昼休み辺りから膨れだした黒雲は、午後の授業が終わる頃には激しい雨を降らせていた。天気予報は見事に外れだったようで、クラスメイトが揃って眉をひそめている。最も、今日天気予報など見なかった私は、どちらにせよ傘なんて持ってきてないのだから同じだろうけど。
何だか今の私の気持ちみたい。そんなセンチメンタルな気持ちを打ち消すように、窓に背を向けた。
まことと喧嘩をした―否、まことを怒らせてしまった。
あれは夕べ、まことの家に泊まったときだ。何だか気分が乗らなくて、それでも前から約束をしていたから、と少し無理をしていたと言うのもあったのかもしれない。
そんな私をいつも通り優しく出迎えてくれたことで、無理をしている自分に少し嫌悪を感じた。元々いつまで経っても『お客』扱いなことに少しだけ寂寥感を感じてもいた。
そんな些細なことにいらいらして、つまらない軽口が、売り言葉に買い言葉になってしまった。
彼女の性格は知っているのに。誰にでも優しいし、お節介だ。それを知ってて好きになった筈なのに、向こうだってその上で私を選んでくれたのも分かってたのに―言ってしまった。彼女の気持ちを傷つけて、自分の尊厳さえ貶める言葉を。
『誰でもいいんじゃないの!?』
それを言ってしまった後のまことの表情を、忘れることが出来ない。結局気まずくなって、早朝逃げるように彼女の部屋を飛び出した。そしていつも通り学校には来たけれど、何一つ身に入らずそのまま放課後になってしまった。
彼女に謝らなければいけない。でも、どうすればいいのだろう。家に行く?あんなひどいことを言ってしまったのだ、取り合ってもらえないかもしれない。第一何と言えば?私を分かりやすく特別扱いしてとでも言うつもりか。
とめどない雨粒を見ながら虚ろに思う。そういえば彼女と初めてきちんと話したのも、こんな雨の日だった。
初めて会ったあの日からまことは見た目とは裏腹に穏やかで優しくて、誰よりも安心できた。二人で話そうと誘われても、過去の話をしても―他人なんて信用してなかったはずなのに、出会ったばかりの彼女は自然に私の中に入り込んできた。
それなのに今は会う度に不安に襲われ、会わなければ会わないで不安に襲われる。誰にでも優しいから好きになったのに、自分にだけ優しい彼女なんて彼女じゃないのに―本当に彼女にとって私は特別なのか。数あるうちの一つに過ぎないんじゃないか。理不尽な思いが堂々巡りとなって私の心を苛む。
いっそ私にだけ冷たければ、まだ特別だと思えたかもしれないのに。
「―野さん。火野さん?」
「・・・え・・・」
「ぼうっとしてらっしゃるけど・・・大丈夫?」
「あ、いえ、雨結構降ってるなぁと・・・ごめんなさい、大丈夫」
クラスメイトがそんな私に気付いたのか、少し眉を顰めた表情で声をかけてきた。まともに応対する気にもならなくて、適当な言葉と笑顔で濁す。そこで我に帰った私はぼんやりしてても仕方ないと鞄を手に取った。濡れて走ればいっそ心地よいかもしれない。
するとクラスメイトは再び私に、戸惑ったように言う。
「あの・・・火野さん、帰られるんですの?」
「ええ、ちょっと急ぎの用を思い出して・・・雨は別に・・・」
「いえ、その・・・雨じゃなくて、お聞きにならなかったんですか?何か、校門の前に、不良っぽい方がずっと立ってるって、低学年が怖がってるみたいで・・・お迎えにしては傘も予備持ってないし、通り過ぎる生徒を一人一人覗いてるって・・・何だか誰かを待ち伏せしてるみたいで気味が悪いって・・・」
がたん。そんな音が足もとから他人事のように聞こえた。椅子をひっくり返すように立ち上がった私は驚くクラスメイトもそのままに、教室から飛び出していた。
もしかして―でもまさか。そんな頭の中で問答を抱え、靴を履き替え濡れるのも構わず校舎から出て校門まで走る。そんな、何の確信もないのにこんな風に飛び出し靴に泥を跳ねさせる自分はばかみたいで、それなのに足は全く止まらなかった。
ぱしゃん。ずるり。
制服は水を吸い、水溜りは私の足を取る。僅かな距離が酷く遠い。門の影で生徒の顔をひとりひとり遠目に見つめている影が、確かに―
「・・・あ、やっと出てきたと思ったら何やってんだお前。泥まみれじゃん」
「―――――――まこと」
当たっていた。当たって欲しくなかった。
校門の外、いつからいるのか、一人でただ呆然と立っている。横向きな上傘で顔は隠れているけれど、ここいらでは見ない特徴ある制服と、すらりとした長身とパンプスは相変わらずだ。
頭が、ぐらりとした。
「―な、にしに、来たの」
「見て分んねーのかよ」
「・・・まさか、私のために・・・」
「勘違いすんな。あんたのために来たわけじゃない。今のあたし、レイのことなんてどうだっていいんだ」
言い放たれる声音は降ってくる雨みたいに冷たい。周りの生徒が何事かと言う目線をちらちら向けてくるけれど、そんなことも気にならなかった。
「・・・じゃあ何しに来たのよ!この不審者!喧嘩でも売りにきたって訳!?」
「別に・・・あんた、今朝あたしの家から出てって傘を持ってないの知ってたから。だから・・・置き傘があったり、誰かに傘を借りれてたってんなら、黙って帰るつもりだったさ」
「な・・・んで、そんなこと、するのよ!」
「あたしが、風邪を引いたあんたを心配するより元気なあんたにムカついてた方がマシってだけだ」
さらりと言い放たれた言葉が酸欠状態の頭に沁みこんでいく。
そういうあなたはどうなの?
