神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

落ち葉が土に還る時、あなたは行ったあらゆる悪事を後悔するであろう

2020-01-31 22:01:02 | 書籍

落ち葉が土に還る時、あなたは行ったあらゆる悪事を後悔するであろう


あなた方は皆、わたしがあなた方の間で行った働きを自ら見、わたしが語った言葉を自ら聞き、あなた方に対するわたしの態度も知っている。それ故に、わたしがこの働きをあなた方の内に行っている理由を知っているはずだ。あなた方に真実を話そう─あなた方は、終わりの日におけるわたしの征服の働きの道具に過ぎない。あなた方は、異邦人の国々にわたしの働きを広げるための手段である。わたしの名が異邦人の国々、つまりイスラエル以外のあらゆる国々に広まるよう、わたしの働きを広めるために、わたしはあなた方の不義、汚れ、抵抗と反抗を通じて語るのである。それは、わたしの名、わたしの行い、わたしの声が異邦人の国々全体に広まり、それによりイスラエルではないそれらの国々すべてがわたしにより征服され、わたしを崇拝し、イスラエルとエジプトの地の他にもわたしの聖地となるためである。わたしの働きを広げるのは、実際はわたしの征服の働きを広げ、わたしの聖地を広げ、わたしの地盤を広げることである。あなた方は、わたしが征服する異邦人の国々にある単なる被造物に過ぎないことをよく知っておくべきである。あなた方は、元来何の身分も持たず、用いられる価値も持たず、全く無用であった。ひとえにわたしが糞の山から蛆虫を引き上げ、わたしの全土征服のための見本とし、わたしの全土征服のための唯一の「参考物」としたおかげで、あなた方は幸運にもわたしに接し、今わたしと共に集ってきたのである。あなた方の身分の低さゆえに、わたしの征服の働きの見本、ひな形となるようわたしはあなた方を選んだ。わたしが働き、あなた方の間にあって語り、わたしが生きてあなた方と留まるのは、それのみが理由である。わたしがあなた方の間にあって語っているのは、糞の山の蛆虫であるあなた方に対するわたしの経営であり、わたしのあなた方に対する憤るほどの極度の嫌悪ゆえのみであることを、あなた方は知るべきである。わたしがあなた方の間にあって働いているのは、ヤーウェがイスラエルで働いているのとは全く違い、イエスがユダヤで働いているのとは殊更に違う。わたしは非常な忍耐を持って語りかつ働き、裁きと共に怒りをもってこうした堕落した者どもを征服する。それはヤーウェがイスラエルでその民を導くのとは全く違う。イスラエルにおけるヤーウェの働きは、食べ物と生ける水を授けるためであり、ヤーウェはその民に施すに当たり、民への憐みと愛に満ちていた。今日の働きは選ばれていない、呪われた国において為される。食べ物は豊富になく、渇きを鎮めるための生ける水もない。さらに、物質的な品物も十分にない。裁き、呪い、刑罰の供給が十分にあるだけである。そうした糞の山の蛆虫は、わたしがイスラエルに与えたような牛や羊のいる丘や巨大な富、国中で最も美しい子供らを得られるだけの価値は全くない。現代のイスラエルは、わたしが与える牛や羊、そして金銀の品を、律法の下でヤーウェにより定められた十分の一よりも多く祭壇に捧げる。そこでわたしは彼らにさらに多く、律法の下でイスラエルが得る百倍以上を与えた。わたしがイスラエルを養うための物は、アブラハムやイサクが得た物を超える。わたしはイスラエルの家族を豊穣にして増やし、わたしのイスラエルの民を全世界に広げる。わたしが祝福し労る者は、未だにイスラエルの選ばれし民、つまり、わたしにすべてを捧げ、わたしからすべてを得る民である。それは、彼らがわたしを心に留め、わたしが戻ってくることを心待ちにしてわたしの聖なる祭壇に生まれたての子牛と子羊を生贄として捧げ、わたしの前に持てる物すべて、生まれたての長男でさえをも捧げるからである。しかし、あなた方はどうであろうか。あなた方はわたしの怒りを呼び起こし、わたしに対して要求し、わたしに捧げものをする人々の生贄を盗んでいるにもかかわらず、わたしを怒らせていることを知らない。ゆえに、あなた方が得るのは暗黒の中での嘆きであり刑罰である。あなた方は何回もわたしの怒りを呼び起こし、わたしは燃え盛る火を降らせたので、多くの者が悲劇的な結末を迎え、その幸福な家庭は荒れ果てた墓となった。そうした蛆虫に対し、わたしは終わりのない怒りしか持たず、祝福を与える気は全くない。わたしが例外としてあなた方を引き上げ、あなた方の間で働くという大いなる屈辱に耐えてきたのは、わたしの働きのためだけである。もし父の旨のためでなかったならば、どうして糞の山の中で転げまわる蛆虫と同じ家で生きられたであろうか。わたしはあなた方のあらゆる行いや言葉に対し極めて嫌悪を感じるが、いずれにせよあなた方の汚れと反抗にいくらかの「関心」があるため、それはわたしの言葉の偉大なコレクションとなった。さもなければ、わたしは決してあなた方の間にかくも長い間留まらなかったであろう。