風景の記憶絵

「まちの風景の記憶」を絵にしましょう。みんなが語り部、そして絵描き・・これは、まちのカタチメモリアル事業の記録です。

絵カード5 御輿

2009-12-24 17:09:25 | 絵カード
2009-12-24

御輿は今も続いています。絵は地域の方が書いてくれたので生き生きとしています。

●神輿(みこし)

渋川は草津市に合併される前は栗太郡栗東町で、子どもたちは治田小学校に通っていました。そのころ伊砂砂神社の祭りは5月13日で、必ずしも日曜ではなかったので、祭りの日には治田小学校の約4分の1にあたる渋川の子どもたちの姿が学校からいなくなったそうです。御輿は光明寺を昼前に出発し、夕方まで町内を回ります。御神輿は大人たちが担ぎ、子どもたちは、「榊御輿(さかきみこし)」という子どもの御輿を担ぎました。稲荷神社をはじめいくつかの御旅所で休憩をしました。
みんな白の半纏(はんてん)姿で背にはお宮さんの紋が入っていました。それぞれの家の門には紋付の暖簾(のれん)と軒には御神灯(ごしんとう)が下がっていました。渋川は多くの人でにぎわいました。

絵カード4 中山道軒先

2009-12-23 23:04:20 | 絵カード
2009-12ー23

中山道は国道8号線がなかったので、対面通行でした。軒先を削る絵は難しいので、なかなか表現できません。

●中山道

江戸時代の中山道は、旅人や荷物を運ぶ馬などでにぎわっていましたが、昭和30年前後の渋川あたりの中山道は、今の国道8号線がなかったので、ずいぶん通行量が多い道でした。狭い道をバスやトラックが対面通行していました。ぎりぎりの幅でトラックやバスがすれ違うときに、車が家の屋根の軒先を削るので、近所の人は大迷惑でした。
戦後は物資のないときでしたので、バスは今のようなバスも走っていましたが、「木炭車」といって昔から使われているバスもまだ使っていました。木炭をたきながら走るので、車の後ろから煙があがります。昔は葉山川が天井川だったので、バスはその手前でバスをいったん止めて木炭を足しました。そして黒い煙をもうもうと上げながら一気に坂を登っていく姿が毎日みられました。
また、中山道は今のように舗装(ほそう)されてなくて土の道でした。ですから道がでこぼこで、砂ぼこりがたち、雨が降ると水たまりができて、水しぶきがはねて大変でした。

絵カード3 農事試験場

2009-12-23 21:05:06 | 絵カード
2009-12-23

隣には実験田があったようで、航空写真には建物の配置と一緒に写っています。これも資料の写真が残っていてます。

●県立農事試験場

昭和4年から49年まで、渋川小学校や県立草津東高校の隣の空き地には県立農事試験場がありました。農事試験場は、肥料や馬や牛などのエサや作物の病気などを研究したり、農機具を開発したりする所でした。春と秋には、新しく開発された農機具の展示会や研修会が開かれ、多くの人たちが集まってきました。アドバルーンが上がり、お祭りのようににぎやかで、近所の人たちも展示会を楽しみにしていました。
庭にはクローバーが植えてあって、女の子たちは花の首飾りや冠(かんむり)を作って遊びました。また、農事試験場には野ウサギ、タヌキ、キジ、サギなどの動物も多くいました。昭和49年に試験場は移転しましたが、併設されていた県立農業短期大学の跡は今も残っています。

絵カード2 草津競馬

2009-12-22 12:00:08 | 絵カード
2009-12-22

競馬場は、写真があるので位置などはほぼ正確だと思いますが、走っているのは本当は農耕馬だそうです。競馬は草津川でも行われていました。

●にぎやかだった草津競馬

草津の競馬場は、今のAスクエアのところにありました。一周1000mなので、ずいぶん大きな競馬場でした。草津競馬場は昭和6年から始まりましたが、戦争の時には中止になりました。戦後すぐ、少しの間だけ開催されましたが、昭和26年にすべて廃止になりました。
一番にぎやかだった頃は、臨時列車が出て2万人もの人が競馬場に集まったそうです。草津駅には東口しかなかったのですが、開催日には西口の臨時の改札口から、あぜ道に長い行列ができました。馬場(ばば)の中央は田んぼのままで、競馬のないときには田植えや稲刈りが行われていました。子どもたちは柵(さく)の外からよじ登り、競馬を見ていました。




