瀋陽桜 珍紅花 沈赤花 shenyang yinghua 진잇꽃

日本の桜が大好きです! 〓(*^。^*)〓J

不怕雨,不怕風,給力,今天加油!(>.<) P

・・・ M

南京大虐殺

2010-08-15 02:05:03 | 日記


東京丸の内駅は古い方の瀋陽駅と同じ系列の日本設計者によるもので姿が似ているそうです。P
でも東京駅はいつも工事中なので姿は見れませんJ。

丸の内駅から2分先のOAZOの入り口にピカソのゲルニカの絵のリトグラフがあります。P
ゲルニカの絵は、スペインの小都市ゲルニカがフランコ将軍を支援するナチスによって無差別空爆の虐殺をうけた時の怒りがモチーフです。共産党に身をおいたピカソには、反戦画家の顔もありました。

ナチスは自国民の18万人を含めユダヤ人6百万人を虐殺したといわれました。
ナチスとの戦争でソ連は約2660万人もの犠牲者をだしたといわれます。

中国は約2380万人の犠牲者が出たとも言われます。
ゲルニカ空爆の同年1937年8月、ナチスと後に同盟する日本軍の南京空爆が開始されました。

日本で知らない人も多いのは平和すぎるせいでしょうかJ。
ピカソの出身地の映画祭で賞を取った「南京!南京!」を日本人は記憶しているでしょうか。J

 スペイン第57回サンセバスチャン国際映画祭で予定された「南京!南京!」は日本配給はできませんでした。映画の視点は日本人も軍国主義の被害者でした。P
 
 一方で、広島(5年間)で約20万人、長崎(5年間)で約14万人、沖縄で約12万人(戦闘員を含めると約24万人)、この東京で、約10万~16万人市民が無差別空爆で虐殺されました。P

 1945年年3月10日、B29爆撃機による無差別爆撃を受け、東京の下町一帯は“炎の海”と化しました。一夜の空襲で、東京の下町は壊滅状態に陥り、死者約10万人、重傷者11万人、100万人が家を失ったと言われています。犠牲者の正確な人数は現在も不明です。後日数えられた頭蓋骨数は105,400体に達します。

 東京空爆で3万~5万人の戦災孤児が生じます。戦災孤児の多くは東京下町で浮浪者となりました。GHQの命令で野良犬のように浮浪児狩りが実施されました。孤児が収容された施設は鉄格子でまるで動物園扱いでした。そして、栄養失調で多く孤児が犠牲になりました。1946 年7月にお台場の施設の鉄格子の檻に裸のまま野良犬のように収容さた孤児達の写真を毎日新聞が掲載しました。

 それが占領政策でした。数々の民主化、財閥解体、農地改革、教育改革等の積極面だけではありませんでした。プレスコード等を発して情報検閲を行っただけでなく、7千冊以上反米的書物をGHQは没収します。朝鮮戦争時は、共産思想に関わる者を失業させ労組から追放しました(レッドパージ)。広島・長崎の被害を隠蔽、トルーマンの指示を受け設置されたABCC(原爆傷害調査委員会)は被爆者の遺体を強制回収・標本化、生き延びた被曝日本人のモルモット扱いは1950年半ばまで続きます。沖縄の占領支配は1972年5月15日まで27年間も続きました。

1945年8月15日の終戦当日まで続いた日本空爆は、全国に拡大し、200以上の日本の都市も無差別空爆されました。被災者は約970万人以上、31都市が市街地の7割以上を焼失しました。(ドイツ・ドレスデンでも終戦時の1945年2月に数万から数十万人の市民が犠牲になった無差別空爆の虐殺がありました。)戦後も満州で150~170万の市民の内約20万人がソ連軍や地元民の襲撃や自決や病で犠牲になりました。


広島長崎沖縄や本土空襲を含め、日本市民も約90万~94万人以上虐殺されました。
 
 南京大虐殺同様の大虐殺が日本人にもあったのです。日本軍人は、南京裁判や東京裁判で裁かれましたが、虐殺された日本民衆への罪は未だに裁かれていません。

サンフランシスコ講和条約で、アメリカへの補償請求権は放棄されますが、無差別空爆は当時も明確な国際法違反でした。

敗戦は恥でも自虐でもなく戦後平和の礎です。
 日本は、大宝律令施行から約1200年間以上も民族自決権を守り続けました、徳川時代は鎖国して平和を求めました。軍国時代(琉球併合から66年程)を除けば、約1200年間以上、海外戦は防衛の元寇戦と秀吉の朝鮮出兵だけで、外国へ派兵を殆どしていません。侵略しないことが最強の日本の防衛でした。実事求是! 事実こそが思想よりも雄弁です。不戦条約の「戦争放棄」を満州事変で最初に破った国は戦後「戦争放棄」を憲法で宣言します。(平和主義を憲法で宣言する国は、もう世界の多数派になりました。軍隊を持たない国も、もう日本だけではありません。バチカン、モナコ、リヒテンシュタイン、サンマリノ、アンドラ、アイスランドも軍隊を持ちません。)

 戦争放棄は、敗北の勝利です。太平洋戦争敗戦後は一度も戦争で殺していません。戦後の事実はどのような大国も反日主義者も反論できません。
 大戦後もアジアでは朝鮮戦争やベトナム戦争がありましたが、日本民衆は良心の声をあげました。


 東京裁判で20万以上が認定されます。(焼かれた死体、揚子江へ投棄等を含めると南京裁判の30万人に近い認定とも言われます。)残虐行為が広く行われたことを弁護人は否定しますが、南京裁判でも東京裁判でも大量虐殺事実を日本側は否定せず、フランシスコ講和条約で東京裁判の結果を日本は受け入れました。