そこで、あなた方に対するわたしの態度は同情と憐みに過ぎず、全く愛のない、忍耐だけであることをあなた方は知るべきである。なぜなら、わたしはそれをわたしの働きのためだけに行っているからである。そして、あなた方にわたしの行いが見えたのは、わたしが汚れと反抗を「原材料」として選んだために過ぎない。さもなければ、そうした蛆虫にわたしの行いを見せることは決してない。わたしは嫌々ながらあなた方の間で働いているだけであり、わたしが喜び進んでイスラエルで働いたのとは全く違うのである。わたしは怒りをこらえて、嫌々あなた方の間で語っているのである。わたしのより大きな働きのためでなかったら、そうした蛆虫を見続けることにどうして耐えられようか。わたしの名のためでなければ、とうの昔に最高の高みに昇り、そうした蛆虫と糞の山を完全に焼き尽くしていたであろう。わたしの栄光のためでなければ、そうした邪悪な悪魔がわたしの前で頭を揺らしながらわたしに公然と反抗するのを、どうして許せたであろうか。わたしの働きが何の障害もなくスムーズに実行されるためでなかったら、そうした蛆虫のような者らが気の向くままにわたしを虐待するのを、どうして許せたであろうか。もしイスラエルで百人の村人らがそのように立ち上がり、わたしに反抗したならば、例え彼らがわたしに生贄を捧げていようと、彼らを地の割れ目の下へと消し去り、他の都市の人々がそれ以上抵抗することのないようにしていたことであろう。わたしは燃えつくす火であり、侮辱に耐えることはしない。人間はすべてわたしから作られたのであるから、わたしのすべての言葉や行いに人々は従わなければならず、抵抗してはならない。人々はわたしの働きに干渉する権利はなく、特にわたしの働きや言葉の何が正しく何が間違っているかを分析する資格はない。わたしは創造の神であり、被造物はわたしに対し畏敬の念を持って、わたしが求めるすべての事を成し遂げるべきである。また、わたしに対し理を説くべきでもないし、抵抗はなおさらするべきではない。わたしは自らの権威をもって我が民を統べ、わたしの創造の一部を成す者はすべてわたしの権威に従うべきである。今日あなた方はわたしの前にあって大胆で厚かましく、わたしがあなた方を教えるのに用いる言葉に従わず、恐れを知らないが、わたしはただあなた方の反抗に耐えているだけである。取るに足らない蛆虫が糞の山で汚物を掘り返しているからといって、わたしは怒りを爆発させてわたしの働きに影響を及ぼすようなことはしない。わたしは父の旨のために、わたしが言葉を発し終えてわたしの最後が来るまで、忌み嫌うものすべてが存在し続けるのに耐える。だが、心配することはない。わたしは名もない蛆虫と同じ程度に成り下がることはできず、あなたと技を比べ合うこともない。わたしはあなたを心から嫌うが、耐えることができる。あなたはわたしに従わないが、父がわたしに約束したあなたへの刑罰の日を逃れることはできない。創造された蛆虫は、万物を創造した神と比べ得るであろうか。秋には、落ち葉は土に還り、あなたは「父」の家に帰り、わたしは父の傍らに戻る。わたしは父の優しい愛と共にあり、あなたは父に踏みにじられる。わたしは父の栄光を手にし、あなたは父の辱めを受ける。わたしはあなたに向けるのをずっと控えてきた刑罰を用い、あなたは既に何万年も腐敗し続けている悪臭を放つ肉体をもってわたしの刑罰を受け止める。わたしはあなたの内にあって忍耐を伴ったわたしの言葉の働きを終え、あなたはわたしの言葉により苦悩の災いを受ける役割を果たし始める。わたしはイスラエルにあって大いに喜び、働くが、あなたは悲嘆にくれて歯噛みをし、泥の中に生きて死ぬ。わたしは元の姿を取り始め、もはやあなたと共に汚れの中に留まることはないが、あなたは元の醜い姿のままであり、糞の山の中でうごめき続ける。わたしの働きと言葉が完了する時、わたしには喜びの日が訪れる。あなたの抵抗と反抗が終わる時、あなたには悲嘆の日が訪れる。わたしはあなたに同情することはなく、あなたがわたしを見ることは二度とないであろう。わたしはもはやあなたと言葉を交わすことはなく、あなたはもはやわたしに出会うことはないであろう。わたしはあなたの反抗を憎み、あなたはわたしの愛を懐かしむであろう。わたしはあなたを打ち、あなたはわたしを懐かしむであろう。わたしは喜んであなたから離れ、あなたはわたしに対する負い目に気付くであろう。わたしはあなたに二度と会うことはないが、あなたは常にわたしを待ち望むであろう。あなたが今わたしに抵抗するので、わたしはあなたを憎むであろうが、わたしが今あなたに刑罰を与えるので、あなたはわたしを懐かしむであろう。わたしはあなたと共に生きるのに気が進まないが、あなたはわたしにしたすべての事を悔やむので、わたしがあなたと共に生きるのを激しく切望し、永遠に悲嘆にくれるであろう。あなたは自分の抵抗と反抗を後悔し、後悔のあまりその顔を地に伏せ、わたしの前に身を投げ出して、これ以上わたしに逆らわないと誓うであろう。しかし、あなたは心の内でわたしを愛するだけで、わたしの声を二度と聞くことはできない。なぜなら、わたしはあなたを辱めるからである。

