社会を見る眼、考える眼

 新しいmakoworldブログを開設いたしました。SNS全盛時代ですが、愚直に互いの意見を掲げましょう。

「人間の覚悟」(五木寛之 著)を読んで」

2013-09-28 23:03:28 | 書評
「人間の覚悟」というタイトルよりも、「生きる覚悟」という方が、この本にピッタリである。
 「すべての国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」
 ボクは、大学1年の選択科目で、「憲法」を受講した。上記の憲法25条についても、講義を受け、テストにも出されたので、50年以上経っても覚えている。
 左翼的文化人や、共産党、旧社会党などは、この解釈を「国家は、国民に健康で文化的な最低限の生活を保障する」と、すり替えてきた。
 どんなにすり替えても、「すべての国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」の本当の意味は、国家は、国民の最低限の生活を邪魔しない、という意味である。
 国民の生活は国民各々が切り開いていく以外にないのである。
 この事を知らずして、長い間、国民は国家が保障してくれる生活を心待ちにしてきた。それを推進するかにみせた政党が存在していた。
 生きるということは、国家や他人から保証されて生きることではない。日本にも、赤字国債発行残高1000兆円を超えて、ようやく自ら生きることが、やっと身近になってきた。
 憲法解釈から、個々人の生き方までを、哲学、宗教、政治、経済などを網羅して、縦横無尽に論破していく。
 生きていく上で、健康・安心・安全などあり得ないのである。毎日、無事に過ごせることすら奇跡の連続である。いまの時代、健康志向が強く、TVCMを見ていても、健康食品、サプリメントのCMは、亀から、ウコン、シジミまで、これさえ摂取していれば、健康が維持できるような錯覚を覚えさせる。
 有名キャスターまでが、「朝の爽快感がシャキっとして、よし、今日も行くぞという気分になります」と、広言する。稼げるCMに本人は笑いが止まらない。
 健康ブームは、健康食品業界から、広告会社、メディア、タレントだけを儲けさせているのである。作家の五木は、こう看破している。「何か一つのことが体にいいという『一件落着主義』は、すべてウソだと思った方がよい」
 食事は、偏食なくまんべんなく食べることによって、自らの健康が維持される以外にないのである。亀やシジミだけで、健康が維持されるわけがないのである。まんべんなく、食べ物を取っていれば、まったく無駄なことをして、業者を儲けさせているだけである。
 経済や政治への過信も、まったく無駄になる可能性を秘めていることを知るべしである。経済万能主義=物資的幸福論も、いっときは満たされても、あくなき欲望に経済、物質が追い付かなくなるだけである。
 300万部という驚異的なベストセラーになった「大往生」(=永六輔 著、岩波新書)を読んでも、ひとりとして大往生に到達できない。日本人が賢いならば、そろそろ寄らば大樹の陰を辞めた方がよい。
 生きるということは、経済的に成功して、物質的に恵まれた生涯が、必ずしも幸せにならない。清貧に生きて、自分の生涯は満足だったと思う人がいるからである。
 生きることは、生き方を問われることではない。自分の人生を生き抜く力を問われるのである。生き抜くことが、生きることだと、ボクに教えたのは、唯一の師匠・山本茂美(代表作=ああ、野麦峠)だった。
 同じことを、この本で五木も言っている。賢者は、到達点が同じになるということか。