 空爆前の南京は1937年3月時点での人口記録で101万人の都市でした(行政区と見る見解では約250万人です)。8月空爆開始後12月初めには約50万人に減った南京市民と5万人の敗残兵が、平穏を取り戻し、城外難民が復帰しても、25万人しか確認できなかったのは、日本軍も把握している統計上の事実です。(南京陥落の3ヶ月後に実施した調査(ルイス・S・Cスマイス報告)で南京の人口は25万人に減っていました。なお入城後の翌年末、日本統治下、流入民で増え1年経過時点で、40万人に回復しました。

 地形上、揚子江を経て避難するしかなく、富裕市民や国民党は優先避難しましたが、多くが犠牲になったといわれています。
それは日本の無差別攻撃の結果責任でした。中国では101万人の市民を基礎にして30万人よりはるかに多い犠牲者数を南京大虐殺数とする者もいます。揚子江流域の下関港から、船で逃亡する市民を日本軍は、大砲と機関銃で次々と射撃しています。

 1937年12月日本軍は、中国船も空爆だけでなく、12月5日、蕪湖沖停泊中のイギリス汽船2隻や、蕪湖埠頭のイギリスの会社の倉庫を爆撃。12月12日には、英国砲艦のレディバード号を砲撃、米国籍のパナイ号等艦船6隻を沈没、2隻も破壊する等、外国旗を掲揚した船も無差別攻撃しています。(安全区委員長ラーベの日記には「紅卍字会が埋葬していない死体があと3万もあるということだ。・・下関に殺到したものの、船が無かったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。」と記載されていました。)

(今日の人口は約786万人(2009年常駐)です)J

  
 国民党軍は、内陸である重慶への首都移転を行います。しかし、日本軍は、重慶と四川の各市に対して1938年末から6年10ヶ月に渡り218回の重慶無差別空爆を行ないます。死傷者総数は6万とも10万人を超えたとも言われます。南京から逃れた市民も虐殺したのでした。それは南京大虐殺にカウントされていません。

 1937年8月に日本軍による南京の空爆が開始され、それは3カ月間続きました。それは第二次上海事変での日本側の被害への報復でもあったのです。海軍航空本部教育部長の職にあった日本の大西大佐は 「南京に対してどの位空襲をおこなったかと申しますと空襲回数36回で飛行機の延機数は6百機、投下爆弾は約3百トンであります」(1937年11月15日、日本経済倶楽部での講演速記)と空爆の実態を語っています。被害報道は隠蔽されました。空爆被害と租界避難で1937年11月末時点で約50万人に市民は減ったと言われます。この空爆死も南京大虐殺にカウントされていません。


 上海駐在の岡本領事が1937年10月27日広田外相に宛てた手紙に「警察の調査によると南京市民の人口は53万人に減った」とありました。11月23日に南京市長が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡も「現在の人口は約50余万・・20万人と予想される難民のための食糧送付が必要」としています。また、東京裁判でウイルソン医師も「・・人口は100万ありました。併し占領後市民の大部分は市をさりまして、人口の総計は50万以下」と日本軍侵攻直前の12月初めの市民を約50万と証言しています。

 マギー牧師の証言では「安全地帯に入つたのは少くとも20万人で、其の外に、安全地帯に来なかった者は30万人は最低いたと見積られる」と証言しています。

一方、安全区には推定20万人以上の市民が日本軍侵攻から逃れるため集まりました。(安全区とはアメリカ人、イギリス人、ドイツ人らの宣教師や赤十字委員会が主導して設立した南京国際安全区で委員長はドイツ人のシーメンス社支店長のラーベが務めアメリカ7名、イギリス4名、ドイツ3名、デンマーク1名の計15名が管理しました。) 安全区内は、攻撃をしないことを日本は約束していました。
 虐殺か、戦闘行為被害者かの論争は別にして、12月初め50万人とも言われた南京では日本軍侵攻後には、安全区の市民約20万人と少数の未処分投降捕虜と安全区外の難民しか生存確認されていません。安全区外難民約30万人と敗残兵捕虜約5万人の約35万人が消えたのです。当初10~15万人以上いた中国軍の敗残兵約5万人と安全区外に難民化してしていた約30万人市民は日本軍に逃亡経路がふさがれており、その後生存確認された安全区内の市民20万人に含まれません。
 
 一方、当時上海にいたイギリス「マンチェスター・ガーディアン」のオーストラリア人記者のティンバリーが南京城内の安全区委員会のベイツらからの通報で「長江(揚子江)デルタで市民30万人以上が虐殺された。」という情報を、本社に電報しようとして、日本の検閲官に差し止められました。それは、日本の外務省により広田弘毅外相名でワシントンの日本大使館に転送。これをアメリカが傍受解読し、日本が30万人虐殺を認定したかのような誤解が生じたとも言われています。当時の日本政府は否定もしませんでした。(翌年ティンバリーは「戦争とは何か中国における日本軍の暴虐」を出版し上海から南京に至る被害者を30万人と記載しました。(ティンバリーがいた上海では日本軍の猛攻が続き、当初攻勢的だった国民党軍は20万人以上の死傷者を出してほぼ壊滅。日本軍は11月9日上海市を制覇します。)アメリカのライフ誌は1938年1月と5月に日本軍の南京の虐殺について特集記事を組みました。

 戦後も、南京裁判、東京裁判においても日本も認識した30万人虐殺推定が認定の前提となりました。そして、日本軍の無差別空爆、敗残兵虐殺、捕虜処分等の事実があり、市民虐殺行為の目撃証言も、当時の至るところであり、死体の揚子江流し、土埋めや、焼却の目撃がある一方で、埋葬業者の記録(紅卍会、崇善堂)集計も15万5千人以上あったことから、埋葬されなかった虐殺も含めて評価され、30万人が肯定されました。

 1980年代に日本では「諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると」とのコメントを政府から出させ、教科書から30万虐殺を消した思想闘争が日本にはあるのです。しかし、虐殺事実自体は否定できませんでした。日本内の研究では20 万人説、4 万人説、2万人説と評価の違いはありましが、最低でも2万人以上の虐殺は否定できませんでした。(似た事例としてアウシュヴィッツ収容所の記念碑に400万人と書かれていたホロコーストは1995年に150万人に書換えられました。)

