神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

神の御言葉「全宇宙に向かって語った神の言葉:十一番目の言葉」

2020-12-21 23:00:13 | 全宇宙への神の言葉

 

 人間は誰もみな、わたしの霊による観察を受けなければならない。自分のすべての言葉と行動を細かく調べ、さらに、わたしの驚くべき行いを見なければならない。神の国が地上に来るとき、あなたがたは、どのように感じるだろうか。わたしの子らと民がわたしの玉座に来るとき、わたしは大きな白い玉座の前の裁きを正式に始める。これはつまり、自ら地上での働きを開始し、裁きの時代が終わりに近づくと、わたしの言葉を全宇宙に向け始め、わたしの霊の声を全宇宙に放つということだ。わたしの言葉を通して天と地のすべての人々と物事を洗い清め、地はもはや穢れと淫乱の地ではなく、聖なる国である。わたしはすべてを新たにし、わたしが用いることができるようにし、もはや地上の息を含まず、もはや土のにおいに汚れていないようにする。地上では、人間はわたしの言葉の目的と根源を手探りし、わたしの業を観察したが、誰一人ほんとうにわたしの言葉の根源を知らず、誰一人わたしの業のすばらしさを真に見ていない。ようやく今日、わたしが自分で人間たちの間に来て言葉を発してはじめて、人間はわたしについてわずかの認識を得、彼らの考えにあった「わたし」の場所を取り去り、意識の中に実際の神のための場所を作ったのだ。人間は観念と好奇心に満ちている。誰が神を見ることを望まないだろう。誰が神に会うことを望まないだろう。しかし、人間の心に確かな位置を占めるのは、ただ人間がぼんやりと抽象的に感じている神なのだ。わたしが平明に告げなければ、誰が気づくだろう。わたしがほんとうに存在していると、誰がほんとうに信じるだろう。まことに疑いの影もなく。人間の心にある「わたし」と実際の「わたし」との間には大きな隔たりがあり、誰一人、その二つの違いを述べることができない。わたしが受肉しなければ、人間はけっしてわたしを知らず、たとえわたしを知るようになったとしても、そうした認識は観念的なものに過ぎないのではないか。わたしは毎日、とだえることのない人間の流れの中を歩き、毎日、すべての人の中で働く。人間が真にわたしを見ると、わたしの言葉の内にわたしを知り、わたしの語る方法、わたしの心を理解する。

 神の国が正式に地上に着くと、すべての中で、何が沈黙しないだろう。すべての人の中で、誰が恐れないだろう。わたしは宇宙世界のいたるところを歩き回る。すべては、わたしが自分で定めた。このとき、誰が、わたしの業がすばらしいものだと知らないだろう。わたしの手はすべてを支え、同時に、すべての上にある。今日、わたしの受肉とわたしが実際に人間の間にいることとは、わたしの謙遜さと神秘のほんとうの意味なのではないか。表向きには、多くの人がわたしを善であるとしてたたえ、美しいとほめるが、誰がほんとうにわたしを知っているのか。今日なぜわたしは、あなたがたがわたしを知るように要求するのか。わたしのねらいは赤い大きな竜を辱めることではないのだろうか。わたしは、人間にわたしをたたえるよう強制はしたくない。しかしわたしを知り、それを通じてわたしを愛するようにさせ、そうしてわたしをたたえるようにする。そのようなたたえはその名にふさわしく、むなしい言葉ではない。そのようなたたえだけが、わたしの玉座に届き、天に昇るのだ。人間はサタンに誘惑され、堕落させられたから、人間は観念的思考に囚われてしまったから、わたしは自分で全ての人間を征服し、人間の観念を暴き、人間の考えを引き裂くために受肉したのだ。その結果、人間はもはやわたしの前で誇示せず、もはや自分の観念でわたしに仕えることをしなくなる。そうして、人間の観念の中にある「わたし」は完全に消される。わたしの国が来るとき、わたしはまず、この段階の働きをはじめ、それをわが民の間で行う。赤い大きな竜の国に生まれたわが民であれば、まことにあなたがたの中の赤い大きな竜の毒素は、ほんの少しでも、一部だけでもない。だから、わたしの働きのこの段階は、主にあなたがたに集中する。そして、これがわたしの中国での受肉の意義の一面なのだ。たいていの人は、わたしの語る言葉のかけらも理解できない。そして、たとえできたにしても、彼らの理解は曖昧で混乱している。これは、わたしの話す方法の転換点の一つだ。もしすべての人がわたしの言葉を読み、その意味を理解できるなら、誰が救われて、ハデスに投げ落とされずに済むだろう。人間がわたしを知り、従うとき、わたしは憩う。そのときこそ、人間はわたしの言葉を理解できる。今日、あなたがたの背丈は低すぎる。哀れなほどに小さく、わざわざ言う甲斐もない──あなたがたのわたしについての認識は言うまでもない。

