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民族的和睦和自立  朝鮮出兵

2011-06-07 00:49:15 | 日記

ソウル光化門




 日本にも朝鮮族のような日本人が存在します。
戦前、朝鮮人の日本での徴用は増加の一途をたどり、事実上の植民地化した併合で、民族文化を排除、神社参拝を強制し、朝鮮語を禁止し、創氏改名を促しました。宮城・皇居遥拝の敬礼を強要し、君が代、日の丸も強要しました。

 朝鮮半島では、15万人以上が日本軍人となり,23万人以上の男が日本軍に従事し、10~20万人の女子が挺身隊従事で日本の為に働き、その内一部が(正確には不明ですが)慰安婦に従事しました。

日本は秀吉出兵の失敗以降、鎖国で独自文化を育てますが、明治以降、民族起源や歴史や宗教を捏造し侵略し、再度敗北の道を選びます。それは、震災・敗戦・復興を何度も繰り返した民族の特性なのかも知れません。「強いて争わず」相手に勝ちを譲った方が、実質は勝ちとは江戸系いろはがるたの一つの言葉でした。「負けるが勝ち」は日本民族の偉大な倫理感です。P

 歴史捏造を信じている人が多いことも事実です。万世一系も紀元前の歴史も捏造でした。P

 室町時代二人の天皇がいた南北朝、壬申の乱等の皇室の争い、朝鮮出兵への謝罪(回答兼刷還使)があった朝鮮通信使も一時歴史から消されました。万世一系の天皇の子孫の歴史観は創作されました。本多利明は1798年論考で「世界最古の国はエジプトで6000年の歴史を有し、中国も3800年の歴史を主張しうるのに、神武天皇即位から1500年しかない日本」と認識したのですが、明治政府は紀元前660年を起元節と法律で定め歴史を千年程水増ししました。)
 
DNA解析でも弥生時代からの日本は単一民族ではありません。大和民族とも言える縄文系の原住民に弥生時代から飛鳥時代にかけて大量渡来した大陸のDNAが混合している人が過半です。(少し私達日本人には悲しい事実ですが)純粋大和民族は殆ど存在せず(朝廷権力の及ばなかった琉球・アイヌの人々が縄文人に近いとも言われますが)、単一大和民族は神話にすぎません。縄文時代以前は、日本・本州から朝鮮半島は「海洋国家」的にひとつの共同組織で「扶余人」「新羅朝鮮人」「(倭国)日本人」が雑居していたとも言われます。

 
 弥生時代後期西暦238年邪馬台国の卑弥呼は「親魏倭王」として中国(魏)から属国称号を授与しました。魏志倭人伝では、倭国とはおよそ30ヵ国に分かれた非統一国家で中心の邪馬台国を卑弥呼が治めていたとされています。5世紀の倭国五王時代も日本は中国(宋)への朝貢を行った国でした。遣隋使・遣唐使も実は隋や唐への朝貢でした(753年の唐朝賀では、日本が新羅より席次が下とされた事に日本側が抗議し上席に変えさせるという史実さえ残っています)。室町将軍は明皇帝から「日本国王」の冊封を受け朝貢貿易(1401年~1549年)を行いました。漢字や文化だけではなく経済的にも、唐に倣って「和同開珎」は発行されますが、平安時代中期から戦国時代まで、北宋・南宋の貨幣(宋銭)や明の永樂通寳など中国貨幣が日本では流通しており1670年の古銭使用禁止令まで続きました。17世紀の和暦採用まで、日本の暦は中国暦でした。1597年の豊臣秀吉の第二次朝鮮出兵は明の属国扱いの国書に秀吉が立腹したもので、秀吉の2回の朝鮮出兵後に日本は真の独立国になったと考えられます。


 騎馬民族説を待つまでもなく古代支配層は渡来人が周知の事実でした。琉球の支配層は中国帰化人であることは有名ですが、江戸時代までは天皇の中国人説もありました(中国の司馬遷の史書には始皇帝の命を受け不老不死の霊薬を求めて3,000人の青年や技術者を従え東方に船出した人々は蓬莱の地で王となり戻らなかったとの記述があり蓬莱とは日本を意味しました。日本最古の竹取物語にも「東の海に蓬莱という山」が出てきます。)が、江戸時代中期の新井白石は、邪馬台国近畿説で「我国の先は馬韓(後の南朝鮮百済)」から来たとし大和朝廷臣従の九州熊襲と高句麗は同族と解しました。


 戦前日本の教科書に書かれた7世紀の三韓征伐という神話は逆の史実でした。倭国が朝鮮半島から追われた白村江の史実は戦前でタブー視されました。

 一方、新羅征伐は史実という説があります。しかし、7世紀ではなく4世紀であり、高句麗の好太王石碑「広開土王碑」や日本書記を根拠にしますが、朝鮮や韓国での解釈は違います。確かに高句麗の好太王石碑には「391年倭が海を渡り新羅、百済を征服したが、大軍を派遣して新羅を救援し追って任那・加羅に迫り、404年に高句麗が倭を大敗させた」との記載があり『三国史記』新羅本紀の記載に「402年新羅から倭に人質を送った」とあります。歴史家は4世紀の倭国の歴史を未だに封印しています。

 三韓征伐は、倭国の新羅・百済侵略を高句麗国が追い払い倭国を制覇したという事です。古事記にもあるように倭国五王時代においては、中国は倭国に対して高句麗より高い地位を与えていませんでした。

 日本書記に、329年365年新羅と、392年404年464年476年高句麗と、527年にまた新羅と、倭国は戦争をしたと記載されています。しかし、当時何度も海を超え交戦したと考えるのは無理だと言われます。