古代日本の多民族国家信州信濃の地名を探る

2013-09-01 23:33:13 | 論壇

「信州、地名の由来を歩く」を読んだ。信州出身者には外せない本である。著者は、筑波大学で民俗学者柳田国男の研究で博士号を取得した、歴とした歴史学者の谷川彰英。松本出身の歴史学者。同大学副学長を辞めて、本来の歴史学のノンフィクション作家として独立した。
 長野県人は、自己紹介でほとんど長野県出身と言わない。信州出身という。長野出身という者がいるとすれば、それは信州の長野市出身者である。
 長野冬季オリンピックでは、長野市界隈以外の長野県人は、ほとんど無関心だった。札幌オリンピックの方が関心が高かった。それほど信州人は、地域性が高く、自分の地域以外は別人種が住んでいると思っている。
 この本は、信州の地域性を地名で探っている。県歌「信濃の国」に出てくる松本・伊那・佐久・善光寺の地域性を古代にまで遡って検証しているのだが、アメリカの州のように、独立性の高い県民性の中身が地域ごとに明らかになって、現代人を古代までいざなう。
 まず、長野市のある善光寺平野の象徴である善光寺のルーツでは、善光寺の本尊阿弥陀三仏像は、日本の古代史に深く関与している。6世紀に日本への仏教は、朝鮮半島の百済からもたらされた。その時の百済王が聖明王、日本の天皇は欽明天皇だった。538年と552年説がある。欽明天皇は、聖明王から贈られた仏教経典と仏像を、仏教に関心の高い蘇我氏に預けた。
 蘇我氏は自宅にこの仏像を安置した。折悪しく、このとき日本に悪疫病が大流行し、多くの人が命を落とした。これを、仏教に反対する物部氏と中臣家が、仏像の祟りだと喧伝したため、蘇我氏はこの仏像を密かに浪速の堀江(=運河)に捨ててしまった。これを、信州人の本田善光が発見し、仏像が口を利き「信州まで運んでくれ」と哀願するので、三像を背中に背負って、信州・伊那の自宅に持ち帰って安置した。これが、現在の飯田市郊外の元善光寺である。元善光寺の三像は41年後に水内郡(みのちごおり=現長野市)に移され、善光寺が建立された。
 善光寺の本尊阿弥陀三仏像は、日本最古の仏像である。また、聖徳太子の17条憲法の、第1条.和を持って貴しとなすに続く、第2条.篤く三宝を敬え。三法とは仏法僧である。これにより、日本神道の外に仏教を採用し、神仏習合時代に入る。これは、明治政府の廃仏毀釈令まで、約1200年続いた。
 ここまでは、日本最古の公文書の歴史書「日本書紀」に書かれている。
 大阪には河内長野がある。この河内長野人が移住したところが現在の長野市だと言われている。ついでに、ボクの実家や先祖代々が住んでいるところは、南信州の伊那市である。この伊那人もまた員弁(いなべ)=伊那部であり、朝鮮から摂津(=現大阪)に渡来した員弁の末裔が、摂津国河辺郡為奈(いな)郷を形成したとされる。これは,現在の尼崎市東北部に相当する。
 ウッヒャーッ!!。ボクの生まれは大阪市此花区酉島町の住友金属此花寮である。戦後住金が復興して父が住んでいた単身赴任寮は尼崎市森51、住金園田寮である。河野家は日本史の6世紀と同じことをして、大阪と信州の接点をつくっている。
 歴史は面白い。諏訪は国譲り物語に出てくる出雲の神建御名方神(タケミナカタノカミ)が、大和の国の建御雷之男神(タケミカヅチノカミ)に力比べて破れて、出雲から信州の山奥に逃げ延びた場所である。諏訪大社の本尊は神建御名方神である。平安時代の延喜式神名帳によれば、諏訪大社は常陸の鹿島神宮、上総の香取神宮とともに東国の三軍神と明記されている。
 都会人に人気のある安曇野は、当地出身の作家臼井吉見の小説「安曇野」で有名になったが、歴史は古く7世紀に活躍した軍事外交家阿雲比羅夫(あずみ・ひらふ)一族の末裔が、北九州の本拠地だった志賀島から信州の山奥・安曇に逃げ込んだとされる。それは大和朝廷の百済再興のための任那(みまな)復興計画を、百済を倒した新羅に通報していたのが阿曇一族どいわれ(盤井の乱)、新羅のスパイとして朝廷から追われた一族が、海伝いに日本海を北上、糸井川沿いに安曇野に逃れたという説。阿曇一族は、阿雲、安曇、安住、渥美などと姓名を名乗り、安曇野だけでなしに全国に散らばっている。
 このほかに、上田の真田一族、諏訪の諏訪一族、伊那一族、木曽一族、須坂一族のルーツなど、信州・信濃の末裔にとって、垂涎の的のような歴史書である。もちろん、現代口語体表記だから、古代モノでもスラスラと読める。
 信州人で良かったとつくづく思った。暗記するまで読みたい。
            (ベスト新書/定価800円+税/KKベストセラーズ発行)

