神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

霊的な戦いにおける誘惑に打ち勝つための三大妙技

2019-12-31 08:44:46 | 書籍

霊的な戦いにおける誘惑に打ち勝つための三大妙技

兄弟姉妹の皆さん

皆さんに主の平安がありますように。神を信仰し神に従う過程において、あらゆる種類の霊的な戦いが起こることは少なくありません。お金、地位や肩書きに関連する誘惑、男女間の誘惑、不信仰者からの誹謗中傷、愛する者からの妨害や圧力、さらにサタン的政権による追跡や迫害もあります。時に全く思いもよらない苦難に遭うこともあります。聖書にはこう書かれています。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」(ペテロの第一の手紙5:8)

そして神の御言葉はこうです。

地上には、あらゆる悪霊が果てしなく休みどころを求めてさまよい、いつも食べるための人間の死体を探している。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十章」より)サタンは一時も私たちの側を離れません。悪知恵を働かせ、人や出来事や物を用いては誘惑したり、試練を与えたり、迫害したりしようとし、私たちが悪に染まり、災難に見舞われ、神から離れ神を欺くように仕向けようとするのです。最後には、私たちがそうした悪にまるごと飲み込まれてしまうようにするためです。真理に欠けている人は識別力にも欠けています。はっきりと霊的な戦いを見極められなかったり、神の御言葉に自己を固持していられなかったりする人は、肉の利益や好みを追い求めがちです。そしてサタンの罠に落ち、自らの証しを失うのです。クリスチャンとしては、サタンの策略をいかに見極めるかを学ぶことは重要です。それでは霊的な戦いの只中にサタンの策略を見極め、神に証しできるようになるためには何をすることができるでしょうか。ここで、皆さんにサタンの誘惑に打ち勝つための三つの実践の道についてお話したいと思います。

一つ目に、サタンの誘惑に直面したとき、神に祈り、真理を求めなくてはなりません。それは神の御心を理解し、サタンの策略の餌食にならないためです。

神の御心,試練,神の御言葉

サタンは邪悪で非常に残忍です。サタンの誘惑はどれも人々の繊細なところや致命的な弱みに付け込みます。人の一番弱いところから始まり、それはちょうどエバに善悪の木から実を取って食べるようそそのかしたあの誘惑そのものです。そのような時にいつも人は自分にとって自然なことを露呈しがちで、行動において個人的な利益や好みを追い求め、サタンに付け込まれやすいのです。だからこそ、霊的な戦いに直面したときには、まず神の前で落ち着いて祈り、神の御心と神が要求なさることを求め、証しを立て神に満足していただくためには何をするべきか、肉を満足させればどんな被害や結末が待っているのかを知らなくてはなりません。そしてひとたび真理を理解したら、自然とサタンの策略を見通し、誘惑に打ち勝つことができます。主イエスが「また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」(マタイによる福音書21:22)と仰ったとおりです。神の言葉にもこうあります。

神が人類を創造し、霊を与えた後、もし彼らが神を呼び求めなければ、彼らは神の霊と繋がることができず、したがって天からの「衛星テレビ放送」は地上で受信できないように神が定めた。神がもはや人々の霊の中にいなければ、他のものが入り込める空席が残され、そこにサタンが入り込む機会をつかむ。人々が心から神と繋がれば、サタンはただちにパニックに陥り、大急ぎで逃げ出す。人類の叫びによって神は彼らに必要なものを与えるが、初めから彼らの中に「住む」ことはない。神は彼らの叫び求める声によっていつも援助するだけで、人々はその內面の力から忍耐力を得るので、サタンは思うままに人の心に入って「遊ぶ」ことはしない。このように、人々が常に神の霊と結びついていれば、サタンは混乱を引き起こしに來ようとはしない。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十七章」より)

さて、聖書に書かれているヨブはサタンの試みで財産も子供も失っても何も言わず、財産を奪い返すために人をまとめて強盗と戦うこともしませんでした。それどころかヨブは神の前に行き祈り求め、それにより自分がそれまでに手に入れたものは自分の能力で得たものではなく、神によって与えられていたものだと理解するのです。その時ヨブは自分が経験した損失も神がお許しになったもので、すべての出来事や物事は神の手中にあるのだから、人類は従順でいなくてはいけないということを理解しました。そういうわけでヨブは「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)と言ったのです。ヨブは神を証しし、サタンに恥をもたらしました。私たちの現実の生活には、神を信じ教会の働きをしてきたのに、肉の快楽や富を築くことを語る家族や友人にそそのかされる人がいます。結果的にこういう人たちは神を見捨て、お金を稼ぐことを選びました。集会への出席日も神の御言葉を読むことも徐々に減っていき、ついには邪悪な傾向に完全に捕らえられてしまいます。真の信者が同じ境遇に直面するとき、内面で奮闘しますが、それでも神の前に行き祈り、神の御心と神が要求なさることを求めることができます。そして神の御言葉を通して肉の快楽、つまり何を食べるか、何を着るかといったことはすべて一過性のものだと理解できるのです。どんなにその楽しみが大きくても、それには意味がなく、ただの空虚と苦しみです。そして人が快適になりすぎると、いとも簡単に悪の道に堕ちてしまうのです。また、神がある使命とともに、私たちが果たすべき任務とともにこの世界に私たちを導いてくださったことも真の信者は認識しています。私たちは真理を求め、神の御言葉を実践し、本分を尽くすことに集中しなくてはなりません。聖書に書かれているとおり、私たちはこの世の旅人、寄留者です。クリスチャンならば衣服を身につけ、食卓に食べ物があることに満足すべきなのです。ひとたび神の御心を理解できた人は、富の関心事にとらわれなくなり、本来あるべき信仰を持ち、創造物として本分を尽くすことができるようになります。ここから明らかなことは、私たちが霊的な戦いにおいてサタンに打ち勝ちたいなら、祈り、もっと神に頼るべきだということです。真理を本当の意味で理解することでのみ、サタンの策略を見破り、神に証しすることができるのです。

サタンに打ち勝つための二番目の方法ですが、サタンの誘惑に直面したとき、霊的な戦いとはサタンが神に選ばれた人々を攻撃し、神に挑んで賭けをしていることだという事実に気づかなければなりません。神の側にしっかりと立つことでのみ、勝利を得られます。

サタンは神の憎い敵です。神や神に創られた人類を憎み、特に神を信じる人たちを憎みます。そのような人たちが神を畏れ、悪を避けるからです。だから誰かが信仰を持って神へ向かうと、サタンはあらゆる手を使って誘惑したり、邪魔をしたり、混乱させたりするのです。あらゆる人や出来事や物を用いて、人が否定的で弱々しくなり、神を否定し、神から距離を置き、ついにはサタン陣営に戻るように策略を講じます。ヨブが試されたとき、ヨブの財産を奪い去ったのは強盗であり、ヨブの家が崩れて子供達の命を奪ったことを人々はその肉眼で見ることができました。でも実際にそのすべての裏にあったのは霊的な戦いなのです。あれはサタンが神に挑んだ賭けでした。もし私たちが霊的な戦いの裏にある真実を見極められず、人間としての見方でしか物事の善し悪しを推し量れないなら、サタンの策略にまんまと引っかかり、神との距離を広げ、神を裏切ることになってしまいます。神の御言葉の中で明らかにされていることは次のとおりです。