絵カード1 草津駅

2009-12-22 10:48:56 | 絵カード
2009-12-22

年末・年始にわたり、小学校用に描いたスケッチを20枚ご紹介します。お年寄りの聞き取りから描いたのですが、いざ絵にしてみると後になって違うところが見つかってきます。実際の絵図では、さらに改善されると思いますのでご容赦を。

まず草津駅です。今の東口ですが、バスの色が話題になっています。

年明けののんびりした時間にじっくりみてくださいね。説明は、小学生向けに作成したものです。


●草津駅

今は大きな草津駅ですが、昔は木造の小さな駅でした。今の東口の駅前広場もせまく、バスは何度も切り返しながら方向転換しました。昭和30年代頃は鉄道の電化が始まり、ちょうど蒸気機関車と電車が入れ替わったころでしたが、草津線ではまだ蒸気機関車が走っていました。
草津駅前の建物は、鉄道のための施設(車庫や修理工場など)と駅の人のための施設(官舎)、貨物の倉庫などが中心で、商店などはあまりありませんでした。お店は、南洋軒(今も草津駅に売店があります)が1軒だけで、駅を利用する人が簡単な食事をしたりする場所でした。大きな藤棚があり、憩いの場所となっていたようです。他にバスの営業所、交番などがありました。その後、多くの人が電車を利用したので、草津駅はだんだん大きくなって橋上駅になりました。そして駅前にもお店が増えてきました。

渋川のうた??

2009-12-17 08:37:33 | 絵図をつくる
2009-12-16

絵図づくりに集まっているうちに、曲が出来てしましました。
節もついているのですが、歌っているうちにメロディーが少しずつ変わります。

とにかく芸術家が揃っているので絵になったり歌になったり。他にも楽譜にならない歌ができつつあります。絵図がしあがった頃には、組曲「渋川」ができているかも・・・。

一 近江富士から 朝日が昇り
  比叡の山に  日が沈む
  ここは渋川  豊かな大地
  懐かしい記憶が甦る
二 記憶と記憶が 重なり合って
  新しい世界が 生まれ出る
  心と心で   温(たず)ねてみよう
  新しいあなたに出会うでしょう。

配置図

2009-12-12 00:16:10 | フィールドワーク
2009-12-10

 これが配置図のパソコン画面です。上が、必要な面積をカード状に配置したもの。下は、シーン毎の手書きのスケッチをスキャナーで読み込んで、カードの上からペースト(貼り付け)したもの。
 これらは、別のレイヤー(階層)に描かれているので、最終的にはシーン画だけのこります。マス目や道・川の線も違うレイヤーにのっかっています。
 
 このシーン画とマス目のみを原寸大でプリントアウトし、切り取ってトレースに使っています。

 和紙に写すのには、1枚1枚手作業ですが、他の絵図ではスライドで映すという手法もあるということ。手作業でトレースをしているのは、渋川の絵図はとても大きいので、写す距離が足らなかったというのもあります。

全体の構図

2009-12-10 11:59:28 | 絵図をつくる
2009-12-10

 画像は、全体構図のスケッチです。この作業は、パソコン上と実際の紙ベースと両方から進められています。次のパソコン上の配置と、この手書きの構図を組み合わせたものが絵図になります。

記憶絵を使った物語を語ろう会 環境マップ

2009-12-09 21:57:30 | 立命館大学との連携
2009-12-9

後半は3つのジャンルに分けて、地元の方や、参加者と学生が一緒になって地図上にマップづくりをしました。
1)自然サイクル:炭(木)・水・米(ワラ)・牛糞・ゴミなど。
2)自然エネルギー:水車、薪、わら等
3)生き物と共生する暮らし:家畜の馬や牛、葉山川筋の動物たちの道など
 画像は、地図の作成風景です。

