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明日の神話の経緯

2010-11-07 01:21:24 | 日記


井の頭線渋谷駅の連絡通路に展示のある岡本太郎作「明日の神話」の壁画の経緯は複雑です。

世界で初めての核兵器禁止条約が、メキシコ・シティのトラテロルコで中南米の33か国が参加し、
1967年に締結されました。翌年のオリンピックを控えたメキシコシティ中心部で建設中のホテルの
壁画の依頼を受けた岡本が選んだ絵はアメリカの水爆実験の犠牲になった日本の第五福竜丸の被曝
被害と日本の原爆被害をモチーフにしたものでした。

岡本太郎がこの壁画を作成した1968年はベトナム戦争の真っ最中でした。1968年は、3月にベトナ
ム戦争で、アメリカ軍兵士が非武装のベトナム民間人を次々と虐殺した、ソンミ村の悲劇が報道さ
れ、ついに世界中が、アメリカへの非難を開始した年でもあります。1967年4月には日本の平和団
体が出した「ワシントン・ポスト」のベトナム反戦広告に岡本の『殺すな』と大書された筆文字のメッセージが掲載されて大変な話題を呼びました。

当時も今以上にアメリカは日本の最大の利害関係国で、アメリカがくしゃみをすれば日本は、大変
なことになると言われた時代、アメリカを、こんなに正面から内政干渉まがいの非難をするのは、
とても勇気のいる行為だったと思います。

1952年にアメリカがソ連の原爆開発に対抗して原爆の数百倍から1000倍近くの破壊力があるといわれる水爆実験を行うと、1953年にソ連も水爆実験を行います。1954年にアメリカが行った水爆実験で日本の漁船第五福竜丸は被爆被害にあいます。
1957年にはイギリスも水爆実験を行いました。ベトナム戦争の悪化を踏まえ、アメリカは当時、もし中国が朝鮮戦争での場合と同じく介入してきたときには核攻撃で応酬すると主張しました。
そして1964年には中国も原爆実験に成功しついに1967年には水爆実験を行います。1968年8月にはフランスも水爆実験を行いました。戦争抑止には核が必要との神話から、各国の核開発競争が激化するなか、ベトナム戦争はいっそう悪化し続けました。

生命を支えるエネルギーの象徴、未来に向かって伸びてゆく生命の力強さを表現した、その同時期に作成された大阪万博の「太陽の塔」とは大きく対照をなした岡本の作品でした。核の「明日の神話」に警鐘を鳴らす思想と気迫が感じられる作品です。
岡本は、「この壁画は、キリストの受難(磔刑)、そして復活後の聖書のストーリーが意識されている。つまり、最後の審判だ」とさえ言いはなちました。

最後の審判とは世界の終わりにイエス・キリストが再臨し、あらゆる死者をよみがえらせて、裁き
を行い、永遠の生命を与えられる者と地獄に墜ちる者とに分ける審判です。
キリスト教徒の多いアメリカにとって、広島・長崎・第五福竜丸とベトナムで殺した死者達が復活
し、核戦争での世界の終わりに地獄に落ちるのは誰なのか連想せずにはいられない、「殺すな」の「ワシントン・ポスト」にも増して衝撃的なメッセージを持った作品でした。

メキシコ国内ではベトナム反戦運動や労働運動がもりあがり、メキシコシティのトラテロルコにある三文化広場において、全国ストライキ協議会を中心とする学生・労働者による集会が開催された、オリンピック開催10日前1968年10月2日、メキシコ軍と治安警察隊が学生や労働者に向けて発砲し、約300人にのぼる死者を出しながら、平和の象徴のオリンピックが強行されるという怒涛のメキシコ情勢のなかで壁画は完成しました。

岡本の愛したピカソのゲルニカを超える大きさと鮮明さと激しさで、しかも告発テーマの核の当事者アメリカの隣国メキシコに描かれた、岡本の生涯の作品のなかでも一番大きな壁画大作でしたが、1969年経営状況が悪化したホテル・デ・メヒコは未完成のまま壁画は放置され、その後取り外されて行方がわからなくなったそうです。

「核で日本との戦争を終わらせたように、ベトナム戦終結には核使用を辞さない」とも主張してい
たアメリカでしたが、その後、世界の平和世論と国内世論に押され、朝鮮戦争のときと同様に、つ
いに核を使用することなく1975年にベトナムから撤退します。

壁画は完成して35年間なぜか行方不明でした。
岡本の死後7年たった年に、アメリカはイラク戦争を開始しました。アメリカは、巡航ミサイルと(ユーゴ内戦や湾岸戦争でも放射能被害がでた)劣化ウラン弾という核を再度使用しました。アフガニスタンに続く戦火でアジア全体が恐怖した2003年でした。

 奇しくもその年の秋にメキシコでこのまぼろしの壁画は発見されました。
それは、死んだ岡本の魂の怒り(殺すな!・核悲劇・核神話への警鐘!)がまるで蘇ったような偶然でした。

そして、多くの日本市民の努力で返還・修復され渋谷の今の地に移設されたそうです。

 政治的発言を常に控えていた岡本でしたが芸術での爆発的な発言と行動にはいつも思想があふれ
ていました。それは、かつて中国戦線に参加した壮絶な戦争体験が根底にあったとも言われてい
ます。「血と泥にまみれたいちばん辛かった数年間だった」と岡本自身は語っていたそうです。

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1 コメント

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Unknown (深海-sinkai-)
2011-05-20 18:14:11
岡本太郎さんの生き方にはとても感動します
世間からどう見られるかなど、気にしない
その強さに深く感銘を受けます
あぁ…私もそんな風に生きたい
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