goo blog サービス終了のお知らせ 

Madison's Lakes

2010年から毎日の生活を記録してきましたが、娘の高校卒業を機にひと区切りとしたいと思います。ありがとうございました。

父の死

2014年10月13日 | 介護

先日、父が亡くなりました。

4か月以上仰向けのまま寝たきりで動けず、ずっと点滴のみで生きながらえている入院生活でした。

肺炎のため声も出ず、最後1か月以上はずっと酸素マスクをしたままでした。

父に会いに行くたびに、辛そうな苦しそうな様子でしたので

おとうさん、ようやく楽になれたね、と心から思います。

亡くなった当日は、私は仕事に行く途中でした。

職場の近くまで行ったところで、妹から連絡があり

急いで職場に事情を話してすぐに父が入院する病院にいき

家族がそろったところで

父をきれいにしていただき

葬儀センターの方に連絡してお迎えに来ていただきました。

葬儀は小ぢんまりと父と母の双方の親族と、妹と私の家族があつまりました。

父も母も大勢の兄弟の下のほうでしたので

私にはたくさんの年上のいとこたちがいるのですが

父が甥や姪たちのこともとてもかわいがり、親戚に対してもとても面倒見がよかったこと、

家では子供たちのことをあまりほめたりしない父でしたが

よそに行って私たち娘たちのことや孫たちのことを、いつも嬉しそうに語っていたことなど、

私たちがあまりよく知らなかったこともたくさん聞かせていただき

父の新しい面を発見したような気もしました。

 

幸い葬儀を執り行ったホールでは、行き届いた配慮をしていただき

準備段階から終わりまで、ずっと気持ちよくお付き合いをさせていただくことが出来たことにも

とても感謝しています

父のために用意した花祭壇も専門の花屋さんがデザインし作ってくださるのですが、

素晴らしいできばえで、親族や会社の皆さんからもたくさん供花をしていただいて、

思いがけず大変美しい豪華な祭壇が出来上がりました。

納棺師さんにもきれいにお化粧をしてもらって、とても穏やかなやさしい表情に戻った父をみて

本当に楽になってよかったね、とあらためて思いました。

 

それでも最後に出棺し、火葬場へ行き、お骨になった父を見た時は大変なショックでした

でも姉妹二人のうちの姉のわたし

会葬者の皆様にご挨拶したり、お食事ではお礼を申し上げながらお酌をして回ったり

ご住職の隣で話を合わせたり(これが結構つらい…)

喪主の母はもうすでに耳がかなり遠くて私を頼っており

喪主の代わりにやるべきこともいろいろ多く

告別式まで終わって、はぁ…。疲れました。

 

あとは諸々の事務手続きが残っていますが、

とりあえずは母・妹ともども、少し休息を取ろうと思います

仕事にも復帰しないといけないし

(というか、休んでいる間も私のせいで仕事が滞り…気が気ではありませんでした)

 

まだしばらくは、仕事の合間にあれこれと役所やらどこやらに通う

忙しい毎日になりそうです。

夫の父の時にも思いましたが

一人の人が無くなるというのは、大変なことなんだなぁと

あらためて思います。


父の容体

2014年09月01日 | 介護

実の父の体調が6月以降思わしくなく、ずっと入院してます。

6月上旬に肺炎になって、グループホームから入院したのですが、そのあと急に弱ってしまい、もうグループホームに戻れるような自立状態にはならないだろうということで、6月末でグループホームからも退居しました。

そのあとずっともう高濃度輸液というのでしょうか? 中央静脈から点滴をうつようになり、肺炎のためもう声も出なくなり、ずっと寝た切りになって3か月。

8月には2回ほど発熱して、そのたびに血圧が低下し、酸素吸入をしたりして、そのたびに家族は「もうこれまでか」、と思いましたが、なんとか熱も下がって容体も少し回復しています。