こんな雨の中、ずっと独りで、人に怪しまれて、いつ出てくるかも分からない上、杞憂になる可能性のほうがずっと高いのに。
それでも、怒ってるはずの私のことを、ここで待ってた?
「要はレイにムカつきに来た。だから早く、傘に入れ」
傘は彼女がさしたもの一つだけ。向けられるのは目線だけ。自分の意思と足で彼女の傘の下に入って来いということだろう。
「・・・・・・・・・・・・・・余計な、お世話よ・・・!」
見えない表情といつも以上に乱暴な口調に心がぎしぎしと軋んでいく。もうまことを見てられなくて、私は彼女をを無視して早足で校門の前を突っ切った。もう制服は雨をたっぷり吸い込んで、体に張り付いて重い。心はどんどんささくれていく。
彼女の前を通っても、そこで足を止められず風景と一緒に遠くなる。そして、そんな私を、いつもの彼女なら自分が濡れるのも構わず強引に引き止めてくれただろうに。
止めてくれなかった。止めてくれなくて良かった。
我侭な本音が頭を巡る。外気はこんなに冷たいのに、目頭だけがどんどん熱くなってくる。どうせ顔から滴る雨に混じってしまうから、少しだけなら泣いてもいい気さえしていた。
ぱしゃん。
水が跳ねる音が後ろから聞こえた。
背後からの気配。はっきり近づこうとしてる訳ではないけれど、それでも一定の距離で聞こえる水を弾く足音と、消そうともしない、でも静かな憤りの気配。
不安と苛立ちと恐怖と、ほんの少しの期待を胸に振り向いた。
「ついて来ないで!」
「関係ねーだろ」
「あなたの家はあっちでしょう!」
「あんたが真っ直ぐ家に帰ったら帰るよ」
「何でっ・・・」
「そのまま歩いてたらあれだけど、真っ直ぐ帰ってすぐ風呂に入れば風邪も引かない。けど今のあんたは真っ直ぐ帰るかどうか分からないし、何よりうす暗いし、一人で帰るのは危ない」
「それが迷惑なのよ!」
「あんたのためじゃないって言ってんだろ。自惚れるな」
突き放すような口調だけれど、やっていることはいつもの彼女と全く一緒。この人は変わらない。変わったのは私だけだ。
このもどかしいとさえ感じる距離は、私からじゃないと埋まらない。いつも向こうから歩み寄ってくれるのに突き放して、この人のことを考えたことなんてない。
それなのに、私の心は、彼女が自分から歩み寄って、私に無理矢理傘を差し出してくれるのを待っている。こんな中途半端な優しさじゃなく、いつもの優しい声を、抱きしめてくれるのを待っている。
そんな自分が惨め過ぎて、雨粒に混じって遂に涙がこぼれた。一度こぼれてしまうと、もう堪えることは出来なかった。
―駄目だ。これだけで泣いてしまうのなら。
この人に冷たくされたらもう生きていけそうにない。そんな特別なら、いらない。
雨ではない水のせいで視界はほとんど利かなくなって、私はその場に足を止めた。同時に、後ろの足音も一定の距離で止まった。私たちの間には、ただ雨が降り続いている。自分がどんな表情をしているかは分からないけれど、もうずぶぬれでぐちゃぐちゃなんだろう。この期に及んで、そんな表情を見られたくないと思った。
彼女の顔を見たら、それこそ向こうがどんな顔をしても、怒っていても嘲笑われても、私は声を上げて泣いてしまうから。そうしたら、言うべきことも言えなくなってしまう。
「・・・ま、こと」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
返事はなかったけれど、気配で反応があったのは分かった。それは、正直ありがたいとも思った。
それでも、ただ反応してくれたそれだけのことが嬉しくて、どくどくと涙が出てきた。止めたい涙は溢れてくるのに、出さなければいけない言葉は嗚咽になって空気を震わせるだけで。
「・・・っく」
