風景の記憶絵

「まちの風景の記憶」を絵にしましょう。みんなが語り部、そして絵描き・・これは、まちのカタチメモリアル事業の記録です。

絵カード20(最後) 花火工場

2009-12-31 23:55:17 | 絵カード
2009-12-31

花火工場のあった六反田池は、子どもがあまり近づかない辺鄙な場所でした。でもも、花火工場を見たいと思い、こっそり行かれた方がいます。それで絵が復活したのです。

●花火工場

草津東高校は、六反田池(六反池という人もいます)という大きな池を埋めて建てられました。そのグラウンドにあたるところには、花火工場がありましした。工場といっても小さな平屋の建物でした。六反田池の周りは人家がなく、花火工場は人里はなれてひっそりと建っていたので、危ないので行かないようにと言われていました。そう言われると、ついつい行ってみたくなるのが子どもたちで、大人の目を盗んでは行っていたようです。 
県内の花火大会では、この工場の花火を使っていたようですが、しばらくして工場は、石部の方へ引っ越して行きました。

絵カード19 蚊帳ホタル

2009-12-31 23:20:37 | 絵カード
2009-12-31

蚊帳は記憶があるので描けました。こんな感じで、開けっ放しで寝ていました。

●蚊帳ホタル

伊佐佐川ではたくさんのホタルがいて、ホタルとりをしました。菜種がら(菜種の実をとったあとの乾燥した茎や根の部分)を竹ざおの先につけて振り回します。網のかわりに、やさしくホタルを包み込むようにとるのです。とったホタルは、木や竹で作ったカゴに入れて家へ持って帰りました。
寝る前のイベントは、とってきたホタルを「蚊帳(かや)」の中に放すことです。部屋の電気を消すと、蚊帳の中の数十匹のホタルが子どもたちの枕元を飛び交いました。光がついたり、消えたり、ゆらゆらと動いたり、とってもきれいななかで子どもたちは眠りにつきました。

絵カード18 水汲みの手伝い

2009-12-30 22:06:06 | 絵カード
2009-12-30

この頃は五右衛門風呂と長州風呂があったそうで、この絵は五右衛門風呂です。あとで圧倒的に長州風呂を使っていたという声があがり、実際の絵図には長州風呂が描かれています。どっちにしても、水汲みは子どもの仕事だったようです。

●水汲みの手伝い

昔は、今のように水道が通っていなかったので、ポンプを使って水を汲み上げていました。ポンプを動かすとガチャガチャ音がするので「ガチャポンプ」と呼んでいました。それより前はつるべ井戸を使っていました。渋川の地下水はとても金気(かなけ)がきつく、鉄分を含んだ赤い色をした水でした。赤い水は、体に害をおよぼすということはなかったのですが、それぞれの家にはろ過器が置いてありました。
お風呂は「もらい風呂」と言って、3軒ほど15、6人で誘い合って入っていました。お風呂の水はバケツに10杯以上必要で、それを汲むのは子どもたちの仕事で、汲み上げた水は一滴もこぼさないように運びました。とてもきつい仕事でしたが、子どもたちは水の大切さを感じ取ることができました。

絵カード17 井戸端

2009-12-30 09:19:15 | 絵カード
2009-12-30

井戸端の様子。洗濯物干しや行水が懐かしいですね。

●井戸端

井戸の水はとても冷たく、夏はスイカやトマトをつけておくと、とても冷たくなりました。昔は、水道も冷蔵庫もなかったので井戸端は暮らしの中心となる場所でした。
夏の暑い時は、タライに井戸水を入れて行水(ぎょうずい)をしました。洗濯をしたり食事の支度をしたりして、井戸端は、賑やかで楽しい思い出がたくさんありました。
洗濯は、川ぞいの家ではカワトですることもありました。カワトというのは、川へ階段でおりて行った低いところです。洗濯板でごしごしと汚れをおとすには、力も時間もかかりました。

絵カード15 草津線踏切

2009-12-29 16:52:06 | 絵カード
2009-12-29

これは踏切です。踏切は3カ所、草津線と東海道線の北、東海道線の南にありました。致命的な間違いは、線路は盛り土で、踏切はその上にあったので、こんなに平坦ではないということです。実際の絵図では、高低をつけたので、道が上がったり下がったり、でも実際はそうだったようです。