生きるのも死ぬのも楽じゃない。

父を見ていると、本当にそう思います。

食べられない、動けない、しゃべれない(本人は何か言いたそうだけれど、こちらにはわからない)、かといって手は多少動かせてしまうので、点滴が気になっていじってしまうため、昼間の点滴中は抑制されてしまっています。

3か月も点滴だけで生きていて、体はすっかり痩せてしまいました。

それでも、家族がいけば、ちゃんと認識してくれます。

行くとわかってくれるし、お父さんまた来るね、というと、「わかった」というしぐさをするので、できるだけ行ってあげたいと思います。

私もやっとクルマで首都高を走れるようになり、もう何度も一人で車で行っているのですが、父に「今日も首都高と東北を自分で運転してきたよ。」と父に報告すると、学生時代の免許取りたての頃の私の危なっかしい運転しか知らない父は、顔をしかめて「あぶねぇ」という口の形をしたりしています。

ただ、朝や夕方に自宅と実家(病院)との間を移動するのは、道路が渋滞してとても時間がかかります。下手をすると2時間では着かない。2時間半くらいかかってしまうこともあります。で、病院にいる時間はそんなに長くない。それが今はちょっと負担かな。病院に行く前には子どもたちの夕食のことも考えていかないといけないし。まあ自分の親のことだから、やるしかありません。

8月は私も出勤しなくてよい日が多かったので、すっかり病院通いが多くなりました。

妹夫婦が実家の近くに住んでいて、妹の旦那さんがとても強力にサポートしてくれるので、心強い限りです。

でももう今日から9月。またそのうち仕事も忙しくなってくると、父のところにそう頻繁に通うわけにもいかなくなりそうです。


父の入院

2014年07月07日 | 介護

父が6月上旬から入院しています。

今回の入院は発熱と肺炎だったのですが、見る見るうちに弱ってしまいました。

肺炎は2週間ほどで落ち着きましたが、もう寝たきりになってしまい、嚥下機能も低下しているので、点滴のみで生きている状態です。自立している人が対象のグループホームに帰ることもできません。

グループホームとの契約も解除して部屋を引き払い、今は療養型の認知症専門病院に入院しています。

週1回くらいのペースで父の見舞いに行くのですが、行くたびにだんだん父が痩せて、声が出なくなっているのが分かります。

一生懸命何かを言おうとしているのだけれど、分かるときもあれば分からない時もある。

もうすこし頻繁に行ってあげれば、少しは入院生活に変化が出るのだろうと思うのですが、私も忙しいのでなかなか時間が取れません。

あと何度父に会えるのだろう。。。行くたびに思います。

でもまだ、お父さん、と声をかければわかるし、手を握ると握り返してくれます。冗談を言うと少し笑ったり。


何かあった時のための備えやもろもろの話し合いも必要です。

急な時にお金に困らないように準備しておいたり。

どこまで治療をしてほしいのか、何は不要なのか、家族で意思疎通を図っておくことも必要ですし、医師からも求められます。

万が一の時は、どこにどう最後の見送りをお願いするのか、相談に行ったりもしています。すでに2か所でいろいろ話を聞き、だいたいこんな感じで、と思う内容で見積もりを作ってもらったり。

まだ生きているのに罪悪感を感じないわけではありませんが、どうすれば母が一番気持ちよく父を送れるのかを、母と、娘である私と妹で考えておく必要があります。

実家と病院に行って帰ってくると、どっと疲れがでます。今日も夜7時半に帰ってきて夕食はデパ地下のお弁当。まだ作ろうと思えば作れる時間かもしれませんが、私が疲れ切ってしまうのと、試験中の娘が食事にあまり時間をかけたくないので、簡単に済ませてしまいます。ごめんよ子どもたち。明日はちゃんと作るよ。

それにたった週1回であっても平日病院に行くためには土日も仕事をして時間を確保しなりません。

6月に大きな仕事が一段落したとはいえ、忙しい毎日で次から次へといろいろな職責がやってきて、そちらもいい加減にはできません。ムスメも期末試験やら部活のコンクールやら、まだまだサポートが必要です。