今、わたしを欺くあなたの束縛のない肉体を見るに当たり、あなたに対してはささやかな警告しかない。わたしは決してあなたに「仕える」ために刑罰を通じて行動を起こすのではない。あなたはわたしの働きにおける自分の役割を知っているべきである。そうすれば、わたしは満足するであろう。さらに、あなたがわたしに抵抗しわたしの金銭を費やし、わたし、ヤーウェの生贄を食べるのであれば、蛆虫であるあなた方は互いに噛みつき合ったり、犬のような被造物であるあなた方の間には対立や暴行が起こったりする─しかし、わたしはそのような事には一切関心を持たない。あなた方は、ただ自分がどのような者であるのか知ればよい。それでわたしは満足するであろう。こうした事を別として、あなた方が剣や槍でお互いを突いたり、言葉によって争い合ったりするのは構わない。わたしはそうした事に一切干渉したくないし、人間の事に一切関わりはしない。あなた方の間の対立を気に掛けないわけではないが、わたしはあなた方とは同じではなく、それ故にあなた方の間の事には加わらないのである。わたし自身は被造物ではなく、この世界の者ではない。そこで、わたしは人々の騒々しい生活と人々の厄介で不適切な関係を心から嫌うのである。わたしは特に騒々しい群衆を心から嫌う。しかし、わたしはそれぞれの被造物の心の内にある不純を深く知っており、あなた方を創造する前に、人間の心の内に深く存在する不義を既に知っており、偽りと不正も全て知っていた。それ故に、人々が不義を行う時にその痕跡が全くなくとも、あなた方の心の内に秘められた不義はわたしが創造したすべての物の豊かさを超えることを知っているのである。あなた方一人ひとりは、群衆の最高の高みに昇りつめた。あなた方は昇りつめて群衆の祖先となった。あなた方は極めて身勝手であり、蛆虫の間で暴れまわりながら、安らぎの場所を求め、自分よりも小さい蛆虫を貪ろうとしている。あなた方は海底に沈んだ幽霊にも増して心の内に悪意と邪悪を持っている。あなた方は糞の最下層に住み、蛆虫を上から下まで邪魔して心穏やかにさせないようにし、争い合っているかと思えば静かになっている。あなた方は自分の身分も知らないが、それでも糞の中で争い合う。そのような争いから何が得られるのであろうか。あなた方がわたしに対し真に畏敬の念を持っているならば、わたしの陰でどうして争い合うことができようか。身分がどんなに高くても、あなたは糞の中にいる臭く取るに足らない虫であることに変わりはないではないか。あなたは、羽を生やして空を翔ける鳩になることができようか。臭く取るに足らない虫であるあなた方は、わたし、ヤーウェの祭壇から生贄を盗む。そうする中で、堕落し、衰えている自らの名を回復して、イスラエルの選民になることができようか。あなた方は恥知らずの哀れな存在である。祭壇の生贄は人々がわたしにささげた物であり、わたしを恐れる人々の情け深さを表している。それらはわたしが支配するためのものであり、わたしが用いるためのものであるのに、人々が捧げた小さなキジバトをどうしてわたしから奪うことができようか。あなたはユダになることを恐れないのであろうか。あなたの地が血に染まった荒野となることを恐れないのであろうか。恥知らずな者よ。あなたは、人々が捧げたキジバトが蛆虫であるあなたの腹を養うためだけの物であると思っているのか。わたしがあなたに与えた物は、わたしが喜んで与えた物である。わたしがあなたに与えなかった物はわたしが好きなようにできるのであって、あなたがわたしへの捧げ物をただ盗むことはできない。働く者はわたし、ヤーウェ─創造の神であり、人々が生贄を捧げるのは、わたしのためである。あなたは、それがあくせくしているあなたへの報酬であると思うのか。あなたは本当に恥知らずである。あなたがあくせくするのは、誰のためであるか。自分のためではないか。なぜわたしの生贄を盗むのか。なぜわたしの金袋から金を盗むのか。あなたはユダ・イスカリオテの息子ではないか。わたし、ヤーウェの生贄は、祭司が享受するものである。あなたは祭司であるのか。あなたは、うぬぼれてわたしの生贄を食べ、食卓に並べさえするのか。あなたには何の価値もない。あなたは何の価値もない、哀れな存在である。わたし、ヤーウェの火は、あなたを燃えつくすであろう。