●草津線踏切

渋川東の人たちは、西側の田んぼに行く時には、牛を連れて線路を渡っていました。一度、牛の足が線路の間に挟まって抜けなくなり、大変困ったことになったそうです。そのころは列車の本数が1時間に1本か2本だったので、牛だけでなく線路を横切る人がとても多かったのです。また、鉄道の盛り土も今よりはもっと低かったのです。
踏切には、踏切番が住み込みで働いていました。官舎には家族がいっしょに住み、協力して踏切を守ったそうです。踏切には小さな踏切小屋がありました。子どもたちは、家にストーブなどないので、暖まるためによく踏切小屋に遊びに行きました。畳一枚分ぐらいの狭い小屋に石炭ストーブがあり、とても暖かい場所でした。列車がくると電話のベルが鳴り、それを合図に踏切番が遮断機をおろします。列車が行ってしまうと遮断機を上げ、列車番号や時刻などが記されたアルミ札を下に動かすのを子どもたちは、じっと見ていました。渋川には踏切が3か所ありました。


絵カード16 路地裏遊び

2009-12-29 11:56:59 | 絵カード
2009-12-29

路地裏の遊びは、ほとんどの方の記憶にあります。渋川はまちだったので民家もこんな感じかなあといいながら描いてくださいました。ゴミ箱、電柱が懐かしいです。

●路地遊び

渋川には、狭い路地がたくさんありました。路地とは家と家との間の狭い通路のことで、車が通らないので子どもたちの安全な遊び場でした。上級生も下級生も女の子も男の子一緒になり、走り回ったり、かくれんぼをしたりしていました。昔の子どもたちに人気のあった遊びは、メンコ、胴馬、チャンバラごっこ、ゴムとび、かんけりなどでした。
路地には、電柱やゴミ箱など遊びに使えるものが多いのです。かんけりは電柱にタッチ、ゴムとびのゴムは電柱にくくりつけました。また胴馬の支えも電柱でした。
ルールや遊び方は、自分たちで考えて決めました。朝から暗くなるまで泥だらけになって遊びまわっていたのに、誰からも怒られない毎日でした。おやつは5円玉・10円玉を握りしめて、みんなで近所の駄菓子屋に買いに走りました。

絵カード14 レールセンター

2009-12-28 13:12:24 | 絵カード
2009-12-28

今の近鉄百貨店のところです。煉瓦造りの建物は少し前まであったので記憶があります。少年時代をそこで過ごした方が描いてくれました。野球やトロッコで遊んでいますが、実はここは遊んではいけないところだったそうです。今でいうと立ち入り禁止ですが、もう時効なので描きました。細かいけどいろんな場面で構成されています。

●レールセンター

今の近鉄デパートとマンションが建っている三角形の土地は、以前は国鉄(現在JR)のレールセンターでした。修材場と呼ぶ人もいます。そこは、レールをつなぐ・切る、また枕木や砂利(じゃり)の交換などの保線の仕事をしたり、列車の修理をしたりする所でした。のこぎり型をした屋根の建物からは、修理をする時の金属をたたく音が、遠くまで響いていました。
他にもたくさんの建物があって、赤レンガづくりの機関車庫や、汽車に水を補給する給水塔、また汽車の向きを変える転車台などもありました。すみっこにはコークス(燃料として使った石炭の燃えかす)が積んであって、渋川の人たちは「アース山」と呼んでいました。子どもたちは、アース山に上り下りして遊びました。近くには保線の仕事に使うトロッコがあって、3・4人乗って1人が押す「トロッ遊び」を内緒でしました。広い場所があったので野球もしました。バットはレールセンターの中にある棒切れをけずって、グラブはお母さんの手作りのものを使って、それぞれが工夫して遊んでいました。



絵カード13 かいどり

2009-12-28 09:38:27 | 絵カード
2009-12-28

かいどりというのは、掻いて採るという語源だそうです。池の水を抜いてかいどりを行うのと、川をせき止めて行うのとがありました。この絵は、童子川のかいどりのつもりだったのですが、川幅はもっとせまく、もっと浅いというお話で、実際の絵図はそう修正しました。