 しかし、近年日本の一部の学者は、一種の戦闘行為で、虐殺ではないのだとか、民間ゲリラ「便衣兵」殺害は虐殺数には含めるべきではないとか、国民党の反戦宣伝に誇大化して写真の偽物が使われたから捏造と呼ぶべきだとか、南京入城した際の非戦闘市民は安全区に20万人なのでそれに対して30万虐殺はありえない等と虐殺対象外の人数と虐殺推定人数を混同させる詭弁と宣伝を大量に始めました。人数の論争でなく虐殺がなかったとまで最近は主張し始めたのです。

 南京「百人斬り競争」もそのひとつでした。戦中新聞(東京日日新聞)に戦意高揚で書かれた記事が証拠とされ、戦後の南京軍事裁判でB、C級戦犯としてその報道当事者の2人だけが見せしめ的に処刑されたものでした。最近、日本の論者は百人斬りなど物理的に不可能で、虐殺が虚構であると言います。しかし、大本営発表も含め鼓舞報道の虚構は一般化しており、その報道の前提には、当時当たり前のように試し斬りがあった事実は否定できません。その無念をはらすため、誇りを回復するため、論理をすり替えて「捏造」という言葉ばかりが日本では報道されました。百人ではないにしても試し斬りの虐殺普及は事実でした。(台北市の資料館に「南京の役 殺一〇七人」と日本軍人が刻んだ「刀」が展示されています。)


一部の論者は国民政府が、ティンバリーやベイツなどの外国人に依頼して、虐殺を捏造したとまで主張し、証拠に『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』の台湾の新聞記事等を挙げました。しかし、その記事は、根拠さえ不明なゴシップものでした。

また、多数の女性がレイプされたとの証言が多数あったことに対して、当時の被害者が日本軍のレイプ出産をしたという記録や証言をしない以上、彼女らのレイプ証言を全てを信用することはできない、と卑劣にも日本の一部の論者は主張しました。それは、日本に繋がる中国人が漢奸として糾弾される中国社会で日本鬼子の出産も拒否された事を承知した上での卑劣な主張でした。(ミニー・ヴォートリン女史の日記には、日本軍の婦女凌辱行為や慰安所設置の記載もありました。)

 家永教科書裁判を受けて日本のジャーナリストや歴史研究学者達が集まって1984年に南京事件調査研究会が発足し、日中双方の資料や証言を再照合し、日本人の手で大虐殺行為自体は事実認定されました。また旧日本軍兵士が虐殺行為について数多くの証言を語りだしました。歴史問題は政治と切り離して歴史家にゆだねるべきと言った2006年安倍首相は、訪中した際に中国側に提案し麻生外相との会談で決定された日中両国政府の共同歴史研究(2006年―2009年)でも、日中双方の研究委員の報告に、南京虐殺は歴史的事実として報告されました。沈静化したはずの南京虐殺否定論でしたが、戦争体験者が減った最近の論調で虐殺がなかったとの詭弁がまた復活します。しかし、歴史をごまかす行為、それこそが日本に戦争の道を選択させたのではないでしょうか。


 中国では南京大虐殺は一時忘れさられました。戦前の南京では日本傀儡の汪兆銘の南京国民政府が日本占領地内で一応平和裏にその後の統治をしました。(むしろ、太平洋戦後の国民党軍と毛沢東軍の戦闘では南京市雨花台で30万人の共産党烈士が国民党軍に虐殺されたと言います。その後も毛沢東の大躍進の失政の飢餓や文革悲劇がありました。南京裁判や東京裁判で既に決着した問題でもあり、戦前の漢奸問題さえ係わるタブーで、南京侵攻とは共産党の敵である国民党を日本皇軍が敗退させた評価しかありませんでした。実は毛沢東軍は国民党軍の情報やアヘンを日本軍に密通して売り、革命のための利益を蓄えていたと言う説さえありました。)しかし、当時の日本軍の虐殺事実が否定されたわけではありませんでした。


 元日本軍人が虐殺を語り出しました。事実は語らねばと、勇気の証言をし始めたのです。それに影響されて戦後の中国側の評価も変わりました。中国の今日の抗日・愛国主義教育も1985年以降に確立されたもので、1980年代に鄧小平や中国共産党中央委員会が、日本軍侵略の記念館・記念碑を建立し愛国教育の指示を出した最初のきっかけは、日本国内での虐殺論争の影響を受けた日本人や労働組合からの南京大虐殺記念館建設の要望と建設費の寄付でした。



 敗残兵犠牲者は陥落時の戦闘行為などで発生したのではなく、戦意を喪失し投降を行ってきた便衣兵らでした。日本軍は「便衣兵混在の疑いあり」というだけで女・子供も一般市民も虐殺しました。投降捕虜の管理に困り捕虜を大量虐殺しました。国民党の宣伝による虐殺写真は偽りでも、元日本軍人の証言が大量にあり、病院での撮影を行ったマギーフィルムがあり、第17中隊に所属した日本軍写真班の残した虐殺現場の大量の写真収録がありました(『私の従軍中国戦線』村瀬守保写真集)。

 また、日本軍が撮影した映画『南京』を撮影した日本軍カメラマンや録音係等、実名で数々の虐殺の日本人証言があり、在中した米、英、独の外国人らの日記や報道告発やドイツ大使館やイギリス大使館の報告、日本人の裁判証言、数多くの告発が大量にありました。(そもそも虐殺写真などは残されないもので、国民党の一部の偽写真が事実認定を左右するものでないはずですが、「虐殺はなかった」とまで捻じ曲げた議論が日本にありますが、市民虐殺も無差別空爆も捕虜処分も当時の国際法上の虐殺行為です。)

 南京裁判では、第6師団、第16師団、第18師団、第114師団などの部隊が大規模な虐殺、放火、強姦、掠奪を行ったことを認定し「集団」が19万人「個別分散」が15万人とされ30万人以上の虐殺と判断しました。輪姦されたあと腹を割かれ焼き殺された婦人や僧侶に輪姦を強要し拒否すると宮刑して死に至らしめた等の残虐行為等数々の証言もありました。
 東京裁判でも「中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られたものはだれでも射撃された。これらの無差別の殺人によって、日本側が市を占領した最初の2、3日の間に、少くとも1万2千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。」「占領後の最初の一カ月の間に、約2万の強姦事件が市内に発生した。」「日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあった。・・・なんら理由らしいものもないのに、一般人の住宅を兵は焼き払った。このような放火は、数日後になると、一貫した計画に従っているように思われ、6週間も続いた。」「中国の一般人は一団にまとめられ、うしろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によって、そこで集団ごとに殺害された。兵役年齢にあった中国人男子2万人は、こうして死んだことがわかっている。」「ドイツ政府は、その代表者から、『個人でなく、全陸軍の、すなわち日本軍そのものの暴虐と犯罪行為』について報告を受けた。」

「殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている。これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。」等判決文に明記されています。

 第66連隊第1大隊の戦闘詳報には投降者を処分した記録がありました。また、1938年1月26日国際連盟に、中国代表の顧維均が日本軍の2万人民間人虐殺を訴えた記録もあります。そして、日本軍人自らの虐殺証言が大量でした。捕虜虐殺は明確でした。揚子江で行った数万人の捕虜処分は(投降捕虜数は南京入城した際の安全区の民間人20万人には含まれません)特に松井大将を迎えて日本軍入城式があげられた17日前夜までの4日間に万単位で中国兵捕虜、便衣兵敗残兵の処断が実施されました(東京裁判では捕虜3万人以上が殺されたとされましたが、今日では5万人~13万人の捕虜の虐殺処分が、市民虐殺とは別にあったといわれます。避難民と兵士の死体で、揚子江の水は実際鮮血で当時まっかになったそうです)。日本人自身が立証した捕虜虐殺だけでも大量虐殺です。

 元軍人の証言は大量でした。南京陥落に関わった第16師の団長である中島今朝吾中将の日記には「捕虜を取らない方針(=捕虜は全員殺害処分)」の記載さえありました。捕虜処分については南京陥落以降に進軍してきた第65連隊の複数の日本軍人の陣中日記には、進軍後に投降して来た大量の中国捕虜の管理に困り、揚子江で機関銃で集団処分して揚子江に流した事実の記録が多数発見されています(「兵士が最前線で綴った「陣中日記」には日本軍が中国人捕虜一万数千人から2万人を一挙に虐殺したことが記されていました。」NNNドキュメント’08。小野賢二収集:証言数約200本・陣中日記等24冊)日本軍は,掃討戦と称して,便衣兵,敗残兵,逃亡兵を市民の中から捜索し捕虜としましたが、日露戦争でも飢餓が発生した太平洋戦争でも、日本軍は欧米兵収容のため捕虜収容所をつくりましたが、日中戦争は、捕虜をつくってはならない事変であり中国人捕虜は「処断(虐殺)」されました。欧米人同様の民族差別意識が日本軍には発生していたのです。国内では三国人として蔑み戦場では捕虜は試し切りの物扱いにしたのです。大量の捕虜処断を虐殺と言われればとんでもない数になります。ここに日本の保守勢力が虐殺はなかったことにしたい本当の理由があるのだと言うひともいます。

また、中国側にも生き地獄や虐殺を生みました。国民党軍は日本軍捕虜を虐殺し、脱出・避難のため物資を中国民衆から略奪し、日本軍同様に民衆への不法行為や放火がありました。(清野作戦・焦土戦術)
 国民党軍と民衆は、日本人に繋がる裏切り行為を行うあらゆる中国人を漢奸(反逆・裏切り者・通敵・売国行為をおこなった中国人)とし、中国各地で糾弾・迫害し、日本軍同様に残虐に虐殺しました(日本にも、関東大震災で朝鮮出身の日本人や地方訛りの日本人さえ、日本市民が自らリンチ虐殺し、非国民とされた日本人を官憲に虐殺させた不幸な歴史があります)。

 市民は恐怖の混乱に陥り、親日の中国人市民や日本留学生も銃殺されました。1937年12月の日本軍の南京入城時、電柱や街角には鮮血を帯びた漢奸処刑の晒し首がありました。「日本軍に好意を持つ中国人は、裏切り者として処分され、群衆に殴打される。日本軍の飛行機に信号を送ったものはかえって爆死する。裏切り者が捕えられて銃殺される。さらし首にして公衆への見せしめにされる。日本に好意を持つものは、皆漢奸として処分される。」とのポスターを日本軍は確認しています。

 しかし、南京市民に歓迎された陥落が演出され、日本国内向けには平和な入城式が報道されました。(日本軍は歓迎する南京市民に食糧物資さえ配りました。しかし演出は長く続かなかったようです。「南京の人々は喜んで日本軍を迎えようとしていた。しかし、日本軍の蛮行がはじまると、この安堵と歓迎の気持ちはたちまち恐怖へと変わっていった。日本への憎しみをいっそう深く人々の心に植え付けた。(ニューヨークタイムズ1938年1月報道)」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、それでも規模はごく小さかった。南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違っていたのです。南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした。」とティルマン・ダーティン、ニューヨーク・タイムズ記者は証言しています。