神は働き、人を慈しみ、見守りますが、サタンは神をどの段階でもつけ回します。神が大事にする人が誰であれ、サタンも見ていてつけ回します。神がその人を求めると、サタンは持てる限りの力でどんなことでもして神を阻もうとし、隠された目的を達成するため、様々な邪悪な方法で神の業を試し、邪魔し、挫折させようとします。サタンの目的は何ですか。サタンは神に人間を誰も得て欲しくないのです。サタンは神が求めるすべての人を求め、占有して支配し、掌握してサタンを崇拝させ、サタンと共に邪悪なことを行わせたいのです。これはサタンの悪意に満ちた動機ではないですか。よく普通、サタンは邪悪である、悪いと言いますが、あなたがたはそれを見たことがありますか。あなたがたが見ることができるのは、人間がいかに悪いかだけで、サタンが実際どの程度邪悪であるかを見たことはありません。……サタンは神と戦い、また神をつけ回しています。サタンの目的は神が行いたい業をすべて粉砕し、神が求める人間を占有して支配し、完全に消滅させることです。もしこのような人々が消滅させられないならば、彼らはサタンのものとなってサタンに用いられます。これがサタンの目的です。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身4」より)

終わりの日に、神は神の家から裁きの働きを始められました。全能神の終わりの日の働きを受け入れた後には、かなりの人々が困難に遭遇しました。例えば、兄弟姉妹の中には信仰を得た直後に家族から反対されたり、圧力をかけられたりした人がいます。配偶者から真理の道を捨てなければ離縁すると脅された人もいます。中には突然病に倒れたり、思いもよらない災難に見舞われたり、家族に不幸が訪れたりした兄弟姉妹もいます。こういった出来事に直面すると、多くの人が観念をもちます。「以前は主イエスを信じていて、何もかも平和でスムーズだったのに、もうそうじゃない。今の信仰は間違っているのか?本当の神様を信じているのなら、物事は上手くいくはずじゃないか!」その結果、否定的で弱々しくなる人がいたり、神の働きに疑いの目を向け始める人がいたり、信仰を捨てる人もいたりします。このような状態になってしまうのは、その人たちが霊的な戦いの真実を見極めておらず、サタンの策略を識別することができないからです。実はこういった問題に遭遇することがまさにサタンによる障害や混乱なのです。サタンは私たちが本当の神を信じていることをわかっていますし、神が人類を救うために来られたということも熟知しているのです。サタンが恐れているのは、すべての人々が神を信じ神に従うと、誰も自分に従わなくなるということです。だからこそ、あらゆる人や出来事や物を用いて災難をつくり出し、何が真実で何が嘘なのかわからなくなるよう人々を混乱に陥れ、真理の道を捨てさせようとするのです。これこそがサタンの邪悪な計画であり、霊的な戦いの裏に隠された真実なのです。

今こそ人がどのような選択をするのかを見極める時です。物事の表面だけを見て、肉の欲求を満たしていくなら、サタンの策略に飲み込まれ、神を裏切ることになります。けれど、霊的な戦いの事実を見極めることができ、神への力強い願望をもち、神の側にしっかりと立ち続けたならば、そして固い信仰を持って神に従い、たとえ肉において持っているものを全て失おうとも神の要求なさることを満たすならば、サタンは手も足も出なくなります。霊的な戦いをとおして私たちが証しする一方、サタンは屈辱を受け、完敗することになります。それは神が仰ったとおりなのです。

神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなた方に対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある――その背後にはすべて戦いがある。……神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本當に神を信じることである」より)

さて、三番目です。サタンの誘惑に直面したら、神の御言葉を守り、真理に従い神に忠実であることを固持しなくてはなりません。そうすることでサタンを撃退し、完全な屈辱と敗北を味わわせることができます。

神の御言葉にこうあります。

人間が自分のものとすべき真理は神の言葉の中にある。それは、人類にとって最も有益で役立つ真理である。それは、あなたがたの体に必要な滋養であり、栄養であり、正常な人間性を回復させる助けになるものであり、人間が備えているべき真理である。あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、あなたがたのいのちは一層早く開花するであろう。また、あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、真理は一層明らかになる。あなたがたの霊的背丈が成長するに従って霊的世界のことをもっと明瞭に理解し、より力を得てサタンに勝利するであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「真理を理解したらそれを実行せよ」より)「わが民よ。あなたがたは、わたしの保護と世話の中にとどまりなさい。けっして自堕落なことをしてはいけない。けっして無謀なことをしてはいけない。そうではなく、わたしの家で忠誠をささげなさい。そして、忠誠によってのみ、あなたがたは悪魔の狡猾さに対抗できるのだ。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十章」より)

私たちは皆、神の御言葉だけが真理であることを知っています。そして御言葉は神の性質、神がお持ちのもの、神の存在そのものを表現しており、真理はすべての実在する物事の現実であり、神の御言葉以外の理論はすべて誤信であり、サタン的な哲学であることを知っています。物事を見る上で、神の御言葉を拠り所にしてさえいれば、何が好ましいもので何がそうでないかがわかります。そうして初めてサタンの誤信や嘘を見破り、その策略に打ち勝つことができ、困難の只中に道に迷ったりサタンに騙されたりすることもなくなります。主イエスがサタンから受けた三つの誘惑は聖書に記録されています。サタンは聖書の言葉を用いてイエスに挑みました。さらにはこの世のすべての栄華を用いて誘惑したのです。けれど主イエスはどの誘惑にも神の言葉を用いてサタンの悪巧みをはねのけました。そしてサタンは屈辱と敗北を味わい逃げていったのです。このことからも神の言葉は真理であり、道であり、またいのちであり、神の御言葉はサタンを撃退するにもっとも有効な武器であることがわかります。

終わりの日に、神は再び受肉され、裁きの働きの一歩を完了するために御言葉を発せられました。多くの兄弟姉妹が神の声を聞き、全能神が表された御言葉すべてが真理であることを見て、全能神が再臨した主イエスであると確信しました。ひとり、またひとりと、終わりの日の神の働きを受け入れていきました。この間に、兄弟姉妹の中にはまた中国共産党政府が全能神教会に対し嘘事や誹謗中傷をネット上で発信し、全能神教会を異端、つまりカルト教団として非難するのを見た人もいます。さらに、宗教界の長老や牧師による妨害や阻止に遭った兄弟姉妹もいます。彼らは全能神の言葉は聖書から逸脱している等と言い、全能神を信じることは個人を信じることと同じだとして断罪しました。このような牧師や長老はまた兄弟姉妹の家族を巻き込み、兄弟姉妹が神に向かおうとするのを邪魔しています。この深刻な霊的な戦いの中でも全能神に従い、神への忠実を維持し、神の側にしっかりと立ち続けることができた兄弟姉妹がいます。それは、この兄弟姉妹は全能神が表された言葉は全て真理であり、聖書の奥義全てを明らかにしてくれるとわかったからです。その言葉は人類を堕落から清め、サタンの影響から人を救います。そしてその言葉は聖霊が諸教会に言うことそのものなのです。だからその兄弟姉妹は全能神が終わりの日に人類を救う神の働きをなさっておられ、全能神は受肉した神であると確信したのです。つまり、もし人が全能神が発せられた御言葉が真理であり神の声だと確認できるのなら、中国共産党政府と宗教界がどれだけ多くの嘘を広めようと、混乱することはないのです。真理は真理であり、偽りは偽りです。たとえ嘘が千回語られようと嘘であることには変わりませんし、それがいつか真理になることはありません。ちょうど、主イエスが現れお働きになったとき、ユダヤ教の指導者は主イエスについてあらゆる虚偽を並べ立てたときと同じです。指導者は主イエスが聖霊による受胎によってお生まれになったことを否定し、また主イエスが神を冒涜し、悪霊のかしらベルゼブルを通して悪霊を追い出していると言い立てました。それでも、どれだけ批判や非難を受けようと主イエスはキリストであり、救い主であり、その事実は誰も否定できないものでした。そして当時、本当に主を信じた人々は、その御言葉を守り、虚偽に惑わされず、主イエスに従い続けることができたのです。まさにペテロの言葉のとおりです。

「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」(ヨハネによる福音書6:68~69)

けれどもし私たちが神の御言葉に疑念を抱いたら、神の言葉に従うことができず、神に忠実でいられなくなったなら、サタンの策略を見極める識別力がなく、確実に誘惑に負けてしまいます。さらに主の再臨を迎えることもできなくなってしまいます。このことからもわかるように、どんな霊的な戦いの中でも、神の御言葉に断固従い、神に絶対的に忠実であり続けることでしか、サタンから完全に離れ、その影響力から逃れ、神によって救われることはできないのです。

実生活の中で、霊的な戦いはいつでも起こり得るものです。頻繁に神の前に行き祈っていなければ、霊的な戦いの真実を明確に見ることはできません。神の御言葉と真理を頼りに観察していなければ、簡単にサタンの誘惑のえじきになり、自分の証しを失ってしまいます。神の知恵はサタンの策略の上に作用します。神は厳しい霊的な戦いをとおして私たちが真理を理解し、識別力を養い、いのちの成長ができるように助けてくださいます。どんな霊的な戦いにおいても、私達が、今述べた三つの原則に沿って実践している限り、必ずサタンの誘惑に打ち勝ち、証しをすることができます。

ジン・セイ(韓国)

 

クリスチャンの証し「共産主義の妄言」抜粋シーン(2) 中国共産党の科学にもとづく神の支配の否定これは恩恵か、禍

2019-12-27 17:22:08 | キリスト教映画

 

クリスチャンの証し「共産主義の妄言」抜粋シーン(2) 中国共産党の科学にもとづく神の支配の否定 これは恩恵か、禍か
中国共産党は唯物論や進化論のような主張を利用して、神の存在と神の支配を否定するのに努力を惜しみません。また科学が人類に発展と幸福をもたらすことができるとも信じています。これは本当に事実なのでしょうか。今日の科学的な発展は、究極的には人類に恩恵を、それとも禍をもたらさしたでしょうか。

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職場話題・仕事を維持する良い方法

2019-12-22 13:44:37 | 書籍

職場話題・仕事を維持する良い方法

私は最初アメリカに来た時、言葉の壁が原因で、レストランのキッチンスタッフの仕事を見つけるのにかなりの時間がかかりました。しかし、ボスはとても気性が荒い人でした。彼は新規スタッフおよび前からいるスタッフに対しても、誰かのミスを見つけた場合、またはスタッフが彼の気に入らないことをした場合には怒鳴りつけたり、その場でそのスタッフをクビにしていました。私も最初は彼によく怒鳴られました。

私はレストランで特定の料理をいくつか担当していました。一度、ボスが私を試そうとしてこう聞いてきました、「メアリー、糖醋排骨(甘酢骨付き肉)のレシピは何だ?」私はとても緊張して、声が小さくなり、材料の1つを忘れてしまいました。すると、ボスはすかさずへらを自分の手に叩き付けて声を上げました、「何で俺はこんなバカを雇ってしまったんだ…」私はボスの厳しい言葉にとても傷つきましたが、あえて何も言いませんでした。キッチンにいた6人の中から誰かが毎日叱られ、その内3人は仕事中のミス、またはボスの気に入らないことをしてクビになってしまいました。私はそれが特に心配でした。毎日、私は職場に行くと神経が過敏になりました。そして、ミスを犯して皆の前で叱られることや、クビになることまで心配した私は全てを慎重に行いました。

ある日、私はトレイいっぱいになった洗いたての皿を棚に置きに行ったのですが、突然足を滑らせて、抱えていた皿をトレイごと地面に落としてしまったのです。私は皿がたくさん割れたのを見て唖然としてしまいました。私はこう思いました、「これで終わりだわ、もうたくさん皿を割ってるから、ボスにばれたら間違いなくクビだわ。同僚も以前似たようなミスをしてクビになっていたわ。」私はこう考えるだけでも怖くて、どうしていいのか分かりませんでした。私のやらかしたことを他の同僚たちが聞いた時、その数人は「なんでそんなにそそっかしいのよ?いくら取られるか分からないわよ」、と言ったり、他の人たちは「もう、これで決まりね。メアリーは確実にクビだわ」、と言っていました。皆がこう言ったのを聞いて、私は、「この仕事を見つけるのは苦労したし、ボスに本当にクビにされたら、どうやって生活していけばいいの?」、と更に心配になりました。私は英語が下手だし、他のスキルもないし、他の仕事には就けないと分かっていました。その時、私の同僚がこう言いました、「ほら、これ片付けましょう。ボスにばれないようにしなきゃ。じゃないと、どんなにキツイ仕打ちを受けるか分からないわよ、メアリー。」料理長も駆けつけて来てこう言いました、「みんな、急いで、片付けを手伝うんだ。ボスに知らせる訳にはいかないぞ!」こうして私の同僚全員が片付けに取りかかってくれたのです。数人が床を掃いて、他の人たちが割れた皿の破片を拾ってくれている時、私は怖くなって、困惑しました。そして、私もできる限りごまかそうとして同僚が掃除するのを手伝いました。

しかし、私は床にしゃがんで数分間掃除をした後、心の中がとても気まずくなりました。私はクリスチャンです。私は明らかに皿を割ってしまったにもかかわらず、ボスに嘘をつこうとしました。これは欺瞞行為です。これは神の御心に適っていません。そして、私は神のこの御言葉を思い出しました:「正常な人間のように行動するということは、筋の通った話をするということである。是は是、非は非を意味する。事実に忠実に、適切な話しかたをすること。ずるをしたり、嘘をついてはならない。」「神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。…当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。あなたが兄弟姉妹、あなたの家族、あなたの周囲のすべての人から称賛を得られたら、その時、あなたは証しをしたことになるのである。」

神の御言葉を熟考し、私はこう気が付きました:「私はクリスチャンです、そして正直であり、嘘をつかないことは神から私たちに対する要件です。何か過ちを犯したなら、私は勇気を出してその責任を取る必要があります。なぜなら、そのように生きてのみ、私は人間らしさと尊厳を手にすることができるからです。この事件は表面的には私が皿を割ってしまっただけのことであるように見えますが、今回起こったことは私に対する試験なのです。神は側で私が真理を実践して正直になれるかを見ておられ、サタンも私が何を選択するかと待ちながら私のことを見ているのです。もし私が個人的なメリットを守ろうと試み、ボスに叱られることを恐れ、または解雇されることを心配していたら、偽りを使って対応し、神の証言をし損なってしまうでしょう。サタンは神の前で私を非難し、それが神の御名を傷つけることにもなるでしょう。それは、私が神を心から信仰する者ではないことを示してしまいます。こう考えた後、私の心の中は明るく晴れました。私は断固たる姿勢で神の証言をする必要があったのです。ボスが来た時、私は自分の犯したミスを認める心構えができていました。

この瞬間、私の手は動きが止まり始め、それを見た料理長がこう言いました、「メアリー、急いで片付けるんだ!ボスがもうすぐ来るぞ。」料理長がそう言ったのを聞いた時、私はまだ内心ビクビクしていましたが、それでも神の御言葉通りに振る舞って、正直に話す決意をしました。私はクビになっても、叱られても、文句を言わないと決めたのです。

私たちが掃除をし終わった後、私は料理長が破片をゴミ箱の下に隠しているのを見ました。私はこう言いました、「隠さないでください。ボスが来たら、私は正直に話して、値段がいくらでも払います。」私がまだ喋っている最中に、料理長が割り込んで心配そうに言いました、「メアリー、一体どうしたんだ?ボスに話すのか?そんなのクビにしてくださいって言っているようなもんだぞ。この仕事を失ってもいいのか?今仕事を見つけるのがどれだけ大変か知らないのか?破片をボスから隠すのを手伝ってあげるから、そうすればボスはお前を困らせたりしないよ。」私はボスに話すと決めていたので返事をしませんでした。

10分、20分と、時間はゆっくりと過ぎていきました。私は頭の中でボスの恐ろしい表情を思い描いてしまい、また緊張してビクビクし始めました。私は、神の要件は私たちが正直な人になることであると分かっていましたし、皿をたくさん割ってしまったことをボスに話したかったのですが、どうしてもクビになることが心配でした。「どうやってボスに説明するのが一番いいのかしら?」私は上手く言わないと間違いなく以前と同じくらい、またはそれ以上に叱られると確信していました。私は考えれば考えるほど、増々困惑していきました。あっと言う間に一時間が経ち、ボスが今にでも来るという時に、私はまだどうやってボスに説明するのかを決められていませんでした。私は心の中で祈ることしかできませんでした、「神様、私は怖いです。私は今日、真理を実践するために、ボスに心を開いて正直に話す必要があると分かっています。しかし、真実を話すことを考えると、どうしてもクビになることを心配してしまいます。神様、どうか私に自信と力をお与えください、そして私が自分のメリットを考慮せず、あなたを満足させるために真理を実践できるようにしてください。」こう祈りを捧げた後、神の御言葉のある節が突然私の頭に浮かびました、「 人の心と霊は神の手の中に掌握され、人の生活全ては神に見られているのである。あなたがこのことを信じようと信じまいと、ありとあらゆるものが、生けるものも死せるものも、神の考えに従い、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである。これが、神が万物を支配する方法である。」神の御言葉の御導きと啓蒙を受け、私の心は明るく晴れました。そうです、神は全ての物、出来事、そして人々を支配されておられるので、ボスの考えと私の仕事もその両方が神の御手の中にあるのです。私が職場に残ることを神がお許しになるのであれば、ボスは私をクビにはしないでしょうし、私が解雇されるのであれば、神はそれをも許可されたということであるため、私は単純に神の御采配に服従するべきなのです。これに気が付いた後、私の心はとても静まり落ち着きました。

一時間後、ボスがやって来ました。そして、私は心の中で神に祈りを捧げ、サタンの邪悪な力を打ち破って真理を実践できるような力を求めました。神に感謝します。私はボスの姿を見た時、どこから力が沸いてきたのかは分かりませんが、こう言いました、「ボス、今日、私はミスを犯してしまいました。」私の言ったことを聞いたボスは、怒らなかっただけでなく、うっすらと笑みを浮かべながら「何をやらかしたんだ?」、と言いました。私はゴミ袋を開けてこう言いました、「誤まって皿をたくさん割ってしまいました。ここに入っていますから、いくらの損失になるか確認していただいたら、私の給料から引いておいてください。」ボスは私の所にやって来て、袋の中の割れた皿を見た後に普通の口調でこう言いました、「弁償する必要はない、皿が割れただけじゃないか、どうでもいいよ。そんなことより、手を怪我してないといいけど。これからはもっと気を付けてくれよ。」そして、彼はもう一度私に怪我がないかと聞いてくれました。私はびっくりしたと同時にボスの言葉を聞いて嬉しくなりました。私がミスを犯した後に、あの気性の荒いボスがこんなこと言うなんて信じられませんでした。

その瞬間、私の同僚全員が唖然とした表情で私を見ました。彼らは私が本当に進んで自分のミスをボスに認めるとは想像もしておらず、私もボスが私に罰を与えないだけでなく、優しく話してくれるなんて全くの予想外でした。料理長は私と一緒にゴミ出しをしていた時、歩きながら私にこう言いました:「お前は一体何を考えていたんだ。このことはボスに言わなくてよかったのに。俺たちはボスがお前に冷たいことを知ってるから、助けてやるつもりだったのに。俺たちがボスに喋ってしまうって心配してたのか?」私は真剣な口調でこう言いました、「いいえ、あなたが本当に私を助けようとしてくれていたことは分かってました。でも、私はクリスチャンだし、神は私たちに正直になり、現実的に物事を行い、決して人を欺いてはならないと仰ったのです。私たちは過ちを犯したら、勇気を出してそれと向かい合って、それに耐える必要があるのです。それは、クリスチャンが生活の指針とする原則なんです。」料理長は驚いてこう言いました、「お前はクリスチャンなのか。どうりで、お前とは長い付き合いだけど、お前は他の人と違っていい人だなあっていつも思っていたんだ。お前のこと、本当に尊敬するよ。神を信仰することはいいことだな、俺も将来それについてお前からもっと勉強したいよ。」料理長がこう言ったのを聞いて、私はとても嬉しくなり、心から神に感謝しました。これは私が善良な人である故のことではなく、神の御言葉が私にもたらしてくださった効果なのです。

私が更に驚いたのは、あれ以降、ボスは私に怒鳴らなくなった上に、店が新しいスタッフを採用しようとする度に、私と相談して私の意見を考慮してくれるようになったのです。彼は更に私の給料を上げてくれました。今回の事件は、私が直面する全ての状況、そして私が遭遇する全ての人、出来事、そして物には神の御心が込められており、神はこれらの状況を使って私たちに更なる真理を御啓示くださるということを私は理解することができました。私たちは神の御要件に従って行動すれば、神の御導きと祝福を目の当たりにすることができるのです。神様ありがとうございます!

