部屋に戻りなさい、という命令はプリンセス直々だから仕方ない。
決して反抗的ではないが、自分で決めたことには極端に頑固という厄介な性質を持つマーキュリーも、さすがに逆らうことはできない。逆に、プリンセスが命令でもしない限り、マーキュリーは仕事から離れない―少なくとも仲間にはそう思われているようだ。マーズやジュピターの後押しもあって、マーキュリーは珍しくその日の仕事を早めに終え、一切の寄り道も許されず自室に追いやられた。
急いている仕事があるわけではないが、チェックしておきたいデータもあったし、図書室から持って来たい本もあったのだが、それも許されそうにない。だが、それでも部屋に戻るマーキュリーの足取りは軽かった。
明日のマーキュリーの誕生日はみんなでお祝いするんだから、準備するからマーキュリーは明日まで部屋から出ないで、というまだ幼いプリンセスの命令に、マーキュリーは少し困惑しつつも確かに喜びを感じていた。
それ自体はとてもありがたいことだ。いい機会だし、たまにはのんびり過ごすのもいいか、と思い、マーキュリーは自室に戻る。ひさしぶりに長湯をして、とっておきのお茶でも飲もうか―とめったにない唐突なオフの計画を練りながら、着替えるために寝室に向かう。
「いらっしゃーい」
そして寝室の扉を開けたら何故かシーツ一枚を纏っただけのヴィーナスがポーズを決めていて待ち構えていた。自室だからとすっかり油断をかましていたマーキュリーは、唐突で理不尽な視界の暴力に瞬きをなんとか三回ほどこなすと、そのまま踵を返した。
「ごめんなさい部屋間違えたわ」
「ええっ、ここマーキュリーの部屋であってるわよ!」
「言わないで!私が自分とあなたの部屋を間違えてたと思う方が!精神衛生上いいから!」
「ええっ、ちょっとマーキュリー頭大丈夫!?知恵熱!?」
「なにも言わないで大丈夫じゃなくなりそうだから!」
不測の事態に放り出された精神的ショックと、そもそもヴィーナスがほぼ全裸状態でポージングしてベッドで待っていたというマーキュリーにとって油断ならない現実が、日頃冷静なマーキュリーの思考回路をショートさせていた。部屋から出てはいけないというプリンセスの命令がなければ部屋から飛び出していただろうが、マーキュリーは駆け出したい衝動をこらえなんとかヴィーナスに背を向け、大きく深呼吸をする。
「・・・えーと、ここ、私の部屋よね」
「ああ、よかった。ちゃんとわかってるのね。いきなりわけわかんないこと言い出したからついに狂ったのかと思ったわ」
わけわからないことしてるのはそっちでしょう、や、こっちがついに、ならそっちはもうとっくに、でしょうとマーキュリーは一瞬のうちにいろいろ思った。ショートを起こしたとはいえ思考回路の回転数そのものは落ちていない。
だが、聞くべきことではそうではないとなんとかこらえる。変なものを見たせいで変な汗がにじむ中、やっとの思いで一番大切なことを尋ねた。
「・・・どうして、あなたがここに」
「ま、これも仕事ね」
「全裸で私のベッドに寝る仕事ってある?」
「そこはサービスよ」
「ああ・・・サービスということは、これはそういう一発ギャグなのね。でもごめんなさい、せっかく体を張ってもらって申し訳ないけど、私、笑いに関して下ネタは邪道だと思ってるから笑えなくて・・・」
「べつにギャグじゃないわよ!しかもあなたに笑いについて説教されたくないし、そもそも下ネタが邪道ってあなたがその声で言うと説得力なさすぎるのよ!」
「ギャグじゃないの?じゃあ、どうして」
「ま、この格好でいたのはあなたへの視覚サービスだけど、プリンセスが、マーキュリーが部屋から出ないか心配だからって」
「じゃあ、プリンセスがあなたに私を見張れと?」
「そういうこと」