 日本軍は、安全区市民から敗残兵狩りも行いました。歩兵第七連隊の戦闘詳報で7千人弱、佐々木到一少将によれば、1月5日までに、さらに2千名摘出されたとしており、9千名近くが、安全区市民から虐殺処断する捕虜に身分変更されたのです。安全区市民に抽出が強要させられました。そして、追加された捕虜も処分されました。(12月2日付けで天皇の叔父の朝香宮鳩彦王中将が上海派遣軍の司令官に就任し、南京入場式に17日参加するため、松井大将は「抗日分子と敗残兵は徹底的に掃蕩せよ」との命令を出します。ちなみに朝香宮鳩彦王中将は皇族のため東京裁判では天皇同様に訴追を逃れています。)(一方、国際批難の後、日本は平和裏な統治を目指して、汪兆銘政権を1940年に南京に成立させます。また、上海統治では1943年ユダヤ難民を「無国籍難民隔離区」に保護もしています。)

 

 日本では、情報隠蔽された細菌兵器実験・人体実験等も文献資料の写真や細部の誤りが批判され、一部が間違いなら全部が間違いだ、残虐はなかった、侵略も存在しなかった、だから従軍慰安婦も存在しない等、詭弁的三段論法が展開され、日本大衆は世論誘導されていきました。この種の詭弁が洗脳的に普及され「戦争は存在しなかったんでしょう全ては防衛でしょうと」言う日本学生さえ出てくる始末です。(ナチスのホロコーストも似た論法があり、ナチスは日本軍とは違って「公文書」等の物証を一切残していません。ナチスに洗脳されたドイツ国民の協力によるユダヤ人ホロコーストも存在してはおらず、ガス室処刑や遺体の髪の物品化等、全てが偶群発事件だ、ドイツからの賠償金を得る偽宣伝だと主張するものですが、ナチスの戦犯証言は明白な事実であり、それは荒唐無稽な詭弁と見られています。)


 近衛内閣東亜局長の石射猪太郎氏は、1938年1月6日の日記で「略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か」と記述し、広田大臣に軍紀粛正を要望したが「あまりに大量の暴行なので手のつけようもなかったのであろう、暴行者が処分されたという話を耳にしなかった。」と記載しています。


「日本の新聞は、記事差し止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直ちに千里を走って海外に大センセーションを引き起こし、あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千古の汚点、知らぬは日本国民ばかり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼賛するのみであった。」と書を残しています。日本国民は虐殺を一切知らされていなかったのです。欧米をはじめ広く非難された日本軍の虐殺報道はことごとく隠蔽されます。南京陥落2週間後に南京を訪問した石川達三が戦前に書いた「生きている兵隊」という小説で、当時の中国戦地状況が分かります。中国人を無造作に、ある者はフナを殺すように斬殺、民間の中国人でもかまわず虐殺、略奪・強姦死(枯娘狩り)、スコップで敗残兵の頭を次々と割る等、「命をごみ屑のように軽蔑すると同時に自分の命をも全く軽蔑している」日本兵は殺人や強姦を自慢し酒をあおり、死んだ母親にとりすがって泣く幼い中国娘をうるせえッ!と叫んで刺殺します。反戦小説でも戦後小説でもなく、軍の実態を実写的に描いた戦前小説でした(『中央公論』1938年3月号に発表後、販売禁止)

 日本大使館参事官の日高信六郎氏も「残虐事件の最大の原因の一つは、上層部の命令が徹底しなかったことであろう。たとえば捕虜の処遇については、・・恐怖心も手伝って無闇に殺してしまったらしい。揚子江岸に捕虜たちの死骸が数珠つなぎになって累々を打ち捨てられているさまは、いいようもないほど不愉快であった。」と当時の目撃をおおやけに文書で残してしています。
「捕虜および非戦闘員を虐殺」したことは明確で、当時の戦時下でも有効であった国際法に違反した行為であることは明らかでした。民間虐殺や無差別空爆の他、捕虜処分が虐殺に当たらないとの論法は全くの暴論のような気がします。

 さらに、近年日本の学者は、日本側に責任のある通州事件も引き合いに出しました。1931年の満州事変以降1935年頃から、関東軍は中国の華北地域を第二の満州にしようと動き出します。華北地域・山西省は石炭や鉄鋼石等資源の宝庫でした。また華北の人口も満州よりはるかに多く日本市場として有望視されます。日本軍は、傀儡政権「冀東防共自治政府」を設立させ、現地の「冀察政務委員会」と内戦状態を起こしていました。1937年7月29日の戦闘の時に、日本軍が誤って味方の傀儡政権の保安隊側を誤爆撃してしまい、相当の死者が出ます。それが反乱事件の発端でした。7月28日に日本軍は総攻撃をかけ北京周辺まで鎮圧しますが、保安隊は日本軍に逆上して、特務機関長細木繁中佐以下の日本人居留民約260名を殺害する通州事件が発生しました。

 日本自らが作った傀儡政権の保安部隊の日本への反乱です。日中間の戦闘行為の範囲とさえいえない事件です。日本人居留民(実際その多くは日本籍の朝鮮人でした)の北京郊外の通州地域での事件です。本来日本が責任を負うべき日本軍の覇権内の事件であり、しかも、1937年12月24日に正式に日本は傀政権に謝罪・賠償をさせ決着します。事件は、中国政府・国民党や共産党とも無関係で、むしろ日本軍側に責任があった事件でした。賠償決着さえしなかった日中間の戦闘問題と同列視して、あたかも「支那の軍隊による日本人虐殺」であるように見せ掛けました、1937年当時、日本国内では曲解報道して、戦争をあおりました。陰部にほうきが刺さった女性、針金鼻輪を通された子供遺体、生首等々の日本籍朝鮮人の遺体写真を見せ、満州への軍事進出の正当性を煽りました。日本では、近年の日本の論者も、この事件を使ってまるで南京虐殺の免罪であるかのような詭弁で、日本大衆を世論誘導しています。
 しかし、米英への戦争は、日本が戦争に追い込まれた戦争でも、アジアへの戦争は日本が大東亜共栄圏の思想をもって、進出の意図をもって戦争行為を仕掛けて行ったものです。アジアへの戦争開始は宣戦布告なき現地戦での侵略であり、追い込まれた米英との戦争とは違いました。日本軍自らが作った戦地の傀儡政権のレジスタンス的反乱・謀叛と、侵略戦争の虐殺行為とは、その責任評価で決定的な違いがあることを忘れた暴論・曲解です。

