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柳条湖事件

2012-09-18 03:11:31 | 日記



 この日、瀋陽の夜(10時20分)公共交通機関は一斉に警笛を鳴らします。

1931年9月18日午後10時20分、日本関東軍の南満州鉄道警備隊柳条湖分隊は、柳条湖の満州鉄道の線路を爆破し、中国人に襲撃されたという、自作自演の謀略行為を行います。
これを理由に、関東軍は瀋陽に軍事侵攻し、その後半年の攻撃で、中国東北3省100万k㎡3000万の中国人民の軍事支配を開始します。
 
 日本国内では関東大震災と東北飢饉、海外では1929年に世界大恐慌が発生しました。1929年から1931年に日本の海外輸出は76.5%減少、海外輸入は71.7%減少しました。1931年の国内の失業状態者は約400万人にもなり、戦前の日本では珍しかったストライキも発生し過去最高の2415回に達したと言われます。日本政府は中国満州に活路を見出します。軍部がこの政策を先取りして、関東軍が瀋陽に軍事侵攻するために、謀略行為を行ったことを、後に関東軍の責任者らは証言しました。

日本では、奉天(瀋陽)事件、9.18事件、とも言われましたが、やはり満州事変の開始日と言うのが一般的です。日本関東軍の中国軍の犯行によるとの偽の発表で、終戦まで、国民党か張学良らの犯行だろうと、日本国内では信じられていましたが、戦後に事実解明がされました。

 当時、中国東北一帯は張作霖の息子の張学良の奉天軍閥が支配していました。昭和天皇と同年生まれで、20歳の時に日本に来日した張学良は、当時皇太子であった昭和天皇と容姿が非常に似ていて日本で驚かれた逸話などもありますが、大変な親日家でした。しかし、父の張作霖を日本軍が爆殺した事件で日本が国際的な批判を浴びるにいたり、張学良も日本に敵対的な行動を取るようになります。

 満州事変勃発時、日本軍侵攻の報告を受けた張学良は何故か日本軍への不抵抗を現地の東北軍に指示しました。(そのため張学良は、その後も「不抵抗将軍」として中国内外で非難さえ浴びました。)後の日に「応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判断」「日本と平和解決を望んだということの他に、日本にとっても国際的な非難を浴びるなど好ましくない結果をもたらすだろう」等、日本のことさえも考えたと、日本放送協会の取材に応じて述べています。

 また、国民党も、中共との内戦のため、対日戦には兵を多く割く余裕があまり無かったことと、日本が、満州事変を契機に全面戦争に踏み切るとは、予期だにしていなかったこともあり、張学良の判断と同じく、当初は日本とは戦わない路線だったと言われます。しかし、予想に反して関東軍は、中国東北3省3000万人の軍事制覇をいっきになし遂げました。

 全てが日本の関東軍によって行われた、日本軍の謀略事件でした。1932年1月には上海で買収した中国人に日本人僧侶を襲わせ出兵させるという自作自演の第1次上海事変も日本軍と清王朝の娘が起こしました。戦前の日本は、謀略がお家芸であったのは事実です。

 しかし、謀略を起こす組織力は、もう戦後の日本には全くありません。戦後は、某国の謀略が有名で、現在でさえも世界政治を動かしているという人もいます。しかし、今日の中国には戦時中の残虐行為しか知識として普及しておらず、戦中は日本人の一般民衆も戦争の犠牲になり、戦後の民主国家の下で初めて日本は平和で豊かになれた事実を中国の青年は知りません。

 映画「明日にかける愛」は、中国東北地方(満州)の残留日本人孤児の祖母を持つシングルマザーの話で、幼少期に中国から日本・青森に転校してきた過去が主人公にはありますが、幼馴染の中国人と仕事で再会し、忘れかけていた本当の自分を取り戻して行く日中40周年を記念して政策された日本映画です。青森観光のアピールにもなると期待されていたのですが、残念なことに今回の反日デモで中国上映は中止となりました。

 中国残留日本人孤児の悲劇は1945年8月の日本の敗戦時に起こりました。中国東北部には満州国への移民政策推進の日本国策のもとで日本人開拓団として入植し戦前の日本政府は20年間で500万人の日本人の満州移住を計画して、多くの日本人が満州に移民し155万人程にもなりましたが、日本は満州国に国籍を認めず日本人は日本国籍の地位を満州国でも保持し続けました。

 敗戦の年の8月9日ソ連軍は対日参戦し、満州の日本人社会にも攻め入ります。終戦時ソ連侵攻と関東軍の撤退によって日本軍の支配権と、それに基づいた日本人社会は崩壊します。ソ連軍は暴行、略奪を日本人に繰り返しました。
 そして、終戦の翌年には、在留日本人は国民党と共謀して通化市では中共軍に武力蜂起を起こしました。朝鮮義勇軍と中共軍による蜂起鎮圧は、日本占領時代への報復かとまで言われる程残虐で(通化事件)約3000名の犠牲者が出ました。事件後、中共軍は日本人に宥和的な態度をとるようとの異例の指示を出しました。

 貞操や子供をソ連軍に食料と交換さえした日本人も多数いました。戦後も、満州の日本人の帰国は困難を極め、避難の混乱の中で家族と離れ離れになったり、命を落とします。1946年春まで日本への帰国をソ連が許さなかったこともあり、家族離散や死別の悲劇が大量にありました。 
 当時の満州では「匪賊」の襲撃が相次ぎ治安悪化の一方で「治安維持会」を名乗る現地組織は「村を守る」という名目で日本人に物品の要求をエスカレートさせていきます。農村の中国人に貞操や子供を食料と交換した日本人も多数いました。親兄弟と死別したり、中国に置き去りにされた日本人の子供も多数いました。