ヴィーナスはどこか誇らしげにそう言うと、やたらとマーキュリーの方に視線をやってくる。
そこまでプリンセスに気にかけてもらっている事実は喜ばしいことだが、刺客まで送ってくることないだろうに、とマーキュリーは思う。しかしパーティーの準備にマーズとジュピターが駆り出されたことを思うと、適材適所という言葉も思い出される。ヴィーナスはマーキュリーの見張りのためにここにいるらしいが、ヴィーナスがパーティーの準備を図らずもめちゃくちゃにしないために、理由をつけてマーキュリーといっしょに部屋に閉じ込めたほうが得策だと思ったのかもしれない。
いずれにせよ、今日はヴィーナスとセットでいることは避けられないようだとマーキュリーは気づいた。望んでようが望んでまいが誕生日が来るように、世の中自分の意志ではどうにもならないこともあるのだ。
ようやく観念したマーキュリーは、相変わらずシーツを纏っただけのヴィーナスの目線からさりげなく逃れつつ寝室を横切った。
「わかったわ。そもそも部屋から出る気はないけど、あなたもわざわざ来てくれたのだし、今夜はおたがい平和に過ごしましょう」
「わかりあえてうれしいわマーキュリー」
「わかり・・・あえ・・・・・・ええそうね」
「それに、正直ちょうどいいって思ってたのよ。マーキュリーの誕生日は明日だけど、明日はふたりきりになれるかわからないし・・・せっかくだから視覚以外にもサービスするわよ?」
「サービスをしてくれる気持ちはありがたいけど、ちなみに、具体的にはどういう?」
「全身マッサージとか、お風呂でお背中流しとか、腕枕添い寝愛の囁きつきとか・・・誕生日なんだから欲張ってくれても」
「それより普段からもうちょっと仕事を早く回してほしいとか、残業を減らしてほしいとか、仕事とか言って部屋で裸で出迎えない上司が欲しいとかそういうサービスはお願いできないかしら」
「あ、そういうのは却下で。日頃の行動どうのこうのじゃなくて、誕生日だけっていうのが特別でいいんじゃないの」
「仕事でここにいるくせに」
適当にヴィーナスをあしらって、マーキュリーはベッドに腰かけた。
だが、手持無沙汰というのは思いのほか居心地が悪い。ひとりならリラックスすることもできるのに、ヴィーナスとふたりでは。しかもヴィーナスは仕事でここにいるのに、自分はフリーだ。
めったにない機会、部屋に閉じ込めておくのならせめて仕事を回してほしかった。マーキュリーはため息をつく。表情に出さずに夜の過ごし方を悩んでいると、ふと、ヴィーナスがこちらを見ているのに気づいた。
部屋に入ったときの冗談とも狂気ともつかないような表情とは違う、穏やかな笑顔だった。
目を反らせなくなった。
「あたしは、外にいるべきだった?」
「え?」
「仕事じゃ、ここにいちゃいけない?」
「・・・え」
なんの気もない返事のつもりだった。皮肉にさえならない言葉のはずだった。だけど確かに、マーキュリーの心に引っかかる言葉だった。誕生日を祝うためとはいえ、部屋にい続けるということさえ信用のないマーキュリーを、ヴィーナスがわざわざ監視しに来ているというその言葉は。
「たしかに、プリンセスがみんなでマーキュリーのお祝いしようって言ってたのはほんとうだけどね」
言って、ヴィーナスは、言ってマーキュリーの隣に腰かける。当たり前の仕草で体の向きを変え、はっきりマーキュリーに向き合う。ベッドがぎしりと軋む音が不意にマーキュリーの心臓を跳ねさせる。それでも―目は反らさない。
人と話しているときは、相手の目を見ること。ブレーンが視線の先を悟らせるのは、それが相手を信頼している証拠だから。