 昨今の日本の保守化状況もあって、坂本龍一の音楽も話題となった映画ラストエンペラーの1988年日本劇場公開に際して、エンペラーの溥儀が戦後の中国において、日本関東軍の南京陥落、中国人の生き埋め虐殺、人体実験虐殺等の映画を見せられるシーンを、日本の配給元は無断でカットして、イタリアのベルトルッチ監督に抗議される事件がありました。中国戦線での虐殺体験を記した日記を元に本を出した東史郎氏は1993年元上官から名誉毀損で訴訟を起こされ2000年に日本の最高裁は損害賠償を認定します。

 また、1997年にアメリカで出版されたジャーナリストのアイリス・チャンの本(「日本軍は南京で市民約30万人を虐殺し、女性2万人から8万人を乱暴した」「身の毛のよだつ数々の物語も、その残酷さで比較できるとすれば、第2次世界大戦中の南京大虐殺ほど大規模で苛烈(かれつ)な残虐行為も歴史上まれだろう」とし、南京陥落までの経過や虐殺の模様を、元兵士の回顧録や内外の学者の見方などを交えながら描写した、50万部のベストセラー)が日本国内で出版阻止されるという言論統制事件が1999年に起りました。


 2003年に中国系アメリカ人に対する迫害を告発した「ザ・チャイニーズ・イン・アメリカ」を出筆した翌年2004年にアイリスは精神的に追い詰められ、車中において頭を銃で撃ち36才で自殺しますが、死後も日本ではレイプ・オブ・ナンキンは2007年まで出版できませんでした。
 アイリスの母親の張盈盈は台湾系華人で「日本の柏書房は1998年春ごろに翻訳版の版権を取得したが、何人かの歴史家や教授に翻訳書の批評を拒否され、そのうちの少なくとも一人は「得体のしれない組織」から家族への脅迫を受けているのがその理由だったと聞いた。」と証言しています。生存者のインタービューにもとづいたレポートのため正確でない点もあり、虐殺事例は、凄惨で具体的な記述が大量にありました。「腰まで人を埋めて軍犬がその体を引き裂くのを見物する」「他の家族が見ているところで、父親に娘の強姦を強要し、息子に母親の強姦を強要する行為」等、アメリカ人好みのスキャンダラスな猟奇的な日本軍の行為を集めて、ベストセラーを獲得したのだと言うひともいました。彼女は他界したため、出版阻止の詳細は闇に消えました(「天皇の名をう受けた朝香宮鳩彦中将またはその参謀が「捕虜はすべて殺害せよ」との命令を発した。」と天皇タブーに触れた結果とも言われました。)しかし、彼女は日本の闇社会の圧力や政治家達からの記事修正要求に対して、字句の誤り等を除いて頑として受け入れず、死んでも信念を通し続けました。

 3通の遺書の1通には「わたしは、自分が想像も出来ない巨大な力でリクルートされた。そして、後になると、迫害されたと信じています。・・」等と精神的にかなり追い込まれていたことが書かれていました。
 当時、日系人の本田実氏がアメリカ下院議会で発言をしています。「われわれの共同体は、友人であり、模範であった彼女を失った。世界は、もっとも立派な、そして、社会と歴史上の正義への情熱のある擁護者を失ったのだ」と過去の日本軍の非道を告発して、若くしてベストセラー・ジャーナリストとなり、同時に当時の日本社会から嵐のような非難や中傷を受けた彼女の波乱の人生の終焉に際して、アメリカでは日系議員から、非難どころか連帯と尊敬に満ちた最大の賛辞が送られたのでした。それは、訃報に接してもなお、彼女について感情的、中傷的な非難ばかり報道した日本の国内状況とは全く正反対の大人のスタンスでした。

 海外では数々の南京事件の映画が存在しますが、日本配給できていません。南京安全区委員長を務めたドイツ人「ジョン・ラーベ」の独仏中合作映画でさえも2009年3月31日、日本では上映できなくなったことが明らかにされました。映画は、南京大虐殺に触れており、天皇の叔父「朝香宮鳩彦中将」の演技さえありました。配給会社は「各国は上映すると決めたが、日本は上映を拒否している。」と述べました。
 
 近年、日本の外務省は「1.日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。」としたうえで「2.しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。」とのコメントを追加してしまいます。
 
 言論封鎖といえば2001年、天皇誕生日前の皇室記者会見でサッカーワールドカップ日韓共催に関し今上天皇が「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」との発言が韓国で大報道され「日本で最も出世した在日?」は天皇だったのか等の屈折意見もありましたが、日本では殆ど報道されませんでした。

 しかし、続日本紀を持つまでもなく神功皇后は新羅の王子アメノヒボコの子孫と日本書記・古事記にも明確な記載がありましたし、戦後の江上波夫の騎馬民族説や近年のジョン・カーター・コベルの扶余騎馬民族説や韓国の東夷族説等を待つまでもなく、中国の公式研究書等は、昔から日本と百済・高句麗は中国少数民族の扶余系民族と歴史書に基づき一貫しています。(日本の飛鳥の都を中国書は秦王国(扶余の辰王の国)と記載しています。)日本でも江戸時代までは、中国起源説もありましたが新井白石等、朝鮮半島起源説が通説でした。