一番いい加減になるのは、家事です。

家のことはオットもずいぶんやってくれます。オットは夕食を会食で済ませてくることも多く、朝早く起きて(もうトシなので朝5時頃目が覚めちゃってる!)洗濯したりゴミ出ししたりしてくれるので、ありがたい限り。食事不要で家事はやってくれるって、一番私にはありがたいかも


オットの父が亡くなった時にも感じましたが、人生を終えるというのも、なかなか大変です。

人の命にはそれだけの重みがあるのだ、と思います。


初・首都高!

2014年02月18日 | 介護

昨日は実家の父の病院の付き添いで、初めてクルマで埼玉の実家まで行ってきました

ええ、ええ、初めてですよ。

思えばムスコが1歳の時に一念発起して8年間のペーパードライバー歴に終止符を打ち

ワタシ専用の7年落ちポンコツ軽自動車を諸費用込みで25万で買ってから(あ、値段はいらない?

いつかはひとりでクルマで埼玉の実家に行けるように

と、ずっと思ってきました。

でもクルマで行くときは大体オットと一緒だったり、

神奈川からアノ複雑な首都高を間違えずに超えていく自信がなかなかできなかったり

心と時間のゆとりがなくてなかなかクルマで行く決心がつかなかったり

帰りが遅くなったらどうしようと心配だったり

昨年5月に父が入院した時も、電車で2時間かけて通う毎日

私が病院に泊まり込んでいる間には、なんとムスコがムスメを乗せて車で病院にお見舞いに来てくれて

「首都高に乗って実家へ」の夢で息子に先を越された~と思ったり

で、オロオロしている間に、20年経っちゃったわけですよ。

その間、私が車で行くのはご近所ばかり。

保育園時代は、そりゃ毎日クルマが活躍しました。

そのあとは、子どもたちの習い事や塾の送迎、雨の日の駅までの送迎。

遠出しても、横浜くらい?でも道が分からないと嫌だから、あんまり遠くに行くことはありませんでした。 

 

でも、このたびようやく、行ってまいりました。ひとりで運転して。

その背景には、格段に進化したカーナビ様の存在があります。

あと、子どもたちが大きくなって、私が多少帰りが遅かろうと、どうにでもなるようになったことも大きいかも。

 

でも、さすが、現代のカーナビ技術。

運転している本人が道なんて何にもわかっちゃいなくても、ちゃーんとナビしてくれます。

だいぶ前から次は右、とか左、とか、カーナビの画面には道路の路面の案内図まで出てくれるし、

ほかの遠くの高速道路の情報まで教えてくれるし(自分に関係のない情報なんて聞いちゃいないんですけど)

 

首都高から東北道に入って、ちゃんといつもの道で行って帰ってこられました。

 

だって、時々妹夫婦が都合が悪くて私一人が両親に付き添っていくときは、

今まではタクシーで病院まで行っていたんです。

それがとっても不便でね。

実家から父のグループホームまで行って、それからタクシーを呼んで、来てもらって、それから病院に行っていたんです。

帰りもまたタクシーで帰ってきて。

ああ、これじゃあ付き添ったって役に立たないなぁ、ってすごく思ったわけです。

で、一念発起したわけ。

ただ、朝の通勤時間帯とか、いったいどのくらいの時間がかかるのか読めないので

まだ時間によっては躊躇してしまいますけれど。

 

でもこれで少し自信就いたかも

帰りは、母が家の隣の畑を借りて作っている野菜をたくさんもらって。

今まで電車で帰るんだと、あんまり持って帰れなかったのが、たくさんもらって帰ってきました

おおきな大根3本、ネギ、菜の花大量、水菜も大量、エシャロット、・・・

(私、水菜が植わっているところを初めてみました、、、売られている姿からは想像できないくらい、元気なさそうに地面にべチャッと生えてるのね

 