人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く

2020-01-30 21:22:33 | 書籍

人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く


人は現在の働きと将来の働きを少しは理解しているが、人類が入る終着点については理解していない。被造物として、人はその本分を果たすべきである。つまり、人は神のなすことが何であれ彼に従うべきである。わたしがあなたがたにどんな道を示そうが、その道を歩むべきである。あなたには自分のために采配を下す術はなく、自分自身に対する支配力も持っていない。すべては神の采配に委ねられなければならない。また、すべてのことは神の手中に握られている。もし神の働きによって人に結末、すなわち素晴らしい終着点が前もって与えられ、神がこれを用いて人を引きつけて、従わせるなら、――つまり、神が人と取引をするなら――これは征服ではなく、人のいのちに働きかけることでもない。神が人を支配し、人の心を獲得するために結末を用いるなら、それは神が人を完全にすることにも、人を獲得することにもならず、ただ終着点を使って人を支配しようとしているだけである。人が気に掛けることといえば、将来の行く末、終着点、そして自分が何か良いことを望めるかどうかだけである。もし征服の働きの間、人に素晴らしい望みが与えられ、人の征服に先立って人が追い求めるに適した終着点が与えられるとしたら、人の征服はその効果を達成しないばかりか、征服の働きに影響を及ぼすだろう。すなわち、征服の働きは、人から運命や前途を奪い取り、人の反抗的な性質を裁き、罰することによってその効果を達成するのである。それは、人との取引、つまり人に祝福や恵みを与えることによって達成されるものではなく、人の「自由」を剥奪し、人の前途を絶つことにより、人の忠誠心を明らかにすることで達成される。これが征服の働きの本質である。もし最初から素晴らしい望みが与えられ、刑罰や裁きがそのあとで行われるなら、人は自分の前途が開けることを基にしてこの刑罰や裁きを受け入れるだろう。そして、最終的には、すべての被造物による造り主への無条件の服従と崇拝が達成されることはないだろう。そこには盲目的で無知な従順さしかないか、人が神に盲目的に何かを要求するだけで、人の心を完全に征服することはあり得ないだろう。その結果、このような征服の働きによって人を獲得するのは不可能であり、神を証しすることなどなおさらできない。そのような被造物はその本分を果たすことができず、ただ神と取引するだけである。これでは征服ではなく、憐れみと祝福である。人の最も大きな問題は、人が自分の運命と前途のことしか考えず、それらを偶像としていることである。人は自分の運命と前途のために神を追い求めるだけで、神への愛から神を礼拝することはない。そのため、人を征服するには、人の身勝手さや貪欲、そして神を崇拝する妨げとなるものは、すべて排除しなければならない。そうすることによって、人の征服の効果が達成されるだろう。その結果、人を征服するもっとも最初の段階で、まず人の野心や最も致命的な弱点を一掃し、これを通して人の神への愛を現わし、人生についての認識を変え、また神に対する見方、自身の生存の意味などを変える必要がある。このようにして人の神への愛は清められる。つまり、人の心が征服されるのだ。しかし、全ての被造物に対する神の姿勢は、征服することだけを目的として征服するというものではない。そうではなく、彼は、人を獲得するため、自らの栄光のため、そして人の一番最初の本来の姿を回復するために、人を征服するのである。彼が征服することだけを目的として征服するなら、征服の働きの意義が失われてしまうだろう。つまり、もし人を征服した後、神が人に見切りをつけ、人の生死に気を留めないないなら、これは人類に対する経営(救い)にも、人の救いのための征服にもならないであろう。人が神により征服されたあとに神のものとされることと、素晴らしい終着点へ到達することのみが全ての救いの働きの中核であり、これによってのみ人の救いの目的が達成されるのである。すなわち、人が素晴らしい終着点に到着し、安息に入ることのみが、全ての被造物が持つべき前途であり、造り主によってなされるべき働きである。もし人がこの働きをしようものなら、それはあまりにも制限されたものになるだろう。人はある所までは行くことができても、永遠の終着点まで行くことはできないであろう。人は自分の運命を決めることはできないし、自分の前途や未来の終着点を保証することなど、尚更できない。しかし神によってなされる働きは異なる。彼は人を造ったからには、人を導く。彼は人を救ったからには、完全に救い、完全に人を獲得する。彼は人を導くからには、人を適切な終着点に連れて行く。そして、神は人を創造し、経営するからには、人の運命と前途のために責任を負わなければならない。これこそが造り主によってなされる働きである。征服の働きは人の前途を絶つことでなされるが、人は最終的に神によって用意された適切な終着点に連れて行かれなければならない。人が終着点を持ち、人の運命が確かにされるのは正に、神が人に働きかけるからである。ここで言及されている適切な終着点とは、過去に取り除かれた人の望みとか前途のことではない。この二つは異なったものである。人が望んだり追い求めたりするものは、人にふさわしい終着点というより、肉の途方もない欲求の追求である。一方、神が人のために用意したものは、人が清くされた後に与えられる祝福と約束であり、それは神が世界を創造した後に人のために用意したもので、人の選択、観念、想像、あるいは肉などによってされていない。この終着点はある特定の人に用意されたものではなく、全人類の安息の地である。したがって、この終着点は人類に最適な終着点である。

造り主はすべての被造物を指揮することを欲している。あなたは神が為すことが何であれ、放棄したり背いたりしてはならないし、神に反抗すべきではない。神が為す働きは、最終的には彼の目的を達成し、それによって彼は栄光を受ける。なぜ現在は、あなたがモアブの子孫であるとか、赤い大きな竜の子孫であるとか言われないのか。なぜ選びの民については何も語られず、被造物についてのみ語られるのか。被造物――これが人の本来の呼び名であり、人が本来持っている身分である。呼び名が異なるのは、働きの時代や期間が異なるからに過ぎない。実際、人はごく普通の被造物である。すべての被造物は、最も堕落したものであれ、最も聖いものであれ、被造物としての本分を尽くさなければならない。征服の働きを実行するとき、神はあなたの前途や、運命や、終着点を利用してあなたを支配することはない。実際そのように働く必要はない。征服の働きの目的とは、人に被造物としての本分を尽くさせ、造り主を礼拝させることである。その後初めて人は素晴らしい終着点に入ることができるのだ。人の運命は神の手によって掌握されている。あなたは自分自身を掌握することはできない。いつも自分自身のことであくせく動き回っているのにもかかわらず、人は自分自身を掌握することができないままでいる。あなたがもし自分の前途を知ることができ、自分の運命を掌握できるなら、それでもあなたは被造物だろうか。端的に言うと、神がどのように働いたとしても、彼の働きはすべて人間のためである。たとえば、人に仕えるために神が造った天、地、そして万物――神が人のために造った月、太陽、星など、また動物や植物、春、夏、秋、冬など――はすべて人が生存するために造られたのである。したがって、神がどのように人を罰し、裁くにしても、それはすべて人の救いのためである。神が人から肉的な望みを剥奪したとしても、それは人を清めるためであり、人の清めは人の生存のためである。人の終着点は造り主の手の中にあるのだから、人はどうして自分自身を掌握できるだろうか。

一旦、征服の働きが完了すると、人類は美しい世界に連れて行かれる。もちろん、この生活はまだ地上にあるが、現在の人間の生活とは全く違う。それは全人類が征服された後の生活であり、それは地上の人間にとって新しい始まりとなり、人類がそのような生活を送ることは、彼らが新しく美しい領域に入ったという証拠となるであろう。それは地上における人と神の生活の始まりとなる。そのような美しい生活の前提として、人は清められ征服されたあと、造り主の前に服従する。それゆえ、征服の働きとは、人類が素晴らしい終着点に入る前の、神の働きの最終段階である。そのような生活は地上における人類の未来の生活であり、それは地上で最も美しい生活、つまり人が待ち焦がれていたような生活であり、世界史上、人が決して達成したことのないような生活である。それは六千年の経営(救い)の働きの最終的結果であり、人類が最も待ち望んでいたものであり、それはまた、神が人間に約束していたものでもある。しかし、この約束はすぐには実現されない。終わりの日の働きが完成され、人が完全に征服され、すなわちサタンが完全に打ち負かされて、初めて人類は未来の終着点に入るのである。人は精錬された後、罪の性質がなくなる。なぜなら、神はサタンを打ち負かしたので、敵対勢力による侵略はなく、人の肉を攻撃する敵対勢力がなくなるからである。そのようにして、人は自由になり、聖くなり、永遠の中に入るだろう。暗闇の敵対勢力が縛られて初めて、人はどこに行っても自由で、反抗や抵抗もなくなるであろう。人が無事であるためには、サタンは縛られなければならない。現在、サタンは地上あちこちで問題を引き起こしており、神の経営(救い)の働きはまだ全て終わってはいないので、人は無事ではない[a]。一旦サタンが打ち負かされると、人は完全に解放される。人が神を得てサタンの領域から抜け出すと、義の太陽を見ることになる。正常な人にふさわしい生活が取り戻される。正常な人が持っているべきもの――善悪を見分ける能力、衣食のあり方への理解、正常に生活する能力など――これらすべてが取り戻される。もしエバが蛇に誘惑されていなかったら、人は最初に創造された後、普通の生活を送っていたはずである。人は食べ、服を着て、地上の普通の人の生活を送ったはずである。しかし人が堕落してから、このような生活は夢物語となり、現在も、人はそのようなものを敢えて想像することもない。実際のところ、人が待ち望むこの美しい生活は不可欠である。もし人がそのような終着点を持っていないなら、地上での堕落した生活は決して終わることがないだろう。そして、もしそのような美しい生活がないなら、サタンの運命やサタンが地上を支配する時代に終結はないだろう。人は暗闇の勢力が及ばない領域に達しなければならない。そうするとき、サタンが打ち負かされたことが証明されるのである。このようにして、一旦サタンの妨害がなくなると、神は自ら人類を掌握し、人間生活の全てを指揮し、支配する。これによって初めてサタンが敗北したことになる。現在、人の生活は大方汚れの生活であり、やはり苦しみと患難の生活である。これをサタンの敗北と呼ぶことはできない。人はまだ苦難の海から脱しておらず、人生の苦痛、あるいはサタンの影響から抜け出しておらず、依然として神に関しては、未だに微々たる認識しか持っていない。人のすべての困難はサタンによって造り出され、人の人生に苦難をもたらしたのはサタンであるので、サタンが縛られて初めて、人は苦難の海から完全に逃れることができるのである。しかし、サタンを束縛することは、人の心を征服し獲得することを通して、また、人をサタンとの闘いの戦利品にすることによって達成される。