言わなきゃ、そう思うほど言葉は出てこない。言いたいことはたくさんあるけれど、感情がそれを遮っている。がちがちと鳴る歯の根は寒さの為でない震えだ。さらさらと落ちる雨粒の音を聞いて冷静になろうとしても、どうにも駄目だった。言葉じゃあまりにも不器用すぎる。
だったら―もう最後の意地さえ捨てて。
私は雨と涙でぐしゃぐしゃになった顔もそのままに振り向いた。それと同時に、雷鳴が高く轟いた。
視界は相変わらず暈けているけれど、それでも彼女との距離は大きな水たまり一つ―ほんの数メートルだけなのははっきり分かった。それなのに、たったこれだけの距離があまりにも遠すぎて、私は寂しくて苦しくて悲しくて泣いている。格好悪くても情けなくても、それよりもこの人のそばにいれない自分が惨めだ。
「―っ」
声にならない叫びは、雨音にさえ負けた。向き合った次の瞬間、彼女に腕を強引につかまれ、傘に入れられたから。
そこで私は、ようやく彼女の顔を見た。最後に会って半日も経っていないと言うのに、随分久しく感じた。雨の匂いに混じって薔薇の香りが流れ込んでくる。
「・・・レイ」
傘の影の中、ようやく見えたまことの顔は、泣きそうだった。でも泣いてはいなかった。そこで私はようやく自分が何をしたかを理解した。
私の下らない嫉妬と独占欲から出た言葉は、彼女を怒らせたんじゃない―悲しませてしまったんだ。疑ってしまったから。否定してしまったから。
私以上に寂しがりなこの人を。私以上に弱さを見せるのが苦手なこの人を。
私だけはそれを分かっていなければならなくて、私だけがそれを知っていればよくて―それが私の、この人からの特別なはずじゃないか。
一瞬だけ見せたその表情は、すぐに穏やかなものに変わった。細められる目は嘘みたいに優しくて、溢れる涙はもう雨のせいと偽れなくて目を伏せた。
「泣くなよ、ばーか」
「な・・・い、て・・・ない、わよ・・・」
「制服の泥は落とすの大変なんだぞ?」
「・・・ど・・・でもっ・・・いい・・・っ・・・」
「早く風呂に入らないとな・・・帰ろ?」
まことは強引に私の手を引いた。先ほどとは反対方向の彼女の家の方角。私は黙ってそれについて行く。
無言のまま私たちはただ黙々と歩いていたけど、彼女が自分が濡れるのも構わず、既にずぶぬれの私に傘を傾けてくれるのが、雨水よりずっと心身に沁みた。
突き放してくれたら、怒ってくれたらまだよかったのに。
この人は優しすぎる。もうこの温かさなしで生きていくことはきっと出来ない。そんな自分が怖かった頃よりも今はずっと、この人を失うほうが怖い。
憂鬱なはずの雨は、既に恵みのように感じられていた。雨が降らなければ、今こんな風に手を引かれることもなかったろうに。
これからどこへ連れて行かれるのか何をされるのかは分からないけど、何だって受け入れられるような気がした。彼女のことだから。どんな言葉も、どんな態度だって大丈夫。
私はこの人が好きだから。どんなに不安でもどんなに醜い感情が渦巻いていても、これだけは変わらない。二度と譲らない。
私はただこの人を好きでいればいい。この人が私以外も、それこそ誰でも受け入れるのは知ってるから、ならばこの人を全て受け入れるのが私であればいい。
波紋ひしめく水たまりに一瞬だけ煌く雷光は、確かに太陽よりも月明かりよりも眩かった。
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カサブランカメモリーでもそうなんですが、この二人は雨が似合う、と思いまして。
まこレイはマイナーだけど、私がこのブログを開設した理由の大きい部分を占めてるので、お好きと仰ってくださる方がいるのは本当に本当に嬉しいです。では、リクエストありがとうございました!
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