風景の記憶絵

「まちの風景の記憶」を絵にしましょう。みんなが語り部、そして絵描き・・これは、まちのカタチメモリアル事業の記録です。

学校道 治田小へ

2009-03-29 22:38:37 | 歴史をひもとく
2009-3-29

 渋川地区の子どもたちは、渋川が草津市に合併するまでは、栗東の治田小学校に通っていました。その渋川地域の方々が「学校道」と呼んでいる道を歩いてみました。

 伊砂砂神社→通称渋川道→栗東方面へ東に向いて真っ直ぐ→国道1号線・国道を渡る→真っ直ぐ東へ→新幹線高架→真っ直ぐ東へ→治田小 片道30分くらい

 通称渋川道は、小学校の近くまで真っ直ぐで、今でも見通しは良いのですが、新しい民家や、事業所の事務所などがびっしりと建て込んでいました。綺麗な舗装された歩道を歩いたので、思ったよりも近かったような気がしましたが、昔は、土の道(砂利道)だったので歩きづらかったと思います。今日は、風がきつく、寒い日で、この道が風の通り道になっているのに驚きました。

 その頃の思い出を語っていただいた一部です。

「草津市と合併の時はね、7月まで治田小に籍があったんですわ。2月からは籍を抜いて全員で草津小に転入したんですわ。」

「治田小までの道はねえ、何もなくてね、小柿の方に少し家がありましたかね。寂しい道で、長い道中でした。何も景色に変化がない所で、途中で池がありました。」(この池は、今もありました。)

「治田小学校まで約2㎞ですが、雪の中を通学しましたわ。雪の中、靴がなくてねえ。道がツルツルでひっくり返って、先生もひっくり返ってましたわ。下駄履いて行ってました。事故や事件の心配はありませんでしたからね。国道言うても、車が頻繁に通ってるていうわけでもないですからね。」

「1学年白組・赤組と2組あって、1組に40数名いましたかねえ。みんな、ほとんどランドセルを持っていましたね、その時分は、揃ってなくても、何にもなくても恥でも何でもなかった頃ですもんねえ。」

「机はふたつきの木製で、イスも。教室はガタガタの古い建物で、風が吹くとすき間風がきつくてね。職員室の真ん中にはストーブがあって、パイプで外へ煙が出るようになっていました。教室は、ストーブがありませんしね、寒いのに震えもってねえ。その頃は、よう雪が降りました。こづかいさん(用務員)がいて、こづかい室もありましたね。住み込んでましたね。」

戦争中の思い出もあり、登校時に戦闘機が飛んでくると、家の近くだと家へ帰り、学校の近くだと学校の近くの竹やぶに逃げ込んだそうです。

中学校へはさらに遠かったそうです。

シーンを絵にすると

2009-03-19 18:19:45 | 絵図をつくる
2009-3-19
 
先日、「風景の記憶絵(絵屏風)」の聞き取り会で地域の方から伺った話のほんの1シーンを絵にしてみました。

「踏切があってね、あっちとこっちとに分かれてて、番しているおじさんがおられてね、汽車が来るとね遮断機を下ろして、『はよ通りや』て言うてね、渋川へ寄せてもらいました。するとね、草津線にも踏切があって、それにも踏切番の人がおられて、貨物がほとんどでしたけど、汽車を待ってて、そんで宮さんの方へ行きましたわ。踏切があったんですわ。」
「草津線に踏み切り番がいましてね。汽車は、駅まで行ってバックしてね、方向転換してね。草津駅に入れますやんかあ、機関車の頭だけを方向転換してましたわ。・・・踏み切り番がいました。国鉄の黒い帽子と服を着てね、Yさんて言うて、職員の人で、家がありましたわ。こっちの方は、畳の間がありましてね、仮眠してました。一軒家があってね、当てもん屋でしたわ。ただ、置いてるちゅう感じやったけど。お父さん、お母さんは、いはらへんような、おばあさんやった。」
「ここいらへんは、みな田んぼでしたわ。ここも、ここも、汽車はシュッポシュッポのもんでしたわ。周りは、みんな田んぼでしたわ。」

ところがデッサンしてみると、踏切番さんの服装、旗を振っていたのか遮断機があったのか等わからないことがいっぱい出てきました。まだまだ、色々な話をお聞きしたい、お聞きしなければ、ということで、4月8日に4回目の「聞き取り会」を計画をしました。

「第4回風景の記憶絵 聞き取り会」

日時 平成21年4月8日(水)13:30~15:30
場所 灯心草舎(とうしんそうしゃ)
問合せ先
(特活)おうみNPO政策ネットワーク 
 FAX 077-566-6386