にそのことが書いてありました。

右側の茶色になった方がそれです。吉井の箇所を活字に直します。
「後年吉井勇が長崎に旅して四海楼を訪れた際、長崎名物のハタ(凧)の模型に玉姫と二人して寄せ書きを茂吉に郵送したが茂吉は老いの頬を明るくほころばせたとのこと。」
(注:記事には「玉姫と二人して」と書いてありますが、実際は吉井勇、陳玉姫、原郊月の3人で寄せ書きをしている)
この昭和11年の来崎でのことを吉井は「筑紫雑記 長崎」(「相聞居随筆」)の中で、「変わっていないと思った長崎にもやはり推移の跡があって、丸山の郭にも花月の名なく、四海楼の玉姫も既に老いた」と嘆いています。
しかし、吉井は晩年になっても四海楼や玉姫のことは記憶に残り続けていたようです。
昭和34年、吉井は次の歌を詠んでいます。
四海楼の玉姫のことを思ひ出でて恋ならなくに涙もよほす
昭和34年は吉井が亡くなる前の年で,最後に玉姫に会ってから23年後のことです。