風景の記憶絵

「まちの風景の記憶」を絵にしましょう。みんなが語り部、そして絵描き・・これは、まちのカタチメモリアル事業の記録です。

絵カード8 学校道

2009-12-25 10:22:33 | 絵カード
2009-12-25

 今も学校道と呼ばれている、小学校へ行く道です。かなりの距離を歩いて通ったそうです。この絵を描いてから、昔の治田小学校の写真が見つかりました。実際の絵図では、治田小学校の校舎が再現されています。


●学校道

渋川は草津市に合併される前は栗太郡治田村で、子どもたちは治田小学校に通っていました。小学生は、治田小学校まで、とても遠い道のりを毎日通っていました。伊砂砂神社の横の道を、今も地域の人たちは学校道と呼んでいます。特に冬の通学は大変で、雪の中をつるつる滑り、ひっくり返りながら歩いていました。先生方も歩いて通っていたので、同じように滑っておられたそうです。昔の小学生の手は、アカギレやしもやけだらけなので、毎朝、神社のたき火で手を温めてから出発しました。渋川地区が草津市になってからは、草津小学校に通うようになりました。


絵カード7 染屋(紺屋)・提灯屋

2009-12-25 09:24:45 | 絵カード
2009-12-25

商店はかつて40軒程ありましたが、絵にあるのは聞き取りに出ていた2つのお店です。想像で書いたので、染屋の壺の位置があいまいです。

●染屋(紺屋)・提灯屋

渋川のお店は、一番多い時で40軒ほどありました。お店というと大きな看板があるのがふつうですが、渋川の街道沿いのお店は、あまり看板を出していませんでした。八百屋、米屋、魚屋、お菓子屋など食べ物を売るお店や、散髪屋、薬屋、医院など、近所の人が毎日暮らすのに必要なお店ばかりだったので、看板は必要がなかったのです。今珍しい店としては、染屋(紺屋)、提灯(ちょうちん)屋、ブリキ屋、桶屋などがありました。提灯屋さんは今も仕事をされています。少し昔ですが東京の浅草寺の提灯も渋川で作られました。  
紺屋(染屋)は、糸や布を藍(あい)で染める店です。染め上がりはその名のとおり、きれいな藍色(紺色)です。ですから、染屋のおじさんの手もいつも藍色に染まっていました。店の中には、大きな瓶(かめ)がいくつも埋めてありました。子どもたちは格子戸のすき間から店の中をのぞきながら、絞るときにキュッキュッなる音を不思議そうに聞いていました。