咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

渋江交差点付近にあった馬車と鉄道の駅

2017年08月13日 | 日記
2017年07月27日ブログで私は大宮~岩槻間乗合馬車の大宮発着所は現在地図のここ(赤矢印)にあったのではないかと書いた。
その場所を明治35年の大宮町営業便覧で見るとこのようである。「岩槻行馬車発着所」と表示されている。
本日は岩槻に目を転じる。

昭和57年発行『大宮市史 第四巻 近代編』には “ 大宮~岩槻~粕壁道には、栄盛舎という馬車会社が営業していた ” との記述があるのだが、昭和59年発行『岩槻市史 民俗史料編』にはこのような記述がある。ここには栄盛舎の経営者は宮沢とめさんだとある。
明治35年の岩槻町営業便覧を見ると「大宮粕壁間馬車発着所 宮澤とめ」と表示されている。
この十字路現在の地図ここだと思う。渋江信号交差点。
岩槻町営業便覧では角から3軒目に馬車発着所がある。現在の③あたりになるのではないかと思う。

大正6年岩槻市街図にはそのあたりに「馬車発着所」の表示があり、そこの春日部側に鉄道が描かれている。
これは大正13年に蓮田~岩槻間で開業した武州鉄道だと思う。この地図の作成は開業前である。
開業後の昭和4年頃の地図に武州鉄道を赤で示す
馬車発着所の近くに岩槻本通駅がある。武州鉄道と岩槻馬車の乗換はここが便利だったと思う。
しかし、それは短い期間だったようである。
ウィキペディア武州鉄道によれば岩槻本通駅の開業は昭和3年9月であるが、『岩槻市史 民俗史料編』によれば、岩槻馬車は昭和4年に現在の東武野田線が開通するにいたって姿を消した。

昭和22年の空中写真に武州鉄道の跡と思われるラインが見える。そこを赤で示す
現在の地図にそのラインを描くとこんな感じになるのではないかと思う。
2016年01月06日ブログで私は武州鉄道の小径歩いた
その道を今の地図に緑で示す

岩槻本通駅の場所について『岩槻市史 民俗史料編』には “ 浄安寺門前を通り、国道16号線を越えた所に岩槻本通駅がある ” と記述されている。現在の地図に岩槻本通駅があったと思われるところを緑丸で示すとこのあたりではないかと思う。

ウィキペディア武州鉄道によれば、武州鉄道は昭和13年に全線が廃線となった。廃線に至った要因のひとつは昭和4年の総武鉄道(東武野田線の前身)の開通だったという。岩槻から東京に出る際、蓮田へ出るよりも大宮へ出る方が便利になった。
先ほどの昭和4年頃の地図には総武鉄道も描かれている。武州鉄道と日光御成道とは立体交差(緑丸)になっている。
現在地図のここである。

平成11年発行『さいたまの鉄道』所載の総武鉄道沿線案内を見ると岩槻町駅の前後に加倉駅と渋江駅がある。いずれも現在は存在しない。
渋江駅について、平成4年発行さきたま双書『埼玉ふるさと散歩(岩槻市)』にはこのように記述されている。
イラスト地図。
現在地図の赤丸のあたりだと思う。
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4 コメント

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奈良町の秋葉道 (菜々子)
2017-08-13 21:17:46
昨日 奈良町の秋葉道に行って来ました。右側に入る迂回路は 確かに勾配が少なく 自転車が楽に漕げました。上尾の戸崎には 観音像もあり 昔は人通りが多かったのかも知れません。
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秋葉道 (咲いた万歩)
2017-08-13 22:40:42
こんばんは。
秋葉神社に詣でたことはありますが、指扇駅からの道でした。
奈良町の秋葉道はまだ歩いたことがないので、秋葉神社の途中まででも一度歩いてみたいと思います。
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乗合馬車 (shige )
2017-08-13 23:41:02
万歩さんこんばんは。冷夏とはいえ夏の外歩きはかなり大変な事でしょう。どうぞ体調にはお気を付けくださいませ。

以前にコメントさせていただきましたが、橋上で気性の激しい車夫同士が互いに譲らずに川に転落事件も、どうやら今回ご教示頂いた岩槻市史の記述を見ますと、けっこうあった事件の様に思われます。

岩槻は城下としてかって早馬の名馬もたくさんいた様ですが、乗合馬車の時代ともなりますと、動力しての馬の方が重宝されていった様ですね。ただし、農耕馬などは力が強くても動きが鈍く、そんな鈍重な馬たちをそれなり動かすには、それなりの性格の車夫も必要とされていたのかもしれません。そんな荒くれ車夫たちを女性オーナーが仕切っていたのであれば、何やら数年前の朝ドラの様でありますが聞いた記憶がなく、まだまだ知らない地元の歴史はたくさんありそうです。
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乗合馬車の時代 (咲いた万歩)
2017-08-14 07:40:12
おはようございます。
岩槻市史に岩槻馬車は多い時で馬30頭位だったと書かれていますけど、いろんなタイプの馬がいて、馭者の仕事も大変だったのではないかと思います。
また、明治37年加倉地内新道で、明治41年下蛭田で転覆事故があったそうです。また場所は不明ですが、明治41年2月には馬車と汽車の衝突で馭者即死、乗客3名負傷という事故があったそうです。
この時代でも交通事故はそこそこあったようですね。
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