 高句麗が交戦した倭国とは本州にあった豪族支配の倭国ではなく、南朝鮮の「任那・加羅」こそ高句麗が戦った「倭国=日本」との説もありました。
 5世紀頃から造られた高句麗式積石塚が関東地域を中心に多数分布しています。長野県の大室古墳群や針塚古墳や山梨県の巨摩地域、東京都狛江市の亀塚古墳も高句麗式です。595年に聖徳太子の師となった恵慈や610年に顔料や紙墨を伝えた曇徴は高句麗渡来人でした。570年に北陸に漂流した高句麗人が国書を携え国交が開かれる前から渡来はあったのです。聖徳大使と共に推古天皇を支えた蘇我馬子の先祖家系には「韓」「高麗」の人名があり高句麗か百済の渡来ともいわれます。神奈川県中郡大磯町高麗の高麗神社は日本初代天皇の神武天皇の時代の創建で、高句麗が倭国を制覇したという好太王石碑の史実の時期に繋がります。高句麗語が日本語の起源という有力説もあります。また隋書には百済支配層は通訳なしで倭人と会話したとありました。

 鎌倉時代や江戸時代の学者は神代文字を研究しました。古代日本に文字はなかったのが通説ですが、漢字前にも日本の古代文字があるべきだと考えた日本の学者の創作と言われています。神代文字には阿比留文字があり(ハングルの原型となったという俗説や対馬豪族・阿比留との関連もありますが)宮崎県の円野神社や安曇野市の道祖神の石碑に阿比留文字が刻まれ、全国の神社の神体等に神代文字は散在します。新井白石同様に朝鮮半島が日本ルーツとの説から逆にハングルを元に創作されたと考えられています。朝鮮半島起源は通説だったのです。

 5世紀頃に倭国五王時代に大和朝廷が出現し任那があったと日本書記にはありました。(騎馬民族説では天皇は大和朝廷成立時代の同時期に朝鮮半島に存在したと言われる「任那国」を中心とした朝鮮半島の辰王朝の末裔と考えます。)騎馬民族説を否定する説では任那国(加羅)は小国連合で倭国五王時は軍事支配権を中国(宋)から得ていたと解釈します。しかし天皇家の新羅との血縁(日本書記)や百済との血縁(続日本紀)関係が、古代天皇が君臨できた理由と考えます。任那・加羅は、新羅進出で滅亡しますが、新羅も百済も一時は倭国属国として一体であったと考えます。百済三書には、百済王が倭国天皇の「黎民」と「封」建された領土とを治め、全羅北道の地を賜与されたとありました。そして任那・加羅の滅亡と同時に本州に大和朝廷が出現します。

 日本書記・古事記は日本では神話と解釈します。しかし争いのない史実だけでも、7世紀の新羅出兵(新羅・唐連合と倭国の戦争)白村江の敗戦で半島を追われたことが日本国が成立した経緯となり、16世紀の秀吉の唐入り・朝鮮出兵の実質敗北が独立国・日本を確立し江戸時代の太平の経緯となり、20世紀の琉球・台湾・朝鮮併合、日清・日露・日中戦争・太平洋戦争に至った富国強兵の日本の敗北が平和国家・日本を生んだことは事実です。
 
 敗国大国は、勝国より、良く学びました。三つの海外戦争の大敗北と三度の戦後復興がまた日本の歴史でもありました。

 一度目の大敗北である新羅出兵は、7世紀の朝鮮半島でした。朝鮮半島は当時、中国大陸の扶余系民族の高句麗(コグリョ)と百済(ぺクチェ)と、今日の朝鮮民族に繋がる新羅(シルラ)の3国が勢力を競っていました。

 百済の都「漢城」は今のソウルでした。高句麗軍によってソウルが陥落すると、百済は熊津(公州)に遷都しますが、643年には、高句麗は百済と連合して新羅に侵攻します。644年高句麗は対立する新羅との和解を勧告する唐からの要求を拒否します。645年には唐が17万の大軍を率いて高句麗出兵をしますが高句麗は唐軍を撃破しました。

 その高句麗勝利の645年に、何故か、本州の倭国(日本)で「大化の改新」が発生します。(蘇我氏の勢力から百済派とも言われる中大兄皇子・中臣鎌足の勢力がクーデターで権力を奪い倭国の権力を制覇したのが大化の改新と日本では解釈しています。)しかし、実はその背景には、朝鮮半島で高句麗・百済連合と新羅・唐連合が対立した勢力構図の変化があったとも言われます。


 大化の改新で旧勢力の蘇我入鹿が暗殺されたのは朝鮮の三国から使者が倭国に渡来し、三韓朝貢の儀の真っ最中とも一ヶ月前とも言われています。

 当時、百済は高句麗と連合し、新羅と唐の連合に対立し、660年、百済は新羅・唐連合に滅亡させられ百済支配層は朝鮮半島を追われ倭国(日本)に渡ります。
 この百済の滅亡に、倭国は、661年に中大兄皇子が中心となり、何故か当時の倭国(日本)は、全国力をあげて、朝鮮半島に百済国の復興をはかることを決定したのです。
 
 662年には倭国に渡来していた、百済最後の義慈王の王子であった扶余豊璋(倭国と同盟国であった百済からの人質=外交官であったとも、中臣鎌足(藤原鎌足)と百済の扶余豊璋とは、実は同一人物だったともいわれます)を先頭に兵5000名と軍船170艘を朝鮮半島にまず送ります(倭国は、その新羅出兵のため、一時、筑紫朝倉宮に遷都までします。)661年から663年まで倭国の朝鮮半島への出兵は3回にも渡り、計約5万人の大出兵ともなりました。

 それは、当時の(日本)倭国の全勢力を費やした大戦争でした。(そのため、倭国・日本史上、国家規模においておこなった最初の外征であった(司馬遼太郎)と評するひともいます。)

最後は、663年朝鮮半島の白村江の戦いで、新羅・唐の連合軍に倭国は大敗しました。倭国軍は半島を終われ、新羅・唐軍の追撃をおそれて、大宰府をはじめ、本州の九州から西日本に水城を伴う防衛施設(山城)を設置します(日本式だけでなく朝鮮式山城も設置されまたことから、半島からの渡来人も多かったと想定されています。)また667年近江大津へ遷都さえもします。百済の最後の王子であった余豊璋は、朝鮮半島で高句麗に逃亡しますが、その高句麗も668年には、新羅・唐の連合軍に滅ぼされてしまいます。そして何故か同年668年に中大兄皇子が天智天皇として日本に即位しています。

 白村江の敗北jで倭国の朝鮮半島での覇権は完全に失われ、大量の百済人が日本に渡りました。 しかし、同盟国の復国の戦いに全国力を挙げて大軍を派遣した(日本)倭国の真の動機は、国内の豪族を疲弊させるための戦略でもなく、「東夷の小帝国願望」野望でもなく、中大兄皇子の日本での権力ルーツに、百済の存亡が強く関わっていたと考えるのが自然です。日本書記においても歴代天皇達は、朝鮮半島で5世紀前半に滅んだ「任那日本」の復興に異常なまでに、執拗にこだわっていました。

『旧唐書』東夷伝では、「倭国伝」と「日本国伝」の二つが並立し小国であった日本側が倭国を併合したと明確に記述されています。かつて倭国(日本)とは、まだ統一国家ではなく、地方豪族が支配した状態において、倭国5王が中国に使者を送っていました。

(百済の南部領域の任那(加羅)には日本府があったと日本書記に記載があった事実と、朝鮮半島南部には日本固有とされる前方後円墳が発見されるため、騎馬民族説では、倭国=日本は任那(加羅)を持っていたのではなく、逆に朝鮮半島にあった小国の「任那(加羅)=日本府」こそが日本の本州を統一したと考えます。

この史実と旧唐書の記述は一致します。しかし、騎馬民族説に否定的な現代の日本では、この小国からの併合の記載は白村江の戦い及び壬申の乱の時期を記述したとまず解釈します。そして壬申の乱で「倭国(天智政権)」が倒され「日本国(天武政権)」が成立した史実ではないかと解します。)しかし『新唐書』では地方の筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったとの記載もあります。この記載もストレートに筑紫朝倉宮、近江大津の遷都の日本の史実に一致します。

 7世紀の白村江の敗北以降、大量の百済人が日本に渡来しています。大阪府枚方市の百済王神社は百済王の神社です。また既に5世紀には、渡来していたとも言われる百済の昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済系の延喜式内社の神社が日本各地にあります。

 関西地区に百済系の氏神の神社は多く、奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔があり、兵庫県神戸市には百済の扶余系の唐柩の地名が残っています。(関西には百済の影響が各地にあります。)
 
 また、百済人だけでなく高句人も日本の古墳時代の5世紀頃から渡来して主に関東地域に、定住していましたが、高句麗の滅亡で高句麗人の渡来もありました。716年には、関東の武蔵国に高麗郡が建郡され、東海道の七ヶ国から1799人の高句麗人が高麗郡(埼玉県)に移住しています(『続日本紀』)。埼玉県日高市には高麗王若光を祭る高麗神社があります。(関東には高句麗の影響が各地にあります。)

 
 ちなみに関東と関西の系列相違は氏神の時代だけでなく、源氏と平家、徳川と豊臣、近代では、電気の交流周波数の違い(富士川から東が50Hz西が60Hz東京電力がアメリカ製装置で関西電力はドイツ製装置で発電をしたため)にまで及んでいると言われます。


 朝鮮半島で完全喪失した高句麗・百済の(扶余系民族)の文化(神社)の継承は、世界史的にみても、日本でのみで、(朝鮮や中国では同質・変質しました)もう千数百年の間、日本民族に祭られる氏神としての歴史を有していたのです。(天皇を神と祭った神社は主に明治以降に形成され、それ以前は天皇は由緒ある権威であっても神ではなかったのです。軍人のための靖国を作り、天皇を祭った護国神社を全国に作り、天皇を神とした神道を創作したのは明治政府  です。日本における高句麗・百済由来の氏神信仰は、実は天皇信仰や日本仏教よりも長い歴史を持っています。 また、日本で最も多い神社は八幡神社ですが、何故か新羅の外来神と言われています。

(皇室神話に関わる神社は神宮と称され、橿原神宮、近江神宮、平安神宮など天皇を祭る神宮の多くは明治時代に作られたものです。日本最古と言われる伊勢神宮でさえ、当初は伊勢地方の豪族の社であり、朝廷の東国進出基地であった伊勢の神で、朝廷と親密な関係にあったため、7世紀後半の天武天皇時代に天照大神の神社に作り変えて創設されたものです。明治5年に明治天皇が参拝するまでは、歴代天皇は殆ど伊勢神宮に参拝さえしていません。由来の判明している神社は初代天皇の神武天皇時代の高麗神社をはじめ高句麗系や百済系の方が神宮より遥かに古いようです。)

 百済から、渡来した百済貴族達が大和朝廷の中心勢力となった史実も有名です。豊璋王の弟は、大和朝廷から百済王という姓氏が与えられ金鉱を発見し奈良大仏の建立にも貢献しました。仏教や暦は百済から日本に伝来されました。同時期に倭国は近江令等で法令群を整備し、701年に大宝律令制定により、正式に倭国から日本国と国号を変え日本は誕生しました。722年当時の飛鳥の高市郡の人口の80%が百済人とも言われます。


 百済本・百済記・百済新撰の三書は、奈良時代に編集された「日本書記」に大量に引用されています。日本の誕生を記した日本書記は、中臣鎌足に繋がる藤原氏が完成した百済系の歴史書とも言われます。日本独自の史実性の高い「続日本紀」でも、日本の初代の征夷大将軍坂上田村麻呂の先祖は中国後漢の王族とも百済渡来とも言われ、奈良時代の桓武天皇の生母は百済の武寧王の末裔であるとの記載がありました。