 沖縄の集団自決と同様の悲劇もありました。当時の満州社会の日本人も「立派な死に方」が教育されており、満州瑞穂村の生存した日本人の引き上げ者証言では、敗戦翌月に村では495人が服毒自殺したとしています。村では「全員に青酸カリが渡され」まずは自分の子供に母親たちは飲ませたが、死に切れない日本人も多く、年配の日本人男性は刀で切りつけ、家に火も放たれたそうです。

 在満州の日本人が困窮を極める状況の中、満州残留日本人が中国カトリック教会や朝鮮人などの助けを受け、天津経由で密脱出しマッカーサーGHQ司令官に面会したことがきっかけで、GHQが動きソ連も了承し、1946年春から満州の日本人難民の送還事業が開始されました。当時、帰国事業の最高顧問には、賀川豊彦らが就任しました。敗戦時、満州には約150万人の日本人が居住していたと言われ、そのうち約20万人がソ連軍や地元民の襲撃、集団自決、病気などで死に絶えますが、105万人程の日本人が1946年5月から2年間にかけて帰国できたと言われます。

 帰国できなかった、日本人孤児は、幼児は縁故または人身売買により現地の中国人の養子とされ、残留の若い日本人女性は中国人の妻となりました。日本に帰国できた者だけが帰国し、残留者は多くが日本人であることも隠し日本人に対し憎しみと被害感情が強く残る中国社会で生活し続けました。日本政府は1958年には、満州の日本人の引揚げ事業を完全に打切ってしまいます。(悲劇は日本人だけではありませんでした。朝鮮半島に帰れなかった朝鮮人もいました。自決した日本軍と命運を共にした慰安婦も、引き上げの対象とされず、中国に置き去りにされた慰安婦もいたと言われます。)

 残留者や孤児たちは『侵略者日本』に対する中国社会の日本への憎しみを、戦後もずっと背負わされました。中国人として普通に扱われた残留婦人や孤児も多くいましたが、日本人と判明した者は、奴隷的に扱われ、学校に通えなかった孤児も多く、日本のスパイとして投獄された人さえいます。都市部でも日本人と判明すると学校では『小日本』とののしられ、文化大革命が始まると、日本人であることを理由に迫害されたり農場に追いやられました。実際は残留日本人も本土の日本人も中国人と同様に、日本軍の犠牲者でもあったのですが、中国社会では、ただ日本人という理由だけで迫害されました。


 一方、日本では残留させた子供達や兄弟達の消息を確かめたいという家族の活動が戦後にあり、周恩来への手紙がきっかけで中国でも日本人残留孤児問題の検討が始まりました。しかし文化大革命の混乱や周恩来の死去で実際に解決に動いたのはもう1980年代になってからです。1980年代から孤児2千数百人と残留婦人等が3千数百人、残留孤児らの家族約1万9千人が日本に帰国しました。その後も現在に至るまで少数ですが日本人認定者が毎年のように発生しています。特徴的なのは、中国人によって育てられた日本人の孤児の9割が東北3省と内蒙古自治区に集中していることです。租借地の日本人と日本軍との交戦の接触しかなかった地域と満州国時代に民間日本人の開拓団との交流が長かった地域との差は大きかったようです。

 日本では、日中の共同制作によりドラマ化され、1995年に放送された「大地の子」(大地之子)が残留孤児のドラマとして有名です。原作ともども名作の呼び声高いドラマですが、中国では内容がリアルすぎて、いまだに、一般に公開されていません。残留日本人が中国社会や政治に翻弄され、いかに過酷に残虐に迫害されたか、それでも中国人と友情を保ち、育ての中国人の親への尊敬と愛情を持って生きてきたか、その生き様は、日本の本土における戦後の多くの日本人にも共通します。

 日本は戦後、中国との国交回復後、ODA等で急速に中国を援助し、民間企業も大量に資本を投資し、すでに中国社会に深く根ざし、中国産業の中核にまで入り込んでいます。設備製造、金融、商社などは中国の国営中央企業にも相当する地位を持つ日本企業です。

今般アメリカに煽られた中国当局に踊らされた青年達が暴動化したり、日本車やソニーやパナソニックの製品をボイコットしても、日中の経済悪化と国民間の悪化をもたらす以外に、中国にさえ何の意味も未来も無いとも思います。

「デモが許されない国」で演出された政治デモがきっかけと言われます。姉が暮らす蘇州でも、日本料理街の被害はひどかったそうです。でも殆どは日本企業で働く日本人向けの中国人の飲食店です。店の入り口が壊され、なかの品物が略奪されたようです。愛国デモをよそおって農民工の青年達が日ごろの不満を爆発させて、略奪の暴動をしたのではないでしょうか。J 

 形式的愛国を主張する青年達は、中国人が経営する日本料理店や、中国人が所有する日本車までも攻撃し、政治に何の責任もない一般の日本人にまで暴力を振っていませんか。かつて日中戦争を起こしたのは、軍国主義と西欧思想と右翼政治であり、広範な日本人はむしろその犠牲者でした。日本鬼子の暴虐はもう前の世代の話で、今の日本人世代が無知なことにも責任はないはずです。もし戦後の日本人の、右翼や戦前の日本軍とは真反対の多くの生き様を知れば、今日の反日行為を現代の中国青年は恥じ入るしかないはずです。P


 


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