帰ってきて疲れたけど、久しぶりの達成感だわ

 


父の通院、ショートステイ、グループホーム

2013年07月09日 | 介護

1週間に1回くらいのペースで、父の通院に付き添っています。

クルマで迎えに行き、病院に着いてからの移動はずっと父と手をつないで

採血、診察、注射、そして昨日はいつもの診療科に加えて別の科でも受診

そのあいだ、移動はずっと父と手をつないでいます。父もおとなしく手を出してきます

時々私の名前が出て来なくなったり、家族が自分の何にあたるのか認識できなくなったり、ということがあるのですが、それでも私が手をつなごうとすると嫌がらずに手を出してくる父。

母のことも、自分の奥さんだと分かっている時もあれば、「お手伝いさん」とか「自分の世話をしてくれる人」と思っていることもあるようで、そうするとショックを受ける母。

意外と私の方が忘れられてもショックが少なく、しょうがないなーという気持ちで、父のそうした状況を割合すんなり受け入れています。

でも家族のことを(今のところは)本当に忘れてしまうわけではなく、自分にとても近い人であることはちゃんと分かっていて、心を許しているようです。

今はショートステイをしていますが、実家の近くのグループホームに空きがあったので、そこにお世話になることになりそうです。

夫の父の時は最後2年くらい介護付き有料老人ホームに入居しました。こちらは「できるだけ良いところに住んでもらいたい、その方が自分の罪悪感が少なくて済むから」という義母の思いもあり、入居金もかなり必要な新築の施設を選びました。

でもマンションタイプの作りの建物で、各階とも長い廊下に沿って個室があり、トイレも洗面所も個室のなかにあったので(そういうのが一般的だと思いますが)、本人が積極的にリビングに出ていかないと、何となく孤立してしまう(もちろんお食事や活動の時にはきちんとお声をかけていただいていました)という気がしていました。

今父がお世話になっているショートステイの施設や次に移りそうなグループホームは、真ん中の広いリビングを囲むように各個室が作られており、個室のドアを出ればすぐにリビングにいるスタッフにも分かります。

施設としては、義父の時の方がずっと費用はかかりましたが、何となくアットホームで目が届きそうなのは、父にあっているのはグループホームかも、、、という印象です。

もちろん各施設ごとにそれぞれ違うのでしょうけれど。たまたま見たり使ったりした施設からはそんな印象を受けています。

あと気になるのは、どんなケアをしてもらえるのか。どんな活動をさせてくれるのか。食事はどうか。まだ寝た切りではない、体が動く状態なので、楽しく過ごせるかどうかも気になるところ。

自分ではなかなか十分な介護が出来ない、でも施設にお願いするのも心配というか、お願いしたらしたで、またいろいろ思う所も出てくるのでしょう、きっと。

週1回くらいの付き添いですからそんなに大変ではないのですが、子どもたちは「ママ忙しいのに大変だね~」と言ってくれます。でも私たちが老人になる頃は、きっともっと大変な社会になるのでしょうね。。。

 


父の通院

2013年06月09日 | 介護

父が退院してから、毎週通院が続いています。

入院前は、認知症の治療は電車とバスを乗り継いで大きな市の大学病院にまで母が連れて行っていました。

その時はまだしっかり歩けたので、診察後にデパートに寄ったり食事をしたりして気分転換にもなっていたようです。

でも入院中にすっかり体力が衰え、なんだかヨチヨチ歩きになってしまい、もう電車での通院はムリ。

しかも認知症自体はもうどこで見ていただいてもそんなに変わらない…ので、自宅の近くの病院に転院させていただくことにしました。

 

もっと大事なのは、命にかかわる内科の治療です。退院後、毎週通院して、採血・診察・注射があります。

採血してその結果を見て、ドクターが注射の量や間隔を決めます。

まだ安定的に数値を維持できる注射の量と間隔が定まっておらず、注射の量を増やしたり減らしたりしながら様子を見ている状態です。もし安定してくれば、通院の回数も減らせるかもしれませんが・・・