7世紀の日本軍の新羅・朝鮮出兵は、倭国の敗北に終わった反面、渡来人により大陸文明を摂取し、地方豪族連合の倭国から全国統一の国家「日本」を誕生させる契機となったのです。

 日本の歴史が整った平安時代においてさえ、まだ渡来人の影響は大きく、平安時代初期に編纂された日本の古代氏族名鑑『新撰姓氏録』に収録された1059の氏のうち30%の324人の氏は、まだ帰化人系統でした。
 
  

 平安時代末期、平清盛を中心とする平家の武家政権が成立します(まだ、平家一族は、百済・桓武天皇の末裔とも言われます)が、関東に勢力をおいた源頼朝が征夷大将軍に任官し鎌倉幕府時代にもなると、武家政権が権力を奪い、明治維新まで天皇の権力は形骸化します。(因みに、鎌倉時代にモンゴル帝国・元(中国全土、モンゴル、朝鮮半島、中央アジア、東欧を制覇)の侵攻はありましたが侵略は免れ、外国に民族自決権が奪われた経験は戦後のGHQ占領しか日本民族にはありません。)

 
 二回目の敗北は、韓国では悪評高い豊臣秀吉の朝鮮出兵です。
 もともと、秀吉以前には、度重なる倭寇の襲撃で困っていた李氏朝鮮王国が倭寇対策に、室町時代に対馬を通じて日本と国交を結んでから、日朝貿易もさかんで、応永の外冦・己亥東征等の争いはありましたが朝鮮からは「通信使」日本からは「国王使」という対等な友好交流が室町時代に3回実施されています。しかし、1510年に朝鮮半島の日本人居住者3000人が暴動を起こした三浦倭乱で、日本人は追放されます。

 当時、スペインは1580年にはポルトガルと併合し、ブラジルやアフリカ、マレーシアマラッカやインドゴアのポルトガル植民地を承継しついにアジアにも進出し、フィリピンを植民地としました。そして、次は中国(明)全土への進出を視野に入れていました。(ポルトガルが1517年に遣明大使を北京に送りますが、皇帝との謁見は拒否されていました。)当時アジアに進出していたポルトガル宣教師は1557年頃以降に中国(明)のマカオに居住しはじめました。1572年からは明に地代を払い定住し、マカオを中国との生糸取引の拠点としました。(18世紀には産業革命で工業生産の世界の主役は中国から英国に移りますが、当時の中国(明)は、世界一の人口と農業と市場だけでなく、世界一の工業生産をあわせもった、世界経済の中心地でした。秦の始皇帝時代に建築が始まった「万里の長城」の現存部分はほとんど明代に作られたものです。)

 日本にも渡来したポルトガル宣教師は布教以外に、キリシタン大名たちと火薬を取引する見返りに日本女性たちを奴隷売買する等、日本に対して植民地まがいの行為さえ行っていました((室町幕府は南北朝時代から明皇帝の冊封を受け形のうえでは、明の「属国=日本」とし1401年から1549年まで19回の日明貿易を行いました。足利義満の死後、幕府は明への服属を嫌い、天下統一を目指す織田信長もマカオ・ポルトガルを通した南蛮貿易を積極推奨して鉄砲を輸入しました。信長は安土にセミナリオ修道館の建設も許可します。しかし、1587年九州に進出した秀吉は、土地がキリスト教会に寄進されている現実に驚き、日本は植民地扱いされ日本娘が奴隷売買されている実態を嘆きます。そして、バテレン追放令をもって「日本人売買を禁止」しました。(追放は形式で奴隷売買も1596年に宣教師側で禁止するまで続きました。)

 一方、スペイン・ポルトガルの植民地政策の成功と野望を聞かされ、信長も秀吉もかなり憧れたのでしょうか(スペインは当時、最盛期で「太陽の没することなき帝国」として世界中に植民地を拡大していました。1588年のアルマダ海戦で英国に敗れ、世界の主役が英国に変わろうとしていた時代でした)。ルイス・フロイスの『日本史』によれば、信長は天下の統一の後「一大艦隊を編成して、中国(明)を武力で征服する。」との野望をルイス・フロイスに語っています。

 信長の野望は、日本の天下統一の次は、明の属国=日本の地位を返上することが視野にあったのではないでしょうか。信長の意志を引ぎ日本の統一を成し遂げた秀吉は、1585年ポルトガル宣教師らに大阪城で明への出兵の意図を語ります。実現しませんでしたが海から明を直接攻めるため軍艦2隻の周旋をポルトガル宣教師に依頼します。当初、秀吉はポルトガル・スペインと共同で明を征服しようと考えたようです。一方1587年6月には対馬を通じて朝鮮に対し入貢を要請し、1589年琉球に対しては薩摩の島津氏を介し使節遣に明遠征の食料支援を要求しています。1590年に秀吉の日本統一の祝賀に訪れた朝鮮通信使に対して秀吉は朝鮮の日本への服属と明遠征への先導役をつとめることさえ求めました。また、1591年に宣教師を通じたインド副王からの贈物の返礼で宣教師に接待を行い、実現しませんでしたがインド副王を通じてスペイン国王の来日まで依頼します。

 結局、秀吉は日本単独出兵を決意し朝鮮半島経由で明の制覇を目指しました(この時期、秀吉は信長とは違って支配の権威としての天皇を尊重し関白の称号を得ていましたが、朝鮮の役に専念するため関白を辞します。また茶人の利休は朝鮮半島由来で秀吉にそむき自害させられたとする俗説がありますが、お茶は南宋留学し僧が臨済宗とともに中国から種子を持ち帰り鎌倉時代に武士階級で広まり日本独自で発展したもので平安・朝鮮貴族文化との関連はないと思います。)秀吉は1592年1月諸大名に「唐入り」の出陣命令を出し4月12日ついに日本軍は朝鮮半島にむかいました。1592年5月にソウル、6月にはピョンヤンに進軍し快進撃となりますが、李舜臣の亀甲船が日本の水軍を破り海戦では形勢が逆転し、明軍の応戦にいたり、日本軍は膠着、兵糧が欠乏し飢えたため目標の明にたどり着かず、翌年1593年に休戦します。当時約16万に達する大軍を出兵しました。名護屋城には家康らが11万、京都の警護として秀次らが10万の兵を置き、総勢約37万人の兵が朝鮮出兵のために費やされました。日本が挙国一致で全国力を注ぎました。

 朝鮮だけでなく1593年に秀吉は使者を台湾にも派遣し朝貢を要請します。1594年にはフィリピン宛に書状を出し朝鮮は占領したので次はマニラ進軍だと吹聴し、スペイン国王に日本との関係を結ぶよう進言を要請します。1596年の朝鮮通信使は日本との講和を目的とした明使(冊封使)に同行しますが、秀吉は朝鮮通信使には接見せず、明使と直接交渉します。

「関白降表」という偽りの降伏文書を作成して、明側に秀吉の和平条件は「勘合貿易の再開」のみであると伝えたとも言われます。しかし、明は「明の冊封体制下に入る事は認めるが勘合貿易は認めない」とし、秀吉を日本国王(順化王)とした称号と金印を使節に授けていました。朝鮮半島南半分を割譲せよとの秀吉の要求を拒否し、日本軍の完全撤退を主張し、室町時代と変わらず日本を明国の属国扱いした明皇帝の国書に立腹した秀吉は、1597年に、約14万に上る大軍を朝鮮半島に再び派兵します。

 しかし、日本の戦況は悪化します。またも目標の明にもたどりつかず、日本軍は膠着状態となります。

 秀吉が病で1598年8月に死去すると、喪はしばらく伏せられ、日本側は戦況の悪化を判断し、五大老が撤退を決定します。徳川家康と前田利家が二人の使者を朝鮮半島に送り明軍・朝鮮軍と停戦協定を結びました。そして1598年末頃までに日本軍は完全撤退します。実質敗北でした。この朝鮮撤退のイニシアチブを取った徳川家康は、その2年後の1600年10月に、天下分け目の関ヶ原の戦いで勝利し日本の全権力を掌握します。
 
 「老若男女僧俗に限らずなで切りにせよ」との秀吉の命によって、略奪と殺戮が繰り返されました。秀吉の朝鮮出兵は、現地の民衆からの収奪、強制労働、婦女暴行、拉致など残虐の限りをつくしました。現在京都にある「耳塚」と呼ばれているものは朝鮮人と中国人約2万人の鼻そぎ耳そぎによる「鼻や耳」を供養したものですが、戦果の印として戦地から秀吉に送られたものでした。朝鮮出兵で最初は死者の鼻や耳を日本軍は切り取りましたが、しだいに生きているまま朝鮮人中国人の鼻や耳まで切り取り持ち帰るようになっていきます。生まれたての赤ちゃんの鼻までそぎとり塩づけにして持って帰ったそうです。また朝鮮の全羅道では、秀吉の命に沿って老若男女を問わない皆殺し作戦を日本軍は実行しました。

 また、敗北撤退したため、領土拡張等の成果がなかったなかで、一番の戦利品は捕虜でした。日本に連れ帰った朝鮮人は数万人に及び「日本娘を南蛮に売り渡す」(奴隷売買)を禁止した代わりに、多くの朝鮮人捕虜がスペイン・ポルトガル人に奴隷売買されました。

 日本では、戦国時代から抜け出し天下統一を成し遂げた時代劇の英雄「豊臣秀吉」ですが、韓国では、今日までも侵略の象徴になっています。しかし、16世紀の秀吉の朝鮮出兵は、軍事疲弊と豊臣家の衰退につながった反面、古代から続いた中国朝貢・属国の歴史を断ち切り、「日本」を独立させた戦いであり、その直後、徳川幕府の統一による太平の江戸時代を創設させました。江戸時代の日本はその後、明・清国やスペイン・ポルトガル・英国等の大国の覇権から逃れて、265年も続く「平和」を創設します。

 朝鮮出兵の後、朝鮮・明と日本の国交は断絶状態となりますが、朝鮮貿易を閉ざされた対馬藩の財政が困窮しました。外来・公家文化を嫌い、後に鎖国する家康でしたが、朝鮮に対しては、海外門戸の開放先を求めて明との国交は断絶したままで、李氏朝鮮との交流回復を、家康側から申し出ます。一方、李氏朝鮮国からは秀吉侵攻に対する戦争謝罪の要求がありました。
 
 頭を下げたのは家康側でした。室町時代からの慣習の朝鮮通信使を家康は復活させます。しかし徳川からの返礼使は対馬藩が代行し釜山に貿易目的で設立された倭館どまりで日本の返礼使がソウル上京することは拒否されます。1607年から1811年まで12回、500人規模の朝鮮国の大使節団が江戸を訪れました。3回目までは、回答兼刷還使とされ、それは日本国から秀吉出兵に対する正式な謝罪行為でした。連れ去られた儒家、陶工なども朝鮮側に帰国しました。しかし、日本が留めた人びともいました。薩摩藩では、武士同様の厚遇を与えられました。鹿児島市高麗町の地名はこれに由来しています。薩摩焼や萩焼、有田焼き等、九州・薩摩や山口・長州には朝鮮民族由来の伝統や集落が今日まで数多く残っています。(その流れが長州・薩摩の明治維新の中心勢力になったと言う俗説もあるようです。)

 当時イギリス東インド会社に対抗してオランダ東インド会社を発足させたオランダがインドネシアに進出し、スペイン・ポルトガルに遅れて日本にも進出してきます。オランダは当時スペインへからの独立戦争を本国で戦っていました。1637年には島原にキリシタンの乱が起こり、驚愕した江戸幕府にオランダから「スペイン・ポルトガルの宣教師の勢力の排除と中国朱印船貿易の中止」の進言がありました。江戸幕府は1639年の第五次鎖国令(ポルトガル人の国外追放)で、ついに鎖国を宣言します。長崎出島でオランダと明との貿易のみが許可され、例外たる海外交流事業は、隣国の琉球国通信と朝鮮通信だけになります。日本にとっては、朝鮮通信は貴重な海外交流の役割をも担いました。

 それは歴史の事実でした。鎖国の閉鎖性や封建性の身分制度等の深刻な矛盾は抱えましたが、朝鮮出兵の失敗に懲りて、中国大陸と距離を置き、ヨーロッパの覇権からも逃れ265年の平和を享受しました。

江戸時代後期に、吉田松陰らの国学者らは、日本の朝鮮起源説で朝鮮半島進出を唱え、鎖国開国・尊王攘夷を主張した薩摩・長州の主張にも繋げます。明治時代、星野恒が日本の皇室の祖先は「本州を発見」して渡来してきた「新羅の主」であると主張します。天皇の先祖の「皇祖」は渡来し、まず「出雲地方」に定着し、次いで大和地方に勢力を広げ、神武東征を経て日本民族を征服し、皇国を築いたと主張しました。日本書記・古事記に実証的に沿った主張でした。しかし、新羅は日本から離反し唐と連合して白村江の戦いで日本・百済の連合国を破り日本が朝鮮半島のルーツを失った歴史を偽りませんでしたが、白村江の敗北を嘆き、秀吉の朝鮮征伐を讃え、朝鮮半島を再び日本皇室の領土に編入させるのが当然であるとも主張し、征韓論に利用されました。

(ちなみに新羅(朝鮮系)と滅びた高句麗・百済(扶余系)は、別系列の民族といわれます。神功皇后は新羅の王子アメノヒボコの子孫と日本書記・古事記に記載があり、桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されています。歴史からの推定では皇族は大和民族純血ではなく、朝鮮系でもあり中国(扶余)系でもあろうと推定されています。近代では明治時代に皇室梨本宮家から、韓国李氏朝鮮王家に政略結婚も実施されました。)

 屈折した歴史観により西欧同様の侵略・植民地政策が正当化され、国際連盟の共通認識となった「民族自決権」にも逆行し、天皇の権力を復活させた日本は、台湾を編入と称し、朝鮮半島を併合と称して植民地化します。東アジア侵略へと歩み出しました。1910年韓国併合の翌年1911年の日本唱歌に「豊太閤の遠謀も西郷翁の先見も今まのあたり現れて新日本の新版図」という歌もありました。秀吉の朝鮮征伐や西郷隆盛らの征韓論を美化する歌が子供達に歌われたのです。この年、日本は開国以来の悲願であった列強各国との不平等条約改正を完了させ、列強の一員となります。その後・満州・中国への軍事侵攻から太平洋戦争で欧米支配のアジア諸国に進軍した道は、またも敗北でしたが、それは、日本の侵略の意図にも反してアジア諸国が独立する契機を生み、戦後に世界一平和な国家を20世紀の日本民族にもたらします。


 イキリスの戦略支援を受け維新をなしとげた明治時代に富国強兵政策で意識も急速に西欧化した日本では、大和民族の血流に流れる、中国・朝鮮の歴史文化の内在継承を理性では認めざるを得ない一方で、感情面では、近代化が遅れた中国・朝鮮文化をコンプレックス=とも感じたようです。日本文化の基礎であった中国・朝鮮の文化に、いわれのいない屈辱感からくる侮蔑感が横たわり、それが中国・朝鮮の民族を否定・排除し、大和民族至上主義の精神を育みました。そのゆがんだ精神こそが(国際非難さえ回避し)、沖縄・台湾・朝鮮への植民地支配を編入や併合と正当化、日清・日露戦争を誇り、そして日中戦争を事変と呼ばせ擬態化して、ごまかしたのです。

(今日でも多くが、実態は中国・朝鮮の民族・文化に基礎をおく大和民族文化を神話化し、中国・朝鮮民族に侮蔑感をあわせ持っているといわれます。戦前「・・中国の影響は(日本の)個々の人格、その魂には決して及ばなかった。」と新渡戸稲造は日本の独自性を強調、徳富蘇峰は戦後『敗戦学校・国史の鍵』の中で日本は「質・量全てにおいて中国には敵わないと意識したときに負けじ魂から独自のものを生み出した。それが"神道"」とまで主張しました。紀元前数千年の中国のような歴史や紀元前数百年の朝鮮のような紀元前の歴史が日本にはなかったため明治政府は歴史を捏造したのです。外来貴族・皇室と幕府との二重権力を歴代維持した当時の日本には歴史に劣等感があった一方で、近代化が遅れたアジア民族に対し、西欧人と同様に圧倒的な優越感が生まれました。)

 

 

 過去の文化だけでなく、戦前の日本の本土で経済の底辺を支えたのも実は、日本民族だけではなかったのです。 第二次大戦中に日本企業は中国から4万人を強制連行し、日本各地135カ所の事業所で強制労働に従事させました。また、日本の大きな土木事業には、必ずといってよいほど朝鮮半島から渡ってきた朝鮮人労働者や移住者がいました。朝鮮人は終戦時には、210万人とも言われ、約140万人が終戦時に帰国しました。帰国しなかった人々は、日本国籍のまま朝鮮戦争には参加しませんでした。しかし、サンフランシスコ講和条約の発行により、日本国籍を喪失してしまいます。いわゆる在日です。P


 人民の国の中国では、奴隷的地位から一転して優遇的地位が得れたのに、民主化された日本で、どうして?日本の朝鮮族は国籍まで奪われたのですか。戦争に負けたからですか?。戦前に徴用された朝鮮族は抵抗しなかったのですか?。J

日本の民主化は、本当の民主化ではなく、アメリカが与えた民主化です。独裁国家から民主化されましたが、国民が勝ち取ったのではないため、戦前の矛盾が戦後に復活します。もう実質的に日本民族といっていい在日の国籍問題はいまだに解決していません。

アメリカとの講和条約に起因する戦後日本政治の矛盾の一つだと思います。しかし、在日は日本人としてかつて参政権もありました(朴春琴(パク チュングム)は衆議院議員に東京4区で1932年と1937年二回当選しています。)戦争では日本人と同様に徴兵され犠牲者になっています。「広島・長崎の原爆」でも在日朝鮮人が約3万人被爆死しました。被爆者も多く広島の原爆ドーム前の「建設省職員殉職碑」の犠牲者で最初に名前が書かれている伊原(日本名)さんは本名はJさんと同じで朝鮮半島の出身でした。
 1948年にはGHQは阪神のコリアン地域に非常事態宣言を発令する弾圧事件さえ起こしました。それを契機に日本政府はGHQの意向で日本国民としていた「在日」の国籍を奪い外国人と見なします。
 
 労働者の無数の抵抗はあったようです。戦争末期には、朝鮮人ではありませんが、青森県の花岡の川の改修工事に徴用された中国人労働者らが強制労働だけでなく飢餓状態に置かれ、1945年6月30日に800人が遂に抵抗蜂起しました。それに対して日本警察、警防団の出動により多数の中国人を多く含む労働者が拷問などで虐殺されました。総計419人が死亡した花岡事件として有名です。また、日本最大の炭鉱として栄えた三井三池炭鉱に強制連行された朝鮮人らは鉱業関連で6万人を超え総数は10万人近かったとも言われます。三井三池炭鉱では中国人も2,481人が連行され500名以上が犠牲になったとされています。P
 
 戦後は、韓国は日本が講和協定を結ばないので、在日の帰国を拒否する一方、北朝鮮側は『地上の楽園・北朝鮮』と宣伝して、朝鮮への帰国運動を、強力に勧誘しました。日本政府や日本の朝鮮団体や政治家も皆乗せられ、こぞってその帰国運動を推奨しました。そのため、9万人程の在日が自分の故郷でもない北朝鮮地域に日本から移住をします。しかし、その後帰国者の生活は困窮、行方不明者が続出、帰国事業はその後消滅してしまいます。P

もともと日本国籍者ですから、実質拉致被害者のようなものですねJ。
 
 戦後も、朝鮮戦争の悲劇がありました。今日は観光地で知られる済州島では、朝鮮戦争前夜の1948年4月3日に、市民の抵抗に対し、アメリカの意向を受けた韓国軍や朝鮮半島本土の右翼青年団などによる虐殺事件を起こしています。1948年に28万人いた済州島民は、事件以来1957年3万人弱にまで激減しました。四・三事件以降に日本に逃れ在日となった人々も多くいます。

 中国関連での戦後の政治の矛盾では、もう実質的に中国人といってもよい日本人でもある中国残留孤児らの問題があります。その家族も含めると1980年代から孤児2千数百人と残留婦人等が3千数百人、残留孤児の家族約1万9千人が日本に帰国し、現在も少数ですが認定者は毎年発生しています。しかし幼少より中国で育ち、何十年も経過したため、約9割の人々が日本語を習得できませんでした。一旦、日本人と認定されれば、日本国籍が認められると同時に中国籍は取り消されました。生まれ育った中国の故郷にもう帰国もできず、かといって日本の生活ではろくな仕事も見つからず、一時社会問題化しました。戦前の日本政府は20年で500万人の日本人の満州移住を計画し、多くの日本人を満州に送りましたが、二重国籍を認めなかった日本政府は、帰国時に日本国籍がないと移住計画が減少する恐れもあったことから、満州国に国籍法を制定させませんでした。満洲国では「国民」なるものが、存在しなかったのです。国籍のない国など、世界史上でも満州国だけかも知れません。日本の傀儡政権とも呼ばれたゆえんです。

 終戦時ソ連侵攻と関東軍の撤退によって満州における日本軍の支配と、それに基づいた満州の日本人社会は崩壊します。戦後、満州の日本人の帰国は困難を極め、避難の混乱の中で家族と離れ離れになったり、命を落とします。1946年春まで帰国をソ連が許さなかったこともあり、家族離散や死別の悲劇がありました。避難のさなかで身寄りのなくなった日本人の幼児は縁故または人身売買により現地の中国人の養子に出され、女性は中国人の妻となりました。日本に帰国できた者だけが帰国し、1958年に日本政府は帰国事業さえ廃止しました。
 孤児や残留者は日本人であることを隠して、日本軍の戦争被害感情が残る中国社会で生活し続けました。日本では残留させた子供達、兄弟達の消息を確かめたいという家族の活動が戦後継続し、周恩来への手紙がけっかけで中国でも日本人残留孤児問題の検討が始まりました。しかし文化大革命の混乱や周恩来の死去で実際に中国が解決に動いたのはもう1980年代になってからで、帰国後も年金問題などの訴訟がようやく決着したのは2009年(最高裁判所上告棄却)になってのことでした。

 


 日本の韓流は、2003年の冬のソナタが契機でしょうか、しかし戦後復興の日本文化に在日の努力が築きあげた文化の下地が大きく貢献したような気がします。力道山を愛し、プロ野球を愛し、演歌からポップスまで戦後日本の主要な歌手も、気がつけば、戦後日本文化の主要部分に在日が見えないところで大きく関わってきたことが自然に韓流をうけいれる下地を作っていたと言ってもよいでしょう。それから、オリンピックやサッカーの交流。やはり民主化政府の文化育成策のなかで生まれた韓国映画やドラマの影響は大きかったです。

(正直なところ朝鮮人に対する感情的な偏見は、実際根強いものが、私達の世代以前は日本にはあったと思います。)

 今日の韓国の民主化のきっかけに、実は、日本も大きな関わりを持っています。
1973年当時、韓国野党の金大中氏が日本で講演するため東京を訪問した際のことでした。KCIAが、東京のホテルグランドパレスから、金大中を拉致・誘拐したのです。

 日本政府は、日本国内で起こった主権侵害行為として、謝罪と日本当局による調査を要求したのですが、田中首相と金鍾泌首相は、事件を政治決着して、警察捜査の打ち切りをはかりました。
 その結果、ソウルで軟禁状態に置かれてしまった金大中ですが、1976年に「民主救国宣言」を発表します。そのため逮捕され、懲役判決を受け1978年3月に釈放され1980年には再び政治活動を開始しました。

 1980年5月17日、韓国では全国で民主化要求のデモが大展開します。それに対して、韓国の全斗煥軍部政権は、ついに戒厳令を布告します。そして、野党指導者の金泳三や旧軍部の金鍾泌らが次々に逮捕・軟禁され、金大中も逮捕されました。
 
 しかし、金大中の活動基盤の光州市では、戒厳令や金大中逮捕への抗議が一気に高まり、当局と学生が衝突を起こします。抗議する青年・市民はついに20万人以上に、膨れ上がりました。この光州の民衆運動に対峙した陸軍・警察3万人は、光州の学生・市民らに対して、発砲を行い弾圧しました(光州事件:後年調査では死亡者192)。

 そして、この光州事件の首謀者として、「韓国民主回復統一促進国民会議」の議長であった金大中は、死刑判決を受けます。
 
 当時、日本では、光州事件の悲劇が広く報道されました。また、日本国内において金大中が拉致・誘拐された経過や親日家であることもよく知られていたため、金大中への同情は大きく、一種の責任感さえ日本では生まれました。学生や市民を中心にして、金大中の死刑判決撤回の署名運動が大展開されました。金大中への支援活動に、外国人で当時最も熱くなったのは日本人だったのかも知れません。
 
 その影響でしょうか、温厚で、怒る姿を全く想像できなかった日本の当時の鈴木首相から、金大中の身柄に重大な関心と憂慮を表明するとの異例の声明が出され、韓国側から「内政干渉」と抗議されます。
 
 金大中への死刑判決に対する批判は、韓国でも大きな大衆運動になりました。国際的批判も高まった結果、ついに1982年、韓国は金大中の死刑を無期懲役に減刑します。そして、米国への出国を条件死刑執行の停止が決まりました。後に5人の死刑、7人の無期懲役も全員無罪となりました。
 
 その後、米国に亡命した金大中は1985年に韓国への帰国を強行し、1987年の民主化で再び公民権を回復し、政治に復帰したのです・・・。
 
(韓国の民主化といえば、私にとっては、金大中がやはり一番印象的でした。日本語も演説も抜群にうまかったです。『行動しない、良心は、悪の味方にすぎない!』『奇跡は奇跡的に訪れるものでははない!(1998年日本の国会演説)』そんな金大中の言葉に、ノンポリの日本人の魂さえも、大きく大きく揺さぶられたものです。)

 
 1987年、韓国では、学生運動家の拷問致死事件も発覚し、光州事件を武力で鎮圧した全斗煥に対する反政府デモは日増しに高まりを見せ、高校生や中年サラリーマンの一般市民も合流した民衆デモとなり、遂にデモ参加者は100万人を超えた国民運動になりました。国際社会もこのデモに注目し、このまま、デモが継続して、ソウルでオリンピックが開けなくなった場合には、ロサンゼルスで代わりに開かれると声明が出されました。

 民衆デモの高揚に対し、全斗煥から後継指名を受けた盧泰愚は、遂に1987年「6・29民主化宣言」(6・29 민주화 선언)を発表しました。
 この民主化宣言で、6月10日デモから約20日間続いた激しい韓国民衆のデモは、ようやく終息に向かいました。
 
 それは、ソウルオリンピックの成功を条件とした大統領直接選挙制の受け入れと、金大中の赦免・復権等を骨子とした内容であり、実質的に民衆の要求を全面的に受け入れたものでした。
 それは、韓国民衆の自由と民主主義の勝利宣言でした。

 同年7月9日には、デモで催涙弾を頭部に受け死亡した「李韓烈」君の大衆葬が行なわました。ソウル市から光州事件犠牲者墓地まで平和的行進の葬儀隊列参加者は、ソウルで約100万、光州で約50万、韓国全土で約160万人にも及びます。




朝露
아침이슬

긴 밤지 세우고  풀잎마다 맺힌
キン・バム・チセウゴ、プリ・マダ・メチン
長い夜を明かし 草の葉に宿る

진주보다 더 고운  아침이슬처럼
チンジュポダ・ト・ゴウン、アチミスル・チョロム
真珠よりきらきら光る朝露のように

내맘에 설움이  알알이 맺힐 때
ネ・マメ・ソルミ、アラリ・メチル・テ
私の心に悲しみの涙が宿るとき

아침동산에 올라  작은 미소를 배운다.
アチム・ドンサネ・オルラ、チャグン・ミソルル・ペウンダ。
朝の丘に登り、ささやかに微笑むことを学ぶ

태양은 묘지 위에  붉게 떠오르고
テヤグン・ミョジ・ウィエ、プルケッ・トオルゴ
太陽が墓地の上に赤く昇り

한낮에 찌는 더위는  나의 시련일지라.
ハンナジェ・チヌン・トウィヌン、ナエ・シリョニルジラ。
真昼の燃える暑さは天が与えた私への試練だろうか

나 이제 가노라.
ナ・イジェ・カノラ
もう私は行こう

저 거친 광야에 서러움 모두 버리고
チョ・ゴチン・クァンヤエ・ソロウム・モドゥ・ポリゴ、
あの荒れ果てた荒野へ 悲しみの全てを振り捨て

나 이제 가노라.
ナ・イジェ・カノラ、
私はもう行こう


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