咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

大宮岩槻間馬車が運行した道

2017年07月27日 | 日記
昭和60年発行『大宮市史 別巻一 補遺年表』には
明治21年(1888) 大宮~岩槻~粕壁間道路開削
明治24年(1891) 大宮~岩槻間の乗合馬車運行開始
とある。
昭和57年発行『大宮市史 第四巻 近代編』には “ 大宮~岩槻~粕壁道には、栄盛舎という馬車会社が営業していた ” との記述がある。
大宮~岩槻~粕壁道は明治43年出版『大宮案内』大宮町全図この道(緑)で、「岩槻新道」と表示されていると思う。

大正5年発行地図で大宮~岩槻間を見る。
岩槻新道(大宮~岩槻~粕壁道)はこの道(赤)だと思う。
現在地図(ヤフー)で大宮~岩槻間を見る。
岩槻新道はこの道(赤)だと思う。大宮氷川参道から岩槻方面は埼玉県道2号(旧国道16号)とほとんど重なっていると思う。
重なっていないところが岩槻区の加倉にある。
大正5年地図の加倉付近を拡大し、岩槻新道を赤で示す
現在地図に岩槻新道を赤で示すとこのようになると思う。

さいたま市立博物館発行『鉄道の街さいたま』所載の大正十三年八月改正大宮駅列車時刻表を見る。
左下に大宮岩槻間馬車が載っている。岩槻ヨリ大宮行は14本、大宮ヨリ岩槻行は16本ある。
昭和59年発行『岩槻市史 民俗史料編』所載の明治32年当時の時間表を見ると、岩槻発大宮着は6本、大宮発岩槻着は7本である。明治32年(1899)から大正13年(1924)までの25年間で本数は2倍を超えた。
『大宮市史 第四巻 近代編』には、馬車会社(栄盛舎)が明治36年に馬車運賃の値下げを行ったことが書かれているのだが、背景には乗客の増加があったのかも知れない。

さらに大宮市史には “ 馬車の発着所は、大宮駅のすぐ近く川越新道(現・銀座通り)沿いにあった。岩槻馬車発着所は、現在のスズラン通り鈴蘭堂の所にあり、その中山道寄りには蹄鉄をうつ所があったという。またこのスズラン通りは馬車道とよばれ、ここを岩槻馬車が行き交いしたという ” と記述されている。
鈴蘭堂は2011年8月撮影の案内図の赤矢印のところにあった。
現在のここ(赤矢印)だと思う。
昭和55年大宮市発行『大宮のむかしといま』に掲載の明治35年の大宮町略図を見る。
岩槻馬車はこの道(赤)を運行したと思う。
現在の地図ではこのようになると思う。
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2 コメント

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岩槻大宮間 (shige)
2017-08-01 22:46:20
乗用馬車から乗り合い自動車(バス)になっても、それほど岩槻から大宮まで所要時間が変わらなかったらしいですが、野田線が出来た時にはその速さに驚いたという話があります。また、その乗り心地は武州鉄道には二度と乗れないというほど良かったと言います。

ところで、岩槻大宮間は戦後も複線工事が終わるまで、ほとんど所要時間は開業時と同じでした。開業時電車が車体だけ載せ換えて昭和50頃まで走っていたのですから、後から聞けば当然の様な話ですが。そんな野田線も、今では最新の電車が走り線名までもが変わってしまいました。時々、あの唸るような旧車のモーター音が懐かしく思い出されます。
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馬車と自動車 (咲いた万歩)
2017-08-02 07:23:25
おはようございます。
馬車と自動車の所要時間にあまり差がなかったというのは自動車の性能というより道路の問題でしょうね。
舗装された道路なら状況は全く異なっていたと思います。

東武アーバンパークラインは字数が多いので、私はあまり使いません。馴染んだ名前がいいです。
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