通院のたびに、母だけでは連れていけません。父の足取りがおぼつかず、母も耳が遠くなり始めているので、ドクターからも娘さんが一緒についてきてください、と言われています。

しかもドクターと話をするにも、母だけでは理解がイマイチ不十分。さらに母がしゃべりだすと、ピンポイントに結論だけ説明すれば良いものを、1から10まで全部語り始め、途中で脱線したりするものだから、一体何が言いたいのか分からなくなり…

なんかね、ぜ~んぶ説明して聞いて欲しいみたい

可哀想に、周りからイライラされる母です

妹や私がついて行ったり、時間の融通が付けやすい妹の旦那さんがクルマを出してくれたりして、家族でぞろぞろと通院しています。

 

しっかし大病院というのは、本当に長時間待たされるものですネ・・・

認知症を見ていただいていた大学病院では(大学病院の必要はなかったと思うんだけど)、予約を入れてあっても診察開始が予約時間から3時間遅れ。

内科にかかっている市立病院では、採血から診察まで1時間。これはその予定だったから良いのです。でもそのあと書類を書いてもらったりなんだりで1時間。さらに父の注射の薬がふだんはおいていない薬だったとかで、薬問屋さんに持ってきてもらうまで2時間待ち。

これだけでこっちまで具合悪くなりそう

しばらくはこんな生活が続きそうです。。。


父、退院する

2013年05月25日 | 介護

父、意外と早く退院することが出来ました。

4月末に偶然血小板の数が異常に少ないことが分かって緊急入院してから、医師の先生方にいろいろ手を尽くして頂くも、なかなか上がってこなかった数値。

それが今週になって急に改善し始め、もうこれなら大丈夫でしょうというところまで改善。

今週終わりには退院できました。

一時はもう延々と入院が続くかと思いましたが、、、良かった良かった。

というのも、もう父には限界が近かったからです。

家族はすでに限界で、GWのみ何とか家族だけで24時間付き添いをしましたが、それ以降は夜は家政婦さんにお願いしました。

それでも平日の付き添いの負担は母にかなり重くのしかかり、間もなく昼間も週2回ほど家政婦さんにお願いするようになりました。

父も入院中はアルツハイマーの薬を止められていたのでかなり進んでしまったうえ、なぜ治療をしているのかもよく分からず、狭い個室で1日9時間もの点滴を何日も強いられ、イライラ状態もだいぶ昂進してきていました。

家族が来ると随分落ち着くんですけどね。家政婦さんも大変だったことと思います。はぁ。

でも退院したらしたで、また大変。母ひとりではもう夜も世話しきれません。

今まで利用していたデイサービスに加えてショートステイも多用しながら、少し様子を見ることになりそうです。

しかも、アルツハイマーの薬もしばらくやめておきましょうといわれてしまったので、どうなることやら。

私も何度も病院に通ったり、急にドクターに呼ばれたり、ケアマネさんとの打ち合わせが入ったりで、ちっとも予定が立たず、自分の歯医者やリハビリや美容院の予約をキャンセルしてばかり。平日も仕事の合間に埼玉まで通ったり。

早く父が落ち着いて生活できる基盤が出来て行くと良いのですが。

 


GWの後半は病院で

2013年05月09日 | 介護

GW後半。

5月4日にレミゼ行っておいて、ほんと良かったです

ほかには何も楽しみのないGWとなってしまいました。

5月2日から7日までの6日間のうち、5日間は病院に詰めておりました。そのうち、2晩は父の病室に泊まり。

後半3日間くらいはパソコンを持ち込んで父を見ながら仕事してましたよ。ネットにはつながらないけど、ワードやエクセルでできる仕事を。パソコンに影響を受ける電子機器も使っていないので、病院の許可を得て。