●かいどり

11月終わりから12月にかけて田んぼの水がいらなくなると、大きい川の堰(せき)が一斉にあけられ、その下で網やバケツで受けて魚をとる光景がみられました。また、堰では川の水が全部かき出されるので、コイ・フナ・ナマズ・ウナギなどがはねました。今の草津郵便局の前は大きな堰き止めの水たまりがあって、オイルと呼ばれていました。その辺りでは、大人も子どもも手づかみで魚をとりました。土の中に手をつっこんでとったドジョウは、その日の晩ご飯になりました。水をかい出して魚をとるので、「かいどり」と言います。
また童子川という浅い川があって、子どもたちはそこでも「かいどり」をしました。みんなで水路に土を盛って川をせき止め、網や手づかみで魚をとりました。たくさんとれて、これはもう楽しくてしかたがありませんでした。

絵カード12 川でおよぐ

2009-12-27 21:03:02 | 絵カード
2009-12-27

 この現場は信じられないでしょうが、今の草津郵便局の前です。川をせき止めた溜まりがありました。おおゆる川ともいわれているのが、オイルという呼び名になったそうです。カミダイやフサキやユカワなど、最初は??の言葉にも慣れました。建物は行者堂なのですが、何回も移転していて位置が定かではありません。子どもの絵は実際の写真をみて描きました。

●川で泳ぐ

渋川は昔から川や水路の水が美しく、どこでも泳ぐことができました。ところどころで川を堰き止めていて、場所によって「カミダイ」「フサキ」「オイル」などと呼ばれていましたが、そこでは特によく泳いでいたそうです。
その頃は、今のような水着もなく、男の子はお母さんに黒い三角フンドシを作ってもらって、先輩につけかたを教えてもらいました。女の子は黒い水着を着ていました。小さい子は大きな子に水の中へほおりなげてもらって泳ぎを覚えました。少々手荒いようですが、小さい子にとってはとても楽しい時間でした。「カミダイ」から「フサキ」まで川の中を移動する時には2列になり、前後に先輩がついて泳いで行きました。水の中はヘビが多いのですが、ヘビが苦手な子でも先輩がついているのでへっちゃらでした。

絵カード11 水車にタヌキ

2009-12-27 19:11:18 | 絵カード
2009-12-27

水車は4カ所あったそうです。これは西渋川の水車のつもりですが、実際は5メートルもあったとか。また水路の様子もよくわかりません。絵図には、ちゃんと書きたいとおもいますが、タヌキがかわいすぎますね。

●水車にタヌキ

昔、渋川には、水車が4つありました。水車は、米をつくためのものです。「米つき」とは、玄米を白米にすることです。川から幅1mぐらいの水路を引いてきて、水の流れる力を使って水車をクルクルと回します。歯車があって、回転する力を上下に動く力に変えます。シャフトという棒が上へもちあげられると、急にはずれるようになっていて、ボトンと落ちてお米をつきます。水車の大きさは5~10mととても大きいものでした。
水路ではコイやフナなどの魚がよって来ました。そして、今度はその魚を目当てに、タヌキがやって来ます。また、タヌキは、水車の車軸用の菜種油をなめるためにもやって来ます。水車の周りには、アヒルやニワトリもいました。



絵カード10 農作業の手伝い

2009-12-26 18:09:26 | 絵カード
2009-12-26

子どもの仕事は多く、賑やかだったと思います。実際は藁運びや藁拾いなど、根気よくしていたのでしょうか。農機具は今も残っています。

●農作業の手伝い

秋になると、渋川の田んぼでも稲刈りが始まり、みんな大忙しです。今はコンバインを使うので、藁(わら)は刻(きざ)んでばらまかれますが、昔はその藁もいろいろなことに利用していたので、田んぼの中に大事に干されました。「ハサがけ」といって今も見ることがあります。
子どもたちは学校へ行く前や学校から帰ってから、稲運びや脱穀(だっこく)の手伝いをしました。脱穀は足ふみの機械で、慣れると稲の穂から籾(もみ)が上手にとれました。家族みんなで田んぼの仕事をするので、赤ちゃんは「ふご」に入れられていました。子どもたちはみんなで交代して赤ちゃんのお守りもしました。
また、家の庭には一生懸命とった籾が干してありました。にわか雨が降ると、子どもたちは遊んでいてもみんなでモミをなおし、また遊びの続きをしました。農作業は、子どもたちにとっても生活の一部でした。

