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人としての許容心

2021-03-28 09:54:00 | 日記
人として、許容心が広い人間は多くの支持を得る、逆に許容心が狭い人間や自分目線でしかモノが見れない人間はあまり支持をされない。

自分が一番上と思う傲慢な人間ほどそれはかなり強く出る。

故に人の意見を聞けない、いや聞かない。
人の意見も聞いてこそではないか?

人間としての器、これが大きい人は許容心を広く持っている。

しかし器が小さい人は許容心が狭い。

つまり些細な事でも許せない、今の日本は残念ながら人間の器が小さい人間が多い。

許容心がないのだろうな、こんなのは景気云々ではなく、元からの可能性が高い。

元から小器の人間が大器になるわけがない
所詮はその程度だ。

まあ、だから子供が騒いでいても「まあ、自分にもそんな時代があったなあ」と許せる人間は子供時代のことも忘れていない。

まあ、オレも悪さをしたりとか喧嘩したりとか
色々やっては怒鳴られたりもした。

酷く怒られた時もある、しかし今となってはいい思い出である。

しかし子供が騒いでいるのを見て「うるさい」とか邪魔とか些細なことで神経質になったりする人間は自分が子供だった時代を忘れている。

所謂許容心が狭いとどうしてもそう言うことがストレスになったりするんだろうな。

こればかりはその人の許容心の器としか言いようがない。

そしてどんなことが起きても動じない不動心はオレが常に心掛けているのだが、ちょっとしたことで揺らいでしまう人には不動心はない。

だからすぐに不安になったり果ては親がいたら甘えたりする。

いなくなったらどうするのか?いつかは親は子供より早かれ先に亡くなる。

オレはそうなっても「寂しいけれど仕方ない、泣いても戻っては来ない、生前の恩を心に刻んで生きる」と言う覚悟がある。

それが一番大切ではないか?嘆いていても亡くなった人は戻らないのである。

逆も然りである。

いずれにせよ人の意見を聞かない人間(聞けない)人間は自分の物差しでしか測れない。

だから許容心が狭い、しかも頑固だと許す心すらない。

歳を重ねても良いものは良いと許す心が必要である、世の中移り変われどそんなに人間は変われないのである。

具体例は個人の名誉で伏せるがそう言う残念な人にはなりたくないので書いておいた。

こう言う点でブログは便利だなあと思う
まあ、オレは自慢出来るものなんてないし自慢もしたくない。

旅レポとか苦手だからやらない、ああいうのは行ってから纏めるのが正しい。

まあ、人それぞれだからそれにケチをつける気はない。

それが楽しみの人もいるのだから。