妹も仕事の合間を縫って2泊、母も1泊。

でもこんな生活はとても続けられないし妹も私も仕事があるし家庭もあります。70を過ぎた母も体力的に1泊で参ってしまったので、早々に皆で何とかしなくちゃね、と相談し、結局夜は家政婦さんをお願いすることになりました。

紹介会社への初期登録料、夜間の付き添い料、紹介会社に払う手数料、家政婦さんの交通費。

夜に病人の付き添いをしてもらうわけですから、一晩でも結構費用がかかります。それがいつまで続くかなぁ。検査結果を見ながら随時医療方針を考えて行くので、見通しははっきりとは立ちません。でもとりあえずはしばらくのあいだ、家政婦さんによる夜の付き添いを続けてもらうことにしました。

介護保険は使えません。すべて実費を負担します。

費用は相当かかりますが、家政婦さんに来ていただくことで、自分の家庭や仕事に破綻をきたさないでいられるので、ほっとしているというのが正直なところです。

病院からも、「家族の支援がなければ入院は続けていただけない」と言われてしまったし、看護体制を考えればそれも仕方のないこと。

認知症患者には24時間体制で家族もしくはそれに代わる人の付き添いがなければ入院は受け入れない、という病院は多いのだそうです。

でも今回こういう状況を経験してみて、認知症を持つ(他の病気の)患者というのは、治療を受ける権利が十分に保障されないケースも当然あるだろう、ということに気が付きました。

家族が24時間つきっきりにはなれないし、家政婦さんなどを依頼することも難しい、という方も当然いらっしゃるだろうと思います。そういう場合には、(今回われわれも病院側から選択肢の一つとして提示されましたが)、治療をやめる、ということもありうるわけです。

もし今回、父の治療をやめたら、出血があった場合に止まらなくなり、そのまま死に至る危険があります。出血さえなければ元気にしているのですけれど。

あるいは通院で治療を継続するということもあり得ます。その場合も様々なリスクを負い、しかもベストの治療ではなくなります。

ではすべての人に治療を保障するために、国が支援をすべきか。

それも社会主義国家ではない以上、難しいと思うのです。

 

高齢化社会。健康に年を取れればよいのですけれどね。


父、入院する

2013年05月03日 | 介護

一昨日、午前中に映画を見に行った日の夜。

父が夕方から入院した、と妹が知らせてきました。

元気にはしているのですが、血液検査をしたらある数値が異常に低く、即入院になったということでした。

昨日の朝病院に駆けつけ、母と妹と一緒に主治医の先生から説明をうかがったところ、難病認定の対象になっている特定疾患かもしれないとのこと。

初日から、いろいろな薬の点滴が始まりました。

しかし、ブログにも何度か書きましたが、すでに認知症の症状がある父。

最初の夜、なぜ点滴をされているのかわからなかった父は、看護師さんたちの手を煩わせ、点滴も中断せざるを得ない状況だったとか。

医師の先生は、「看護師が大変なのは、そんなことはどうでもいいんですよ、仕事なんだから。」とおっしゃってくださいました。でも、看護師さんが一人の患者につきっきりになるわけにはいかない。

でも誰かがつきっきりでついていないと、安全に点滴が、治療が出来ない状況のようです。

で、結局、昨日の夜は私が急きょ病院に泊まることに。大量の点滴治療をすることになっている5日間、妹と母と私の3人で交替します。

その後帰宅し、1.2週間空けてから、また5日間の点滴治療。それを何度か繰り返すようです。

 

急きょ病院泊することになった私は、泊まる準備など何もしておらず 

パソコンもないので昼間は仕事もできずメールも見られずヒマだし、夜は洋服のままで一晩過ごしました。

しかも夜中までおとなしくしていた父が、12時過ぎから途端にとても元気になり、私は一晩眠れず

今日は帰ってきてホッ

はぁ。いよいよ大変になるかも