咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

江戸時代の図書でみる中山道大宮 3

2024年07月16日 | 日記
信州デジタルコモンズからタイトル「岐蘇路安見絵図」を検索してひらく。岐蘇路安見絵図の制作年は(西暦)1756年、(和暦)宝暦6年とある。
大宮の北方面(上尾側)を見る。左(北)から順に文字表示された村名に番号を付ける。4箇所になった。
ちなみにウィキペディア新編武蔵風土記稿で足立郡吉野領と大宮領をみるとこのような村々があった。
①は「加茂村」、②は「吉野村」、③は保留、④は「土手村」と書かれていると思うが、それぞれ新編武蔵風土記稿の①「加茂宮村」、②「吉野原村」、④「土手宿村」ではないかと思う。

中山道分間延絵図で土手宿村の北方面を見ていくと隣りは大成村で、その隣加茂宮村だと思う。
私は③で示した村は「北草村」と書かれていると思う。
ウィキペディア新編武蔵風土記稿の吉野領と大宮領に北草村はないが、大宮領大宮宿に「北原村」というのがある。
新編武蔵風土記稿の元禄年中改定図を見る。惣名大宮町が図で表示されている。その図をもとにして作成されたと思われる昭和52年発行秋山喜久夫著『中山道大宮宿』所載の元禄年中改定図よりを見る。
中山道の西側北の端に「大宮北原」がある。
新編武蔵風土記稿の土手宿村には村の四境のうち “ 北は大宮宿の内北原村の耕地に添へり ” との記述がある。
私は③で示した村は「北草村」と書かれていると思うが「北原村」ではないかと思う。

岐蘇路安見絵図には土手村の文字表示の横に「立バ」と書かれたところがある。立場(たてば)があったのだと思う。
筋向かいの文字表示は「東光寺」だと思う。
2015年10月中山道の反対側(東)から東光寺さんを見た。

境内に入って本堂を見た。
岐蘇路安見絵図に黄丸で示したところは「岩付道」かも知れない。
2020年05月10日ブログで私は中山道分間延絵図に緑で示した道を岩槻道とした。
黄丸で示したところが岩槻道(岩付道)だとしたら中山道からの分岐点はどこだろうか?
東光寺の北にそれらしきところがあり黄線で示す。しかし岩槻道の分岐点は東光寺の南である。黄線の南側を見ると家屋が途切れることなく並んでいる。
2021年10月、私は中山道を南へ向かい岩槻道を横断しながら左(岩槻方面)を見た。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする