歌詞を味わうブログ

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『ガラス越しに消えた夏』 作詞:松本一起

2021-04-10 08:09:00 | 歌詞を味わう
リリース:1986年

今週も当ブログを訪問いただき、ありがとうございます。
1週間に1回のペースで申し訳ありませんが、拙い文章をご一読いただければ幸いに存じます。

この曲の歌い手は鈴木雅之さん、作曲は大沢誉士幸さんです。
作詞者の松本一起さんは、他にも様々な歌手に歌詞を提供しているので、いずれまた機会があればとりあげるかもしれません。

それで歌詞の始まりの方なんですが、1番と2番の最初の部分を見てみましょう。

「やがて夜が明ける 今は冷めた色
次のカーブ切れば あの日消えた夏」

2「ツライ夜を数え 瞳 くもらせた
ガラス越しの波も 今はあたたかい」

と情景が綴られていますので、ガラス越しのガラスとは自動車のガラスであり、夏の日の海の想い出が背景になっていることが推察できます。
何とも憎い演出ですね。

それで歌詞の1番と2番の中間の部分を比較してみましょう。

1「君は先を急ぎ
僕はふり向き過ぎていた
知らずに 別の道
いつからか 離れていった」

2「君がいないだけ
今は苦しくはない
二度とは帰れない
あの日が呼びもどすけれど」

これらの歌詞を見ると冷静に分析できている印象を持ちますが、「君」が先を急いでいた先とは何なのでしょう?
「僕」は「君」の歩む速さについていけない分、今は「僕」がマイペースで歩めるから苦しくないんでしょうか?
逆に「僕」がふり向き過ぎていたものって何なんでしょう?
それは私にはわからないけど、肝心なことは「君」と「僕」の関心のベクトルが全く正反対だってことかな?

そのようなことを前提に、さらにサビの部分を見てみましょう。

1「サヨナラを繰り返し 君は大人になる
ときめきと とまどいを その胸にしのばせて」

2「サヨナラを言えただけ 君は大人だったね
ときめきと とまどいを その胸にしのばせて」

「大人になる」とか「大人だった」とか、時制の問題はおいといて、「大人」って何なんでしょう?
機械的に線引きする民法上の成年年齢の20歳(来年4月1日からは18歳)やJRの料金区分では学割適用となる中学生以上が大人だったりするわけだけど、曖昧な定義では未成熟子(もっと人権に配慮した言葉がないものかね…)なる言葉も法曹界では使われていますね。

この歌詞では「サヨナラを繰り返す」、「サヨナラを言える」ことが大人だと言っているように思います。
ちなみに「しのばせて」をあえてひらがなで表現しているのは、「偲ぶ」と「忍ぶ」の両方の意味を含ませたかったのかもしれません。「ときめき」を偲ばせつつ、「とまどい」を忍ばせる、ということかな。

作詞者の「大人」の定義は一つの作品として尊重したいと思います。
でも、現実の社会ではその定義が全てじゃないわけで、ケースバイケースかな、とつくづく思うのよ。
浜辺に押し寄せる波のように次から次へとサヨナラを繰り返しても、そこから何も学ばないで同じことを繰り返すんだったら、傷つく人が増えるだけでしょ。

サヨナラをしないで、お互いに相手への向き合い方に欠けがなかったのか反省して態度を改めるという方法も「大人になる」ということの一つだと思っちゃったりしちゃったりして。
相手に何かが足りないと感じたなら、ダメな人というレッテルを貼って見限るんじゃなくて、改善方法を教えてあげるというアプローチも、お互いに成長する上で必要だと思うのよね。
「何でできないの」って怒るより、「こうしたらいいよ」って教えてあげた方が、ずっといいじゃない。

でもさっきも言ったけど、これはほんとにケースバイケース、離れることが必要な場合もあるのも確か。
共依存に陥らずに、お互いに過度な依存でも疎外でもなくて協力し合えればベストなんだけどね。
そう言ってる私も、若かりし頃には人間関係で苦しんで、離れることで苦しみから逃れたことが何度もあったんだけどさ…。

最後までお読みいただいた読者の皆様、本当にありがとうございました。
また1週間、どんな苦しいことも、心の糧になると思って頑張りましょう!





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