韓国の実像を知ろうとしないと、日本は滅びる。<「悪韓論」を読んで>

2013-08-03 16:06:31 | 論壇

2013年8月1日 15:11
写真は新潮新書「悪韓論」(=室谷克実 著)の表紙。


 驚愕した。韓国は大中華構想をモデルに、世界制覇を目指していることは知っていた。中韓は、習金平主席、パク・クネ大統領時代を迎えて、日本排斥同盟関係を結んだばかりだ。ところが、反日に関しては、韓国の方が筋金入りで、かつ執ようなのである。
 著者は、象牙の塔で資料ばかりを漁っている研究者ではない。時事通信社のソウル特派員として6年間、ソウル他韓国各地を自分の耳目で取材をしている。単なる、韓国嫌いではない。如何に韓国人が、世界の非常識人なのかを、これでもかと具体的な数字、エピソードを上げて列挙するものだから、途中で「こんな国は、世界に存在してはいけない」という気分になってしまう。ここまで自己本位で、いい加減な民族だとは、物知りのボクでも、知らなかった。「オーバーなこといいなさんな」「隣国をそんな風に見ることの方が、品性を問われる」「韓国人は、日本の植民地時代を恨んでいるのであり、日本人は反省すべきだ」「嫌韓になる日本人は狭量である」「日本人は、いまこそ韓国人を見習うべきだ」
 こういう人たちは、割合とワケ知りのインテリに多い。インテリというのは、日本の平和憲法を世界最高の憲法と認じて、世界遺産登録さえもくろんでいる。中でも、隣国の中韓とは、太古からの切っても切れない関係のある国だから、もっと日本人はおおらかな気持ちで接しないといけないとか、島の一つや二つくれてやってもいいではないかと、ワケ知りのリベラル顔で言い続ける。困った人種の日本人だ。
 そういう町内会的な日本人を応援団にして、韓国は、徹底的に日本を利用し、しゃぶりつくして、なお、今後もしゃぶりつくし続けたいために、竹島にワザと李明博前大統領が上陸してみせた。この路線に乗って大統領になったパクは、更に従軍慰安婦問題で日本を屈服させたら、次の標的をぶつけるつもりで、首相以下に研究課題を与えているという。永久に日本をしゃぶりつくしたいのである。
 韓国ドラマで、割合だましやすい日本の女性を取り込み、韓国旅行に誘い、コリアン料理や化粧品などを買わせるツアーに呼び込む。これを国策としてやっているのである。ドラマは国費の補助金で量産されている。ドラマに出る男女は。100%整形を受けている。一般国民も、全体で50%、20代と30代では75%が整形を受けているという。コリアン料理を食べて、コリアン化粧品を使っても綺麗になれなかったら、美容整形手術もあるという旅行コースも備えている。これが、韓国政府の国策としてやっているのである。
 そのお手伝いを、多くの日本メディアがしている。新聞よりもTVの韓国応援が凄い。NHK他すべての民放キー局が韓国ドラマをもう10年以上垂れ流している。電波でタダで宣伝させて、大量の韓国ドラマのDVDをレンタルビデオ店に並べているのである。本当に日本人って、ここまでバカになり切っているのである。唾棄する唾液ももったいないので、飲みこんでしまった。
 李王朝時代から続く凄まじい優越感からくる民族差別意識。これは、戦後日本から解放されて、一気に噴き出し、日本から戦争賠償金を受け取ったら、徹底的に反日教育に突き進んで行った。韓国に6年滞在したこの本の著者は、「韓国の良いところを探して歩いたが、物にも人にも何一つとして学ぶべきものはなかった」と、白昼堂々と言っているのである。ボクの論調は、この本の10分の1以下で、非常に甘っちょろいと思われるだろう。
 この本は、韓国嫌いだけが読むには、もったいなさ過ぎる。韓国大好き人間、隣人友愛主義の人、どんな国の人とも仲良く接しなけれないけないと思っている人たちにも、ぜひ読んでいただきたい本である。
 小泉首相(当時)ではないが、「感動した。この本は韓国人の腹の底まで見通している本だ」と言いたい。
 いつまでも、隣人に手玉にとられないためにもーー。

アベノミクスと右傾化を批判する人々

2013-07-09 19:33:24 | 論壇

 安倍内閣が順調に歩んでいる。実体経済がまだ改善されていないとか、一部の輸出産業だけが売り上げを為替差益で儲けているだけだとか、株価が上がっても庶民生活は一つも変わっていないとか、アベノミクスをネガティブに見る人たちは、当然ながらまったく評価していない。
 資本主義を否定する共産党はじめ、社民党、民主党内の旧社会党議員などは、アベノミクスを否定するのは当たり前である。資本主義すら否定する彼らが自由と資本主義を推進する自民党そのものを否定的な存在と捉えているからである。
 ところが、自由と民主主義を標榜し、その恩恵を一番受けているメディアやそれに参加する言論人の中に、アベノミクスを批判する者が多い。言論人の中には、編集記者はもとよりエコノミストや大学教授、各種研究機関の研究者などが含まれる。
 この人たちは、アベノミクスは風船玉みたいなもので、いずれ風船の中の空気は漏れたり、風船自体が破れてしまい、それでお仕舞いだという。民主党時代の株価が7000円前後だったのが倍近くなり、外貨を日本に呼び寄せ、資本主義の原点である投資とカネ回りが良くなって、いったいどこが悪いのだ。筆者は株もしなければ、あらゆるギャンブルにも縁がない。しかし、景気をよくし、日本経済を活性化させるには、投資とカネ回りをよくするのがイロハのイぐらい知っている。
 資本主義を否定したり、自由と民主主義を否定する層には、何も言うことはない。しかし自由を享受し、自らの生活もそれによって成り立っている人たちが、アベノミクスとTPPは、売国奴的政策だと言っている人たちの脳みそは、信州みそと取り替えた方がいい。日本の農業が危機的になろうが、いままで半世紀以上も税金で守られてきた方がおかしい。その間に中小企業が何十万社も淘汰されてきたのに、農業に対するようなサポートは何もなかった。農業でやっていけない農家は、退場すればいいだけである。一般企業と同じ競争原理に立ってもらえば良い。放棄された農地を新たに専門に請け負って、大規模農業や輸出力に活路を見い出す新型農業を移行するための法整備をすればよい。
 憲法改正にも触れなければならない。安倍内閣発足とともに安倍首相は、戦後レジュームからの脱却のために、憲法改正を勇気を持って唱えた。自国の憲法を普通の国家の憲法にしようとすると、左翼・知識階級を中心に「国家主義の復活だ」「戦争への先祖がえりだ」「弱肉強食の国家を目指す」など、滅茶苦茶な論理を展開し、「アメリカにいただいた憲法を、これからも大切にしていくべきだ」といってみたり、同じ思考回路の人たちは「沖縄の米軍は、ただちに撤退させろ」と声高に叫ぶ。本人たちは何を言っているのか、分かっているのだろうか。支離滅裂なのである。
「アメリカ製憲法は良いが、日本を守る米軍は日本にいてはいけない」
 これって、分裂症ではないのか。まるで宇宙人の鳩山由紀夫的ではないか。
 同様に「日本を取り戻す」と安倍総理が言うと、「右傾化だ、国粋主義の復活だ、戦争だ」とすぐに騒ぐ。中国と韓国の代弁を、国内のインテリたちが声高に叫ぶ。多分、裏で呼応しているのだろうと思う。安倍首相とどっちが売国奴か、小学生高学年でも分かる。
 何度も言うが左翼には、何を言って無駄だから、何も言わない。けれども、インテリクラスのオピニオンリーダーたちには言いたい。
 「いまの憲法で、竹島問題をどう解決するのか」「尖閣諸島の中国の領海侵犯問題をどう解決するのか」「拳骨のない憲法で、悪玉をどうやって処罰するのか」「国防の義務を制度として確立しないで、平和憲法のお題目だけで、尖閣諸島問題などの国際紛争を、どうやって解決するのか」「国家に平和憲法という飴だけを持たせて、周辺国家の人さらいや領土の強盗たちをどうやって退治させるのか」
 これらに対する現行憲法支持者たちの声は、「政治や官僚たちが、ちゃんと外交交渉しないからだ」「周辺国家を強盗国家や人さらい国家にしたのは、戦前の日本が軍事国家だったからだ」「何が起きようが、国家は素手でも国民を守る義務がある」「国家に拳骨など持たせず、拳骨以外のあらゆる手段で、日本と日本人を守らせる権利が国民にある」したがって「つべこべ言わずに、現行の平和憲法で日本及び日本人を政府に守らせるのだ」
 それで領土・領海がまったく守れていないにも関わらず、どうするのかには、まったく言及しない。こんな国民を政府は守る必要はないのではないか。国土を分割して、そういう平和・無抵抗主義者、権利至上主義者、義務放棄主義者と住み分けたいと思うのは、僕だけだろうか。
 これからは、「考え方で住み分けさせる国家経営」が必要になってきそうな気がする。


口語訳「武士道」(新渡戸稲造著、岬龍一郎訳、PHP版)を再読して

2013-05-31 11:53:49 | 論壇
今どき「武士道」など、時代錯誤も甚だしいと思っている人たちには、この本には縁がない。読書とは、もっとも手軽な見聞の旅に出ることである。
 「武士道とは、死ぬこととみつけたり」は、あまりにも有名な言葉。故に、一人歩きしてしまっている。鍋島藩の憲法ともいえる「葉隠」(山本常朝著)に、上記の一文が記されている。それ前に、武士の本分、庶民に対する心構え、武士は食わねど高楊枝の精神から、信義の精神、質素節約の精神に至るまで、武士の身だしなみと出処進退を説いたうえで「武士道は、国の一大事においても、自らの道をはずしたときにも、出処進退は死を以って償う」ことを説いているのである。したがって、この精神に違和感はないはずである。あるとすれば、主君に対して命を差し出すと言うところが、中世的と言われるのかもしれないが、お国ために命など差し出してたまるかと言う、現代日本人よりマシであるともいえる。
 武士道の伝統的な考えをまとめたのが、「葉隠」であることから、新渡戸稲造の「武士道」も、読んでいない人には、同類のものと受け取られやすい。新渡戸の書いた「武士道」は、西洋にも通じる武士の国日本人の生きかたから、考え方、身の処し方について、義勇仁礼誠名誉忠義などについて、西洋人にも理解できるように普遍化して書かれている。
 例えば、高き身分に伴う義務について、武士たちには「武士は食わねど高楊枝」を解説したり、庶民より贅沢な生活をしてはならぬと戒める。即ち武士の掟と言うものは、フランス語、英語のnoblesse oblige(ノーブレス・オブリージ=身分の高い者には、それなりの高い行動規範が伴う)とイコールなのだと、東洋の片隅の島国日本人が言うものだから、西洋人は目を剥いたであろう。本著がアメリカで出版されるや、セオドア・ルーズベルト大統領は、自費でまとめ買いして、親戚・友人・知人に贈っている。さらに、アメリカだけでとどまらず、イギリス、ドイツ、フランス、ポーランド、ノルウェー、中国でも出版されたのである。
 この本は、アメリカ人を妻に持つ新渡戸が、妻マリ―(日本名萬里子)の敬虔なキリスト教精神と語学力のサポートがあって、アメリカで「武士道」を、最初から英語で出版することが可能になった。
 更に、新渡戸自身の親や先祖が、武士の出身であったことに加えて、新渡戸は明治の札幌農学校に二期生で入学、クラーク博士の精神を間接的に学んでいる。即ち、クラーク博士の「イエスを信じる者の誓約」にサインしたばかりか、これがきっかけでプロテスタントになった。キリスト教の慈悲の精神と正義と武士道が酷似するところがあり、新渡戸自身が「武士道」を書くきっかけにもなっている。それがnoblesse obligeだったのである。
 明治中期から大正、昭和と活躍した新渡戸稲造の真骨頂は、日本人魂を世界に知らしめながら、国際親善、人間教育に生涯をかけて尽くしたことだった。新渡戸は「日本人最初の国際人」であったことが、「武士道」を書く背景に備わっていたのである。