宝暦七年(1755年)書上の「幼川之由来」に次の様な記録があるそうです。
文治5年(1189年)に源義経が藤原泰衡と戦って、奥州衣川の高館に死んだ時、義経の身辺にあって目覚ましく働いて討ち死にした鈴木三郎重家の一族が、重家を心配してはるばる紀州熊野の地から探してたまたま尾張の地に来た時に、重家討ち死にの話を詳しく聞いたそうです。
そこで、この地に家を造って持ってきた熊野大権現の御神宝を社殿を立てて祀ったといわれています。
また、若一王子のお守りをこの木の下に祀ったので、今に至るまで王子の名で呼ばれ、いつの時代までかは明らかではないですが、ここに小さな祠があったといわれています。
画像左側、桜並木がありませんね。
ここは竹林公園に整備されて、桜並木が無い状態になってます。
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文治5年(1189年)に源義経が藤原泰衡と戦って、奥州衣川の高館に死んだ時、義経の身辺にあって目覚ましく働いて討ち死にした鈴木三郎重家の一族が、重家を心配してはるばる紀州熊野の地から探してたまたま尾張の地に来た時に、重家討ち死にの話を詳しく聞いたそうです。
そこで、この地に家を造って持ってきた熊野大権現の御神宝を社殿を立てて祀ったといわれています。
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