絵カード9 しば刈りの手伝い

2009-12-26 13:23:34 | 絵カード
2009-12-26

金勝山のしば刈りですが、とったしばは「つし」という屋根裏に積まれるそうです。屋根を切り取って書いていますが、これは全くの想像です。

●しば刈りの手伝い

昔は、今のように、スイッチ1つで、ご飯を炊いたり風呂を沸かしたりできませんでした。金勝山から「しば」を刈ってきて、それを燃料にご飯などを炊いていました。特に冬は燃料がたくさんいるので、雪の中も遠い山まで、大八車をひいて行きました。
とった「しば」は大八車に積み上げ、その大八車を後ろから押すのが子どもの仕事でした。大八車は2輪なのでバランスを取るのが難しく、川の石で重心を調節しながらゆっくりと家まで運びました。
持って帰ったしばは、「つし」といって、家の天井裏のようなところに上げて保管をしていました。

絵カード8 学校道

2009-12-25 10:22:33 | 絵カード
2009-12-25

 今も学校道と呼ばれている、小学校へ行く道です。かなりの距離を歩いて通ったそうです。この絵を描いてから、昔の治田小学校の写真が見つかりました。実際の絵図では、治田小学校の校舎が再現されています。


●学校道

渋川は草津市に合併される前は栗太郡治田村で、子どもたちは治田小学校に通っていました。小学生は、治田小学校まで、とても遠い道のりを毎日通っていました。伊砂砂神社の横の道を、今も地域の人たちは学校道と呼んでいます。特に冬の通学は大変で、雪の中をつるつる滑り、ひっくり返りながら歩いていました。先生方も歩いて通っていたので、同じように滑っておられたそうです。昔の小学生の手は、アカギレやしもやけだらけなので、毎朝、神社のたき火で手を温めてから出発しました。渋川地区が草津市になってからは、草津小学校に通うようになりました。


絵カード7 染屋(紺屋)・提灯屋

2009-12-25 09:24:45 | 絵カード
2009-12-25

商店はかつて40軒程ありましたが、絵にあるのは聞き取りに出ていた2つのお店です。想像で書いたので、染屋の壺の位置があいまいです。

●染屋(紺屋)・提灯屋

渋川のお店は、一番多い時で40軒ほどありました。お店というと大きな看板があるのがふつうですが、渋川の街道沿いのお店は、あまり看板を出していませんでした。八百屋、米屋、魚屋、お菓子屋など食べ物を売るお店や、散髪屋、薬屋、医院など、近所の人が毎日暮らすのに必要なお店ばかりだったので、看板は必要がなかったのです。今珍しい店としては、染屋(紺屋)、提灯(ちょうちん)屋、ブリキ屋、桶屋などがありました。提灯屋さんは今も仕事をされています。少し昔ですが東京の浅草寺の提灯も渋川で作られました。  
紺屋(染屋)は、糸や布を藍(あい)で染める店です。染め上がりはその名のとおり、きれいな藍色(紺色)です。ですから、染屋のおじさんの手もいつも藍色に染まっていました。店の中には、大きな瓶(かめ)がいくつも埋めてありました。子どもたちは格子戸のすき間から店の中をのぞきながら、絞るときにキュッキュッなる音を不思議そうに聞いていました。

絵カード6 古式花踊り

2009-12-24 18:11:23 | 絵カード
2009-12-24

これも、今も続けられています。毎年、写真が残っています。

●古式花踊り

9月13日に伊砂砂神社に奉納される花踊りは今も続いています。花踊りは雨乞いの行事で、草津市の無形文化財に指定されている大事な行事です。雨乞いというのは、田んぼの水がなくならないように、雨が降るのを神様にお願いすることです。
昔は青年団といって、15才から25才の若者の集まりが地域にありました。その青年団の人たちが花踊りを舞っていました。花踊りはとても体力のいる踊りです。若者は3日前から猛練習し、祭りの日を迎えます。今も同じ形で残っていますが、踊り手に若い人が少なくなったことが、一番の悩みだそうです。