そして仕事も戦士としての体裁もなにもない場所でそう振る舞うのは、近く親しい相手にだけ許される行為だから。目線を外せば、相手は悲しんでしまうから。悲しませてはいけない相手の目は、まっすぐ見ておくこと―ヴィーナスにそう教わった。仕事の手法は自分で選んで自分に積み上げてきたが、人との関係は、彼女から。
「みんな、あなたのお祝いをしたいからあなたを閉じ込めて外にいるのよ。それでもあたしは、マーキュリーとふたりきりの時間が欲しいなって」
「・・・・・・・・・」
「だから仕事って言い訳しなきゃ、あなたを部屋に閉じ込めて監視するっていう名目がなきゃ抜け駆けできなかった」
「・・・・・・・・・」
「明日のあなたの時間はみんなのものよ。みんなあなたが生まれたのがうれしいから今夜部屋の外で頑張ってる。でも、あたしは。せめて日が変わる時間には」
「・・・・・・・・・」
「あなたが欲しいのは、部屋で待たない『上司』じゃないでしょう・・・そう言って、マーキュリー」
まっすぐ見つめる青い瞳に、マーキュリーは瞬きを返した。先ほどまであんなにふざけていたくせに、こうやって時折見せる真面目な表情に、やはり目を反らしてしまいたくなる。
部屋に戻った瞬間、ヴィーナスがいて、その衝撃に思考回路がショートした。煽情的な姿に、ブレーンのくせに冷静な頭を保つことができなかった。こみあげるものを悟られるのが怖くて、なんとか冷めた言葉を返して、今夜を冷静なままに終わらせる方法を頭の中で必死で探した。
それなのに、自分は仕事を探していたくせに、相手が仕事でここに来たというただ一言がどうしても看過できなくて。
「欲しいもの、言って。マーキュリー」
「・・・・・・・・・」
「言いなさい」
「・・・・・・・・・」
「言わないと、このまま誕生日を迎えることになるわよ」
「・・・・・・ぁ」
いつの間にか、そのきれいな瞳は真剣な気配を伴ってマーキュリーに迫っていた。なにもかも見透かされそうで、足はしっかり床についているのに心許ない気になる。心がざわつく。
やっぱり、目は反らせない。言葉にできずとも、決して他人にはできない振る舞いでいたかったから。
「・・・・・・ヴィーナス」
「やっと、名前呼んでくれたわね」
「・・・ヴィーナス」
「なぁに」
「・・・わたしと」
マーキュリーは擦れるような声を出した。
みんながお祝いをしてくれる事実は、なによりもうれしい。だけど、それがヴィーナスとの時間を作れないのであれば。それをヴィーナスが少しは思うことがあってくれるのならば。
仕事や使命なんておためごかしのない中で、ふたりでいたいと思ってくれるのならば、それこそ―生まれてきてよかったと思えるから。
「・・・・・・日付が、変わるまで、でいいから」
「変なとこで慎ましやかね・・・朝まで、に脳内補正しとくわ」
「ヴィーナス・・・」
静かに穏やかに細められる目が、影を差し近くなる。緩くベッドに押し倒された、という認識は、緊張や恐怖といったものよりどこか安心をマーキュリーにもたらす。あまりにも優しい目つきだから、我を忘れてすがってしまいたくなる。ついに狂ったかなんて言われたけど、ほんとうは、とっくに。
「・・・フライングだけど、一番に、おめでとう。みんなもそう思ってるけど・・・あたしはあなたが生まれてきてくれてうれしい」
「・・・ありがとう」
生まれてこられてうれしい、なんて言葉はあっさりと唇にふさがれた。時間の感覚を脳から遮断して、マーキュリーは上から握られた手を握り返した。
*************************
大遅刻ですがおめでとうマキュさん!すんげー難産でした(号泣)
亜美ちゃんほど表に出ないだけで、結構マキュさんは感情的だったら良いなと思うのであります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます