歌詞を味わうブログ

1980年代から1990年代の日本のポップスの歌詞を味わうブログ

『Temptation(誘惑)』 作詞:松本隆

2021-04-24 07:46:00 | 歌詞を味わう
リリース:1985年

今週も当ブログを訪問いただき、ありがとうございます。
本田美奈子さんと言えば、その短い生涯の中で精一杯歌い、そして最期まで小さな幸せを大切に一日一日を過ごされた方だと思っています。
本田さんはアイドル歌手としてデビューしたんだけど、最初から飛び抜けた歌唱力で、彼女自身もそのように呼ばれるのを嫌っていたし、私もそう思う。
さてこの曲は、作曲が筒美京平さん、作詞が松本隆さんで、お二人とも現在も活発に音楽活動に取り組まれていらっしゃますね。本田さんも素晴らしい作曲家や作詞家に恵まれたんですね。
それで、この曲は本田美奈子さんがデビューした年の曲で、デビュー曲ではないものの、大ヒットしていくつかの新人賞を受賞した曲でもあるんです。

では、まず1番と2番のサビの部分を見てみましょう。

「ああ誘惑して 心の中で私が叫ぶ
ああ誘惑しないで 違う私がブレーキかける
いえいえ まだまだ その手には乗らないわ
ときめいてTemptation 夢がひとひら
謎めいてTemptation 心うらはら」

「ああ 誘惑して 瞳で私話しかけてる
ああ 誘惑しないで だけど何かが邪魔をしてるの
いえいえ まだまだ 恋人になれないわ
ときめいてTemptation 夢がひとひら
謎めいてTemptation 心うらはら
ときめいてTemptation 夢がひとひら」

何となく、乙女心の核心を突かれたような気がしますね。
昭和歌謡と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、当時は2番の歌詞にあるような「ボーダー・ライン」というものを大切にしていたように思うんです。少なくとも表向きはね。
それは単に焦らしではなくて、心の中にいるもう一人の自分が本能的にブレーキをかけるからだと思うのよね。

少し1番と2番の歌詞を見てみましょう。

「岬に立てば強い潮風
スカートの裾じゃれついてるわ
微妙な視線投げるあなたに
何故なの 心さわぐ感じよ
望遠鏡で沖のヨットを
覗いた隙に肩を抱くのね
予感通りにせまるあなた
計算違い 髪がときめく」

望遠鏡を覗いた隙に肩を抱かれるのは予感通りでも、それでときめいてしまうのは計算違いだったんですね。


「夕陽が海に溶ける瞬間
カメラで私 綺麗に撮って
ちょっと危険なポーズつければ
だめねシャッター ぶれてるみたい
今日は帰りが遅くていいの
秘密の声でもしつぶやけば
きっとあなたはボーダー・ライン
飛び越えて来る だから言えない

2番では、カメラを通して心の動揺を見透かしているかのようです。

1番でも2番でも誘惑する過程が、何となく懐かしさを覚えるのは、私がアナログ的な部類に属するせいからかもしれませんね。

今週は体調がすぐれず、中途半端な味わいになってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。




『河口にて』 作詞:来生えつこ

2021-04-17 06:09:00 | 歌詞を味わう
リリース:1979年

今週も当ブログを訪問いただき、ありがとうございます。
この曲は1979年リリースなので、当ブログの趣旨から若干はずれるとは思いますが、ご容赦ください。
また、歌い手である太田裕美さんのファンからは、なぜ松本隆さんじゃないのよ、という声も聞こえてきそうですが、作詞を来生えつこさん、作曲を浜田金吾さんに一新し、夏をイメージしたアルバム『Feelin' Summer』の名曲でもあるので、どうぞご理解ください。

この「河口にて」という曲の歌詞を理解するには、あるキーワードに注意を注ぐ必要があるかな、と思います。
そのキーワードとはズバリ「人間ぎらい」、なんて断言しちゃったりしてね…。
人間ぎらいの詳しい意味についてはネットで調べてもらえればある程度のことはわかるかなと思いますが、そのようなことを前提に、まずはサビの部分を3カ所見てみましょう。

うつ向きかげんの思い出をなぞると
そぞろ寂しいすきま風招いて
何故か何故かすべてが空しい
人間ぎらい むら雲の空 自分をもてあます

おぼつかない夢の道草のような
そぞろ悲しいメランコリーおそって
とてもとても果てないむなしさ
人間ぎらい むら雲の空 自分をもてあます

おぼつかない夢の道草のような
そぞろ悲しいメランコリーおそって
いまはやはり愛が欲しいわ
優柔不断きまぐれすぎる 自分をもてあます

歌詞の1番では、

うたたねからさめた後のだるさ
まぶたこすり夢路たどる窓辺
もどかしい夏のゆるい風
なまぬるい空気じっとまつわりついてる
心もとないまま夏の一日
心ここにあらず夏の黄昏」

と主人公の女性がおかれている風景や情景が綴られています。
かく言う私めも人間ぎらいの傾向があると思っているので察しがつくのですが、夏の一日が心もとないまま過ぎ去ってしまい、心ここにあらずの状態で黄昏時を迎えてしまっている状況というのは、尋常ではないものを感じますね。
何か、精神安定剤とかでも服用してたのかな、なんてうがった見方もあながち外れてなさそう。
私もね、時々人間関係がわずらわしくなったりするんだけど、自然と触れたり、草花を愛でたりしてる方が気楽だと感じる場合があるのよ。
そういう意味では、素敵な花たちをご紹介してくださっているgooブロガーの皆様にはホント感謝してます。

歌詞に話を戻しますが、1番ではこの後心象風景が以下のように語られサビの部分へとつながっています。

「心の奥底眺めて探して
愛という字がまのびしてかすむ」

「愛という字がまのびしてかすむ」や「そぞろ寂しいすきま風」、「むら雲の空」という言葉が、空しさの原因さえはっきりしないもどかしさを表現していると思います。
なぜはっきりしないのか、と問われても、「人間ぎらい」だから、それ以上の答えは導き出せないでしょう。でも意外と「人間ぎらい」の人は多くの事を考えすぎているはず…。

そして2番の歌詞では注意が河を下るカヌーへと向けられます。

「ゆるやかに河をすべるカヌー
蜂蜜色の肌を持つ青年が二人
しなやかな手つきであやつるオール
私に目もくれず流れの中へ」

私に目もくれなかったのは、カヌーを操る青年たちに問題があったのではなくて、この主人公の女性が「ヤッホー」とか「頑張ってねえ」とか声をかけた雰囲気がなく、ただ「私に気付いて」ほしかっただけで、何もアクションを起こさなかったからだろうと思います。
ところが、このカヌーの登場によって主人公の女性の心象風景にわずかながら変化が起きます。

「心の奥底ゆらいでしびれて
未知のあこがれ焦がれては消える」

それはカヌーを操る青年たちへの愛と言うよりも、未知のあこがれが少しは生じて、しびれているということでしょうか?
だけど、むら雲のように晴れていたと思っていた空が急に集まった雲に隠されるように安定はしてません。
それでも3のサビにあるように「いまはやはり愛が欲しい」と、かすかな人間関係回復への希望さえ感じとれるのです。

とまあ、ここまで色々と書いてきましたが、私の仮説もあやしいもので、そんな考え方もあるんだなあ、ぐらいに受け取っていただけたらと思います。
ただ、人間ぎらいについてはネット上でも書籍でも解説したものがありふれていますが、もっとフェアな視点で考えて欲しいなあ、とつくづく思いました。
「人間ぎらい」というカテゴリーに類型化して、診断とか治療とか、それでホントに問題解決になっているのかな?と疑問がわいちゃうんですよ。
「人間ぎらい」になるのには、そこに行き着くまでの対人関係だったり社会との関係性だったりが当然あるわけで、「人間ぎらい」の人を治療や研究の対象にするような態度で接するのではなく、会話なんていらないから配慮のある態度で接するのがいいはずだよなあ、なんて素人考えですが思っちゃいました。

最後になりましたが、この『河口にて』はボサノヴァ調の旋律で、太田裕美さんの歌唱力と相まって素敵な作品に仕上がっていますので、ぜひCDの方も聞いてみてください。




『ガラス越しに消えた夏』 作詞:松本一起

2021-04-10 08:09:00 | 歌詞を味わう
リリース:1986年

今週も当ブログを訪問いただき、ありがとうございます。
1週間に1回のペースで申し訳ありませんが、拙い文章をご一読いただければ幸いに存じます。

この曲の歌い手は鈴木雅之さん、作曲は大沢誉士幸さんです。
作詞者の松本一起さんは、他にも様々な歌手に歌詞を提供しているので、いずれまた機会があればとりあげるかもしれません。

それで歌詞の始まりの方なんですが、1番と2番の最初の部分を見てみましょう。

「やがて夜が明ける 今は冷めた色
次のカーブ切れば あの日消えた夏」

2「ツライ夜を数え 瞳 くもらせた
ガラス越しの波も 今はあたたかい」

と情景が綴られていますので、ガラス越しのガラスとは自動車のガラスであり、夏の日の海の想い出が背景になっていることが推察できます。
何とも憎い演出ですね。

それで歌詞の1番と2番の中間の部分を比較してみましょう。

1「君は先を急ぎ
僕はふり向き過ぎていた
知らずに 別の道
いつからか 離れていった」

2「君がいないだけ
今は苦しくはない
二度とは帰れない
あの日が呼びもどすけれど」

これらの歌詞を見ると冷静に分析できている印象を持ちますが、「君」が先を急いでいた先とは何なのでしょう?
「僕」は「君」の歩む速さについていけない分、今は「僕」がマイペースで歩めるから苦しくないんでしょうか?
逆に「僕」がふり向き過ぎていたものって何なんでしょう?
それは私にはわからないけど、肝心なことは「君」と「僕」の関心のベクトルが全く正反対だってことかな?

そのようなことを前提に、さらにサビの部分を見てみましょう。

1「サヨナラを繰り返し 君は大人になる
ときめきと とまどいを その胸にしのばせて」

2「サヨナラを言えただけ 君は大人だったね
ときめきと とまどいを その胸にしのばせて」

「大人になる」とか「大人だった」とか、時制の問題はおいといて、「大人」って何なんでしょう?
機械的に線引きする民法上の成年年齢の20歳(来年4月1日からは18歳)やJRの料金区分では学割適用となる中学生以上が大人だったりするわけだけど、曖昧な定義では未成熟子(もっと人権に配慮した言葉がないものかね…)なる言葉も法曹界では使われていますね。

この歌詞では「サヨナラを繰り返す」、「サヨナラを言える」ことが大人だと言っているように思います。
ちなみに「しのばせて」をあえてひらがなで表現しているのは、「偲ぶ」と「忍ぶ」の両方の意味を含ませたかったのかもしれません。「ときめき」を偲ばせつつ、「とまどい」を忍ばせる、ということかな。

作詞者の「大人」の定義は一つの作品として尊重したいと思います。
でも、現実の社会ではその定義が全てじゃないわけで、ケースバイケースかな、とつくづく思うのよ。
浜辺に押し寄せる波のように次から次へとサヨナラを繰り返しても、そこから何も学ばないで同じことを繰り返すんだったら、傷つく人が増えるだけでしょ。

サヨナラをしないで、お互いに相手への向き合い方に欠けがなかったのか反省して態度を改めるという方法も「大人になる」ということの一つだと思っちゃったりしちゃったりして。
相手に何かが足りないと感じたなら、ダメな人というレッテルを貼って見限るんじゃなくて、改善方法を教えてあげるというアプローチも、お互いに成長する上で必要だと思うのよね。
「何でできないの」って怒るより、「こうしたらいいよ」って教えてあげた方が、ずっといいじゃない。

でもさっきも言ったけど、これはほんとにケースバイケース、離れることが必要な場合もあるのも確か。
共依存に陥らずに、お互いに過度な依存でも疎外でもなくて協力し合えればベストなんだけどね。
そう言ってる私も、若かりし頃には人間関係で苦しんで、離れることで苦しみから逃れたことが何度もあったんだけどさ…。

最後までお読みいただいた読者の皆様、本当にありがとうございました。
また1週間、どんな苦しいことも、心の糧になると思って頑張りましょう!





『tomorrow すべては時の中に』 作詞:あんべ光俊

2021-04-03 07:17:00 | 歌詞を味わう
リリース:1983年

今週も、当ブログを訪問していただき、ありがとうございます。

今回の作詞者は岩手県釜石市出身で、東日本大震災に際してチャリティーCDを制作されるなど、その復興にも尽力されているあんべ光俊さんです。歌、作曲ともこの曲はあんべ光俊さん名義になっています。

「ちがう人をもう 愛し始めてる
ちがう道をもう 歩き始めてる」

という歌詞で始まるこの曲は、おそらく別れを切り出す側の視点で書かれています。
それでサビの部分は…

「あなたを忘れるよ かなしみはしない
すべては時の中に埋もれていく」

とまとめられています。

ところが2番の歌詞では…

「風が冷たいね 送らなくていいの?
少しそばに来て あなたを見たから
好きだから
あなたが好きだから」

と、後ろ髪引かれるような思いが入り混じった言葉が綴られています。

メロディーも含めた音楽作品を聞くと、静かにフェードアウトしていくような美的感覚を覚えますが、歌詞だけ味わおうとすると、矛盾した気持ちが混在していることが見てとれます。ブルースハーモニカの部分なんて切なさを醸し出して聞き応えあるんだけどね。

別れる相手に対して「あなたが好きだから」という気持ちは、二股かあ、というものではなく、「ちがう人」に対しては「愛し始めてる」という似て非なる表現になっているので単純に二股とは言えませんよね。
「好き」と「愛する」という言葉の違いは人それぞれ定義するところが違うとは思いますが、私の主観では、関心のベクトルが自分に向かっているのか、あるいは相手に向かっているのか、という違いでしょうか。
そう考えると、別れる相手に対してが「愛する」で、ちがう人に対してが「好き」だと言えなくもないけど、ここは作詞者がそう感じた言葉を尊重しましょう。

「愛」という言葉が、あまりにも広く浅く使われているような気がして、もう少し言葉の重みを大切にしてほしいなと思いつつ、私がいう「愛」も、アガペーとか究極の客観から見れば、相対的な考えに過ぎませんが。

そして、すべては時の中に埋もれていった、別れる相手とのすべての思いでですが、当然ながらすべてを忘れられる訳はなく、実際には、
ああ あなたと出会った頃の
きらめきだけが残ってる」
と歌詞にあるように、自分にとって都合のよい想い出だけが美化され、都合の悪いことはフタをしてなかったことにしたいんです、私も。

見落としてならないのは、別れを切り出す方も別れを切り出される方も痛みを伴う、ということ。
本気で人を好きになって、その痛みを覚えているから、その後の人生に共感力のある深みのある対人関係が作れるんじゃないかしら。

自我=エゴを糾弾したいんじゃないんです。自我は誰にもあるものだし、自分の中にある自我の存在に気づき、今その関心のベクトルがどちらを向いているのか顧みることはすごく大事なことだと、私は思うんです。

そのような意味でこの歌詞は、決して、きれいに別れたんじゃなくて、後ろ髪引かれる思いを引きずりつつ別れたということを言葉にしているから、長い年月が経って、この世の甘いも酸いもわかった気になっている自分の自我の存在に気づく上で有益なのかもしれません。