メアリー(米国


権力者に従うことは神に従うことと同じではない

2019-12-20 10:55:43 | 書籍

権力者に従うことは神に従うことと同じではない

ユァン校長:ジャンさん本当に信心深いんですね。尊敬します信仰についてもう少し知りたくて、牧師のフェン先生に来てもらいました先生は子供の頃からの信者で、牧師を20年以上務めておられる二人とも神の信者、きっとよく話が通じるはずですから一体どのように神を信じるべきなのか?話し合ってください。

フェン牧師:ジャンさん、長先生によると頑なな信仰心をお持ちだとか見て分かります。政府当局に逮捕され迫害や拷問を受けても、神を否定しないとは、立派だ尊敬します。しかし残念でもあるそんなに苦しんで何になります?聖書の言葉です「人は上に立つ権威に従うべきである。神によらない権威はなく、おおよそ権威とは、神が立てたものだからである。したがって、権威に逆らう者は神の定めにそむく者、自分の身にさばきを招くことになる」(ローマ人への手紙13:1-2)主を信じてきたならお分かりですよね。聖書は神に霊感を受けて書かれたのですから我々信徒は権力者に従うべき、私はそう思います。

ジャン・シンイィー:フェン先生のパウロの言葉の解釈は独特です。私たちとは違う「すべての人は上に立つ権威に従うべき」中共政府に迫害されてきた私はこの言葉が理解できませんでした。パウロの言葉を私は信じられないのです。イエスは権威へ従うことには触れておられません、聖霊もしかりです。主を信じることは主の言葉に従うこと、人の言葉は真理や神の言葉ではありません。何年も探し求め分かったのは、中国共産党は神に逆らう悪の集団ということ、従えば神を裏切ることになります。中国共産党は無神論の党、表立って神を否定し拒んでいます。キリスト教とカトリックを邪教と定め、たくさんの聖書を押収し燃やしました。キリスト教徒を不当に逮捕し、拷問で障害を負わせたり殺したり、家族もめちゃくちゃにしています。国外に逃げた信者は、お金や政治的圧力などあらゆる手を使って帰国させています。中国共産党のキリスト教徒弾圧は本当にひどいものです。ファン先生、神はお許しになると思われますか?選ばれた民が神に反抗する。悪の政権に従うことを、共産党政府に従うのはサタンに味方すること、中国共産党は神を拒み冒涜し、私たちの信仰をやめさせようとしていますそれに屈するのは神への裏切りになりませんか?過去には主に従い、証をしたために迫害され殉教した信者もいます、彼らなら従ったでしょうか?殉教は権力者を拒んだことへの罰ですか?パウロは主の殉教者を非難したでしょうかしなかったでしょうね。パウロは気付かなかったのではないでしょか?権力者の多くが神を否定する悪魔だとはだから私は信じられないのです。「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれた」という言葉もそうです。主イエスも聖霊もそうは証していません。パウロの言葉の多くには人の意図が含まれており、真理としては受け入れられません。私は神を信じ、神の言葉に従って道を選びます。使徒も含め人の言葉は、聖書に書かれていても参考にしかしませんもし神の言葉と真理に、それらが一致しなければ、決して受け入れるべきではない。そう思います私の意見ですが。

フェン牧師:ジャンさん、非常に純粋な聖書の読み方ですね。昔の私みたいだでも私は残酷な現実を見ました。あなたのように真理に忠実であれば迫害され、命すら危なくなる中国共産党は革命政権です。反抗すれば命を奪われかねない、そんな中どう行動すべきだとあなたは思いますか?みんながあなたのように、拷問に屈せずにいたら、死んでしまいますよ命に関わる状況で主をどう信じますか?私は長年の経験からやっと結論を得た。中国では当局とぶつかったらどうにもならない、慈しみ深い主は、我々の悲しみを知り、状況を理解してくださるできないことは要求なさらない、ただ神を称え恥じない行動を求めるだけです。だから私は三自教会に入った。政府の支持があってこそ、穏やかに信仰に励めるんですあなた方の信仰は、迫害や勾留や投獄、さらには殉教までも招いてしまうそれは正しい道ですか?中国で主を信じるには統一戦線を受け入れ三自教会に入る。それしか道はないんですよ。三自教会にも親切で、敬虔な信者がたくさんいます彼らの信仰を否定できますか?全能神の信者は、共産党政府にどう迫害されても福音を広めていますね。投獄されてもなお立ち上がって主のために証をする。ユダになるのを拒む姿は尊敬します。しかし我々が信仰に求めるものは何でしょう。家庭円満と平和な暮らしですよね。三自教会は思慮深く、愛国的で神を称え人の役に立つ組織です政権に逆らわず聖書も裏切りません、堂々と教会で信仰することができて、怯えて隠れることもありませんいいことずくめですよ。見たところあなたの経歴なら三自教会での活躍が期待できます。牧師になり中国人民政治協商会議のメンバーにもなれますよ。富と名声が得られます。説教だってどこでも好きな教会でできる。地下教会を率いて命がけで信仰するよりもその方が100倍いいと思いませんか?

ジャン・シンイィー:フェン先生、中国で主を信じるのは確かに困難ですしかしパウロの言葉どおり、三自教会の道を選んだとして、安全を確保しても、主の賞賛は得られるでしょうか?主が戻られた時天国に入れますか?無理でしょう。主は言われました。「狭い門からはいれ、滅びにいたる門は大きく、道は広い、そして、そこから入る者が多い、命にいたる門は狭く、その道は細い、そして、それを見出す者が少ない」(マタイによる福音書7:13-14)「あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう」(マルコによる福音書10:39)「また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ているものはそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」(マタイによる福音書10:38-39)主ははっきりと言っています。狭い門から入り細い道を通れば永遠の命の道に至ると、こうも言われました。「自分の十字架をとって従わない者はわたしにふさわしくない」(マタイによる福音書10:38)パウロの言葉どおり当局に従うのは細い道を通ることですか?主に従うことになりますか?主を信じていながら悪魔の中国共産党に従えば、神を裏切る者になってしまうのでは?そうなれば誰が福音を広め、主の証を立てるのですかそのような信仰で主の称賛を得て、良い終着点に着けますか?三自教会は中国共産党の支配下にある。見せかけの教会です。聖書の真理や神を愛し従うことは語りません。愛国心や家族の経済的繁栄のことばかり、三自教会が偽教会である証拠です。家庭教会を弾圧する当局の手先となり、監視組織に成り果てています。福音を広める兄弟姉妹を迫害する当局に加担しているのです。サタンの道具にすぎない体制です。フェン先生教えてください。三自教会の人が従っているのは神なのでしょうか?それともサタン?サタンに降伏する囚人や傀儡を、神は賞賛し天の国へと導いてくださるでしょうか?主イエスは受肉した全能神として戻られました。神の国へ人類を迎え入れるため、終わりの日に真理を表し、裁きの働きをされます。終わりの日の神の裁きは、すべての信者にとって大事な試練みな種類ごとに姿が暴かれます。主イエスの預言どおりに、「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう⋯そのとき、畑ではひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。うすをひいている女も、ひとりは取り去られ、ひとりは残される」(マタイによる福音書24:37-41)全能神の現れと働きによって、小麦と毒麦良きしもべと悪しきしもべ真理を愛する者嫌う者などが、みな姿を暴かれます人類の終着点が明かされる時です。人類が全能神の終わりの日の働きを受け入れる勇気がなく、悪魔の政権を恐れ、惨めな姿をさらしたら、主の称賛を受けられると思いますか?フェン先生、お考えを教えてください。