 戦時中に、天皇中心の神道・靖国で戦争国家体制の統制を維持するため、日本神話が利用され、神武以来の万世一系の歴史が徹底的に教え込まれました。明治時代に歴史が書き換えられた日本では歴史が科学でなくなって思想や神話となっているため様々な説が並存しています。神話を踏まえたために、日本人は自分の歴史が現在もよく分からないことになっているのです。日本語は琉球語に近く日本語、韓国語、満州語、モンゴル語、ウイグル語の文法に類似点があり、特に高句麗語は、音韻的共通性も認めら日本語の起源として考える有力説もあります。また、それらは全てアルタイ語に起源するとの説もあります。(ちなみに、中国の大半は漢族系で、旧新羅・韓国はコリアン系で高句麗・百済は扶余系(中国東北系民族)で別民族です。天皇家は日本書記によると新羅の王子アメノヒボコの子孫でコリアン系で、続日本紀によると百済の武寧王の子孫で扶余系(中国東北系民族)の血筋です。続日本紀によると光仁天皇がなくなったとき桓武天皇は哀号と叫んだ記載があり、天皇は朝鮮語で泣いたとも百済語で話したとの説さえあります。初代征夷大将軍が渡来人系であった史実は有名です。)

 最近DNA解析で分かってきました。アフリカ大陸から発生したアルタイ系民族が中国・朝鮮経由で渡来したのが縄文人原型だろうともいわれます。北部九州に縄文遺跡は殆どなく渡来の影響とも言われます、DNA調査では、縄文タイプをもつ割合は、わずか縄文系が5%でアジア大陸由来の弥生系が約20%、あとは75%は混血ともいわれます。(一方、大陸のチベット族もY染色体で近縁関係があるとも言われます。また、本土と違い弥生系の影響の少なかったアイヌ系や琉球系は本州より縄文人原型に近いとも言われます。)江戸時代鎖国をして近代も外国人を排斥してきたはずの純血日本人なのですが、縄文人DNAは殆ど伝承しておらず、倭国成立前に農耕文化をもたらした大陸由来の弥生系に制覇され混血がその殆どを占める複合民族のようです。その後、飛鳥時代にいたるまで大量に渡来が続いた中国系・朝鮮系の民族(渡来人)が琉球のように支配層=貴族になった説さえあり、少なくとも大和民族の統一ルーツは本土になかったと言えるのではないでしょうか。紀元前からの文字の歴史を中国は数千年持ち朝鮮半島も百年余を持ちますが、まだ文字のなかった日本には国の歴史も無かったのです。(中国の歴史書(漢書)では倭人は100余国に分れ楽浪郡(朝鮮半島)に使者を送っていたと(前1世紀頃)、朝鮮国の歴史書(三国史記・新羅本紀)では前50年に倭人が辺境を侵そうとしたとありました。)


 それどころか、戦争虐殺の事実や戦況悪化の事実と日本天皇制の歴史さえ国民に偽って戦争を遂行した戦前の日本の巧みな情報操作が戦後に見事に復活しており、戦後の反戦論者を次々に論破し、ついに教科書記述や政府の歴史解釈さえをも書き換えさせる、世論誘導に日本国内では成功します。かわりに日本民族が失ったのは良心でしようか?。

 日本人も数多く出演した映画「南京!南京!」は、2009年9月のサンセバスチャン映画祭で賞を得て世界中に上映されました。日本兵の視点から戦争が描かれた地味なモノクロで抗日の視点を抑えた映画でしたが、これさえも日本ではいまだに配給できていません。


 東京裁判において、日本を裁く法的地位は存在しないと反対意見を表明したパル判事の言葉が今なお象徴的です。「宣伝と誇張をできるだけ斟酌しても、なお残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた戦争捕虜にたいして犯した証拠はあまりも大量で圧倒的である。」「弁護側は、南京において残虐行為がおこなわれたとの事実を否定しなかった。かれらはたんに誇張されていることを愬えているのであり、かつ退却中の中国兵が、相当数残虐行為を犯したことを暗示したのである。」、アジア太平洋各地の戦争の全期間を通じて日本の「残虐行為の鬼畜のような性格は否定しえない」

 日本を裁くことに反対意見を表明した、パル判事の公平な視点さえ日本軍の残虐行為を鬼畜のようとみなしました。しかし一部の日本民衆は今だに、受け入れることができません。ムッソリーニはパルチザンのイタリア国民に殺され、それを知ったヒトラーは自殺したのですが、敗戦直前、日本においては、降伏の前に最後の戦果をあげておきたいとの天皇の意思に日本はまだ支配されており、まだ日本に中立であったソ連を通じた和解工作をたくらみます。コミンテルの残党はスターリンと毛沢東の支援を得て天皇制を残そうと裏工作もしており、アメリカはそんな日本の共産化を恐れ天皇を利用した政策に至ります。

 東京裁判では連合国主要国内でもアメリカの政治的利害が優先し、日本の侵略行為の総括やアメリカ兵に対するBC級戦犯行為とA級戦犯以外は、多くが不問にされました。一方、戦後に中国で戦犯収容となった日本兵を周恩来は中国としては破格の待遇で保護しました。東京裁判でアメリカは戦犯を処刑しましたが、周恩来は日本文化と日本の歴史を熟知し未来の友好も思考して戦犯全員を帰国に導いたといわれます。帰国者の中には、鬼から人間に戻れたとして戦犯行為を帰国後告白した人が少なくありません。当時の教育の影響で、欧米人は鬼でアジア人は畜だとの認識で日本人は皆、軍国主義に狂っていたのが本当の姿だと言う人もいました。そうでなければ、民間人でも動物のように虐待し斬りつけ、刺殺の練習台にし、死んだら軍の食糧に混ぜても平然とし、最終戦は自爆攻撃だ玉砕だとして自害強要した当時の感覚は説明できないともいいます。また、ナチスと手を結んだ感覚も当然だともいう人もいます。

 ヒットラーが自殺を図った後、ドイツ戦犯の軍人達は、戦争は自分達の責任だといいきって責任をとり処刑されました。それにたいして日本は、自殺を図り失敗した東条以下すべてのA級戦犯達は、自分たちには、戦争責任や敗戦責任もないと無責任を主張したのがドイツとは対照的でした。ナチスを非難しても今日のドイツ民を非難する戦争被害者はもうほとんどいません。戦後ドイツではナチズム宣伝も戦犯美化も戦旗やスローガン掲示さえも違法です。しかし、日本軍国主義を非難する朝鮮や中国の人々は今日の日本まで非難します。靖国や天皇を今日も抱える日本人としては、まともな反論はできず、正直なところ、私自身もいつも、ごまかすしかありません。P


天皇は責任をとらなかったのですかJ.