記憶絵を使った物語を語ろう会3D

2009-12-09 19:34:41 | 立命館大学との連携
2009-12-9
 
 立命館大学景観計画研究室の学生さんたちによる「物語を語ろう会」が、灯心草舎で開かれました。最初、先日小学校でもみてもらった、「渋川昭和の町並み6施設(県立農事試験場・県立短大・水車・競馬場・草津駅・中山道街道沿いの町並み」)の画像が披露されました。
 これは、コンピューターの3Dで作った画像で、視点軸を動かすと様々な角度から見ることができます。
 画像は、学生さんたちの力作です。

第7回制作プロジェクト会議

2009-12-08 23:09:27 | 制作プロジェクト
2009-12-8

 第7回の制作プロジェクト会議を開催しました。
絵図グループからは、絵図の進捗のプレゼンを行いました。活用グループからは、小学校との交流学習や、まるエコDAYでの発表について等が報告しました。また、まるエコDAYに上映された、6分間のムービーも上映しました。また、絵図活用のパンフレット作成についても話し合いました。
 以下アドバイザーの先生のお話です。
 滋賀県下では現在、8つの集落で心象絵図を作成しているそうです。まちの記憶は、人の記憶とともにあるといわれます。ある地域では、「過去と体験は変えられない。自分と未来は変えられる」との合言葉で頑張っておられるそうです。

下絵の描き直し作業

2009-12-06 15:38:15 | 絵図をつくる
2009-12-6

 画像はトレースした下絵を、絵師さんが直す作業です。全体のバランスが必要で、道の表現、人の大きさ、建物の角度、対象物の質感などに気を配っての書き換えです。思ったよりも、背景(田んぼのあぜや、堤防や線路の法面、川の側面、道端など)に時間がかかることがわかりました。

建物を描く人、道を描く人、人を描く人、自然物(木や草)を描く人等と、自然に分担ができてきています。せっかくのトレースもほとんど描き直して、忍耐強い作業となりますが、立体感がでると確かに昔の街並みに近づいていきます。多少のデッサンのぶれは覚悟して、またいいもち味として、年末までは描ききることになりそうです。
 

懐かしい未来の地域づくり~中山道とともに~

2009-12-03 23:11:09 | 資料活用グループ
2009-12-3

 びわこまるエコDAYの地域づくり交流会「懐かしい未来の地域づくり~中山道とともに~」(滋賀県自治振興課主催)に、記憶絵から話を提供しました。以下、そのお話の内容からです。同時に絵図の下絵のパンフレットを配布し、短いムービーを作成し上映しました。(画像)

・栗の木の伝説
 渋川は昔は栗太郡だった。栗太という地名の由来は、大きな栗の木が金勝山に立っていたことによる。その栗の木は、朝、日が昇ると丹波の方まで木陰をつくり、夜には伊勢の方まで木陰を伸ばしたという。しかし人々は、多くの作物を作るために、命の糧を得るために、栗の木を切ってしまった。金勝山は渋川にとっては大切な山、山から水が流れ葉山川・伊佐佐川となり、渋川の町を流れ、びわ湖に流れる、金勝山とびわ湖までの水の流れ・命・文化の流れがいつも生活の中にあった。

・花踊り
花踊りのおこった室町時代は、農業が暮らしの中心だった。人々は自然を感謝し、また畏れてもいた。旱魃時は雨乞いをし、その雨乞いの踊りが「花踊り」である。500年前の地域の人々の思い・願いは今も繋がれている。

・寄り合い所帯
江戸時代は中山道筋でまちも栄えるようになったが、もとは幕府からの指示で、色々な村から人々が寄せられた「寄り合い所帯」のようなまちであった。ものを作って売ってきたこともあり、生活をしていくための「技」も集積してきた。

使えるアイテムの発見

2009-12-01 13:48:54 | 絵図をつくる
2009-12-1

 トレース作業が続いています。始めはおそるおそるですが、使えるアイテムを発見してからは、少し気楽になりました。
 ・・・それは、練り消しです。
 
 鳥の子紙は和紙なので、繊維があってこするとちょっと大変だったのですが専門家の使うちょっと高めの練り消しは、4Bの鉛筆の線を上手く消してくれます。だからといって濃く書くと、紙が厚いので筆圧で線が彫れてしまいますので、消しても彫りが残ります。
 とはいえ、このアイテムがきてからは、修正が可能なのでみんな気軽になり筆がすすみます。

 絵図は大切なものですが、あんまり緊張しても描けないというお話です。