フェン牧師:ジャンさん、あなたの信仰の考えはすばらしい。私も賛同します。主イエスの言葉と合致している。


金のために命を危険にさらした日々に別れを告げる

2019-12-18 15:31:03 | 書籍

金のために命を危険にさらした日々に別れを告げる

神は群衆の海から私を選び

側に来るよう定めた

神のひたむきな優しい言葉は心を暖め

私を夢から覚ました

聞き慣れた御声と美しい御顔は

最初から変わらない

神の家で愛を味わい

神に拠り添いたいと願う

神なき日々はとてもつらく

苦痛をこらえて、歩いた

神の守りが私を導く

御言葉を得て満たされる

神なき日々はとてもつらく

苦痛をこらえて、歩いた

神の守りが私を導く

御言葉を得て満たされる

(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「神への愛着」より)

この美しい旋律の賛美歌を聞くたびに、私は神への感謝の気持ちで一杯になります。神にお金中心の泥沼の生活から救って頂いたおかげで、私はもはや死に物狂いで働かなくなり、お金のために命まで危うくする生活に別れを告げたのです…

 

奮闘-心身共に疲弊

 

私は家が貧しく、小さい頃は友人や親戚にばかにされ、蔑まれていたので、「大人になったらお金をたくさん稼いで偉くなって、みんなを見返してやる」とひそかに決意していました。大人になってからの私は、お金の稼ぎ方を学ぶために、よく人に食事をおごって、その筋に詳しい友人を増やしました。ある時、友人たちが飲み過ぎて他の人と喧嘩になりました。私は喧嘩を止めようとして目を負傷し、入院することになりました。その時から友人たち全員が離れて行き、私は大変落胆しました。治療に多額の費用がかかるため、家族の借金がかさみました。私はそれで大きなストレスを抱え、夜も眠れないことが多く、夜中に起きて川辺まで行って泣き叫ぶこともありました。この拝金主義の社会の中では、人の社会的地位が持っているお金の額で測られることを、私は残酷な現実から一層実感しました。そのため、「絶対に大儲けして、この卑しい身分を変えてやる」と再び決心したのです。

後に私は、「海外に働きに出ればたくさん稼げる」という話を聞きました。それはかなりのリスクを伴いました。けれどもその時はお金のことしか頭になかったので、海外に出ることを決意します。ある時、外国のある漁業会社と労働契約を交わす際に、「従業員が漁業中に命を落とした場合、当社は五万元の補償金を支払う」という条項を見ました。この条項を読んで気持ちが沈み、「僕はまだ29歳だ。戻って来れなかったら誰が妻と子の面倒を見るんだろう」と思いました。しかし、こうも考えました。「海外に働きに出なかったら、いつ借金を清算して好きな生き方ができるんだ。リスクがあってもやってみよう。もし本当に戻れなくても妻と子に五万元残るのだから、やってみる価値はある」。それで私は身の回りの整理を済まして出稼ぎに行きました。

2000年12月のある日、私は漁船に乗って、アルゼンチンとウルグアイまで漁に出ました。海が激しく荒れ狂っていたため、いつ波に飲み込まれてもおかしくない状況で、私は非常にストレスを感じ、少しも気を弛めずにいました。その時同僚の乗組員が、漁網に足が絡まったと同時にいきなり押し寄せた波にさらわれてしまい、一瞬のうちに私の目の前で姿を消してしまったのです。これを見て、私はあまりのショックと恐怖に冷汗を流し、こう思いました。「本当に金のために命を売る仕事だな。僕もいつこんな事故に遭うか分からないんだ。でも背に腹は代えられない。どんなに危なくても仕事はしないと。金ができて初めて自立して人によく見てもらえるんだ」。

こうして私は、この機会に恵まれてよかったと感じるようになり、じっと苦痛をこらえて、この仕事を4年間続け、やがてお金をたくさん稼ぎました。無事に家に帰ったその日は非常に興奮し、「やっと貫禄が付いたぞ」という気分でした。帰国後、私はまず家を思い切り改築し、それから様々な家電製品を買いました。親戚も隣人も以前の友人たちも皆、私を見る目が変わり、お世辞を言ったり、頼まなくても家に来て手伝いを買って出たりします。私は自分自身を誇らしく思い、お金を持つことが確かに良いことであり、お金が全てだと一層感じました。しかし、それでも満足せず、もっと稼ぎたいと思ったのです。

2008年3月、私は叔父の勧めで韓国のゴム工場で働くようになりました。ゴムの臭いは非常にきつく、体の健康にとても有害でしたが、稼げればいいんだと、気にしませんでした。一日24時間分の仕事をすることもあり、鼻血が出ても働くのをやめる気はありませんでした。それを見た叔母に「进(ジン)取(チュ)、そんなに働いちゃだめよ。体が大事なんだから。健康じゃないとお金も稼げないわよ」と言われました。叔母の言う通りでしたし、私も仕事を休みたいとは思いました。しかし、一日でも休むと稼ぎも少なくなります。それで私は休むことを思い止まり、「若くて体力があるうちに稼がないと。家に帰る頃には、状況はもっと良くなっているし、家族は村の誰よりも楽ができるはずだ」と思いました。

2011年に、妻と子供が韓国で合流してくれました。私はゴム工場の仕事を辞め、掘削機の外郭を作る工場で妻と共に働き始めます。工場は給料が良くて安定しており、仕事にも不自由しませんでした。私たち夫婦は毎日午前8時から午後11時まで働き、残業もし、週末も休みません。一ヶ月働いて七百万ウォンを超える額をもらいました。私は受け取ったお金を見るととても嬉しくなり、仕事がどれほど大変で疲れても大いにやりがいがあると感じました。その時は血糖値が下がっており、その結果で怒りや疲れや空腹さえもできません。それでもお金を稼ぐことに躍起になるあまり、自分の健康を全く気にかけませんでした。仕事先に砂糖菓子をいくつか持参し、低血糖の症状を感じるとすぐに菓子を食べて症状を抑えるようにしました。

2014年3月、私の健康は悪化し、体の右側全体にいつも汗をびっしょりかきました。妻がインターネットで調べ、「脳血栓症の前兆だわ。病院で診てもらわないと」と言いましたが、私は気にも留めませんでした。症状が仕事の妨げになるとは思いませんでしたし、病院で治療を受けるにはお金がかかります。けれどもある朝起きると、突然足が少ししびれているのを感じました。妻には仕事をせず病院に行くように勧められました。

しかし「今日は日曜日だから、働いたら給料が倍もらえる」と思い、妻の勧めに耳を傾けず、いつも通り出勤しました。その日の仕事中に、手足がますますしびれを感じるようになるなどとは、全く想像しなかったのです。その時になって初めてパニックになり、病院に行くため急いで主任に早退を願い出ました。病院に駆け込んだ時には足の感覚がなくなっていました。医者に車椅子に座るように言われましたが、誰かの助けなしには車椅子の所まで動けませんでした。CTスキャンを受けた後、医者にこう言われました、「結果を見るとどうも動脈に血栓があり、体の右側全体の細胞が二割ほどなくなっています。すぐに治療しないと車いすの生活になり、将来話すことも書くこともできなくなります」。医者の言葉は、澄んだ空から落ちた雷のように響き、私はすぐに体がぐったりするのを感じます…

入院し、ベッドに横になったまま病室の他の患者さん達が苦しんでいるのを見た私は、突然とても悲惨な気持ちになりました。そして自問し続けました、「僕はまだ若い。まだ44歳なのに、どうしてこんなことになったんだ。金を稼げば人に褒めてもらえる、人生がどんどん幸せになると思って、人生の半分を信じられないほど必死で働いて過ごしたけど、まさか体の半分が麻痺して寝たきりになるとは思わなかった。これから一生車椅子で過ごすのか。どうすればいいんだ」。