 木戸「側近日記」では、真珠湾攻撃を「天皇が喜んだ」様子を描いていますし、天皇の戦争責任を追及する意見がありますが、当時、政治判断できなかった大正天皇から承継された天皇制は一種の形式的な機関(軍部は大正デモクラシーの通説であった天皇機関説さえ弾圧)で、政治実権は軍・官僚が握っていました。

日本敗戦前に毛沢東はコミンテルンの残党と共に天皇制の存続論に賛成していました。(中学入学の際、明治維新を学んだ毛沢東は、父に日本の幕末の漢詩「将東遊題壁」を贈った程の日本通でした。)一方、フィリピン弁護士会は天皇を裁判に掛けるようアメリカに要請、オーストラリアも天皇を裁くよう公式要求。アメリカの上院に至っては天皇を裁判に掛ける決議までしていました。)天皇自身は、マッカーサーとの面談に際し、戦争の責任は全て自分ひとりにあると主張したと言われますが、敗戦を受け入れる前から天皇と一部の軍部官僚の責任は完全に不問することが決まっており実際に責任も問われませんでした。(昭和天皇が評価される点もありました。2.26事件鎮圧のイニシアティブ、終戦受け入れ判断、人間宣言、A級戦犯合祀の靖国参拝拒否等です。何れも軍国主義とは真逆でした。)しかし、戦争元凶は形式的には、天皇・国体護持でした。東京裁判で東條英機は「我々は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」とも言っています。

日本では、責任を感じて自決した多くの軍人や民衆がいても、最高責任者の天皇は戦争責任をとらなかったのです。戦争の責任者とされ処刑されたA級戦犯さえ戦争責任を主張しなかったのです。 東京裁判にて陸軍省軍務局長武藤章は「日本は中国に宣戦布告をしていないから、支那事変は戦争ではない、だから捕虜など存在しない、だから捕虜虐待も無い」とまじめに主張しました。これらのゆがんだ認識や詭弁ばかりが戦前も戦後も日本では形を変え何度も何度も繰り返されます。 
 一方で多く軍指揮官や一般軍人や民衆さえ、敗戦時に戦争責任を感じて自決しました。そして、実は虐殺は敵地住民や捕虜だけではありません。「生きて虜囚の辱めをうけず」という戦陣訓により、一般の日本兵にも戦果の悪化の下で自主的の名の下で実質的な虐殺(玉砕・自決)が決行されました。真の指導者が責任をとらず、家臣や民衆に責任を取らせてしまうやり方は、武家時代からの伝統で、会社の不祥事で下に責任を取らせるやり方も日本では続いているという人もいます。戦後も一般民衆の戦争被害者に一切保障がない一方で、侵略戦争を遂行し、戦犯さえも免れた加害者でもある日本軍・官僚には、軍人恩給が日本国民の税金で毎年予算が計上され支払われています。(軍人恩給・予算ベース:S58年度のピーク時:年間1兆7358億円、平成20年度8041億円)

実は、日本固有のすばらしい平和的な文化は江戸時代に形成されたという人もいます。天皇家を中心にした従来の貴族文化(外来文化)を否定し封印するため首都を江戸に移し鎖国をしたと解釈する人さえいます(たとえば畳に正座することは江戸時代まではなかった奴隷的作法で平安貴族の座り方が日本絵画にも描かれているように貴族の座り型は皆朝鮮座りでした)。そして、鎖国の反動で西欧に追いつけ追い越せとの富国強兵策が戦争に向かわせたとみるのです。 
 本来、日本民族は、江戸時代の260年強も、平安時代の390年強も国内平和を維持し、倭国から日本になって1300年間も「民族自決権」を享受した歴史を持ってます。平和・「和の精神」こそが日本民族の本来の伝統で戦後の「平和国家日本」の受け入れにもつながりました。

 しかし、アフガンやイラクと続いたあのころには、日本では小学生までが「改革を止めるな」とテレビのものまねをするほど、テレビで政治が煽られ、イラク戦争追随が煽られ、子供でもわかるはずのイラク戦争開始理由の荒誕に異を唱える者が非国民のように非難され、煽られた日本民衆はアメリカの戦争を支援しました。自民党を出た代議士が小泉の洗脳はいつまでも続かないと言いましたが、戦前のやり方は簡単に復活したと言われます。

 大量破壊兵器など、口実にすぎなかったことが分かった今でさえ、当時の日本の異常さを真面目に総括できる人はいません。拉致の北を非難する国が北そっくりのことをしていた異常さに気づいたときの閉塞感は図りしれないものがありました。

 戦前、植民地政策を進めた西欧の強国に日露戦争で勝利し、ヴェルサイユ会議で人種差別撤廃の主張を世界で最初に提案した日本は、本来アジアの尊敬を保ち続けるべき国です。
 
 戦後の朝鮮戦争にもベトナム戦争にも日本は出兵せず、「良き敗者」(吉田茂の言)はアジア諸国に対してODAで最大の援助国にもなりました。戦後の日本には、どんな戦争にも反対する権利と誇りがありました。かつて戦争放棄について「世の中に正しいことほど強いものはない」と子供たちに語った勇気を、再発信できる国にまたなれるでしょうか。P

 日本には世界で初めて戦争放棄した国にしかできない、責任と使命もあるのではないでしょうか。
 現実的にどう実現できるかは力関係(和平)のような気もします。でも日本の平和はやはり憧れですJ。

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。