 わたしの子らや民を牧養するために天使たちが派遣されはじめたと、わたしは述べているが、誰一人わたしの言葉の意味を理解できない。わたしが自分で人間たちの間に行き、天使たちが同時に牧養の働きを始めると、天使たちの牧養する間、子らと民はみな、試練と牧養とを受けるだけではなく、あらゆる幻をも、その目で見ることができる。わたしは神性において直接働いているので、全ては新しい始まりに入る。また、神性が直接働いているため、人性に少しも束縛されない。そして、人間の目には超自然的な状況下で自由に働いているように見える。しかし、わたしには、すべて正常で(人間は直接神性を経験したことがないため、これが超自然現象だと思い込む)。そこには人間の持つ観念は存在せず、人間の意思を少しも含まない。人々は正しい道に入ってはじめて見るだろう。今は始まりであり、人間がその道へ入るということになると、人間には数多くの欠点があり、そのような過ちや不透明さを避けて通ることはできない。今日、わたしがこの時点まで導いてきたのだから、わたしには適切な計画があり、わたし自身の目的がある。もしわたしがそれらについて今日語るなら、あなたがたは、ほんとうにそれがわかるだろうか。わたしは、人間の考え方と、人間が心に望むこととをよく知っている──自分で逃げ道を探したことがない人などいるだろうか。自分の行く末について何も考えたことがない人などいるだろうか。しかし、人間は豊かで多彩な知性を持っているが、長い時の果てに現在がこのようになるとは、誰が予想しただろう。これが、ほんとうにあなたの主観的努力の成果なのか。これが、あなたの疲れを知らぬ努力の報いなのか。これが、あなたが心に描いた美しい情景なのか。もしわたしがすべての人々を導かなければ、誰がわたしの定めから離れて別の出口を見出せるだろう。今日まで人間を導いてきたのは、人間の思いや願いなのか。多くの人は生涯、願いをかなえることなく生きる。これはほんとうに、その人たちの考えが間違っているせいだろうか。多くの人の生は、思いがけない幸福と満足で満たされている。これはほんとうに、彼らが多くを期待しないせいなのか。すべての人間の中で、誰が全能者の目に見守られていないのか。誰が全能者の定めの中で生きていないのか。誰の生と死が自分の選択で訪れているのか。人間は自分の運命を左右できるのか。多くの人は死を求める。しかし、それは彼らからは遠い。多くの人は人生において強くありたいと願い、死を恐れる。しかし、彼らの知らないところで死の時は近づいてきて、彼らを死の淵に陥れる。多くの人は空を見て、深い溜め息をつく。多くの人は激しく叫び、泣いて嘆きの声を上げる。多くの人は試練の中に倒れ、多くの人は誘惑に囚われる。わたしは姿を現して人間にはっきり見られるようにはしないが、多くの人はわたしの顔を見ることを恐れ、わたしが彼らを打ち倒すのではないか、彼らを消し去るのではないかとひどく恐れる。人間はほんとうにわたしを知っているのか、知らないのか。誰一人、確かなことは言えない。そうではないか。あなたがたは、わたしとわたしの刑罰を恐れる。しかし、あなたがたはまた、立ち上がって真正面からわたしに敵対し、わたしを裁こうとする。そうなのではないか。人間がわたしを知らずにきたのは、けっしてわたしの顔を見たことがなく、また、わたしの声を聞いたこともないからだ。そこで、わたしは人間の心の中にいるのだが、心の中にいるわたしが朦朧としていて不可解なものでない者がいるだろうか。心の中のわたしが完全に明瞭な人が、誰かいるだろうか。わたしは、わが民までもがわたしをぼんやりと、不明瞭に見ていることを望まない。そこで、この大いなる業に取り掛かったのだ。

 わたしは静かに人間の間に来て、そっと去る。これまで誰か、わたしを見た者がいるだろうか。太陽は燃える炎があるから、わたしを見ることができるのだろうか。月はそのさやかな光のおかげで、わたしを見ることができるのだろうか。星々は空でそれぞれの場所にいるから、わたしを見る事ができるのだろうか。わたしがいつ来るのか、人間は知らないし、あらゆるものは知らずにいる。また、わたしがいつ去るかも、人間は気づいていない。誰がわたしについて証しできるのだろう。地上の人々のたたえだろうか。野に咲く百合だろうか。空を飛ぶ鳥だろうか。山々で吠える獅子だろうか。誰一人、わたしを完全に証しできない。誰一人、わたしのする働きができない。たとえ人々がこの働きをしてみても、それでどんな効果があるのか。わたしは毎日、大勢の人々の行いを見、毎日、多くの人々の心や考えを探る。誰一人、わたしの裁きから逃れた者はいない。また、誰一人、わたしの裁きの実際を免れた者はいない。わたしは空の上に立ち、遠くを見やる。無数の人々がわたしに打ち倒された。しかしまた、無数の人々がわたしの憐みと慈愛の中で生きているのだ。あなたがたもまた、そうした中で生きているのではないか。

1992年3月5日


神の御言葉「全宇宙に向かって語った神の言葉:十番目の言葉」

2020-12-19 21:06:55 | 全宇宙への神の言葉

 

 神の国の時代は、結局のところ、古い時代とは異なっている。これは人間の行いとは関わりがない。すなわち、わたしは地上に降りた後、自分で働きをする──人間が考えも成し遂げもできない働きを。世界の創造から今日まで、この長い間、問題はいつも教会を建てることであったが、神の国を建てることは、誰も聞いていない。わたしが自分の口でこのことを語っても、その本質のわかる者が誰かいるだろうか。わたしはかつて人間の世界に降りて、人々の苦しみを見、経験もしたが、受肉の目的は果たさなかった。神の国の建設が始まると、わたしは受肉して正式に務めを始める。つまり、神の国の王が正式に王権を握るのである。このことから、神の国が人間世界に降りて来るのは、言葉や見かけだけのことではなく、現実の事がらなのは明らかである。これは、「実践の事がら」の意味の一つなのだ。人間は、わたしの働きを一つも見たことがないし、わたしの話すことばを一つも聞いていない。たとえ見たとしても、何を見出しただろう。また、わたしの語るのを聞いたとしても、何を理解しただろう。世界中で、すべての人間はわたしの愛、慈しみの中にいるが、また、すべての人間はわたしの裁きと、試練の中にもいる。わたしは、たとえすべての人間がある程度堕落していても、人間に対して慈悲深く、愛情深くあった。わたしは、すべての人間がわたしの玉座の前でひれ伏したときにさえ、人間に罰を与えた。しかし、わたしが送った苦しみや練りの中にいない人間が、誰かいるだろうか。何人が闇の中で光を求めて手探りし、何人が試練の中でもがき苦しんでいるだろう。ヨブには信仰があったが、それでも、自分の助かる道を求めたのではないか。わが民として、あなたがたは試練の中で堅く立つことができるが、誰か、声に出すことなく、心の中で信じることのできる者はいるだろうか。心では疑いながら、口で信仰を語っているのではないか。人間の中には、試練の中で堅く立ち、試練の中で真に従順である者は誰もいない。わたしは人間に何も求めないから、この世界を見ることを避けようと、顔を覆ったのではなかったか。全人類はわたしの燃える目で見つめられて倒れるだろうから。

 神の国を迎える祝砲が鳴り響くとき──これはまた、七つの雷が轟くときでもある──この音が天と地とを激しく揺さぶり、天空を震わせ、すべての人間の心の糸を震わせる。神の国の讃歌が大きな赤い竜の国で厳かに響く。わたしが大きな赤い竜の国を破壊し、わたしの国を建てたことを証ししているのだ。さらに重要なことに、わたしの国は地上に建てられる。このとき、わたしは天使たちを世界のすべての国々に遣わし、わたしの子ら、わが民を牧養するようにする。これはまた、わたしの働きの次の段階のために必要なことなのである。しかし、わたしは、大きな赤い竜がとぐろを巻いて横たわる場所に、戦いに行く。すべての人間が肉の内においてわたしを知るようになり、わたしの行いを肉の内において見ることができるようになるとき、大きな赤い竜のねぐらが灰となり、跡形もなく消える。わたしの国の民として、あなたがたは大きな赤い竜を心の底から嫌っているのだから、行いによってわたしを満足させ、それによって、竜を辱めなくてはならない。あなたがたは、ほんとうに大きな赤い竜を憎むべきものと感じているのだろうか。あなたがたは、ほんとうに竜が神の国の王の敵だと感じているのだろうか。あなたがたは、ほんとうに、わたしにすばらしい証しのできる信仰をもっているのだろうか。あなたがたは、ほんとうに竜を打ち破る信仰をもっているのだろうか。これが、あなたがたへの問いだ。わたしが必要なのは、ただあなたがたがこの段階まで行くことだ。あなたがたに、これができるだろうか。あなたがたは、この段階に至る信仰をもっているだろうか。人間に何ができるのだろう。人間ではなく、わたしが自らするのではないのか。なぜ、わたしが自ら戦闘の行われる場所に降りると言っているのだろうか。わたしが望むのは、あなたがたの信仰であって、行いではない。人間は、わたしのことばをありのままに受け取ることができず、横から覗き込むことしかできない。そして、そんな方法で、あなたがたは目的を達しただろうか。あなたがたは、そういうふうにしてわたしを知るに至っただろうか。実を言うと、地上の人間のうち、ただの一人もわたしの顔を正面から見ることのできる者はいない。ただの一人もわたしのことばの純粋な、ありのままの意味を受け取れる者はいない。そこで、過去に前例のない巧みな仕組みを地上で働かせた。目的を果たして、わたしの真の姿を人間の心に植えつけるため、そうして、考えが人間を支配する時代を終わりにするためである。

 今日、わたしは赤い大きな竜の国に降り立つだけではなく、わたしの顔を全宇宙に向け、天空全体が揺れるようにする。わたしの裁きが行われない場所が一つでもあるだろうか。わたしの投げつける懲罰が行われない場所が一つでもあるだろうか。わたしは行く先々に、あらゆる災いの種を蒔いた。これは、わたしの働く方法の一つで、必ずや人間を救う行いなのであり、わたしが人間に差し伸べるものは、何であれ、一種の愛なのである。わたしは、さらに多くの人々がわたしを知り、わたしを見ることができるようにし、そうして長い間人々が見ることのなかった神、だが、今日、現実となった神を、崇めるようにしたいのだ。なぜ、わたしは世界を創ったのだろう。なぜ、人間が堕落したとき、わたしは彼らを完全に滅ぼさなかったのだろう。なぜ、全人類が災いに見舞われて生きているのか。なぜ、わたしは受肉したのか。わたしが働きをするとき、人間は苦さだけではなく、甘みをも味わう。世の人々のうち、誰がわたしの恵みなしに生きているだろう。わたしは、人間が世の中で十分に楽しむことができるよう、物質的な恵みを与えなかっただろうか。まことに、あなたがたがわが民として今の立場に置かれることが唯一の恵みだというわけではないだろう。もし、あなたがたがわたしの民ではなく、仕える者だとしたら、わたしの恵みの中で生きていないのだろうか。わたしのことばがどこから来たのかを理解できる者は、あなたがたの中にはひとりもいない。人間は、わたしの与えた名を大事にするどころか、じつに多くの人々が内心で「仕える者」という名を嫌い、また、じつに大勢が「わが民」と呼ばれると、心の中に愛を生じる。わたしを試みようとしてはいけない──わたしの目はすべてを見、すべてを見通す。あなたがたの中の誰が進んで受け、あなたがたの中の誰が完全に従順であろうとするだろう。神の国の祝砲が鳴り響かなくても、あなたがたは最後まで真に従うことができるだろうか。人間のできること、考えること、人間がどこまでできるか──これらすべては、遠い昔にわたしがあらかじめ定めたことである。

 大多数の人々は、わたしの顔の光の中でわたしの焼ける炎を受ける。大多数の人々は、わたしの励ましに刺激を受け、探索に突き進む。サタンの軍勢がわが民を攻撃するとき、わたしは彼らを退ける。サタンの策略がわが民の生活を破壊しようとするとき、わたしは彼らを敗走させる。ひとたび去って、二度と戻らないように。地上には、あらゆる悪霊が果てしなく休みどころを求めてさまよい、いつも食べるための人間の死体を探している。わが民よ。あなたがたは、わたしの保護と世話の中にとどまりなさい。けっして自堕落なことをしてはいけない。けっして無謀なことをしてはいけない。そうではなく、わたしの家で忠誠をささげなさい。そして、忠誠によってのみ、あなたがたは悪魔の狡猾さに対抗できるのだ。いかなることがあっても、過去のように行動してはいけない。わたしの前で一つのことをし、わたしの後ろで別のことをする──そうすることで、その人は、すでに贖われなくなっている。まことに、わたしはこうしたことを十分以上に述べている、そうではないか。これは、人間の度しがたい本性のため、繰り返し思い起こさせているのである。飽きるのではない。わたしの言うことはみな、あなたがたの運命を確実なものにするためなのだ。サタンが必要とするのは、まさに穢れた汚い場所だ。人間は、どうしようもなく、救いようなく放蕩におぼれていればいるほど、抑制することを拒む。すると、穢れた霊がますますあらゆる機会を利用して、その人に取りつこうとするのだ。ひとたびこの道に至ると、あなたがたの忠誠は口先だけのいい加減な、空虚なものとなり、決意は穢れた霊に食べ尽くされ、不服従になり、あるいはサタンのそそのかしに乗って、わたしの働きを妨害するために利用される。わたしはその気になればいつでもどこでも即座にあなたを打ち殺す。誰一人、この状態の深刻さを知らない。みな、自分たちの聞くことをたわごとだと思って、少しも用心しようとしない。過去に何が行われたかは覚えていない。あなたは、わたしがもう一度忘れて寛容にするのを待っているのか。人間はわたしに敵対したけれど、わたしは恨みに思わない。人間の身の丈はあまりに低いのだから、わたしは大きなことを要求しない。わたしが求めるのは、放蕩せず、抑制することだ。まことに、この一つの条件を守ることは、あなたがたの能力を超えてはいないだろう。大多数の人々は、わたしがさらに奥義を明かすのを見て楽しもうと、待っている。しかし、天の奥義をすべて理解するようになったら、その知識をどうするつもりなのか。それでわたしへの愛が増すのだろうか。それでわたしへの愛が燃え上がるのだろうか。わたしは人間を過小評価しないし、人間についての判断を急がない。事実以外、わたしはけっして軽々しく人間の頭に王冠がわりのラベルをつけない。過去を振り返りなさい。わたしがあなたがたをけなしたことがあっただろうか。わたしがあなたがたを過小評価したことがあるだろうか。あなたがたの置かれた状況を考慮せずに、あなたがたを見ていたことがあるだろうか。わたしのことばが、あなたがたの心と口に確信をもたらさなかったことがあるだろうか。わたしの話した言葉が、あなたがたの心の糸に深く響かなかったことがあるだろうか。あなたがたの中の誰が、わたしに底なしの淵に突き落とされることを深く恐れ、恐怖に震えることなく、わたしのことばを読んだだろう。誰がわたしのことばの内にある試練に耐えないだろう。わたしのことばの内には権威があるが、これは安易に人間を裁くためのものではない。人間の置かれた状況を考慮し、いつでも、わたしのことばのもつ意味を人間に示しているのだ。実際のところ、わたしのことばの内に、わたしの全能の力を認めることのできる人が、誰かいるだろうか。わたしのことばを形作る純金を受けることのできる者が、誰かいるだろうか。どれほどのことばをわたしは語ったことか。誰か、それをいつくしんだことがあるだろうか。

1992年3月3日


神の御言葉「全宇宙に向かって語った神の言葉:六番目の言葉」

2020-12-13 01:42:04 | 全宇宙への神の言葉

 

 霊の内のことについて、あなたがたは、細心の注意を払わなければいけない。わたしの言葉を心して聞きなさい。あなたがたは、わたしの霊と肉の体、わたしの言葉と肉の身とを切り離すことのできない単一のものと見ることができるようになるよう努め、わたしの前にあって、すべての人間がわたしを満足させる状態になるようにしなければならない。わたしは、この足で全宇宙を踏み、全宇宙の隅々にまで目をやり、すべての人間の間を歩き、人間であることの甘、酸、苦、辛を味わった。しかし、人間はけっして真にわたしを認識することがなかったし、わたしが歩き回っていても、それと気づかなかった。なぜなら、わたしは何も言わず、超自然のわざを何も行わなかったので、誰一人、真にわたしを見なかったのだ。物事は、かつてとは違っている。わたしは創造の初めから世界の誰も見なかったことをしよう。わたしは人間が、はるか昔からずっと、かつて聞いたことのないことを語ろう。なぜなら、すべての人間が肉におけるわたしを知るようになってほしいからだ。それがわたしの経営(救い)の手順である。人間にはそれがどういうものか、まるで考えもつかないことなのだ。それらについて、わたしが公然と語っても、人々はまだ頭が混乱しているため、すべてを詳らかに言い表してやることができないのだ。ここに人間の絶望的な低劣さがあるのだ。そうではないか。だからこそ、わたしは人間の内を修復したいのだ。そうではないか。長い年月、わたしは人間に何一つせずに来た。長い年月、受肉したわたしの体と直接接触した者でさえ、わたしの神性から直接発せられた言葉を聞いた者はいなかった。だから、人間にわたしについての知識が欠けているのは、やむを得ないことである。しかし、この一事だけでは、この長い年月、人間のわたしへの愛には影響がなかった。しかしながら、今、わたしはあなたがたに無数の奇跡的で人には推し量ることのできない働きを示し、多くの言葉で語ってきた。それなのに、そうした状況にあっても、実に多くの人々が、いまだに、面と向かってわたしに敵対しているのだ。いくつか例を示そう。

 あなたがたは、毎日、漠然とした神に祈りを捧げ、わたしの意向を理解しようとし、いのちを感じようとする。しかし、わたしの言葉が実際に与えられると、それをありのままにとらえない。あなたがたは、わたしの言葉と霊とを一つの不可分のものと考えていながら、人間を蹴りのける。人間であるわたしには、そもそも、こうした言葉を語ることができないと考え、わたしの霊がそうさせているのだと思っているのだ。あなたはこの状況をどう認識しているのか。あなたがたは、わたしの言葉をある程度まで信じるけれど、わたしのまとう肉の身については大なり小なり自分なりの考えを抱き、毎日自分の頭で考えては、「なぜあの人は、ああいうふうに物事をするのか」と言う。「これは神から来ているものなのだろうか。ありえない。思うに、あの人は、わたしとほとんど変わるところがない、普通のただの人間だ」。もう一度尋ねるが、こういう状況をどう説明するのか。

 今わたしの述べたことについて、あなたがたの中に、そういう考えをもっていない人はいるだろうか。そんなふうに考えていない人がいるだろうか。それは、まるで、あなたが個人的な所有物でもあるかのようにしがみついていて、ずっと手放すのを渋っているもののようだ。まして、積極的に努力しようという気持ちもない。そうでなくて、わたしが自分で働きをするのを待っている。実のところ、わたしを求めることなく、容易にわたしを知るようになる人間は、ただの一人もいないのだ。まことに、わたしがあなたがたに説いている言葉は浅いものではない。あなたの助けとなるよう、異なった点から例を挙げることができるのだから。

 ペテロの名を聞くと、誰もがみな、たたえの心に満ち、ペテロについての物語のあれこれを思い出す——彼が三度神を否定したこと、さらに、サタンの手助けをしたこと、そうして神を試みたこと、しかし、最後には神のために十字架に逆さに釘で打ち付けられたこと、等々。今、わたしはペテロがどのようにしてわたしを知るようになり、最後にはどうなったかを語ることを重視している。このペテロという人は、すばらしい素質の持ち主だったが、彼の境遇はパウロのそれとは異なっていた。彼の両親はわたしを迫害した。彼らはサタンにとりつかれ、悪魔の側にいた。だから、二人がペテロに道を教えたとは言えない。ペテロは頭脳明晰で、生まれながらに豊かな知性をもち、子供のころから両親に可愛がられて育った。しかしながら、彼は両親の敵になった。というのも、ペテロがいつもわたしを知ろうと願い、その結果、両親に背を向けることになったからなのだ。それはつまり、第一に、彼は天と地はみな全能者の手の内にあり、すべてのよいものは神に発し、サタンの手を経ることなく、神から直接来ていると信じたからである。両親の悪い手本のおかげで、ペテロはかえって、わたしの愛と憐れみとをみてとることができ、そうして、わたしを求める欲求がより強く燃え上がることになった。彼はわたしの言葉を飲み食べるだけではなく、わたしの意図するところを把握しようと注意を払った。そして、常に思慮深く、慎重に考えた。だから、彼はいつでも霊が敏感で、その行いのすべてにおいて、わたしの心に適うようにすることができたのだ。ふだんの生活では、失敗の網にかかるようなことを深く恐れ、過去に失敗した人々の教訓を元に、より大きな働きができるよう、自らを励ました。ペテロはまた、遠い昔から神を愛した人々すべての信仰と愛から学んだ。このようにして、ペテロはどのような状況からも学び、急速に成長し、わたしの前で最もよくわたしを知る者となったのだ。このため、想像に難くないことだが、彼は所有物をすべてわたしの手に託し、もはや食べること、着ること、眠ること、どこに宿るかにおいてさえ、自分の主人であることをやめ、あらゆる点においてわたしを満足させ、それによってわたしの恵みを豊かに得たのである。まことに、わたしは何度もペテロを試した。もちろん彼は死にかけたのだが、そうした何百もの試練の中にあっても、彼は一度たりとわたしへの信仰を失ったり、わたしに失望したりしなかった。わたしがもう彼を捨て去ったと告げた時でさえ、ペテロの心が弱ってしまったり、絶望してしまったりすることなく、それまでと同じように、わたしへの愛を実現するため、自分の信じることを続けた。わたしは彼にこう告げたのだ。おまえをほめはしない。かえって、最後には、サタンの手中に投げ込む、と。そうした試練、肉の試練ではなく、言葉による試練の中にあって、ペテロはそれでもわたしに祈った——おお、神よ。天と地ともろもろのものの中にあって、人間や生き物、あるいはその他のもので、全能者の手の中にないものが何かあるでしょうか。あなたが憐れみを示されるとき、その憐れみのためにわたしの心は大いに喜びます。あなたがわたしに裁きを下されるとき、わたしはそれに相応しい者ではありませんが、その御業に神の計り知れない奥義をますます深く感じるのです。なぜなら、神は権威と知恵とに満ちておられるからです。わたしの肉は苦しみを受けても、霊においては慰められます。どうして神の知恵と御業とをたたえずにおられましょう。たとえ神を知って後に死ぬとしても、常に備えと心構えができています。おお、全能者よ。まことに、神がお姿をお示しにならないのは、そう望んでおられないためではないでしょう。まことに、わたしに神の裁きを受ける資格に欠けているからではないでしょう。わたしの中に、ご覧になりたくないものがあるということなのでしょうか。こうした試練の中にあって、ペテロはわたしの意図を正しく把握することはできなかったが、わたしに用いられることを(たとえそれが、人類にわたしの威厳と怒りとを示すため、裁きを受けるだけだったとしても)誇りと栄光であると考え、試練にさらされても、心砕けることがなかった。わたしの前で忠実であったため、また、わたしの与えた恵みのゆえに、ペテロは数千年もの間、人類のための手本、見習うべき者となったのだ。これこそは、あなたがたが見習うべき例ではないのか。今このとき、あなたがたは、わたしがなぜペテロのことを詳しく語っているのか、よくよく考えて、理解しなければならない。これをあなたがたの行動の原則としなければならない。

 たとえわたしを知る者がごく少なくとも、人類のうえに怒りを示しはしない。なぜなら、人間にはあまりに多くの欠点があるため、わたしの望む高みに至ることができないからである。だから、数千年の長きにわたり、今日に至るまで、わたしは人間に寛容であった。しかし、わたしが寛容であるからといって、基準を緩めるようなことをしてはならない。そうではなくて、ペテロを通してわたしのところへ来て、わたしを求め、ペテロの物語すべてから、これまでよりはるかに多くを示され、そうして、人間がかつて到達できなかった域に達するのだ。宇宙と無限の世界を通じて、無数の被造物、地上の無数の物、天の無数の物がみな、すべて、わたしの働きの最終段階のために全力をささげている。まことに、あなたがたは傍観者でいて、サタンの力によって、あちらこちらへ動かされていたくはないだろう。サタンはいつでも、人間がわたしについて心にもつ知識をむさぼっている。そして、牙と爪をむき出して、死を賭した戦いの中にある。あなたがたは、今このときに、欺きに満ちた策略によって捕らえられたいのか。あなたがたは、わたしの働きの最後の段階で、いのちを断たれたいのか。まことに、あなたがたはもう一度、わたしが寛容さを示すことを待っているのではあるまい。わたしを知ろうとすることが肝要だが、実践に注意を注ぐことを怠ってはならない。わたしが直接言葉によって明らかにしているのは、あなたがたがわたしの導きに従うことができるようになり、自分なりの野心や願望をもつことをやめるようにさせたいからなのである。

1992年2月27日