考えるほど落ち込み、お金のため、群を抜くためだけに体を壊したことを本当に後悔しました。更に残念だったことに、入院中に、同じく韓国で働いていた叔母と従弟が見舞いに来てくれたものの、慰めの言葉とお金を少し残ってさっさと出て行きました。その上、私が家族で一番近い存在だった一番上の姉さえも、仕事の忙しさを言い訳に、面倒を見られないと言うのです。親類の冷たさにはため息を禁じえず、「お金のせいで人は非情になって家族のことも気にかけなくなるのか」と悲嘆にくれました。

数日後、私の健康は徐々に回復し始めました。医者からは、退院して自宅療養してもいいが、重労働は控えるようにと言われました。自宅療養中は、自分の人生の目的をたちまち失ったように感じて、毎日何をすべきか分かりませんでした。その間、何度も自問しました、「僕は金があるし、知人はみんな僕を見る目が変わったし、妻も子も側にいるのに。どうして空っぽな気分で、人生の目標もなくなったんだろう。人は一体何のために生きているんだ。金を稼ぐことだけが僕の人生の目的なのか。このまま何の目標もなく余生を過ごすことになるのか」。私の心の中の質問は数えきれないほどでしたが、誰からも答えを得られませんでした。しばらくして、私の状態は少し回復しました。家であまりにも退屈していたので、まだ回復しきっていない体を引きずって、働き始めました。

 

神の愛-苦尽甘来

 

2016年10月に、私の2番目の姉が教会から楊(ヤン)という姉妹を私の家に連れて来て、二人は私たち夫婦に終わりの日の全能神の働きについて証ししてくれました。二人の交わりを通して、神は万物を創造し、万物の支配者であること、私たちの運命は全て神の手の中にあり、神は人類を創造して以来ずっと私たちを導き養い、見守っていてくださることが分かりました。しかし私にはまだ分からないことがありました。神はこれまでずっと私たちの運命を定め、支配し、見守ってくださっていますから、私たちは幸福で喜びに満ちているはずです。ではなぜ私たちは病気や苦痛で悩むのでしょう。この苦しみはどこから来たのでしょう。それで私は彼女たちに自分が困惑していることを話しました。楊(ヤン)姉妹は私に神の御言葉の次の箇所を見せてくれました。「出生、死、病、老いといった人生の苦しみは、どこから来るのでしょうか。人々がこれらのことを経験する理由はなんでしょうか。創造時にはなかったものではないか。ではどこから来たのか。人がサタンに誘惑されて堕落してからであり、肉の苦しみ、悩みや虚無感、世の悲惨さと言ったものが含まれます。サタンは人を堕落させ、その後、人を苦しめるようになったのです。すると人は益々堕落し、病は重くなり、苦しみは深刻になっていきました。益々空虚になり、悲劇の中、生きる気力もこの世の希望も失せていきました。つまり、苦しみはサタンによるもので、人がサタンに堕落させられて後にもたらされたのです。」(『キリストの言葉の記録』の「神がこの世の苦しみを受けることの意義」より)

それから楊(ヤン)姉妹は次のように語ってくれました、「初めに、神はアダムとエバを創り、彼らをエデンの園に置かれました。彼らは神の御言葉に耳を傾け、神に従い、崇め、神の配慮と加護の下、病気も不安も苦痛もない伸び伸びとして幸せな暮らしをしました。後に、サタンの言葉に耳を傾け、サタンに誘惑されて堕落した時点で神を裏切ります。それ以来、人類は神の配慮と加護と祝福を失い、サタンの支配下で生きるようになりました。そして、サタンに堕落させられ害を与えられるようになり、ありとあらゆる病気や苦痛に見舞われるようになったのです。

数千年後、サタンは学校教育、親による教化、有名人や偉人の影響、ありとあらゆる悪しき流行などを使って、「我が運命は我が手の中」、「群を抜け、一頭地を抜け」、「天上天下唯我独尊」、「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」、「人間は金銭のために身を滅ぼし、鳥は餌のために身を滅ぼす」といった考えを私たちに無理やり吹き込んでいます。私たちは皆これらの考えや見解通りに生き、皆、神の存在と神の主権を否定します。私たちの性質はますます傲慢で不遜、利己的で卑劣、不正直で狡猾で、よこしまで貪欲になっています。お金、評判、地位、楽しみを得るため、自分の目的を達成するために、私たちは互いに欺き合い、争い、恥を知らずにおだて合い、媚びへつらい、陰謀を仕掛け合い、騙し合い、卑劣な手段も使って…

こうして私たちは損得中心になり、用心深くずる賢い生き方をし、心身ともに疲弊し、耐え難い苦痛を感じています。そこからありとあらゆる病気や、苦痛、空虚感が私たちの魂の中に生じるのです。やがて、人生に方向性や目的がないように感じるようになり、人生の意味や価値が何であるかがわからなくなります。肉に溺れ、飲み食いや道楽にふけるようになる者もいます。刺激を求めて麻薬を服用したりしますが、束の間の楽しみの後で、再び空しく感じます。痛みから解放されるために自らの命を絶つことを選ぶ者さえいます…これは、私たちがサタンに堕落させられて神を否定し、神を避けるようになった結果です。

姉妹の交わりを聞いて、私は、私たちが病気や苦痛を抱えているのは、サタンに堕落させられたからであることがついに分かりました。私たちは、もし神の御言葉に耳を傾け、アダムとエバが最初にしたように神に従うならば、神の配慮と加護の下で幸せに暮らせるのです。神の御言葉によって長年の疑問が解決され、私は神に選んで頂いたことに感謝しました。その後、私たち夫婦は喜んで全能神の働きを受け入れました。

その後、私たち夫婦は教会生活に加わり、神の御言葉をよく一緒に読みました。神の御言葉を読むほど、私は心が一層明るくなりました。そして、人類を救うための神の六千年の経営(救いの)計画、サタンが人類をいかに堕落させているか、人類の最後の結末と終着点、人生で求めるべきことなど、真理の様々な奥義について少し理解するようになりました。神の御言葉によって潤され養われた私は、神が人類を造られた際に願われたのは、私たちが神の御前に来て御言葉に耳を傾け、自分たちの未来と運命を神の手に委ね、神の主権と采配に従うことだと理解しました。

更に、神が終わりの日に表される御言葉は、サタンの狡猾な計略を全て暴露しており、私たちは真理を理解することによって、サタンの考えや見解のどこが間違っているかを明確に知ることができます。こうして初めてこれらの考えに頼って生きることをやめ、自らをサタンの支配と束縛から完全に解き放ち、神の御前で解放され自由に生きることができるのです。私は集会にどんどん参加するうちに、真理をある程度理解するようになり、心の中の空しさと苛立ちは知らず知らずのうちに消えました。心の奥深くに、私は得も言われぬ喜びを感じ、これが神の祝福だと知りました。

ある集会で、次の御言葉を読みました。「『地獄の沙汰も金次第』。これは社会動向ですか。これは、皆さんが挙げたファッションや美食の社会動向と比較すると、もっと悪いものではありませんか。(そうです。)「地獄の沙汰も金次第」はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりに伝えられ、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。人はこの格言を受け入れない状態から、それに慣れ親しんでいく状態に移行したので、現実生活を知るようになったとき、格言を暗黙のうちに徐々に認め、その存在を認知し、最終的には一人ひとりが格言に承認印を押したのです。この過程は、サタンが人間を堕落させる過程ではありませんか。……皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。(感じます。)人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。人々はもっと金を得るために自分の尊厳や高潔さを犠牲にしていませんか。多くの人が、自らの本分を尽くして神に従う機会を、金のせいで失っていませんか。これは人にとって損失ではありませんか。(損失です。)この方法と格言を用いて人間をここまで堕落させるサタンは邪悪ではありませんか。これは悪意に満ちた策略ではありませんか。この広く流布している格言に反対する状態から最終的にそれを真理として受け入れる状態に移行するにつれて、人の心は完全にサタンの掌中に落ち、そのため気付かないうちにこの格言により生きるようになります。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身5」より)

神の御言葉に照らして自己反省し、私は自分があれほど苦しんで生きていた理由はサタンに弄ばれ傷つけられていたためだとついに悟りました。サタンによって植え付けられた「金が第一」「地獄の沙汰も金次第」「人間は金銭のために身を滅ぼし、鳥は餌のために身を滅ぼす」といった格言通りに生き、「金があれば大手を振って歩けるようになるし、人々から高く評価してもらえ、勝ち組として生きられる」と信じていました。そのため、もっとお金を稼ぐためなら、どんなに危険で心身を消耗させる仕事もしました。自分の健康を顧みず、ある種の機械のように、一晩中残業までして働き、自分の命を無駄な危険にさらしてまで稼ごうとしたのです。お金のために命を売っていたと言えるでしょう。そしてあのような結果になったのです。

私はお金を手にし、人の賞賛と評価を得ましたが体を壊しました。病気になって始めて、お金や評判や地位があっても苦痛は全く和らぐことはないし、ましてや満たされて幸福で喜びに満ちた暮らしなどできないと悟りました。それどころか、それらのせいで私は空虚で混乱した人生を送り、人生で何を求めるべきか、人生の意味が何なのかも分からなくなったのです。歩く屍のようで毎日が動揺と苦痛でした。今までの人生で歩んできた道は実に悲しく辛いものであり、それは全てサタンによって堕落させられ傷つけられた結果だったと知りました。

神の救いがなければ、私は今もサタンによる害を受けボロボロにされながら生きて、金のために奔走し、お金と地位の奴隷のままで、体を壊して命も危うくし、死ぬまでサタンによって残酷に傷つけられていたでしょう。私は思いました、「今僕は、金も名声も富も、サタンが人を堕落させ傷つける手段だとやっと分かった。こんなものの中には、サタンの狡猾な計略と、人を堕落させて貪ろうという悪意が隠されているんだ」。その時、サタンが人を傷つけ堕落させる手段をある程度見極めることができ、神の主権に進んで服従できるようになり、「金や名声や富のために必死になるのはもうやめよう」と思いました。

 

転換―新生への出航

 

それ以来、私はもはやお金を稼ぐことばかりを考えることはなくなりました。むしろ時間があればいつも兄弟姉妹と一緒に神の御言葉を読み、神の御言葉についての集会と交わりに行きました。しかし昼間は仕事でひどく疲れていたので、集会に出て神の御言葉を読むといつも眠くなり、多少不安になりました。特に、集会の中で兄弟姉妹が自分たちの本分を果たした時の収穫を語っているのを聞くと、私は不安でうらやましくなりました。自分の神への信仰のあり方が不十分で、これではいのちの成長が遅れてしまうと感じたのです。ある時、ディボーションをしていると、次の御言葉が目に止まりました。「歳月人を待たず、である。神への信仰から益を得ることができるのは、食糧や衣服などよりも、なによりも大切なものとして神の信仰に取り組んだ場合のみであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身10」より)

御言葉を読むと、私は神を信じるとはただ口先で神がいることを認めたり、集会に出たりすることではないと理解しました。そうではなく、神の御言葉を熟考し、真理を求め、教会で本分を果たし、御言葉をもっと実践し体験し、神を自分と同様に知ることを求め、御言葉の理解を深め、神の御心と人に対する要求を理解することなのです。そうする者だけが、神を信じ、神に従う者です。思い起こせば、私は長い間神を信じておらず、仕事が忙しく、集会に出たり神の御言葉を読んだりする時間があまりなかったため、神の働きを経験する機会が少なかったのです。もっと真剣に真理を求めなかったら、どうして真理をもっと理解して神の救いを得ることができるでしょうか。「これじゃだめだ。真理を熱心に求め、もっと時間をかけて真理を身に付け、御言葉を実践して体験しなきゃ」と思いました。

後になって、私は妻とこの問題について話し合いました。私は余裕ができるようにもっと楽な仕事を探そうと考えました。主任に仕事を辞めたいと話した時、まさか同意されないとは思ってもいませんでした。主任に「君がやめなければ、君のどんな要望にも応えるように何とかしてやるから」と言われ、私は「残業はしたくありませんし、週末は休みたいです」と答えました。まさか主任がこんな条件に簡単に同意してくれるとは想像もしていませんでした。以来、私はもっと集会に出て神の御言葉を読む時間ができました。ある日、私はこれらの御言葉を目にしました。「神の存在もなく、神を見ることもなく、神の統治も知らなければ、毎日は無意味で、無価値で、惨めである。どこで何をしても、人の生き方と目標への追求は終わりのない悲しみと深刻な苦痛しかもたらさず、回想するに堪えない。創造主の統治、その指揮と采配を受け入れ、真の人生を求めて初めて、人は徐々に悲しみや苦痛から解き放たれ、人生の虚無感を払拭できるのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身3」より)

神の御言葉を熟考すると、お金のために命を危うくしていた年月を思い出さずにはいられませんでした。神の主権を知らず、サタンの格言に従って暮らしていたため、盲目的にお金と評判と地位を追求し、大いに悲しみと苦痛を感じ、幸福を全く見いだせませんでした。また、富は私たちの外にある物質であり、病気になれば、いくらお金を持っていても、命は助からないし、苦痛は少しも減らないことを本当に理解しました。サタンはお金と名声と富を使って私たちを誘惑し、私たちの貪欲な心をギュッとつかむことで、私たちが神の主権に服従できず、頑固に神に逆らい、神の配慮と加護を避けるようにします。こうして私たちはサタンに支配され、傷つけられ、踏みにじられていきます。今の私は、もはや自分の運命と戦うことも、お金のために命を売ることも望みません。それは本当の人生ではないのです。神の主権と采配に服従し、神に満足して頂くために生き、神に証しをするという被造物の本分を果たすことによってのみ、私たちは自分たちの空しく辛い人生を取り除き、価値と意味のある人生を生きることができるのです。

神の愛に報いるために、私たち夫婦は福音を広める人々の仲間入りをしました。今では、私は毎日、兄弟姉妹と共に福音を広め、証しをしています。非常に充実した生活を送り、心の中がとても平和で喜びを感じています。私の精神は全く新しい姿になりました。私を知っている人は皆、私が若く見えると言いますが、これは神の祝福によるものです。神の救いのおかげで、サタンの束縛と害から真に脱却し、幸せな人生を送れるようになったことに感謝いたします。

ジンチュ(韓国)