現在、人が勝利者になること、完全にされることを追い求めるのは、地上で正常な人の生活を送る以前に追求すべきことであり、サタンが束縛される以前に人が求めるべき目標である。勝利者になること、そして完全にされること、あるいは大いに用いられることを人が追い求めることは、実質的には、サタンの影響から逃れることである。人が追求しているのは、勝利者になることだが、最終的な結果はサタンの影響から逃れることである。サタンの影響から逃れることによってのみ、人は地上で正常な人間の生活、神を礼拝する生活を送ることができる。現在、人は勝利者になり、完全にされることを追い求めているが、それは地上での正常な人間の生活を送る以前に求めるべきことである。それらのことは、おもに清められ真理を実行に移すために追求され、また造り主の礼拝を達成するために追い求められる。もし人が地上で正常な人間の生活、困難や苦悩のない生活を送っているなら、人は勝利者になることを敢えて追い求めはしないだろう。「勝利者になること」と「完全にされること」とは、神が人に追求するように与えた目標であり、これらの目標を通して、神は人が真理を実践し、意義深い人生を送るようにするのである。その目的とは、人を完全にし、人を獲得することであり、勝利者になることと完全にされることを追求することは、単なる手段に過ぎない。もし将来、人が素晴らしい終着点に入ることになるなら、勝利者になることと完全にされることについて言及されることはなく、被造物がそれぞれの本分を尽くすだけである。現在は、単に人間の範囲を定義するために、人にこれらの事を求めさせているだけで、それによって人の追求がより目標を得て、さらに実践的になるためである。これなしには、人が永遠のいのちに入ることを追求しても、それは漠然として抽象的になるだろうし、もしそうなれば、人はもっと哀れではないだろうか。目標や原則なしに、このように追い求めるのは――自己欺瞞ではないだろうか。最終的には、このような追求は当然実を結ぶことがなく、その後も人は依然としてサタンの領域の下に生きることになり、そこから脱け出すのは不可能だろう。なぜ自分自身をそのような目的のない追求に従事させるのか。永遠の終着点に入るとき、人は造り主を礼拝する。そして、人は救いを得て、永遠の中に入ったので、人は何の目的も追求しないし、その上、サタンによって包囲される心配もない。この時、人は自分の立場を知り、本分を尽くす。そして、罰されたり裁かれたりしなくとも、人はそれぞれ自分の本分を尽くすだろう。その時、人は身分においても、地位においても被造物となる。高低の差別はもはやない。人はそれぞれの異なる役割を果たすだけである。但し、人は依然として人類の秩序ある適切な終着点の中で生きており、造り主を礼拝するために本分を尽くす。そして、このような人類は永遠の人類となるであろう。その時、人は神に照らされた生活、神の配慮と守りの下にある生活、そして神と共に生きる生活を獲得することになる。人類は地上で正常な生活を送り、全人類が正しい軌道に乗ることになる。六千年の経営(救いの)計画は徹底的にサタンを打ち負かすことになるだろう。つまり、神は創造直後の人間の本来の姿を回復させ、そうして、神の本来の意図が成就される。最初、人類がサタンによって堕落させられる前、人間は地上で正常な生活を送っていた。その後、サタンに堕落させられた時、人はこの正常な生活を失った。そこで、神の経営(救いの)の働きと、人の正常な生活を取り戻すためのサタンとの闘いが始まった。六千年にわたる神の経営(救い)の働きが終わって初めて、全人類の生活が地上で正式に始まり、そうして初めて人は素晴らしい生活をすることができ、神は最初に人を創造したときの目的と人の本来の姿を回復するだろう。したがって、一旦地上で人類の正常な生活を始めると、人は勝利者になることや完全にされるということを追求しなくなるだろう。というのは、人は聖くなるからである。人によって語られた勝利や完全さは、神とサタンとの戦いの間に、人が追い求めるために与えられた目標である。そして、それらの目標は、人が堕落したので存在しているだけである。あなたに目標を与え、あなたにこの目標を追求させることによって、サタンは打ち負かされるのである。勝利者になったり、完全にされたり、用いられたりすることをあなたに求めることは、サタンを辱めるために証しすることをあなたに要求することである。最後には、人は地上で正常な人間の生活を送り、聖くなるだろう。そして、このことが起こるとき、それでも彼らは勝利者になることを求めるだろうか。彼らはみな被造物ではないか。勝利者になることと、完全なものにされることは、どちらもサタンと人の汚れに向けられている。この「勝利者」とはサタンや敵対する勢力に勝利することを指しているのではないだろうか。あなたが自分は完全にされていたと言うとき、あなたの中のどこが完全にされたのだろうか。それは、あなたが神への崇高な愛に達することができるよう、堕落したサタンの性質を自分から取り除いたということではないだろうか。そのようなことは、人の中にある汚れたもの、そして、サタンと関連して語られる。それらは神と関連して語られるのではない。

現在、あなたが勝利者になり完全にされることを求めないなら、将来、人類が地上で正常な生活を送るとき、そのような追求の機会はないであろう。その時、あらゆる部類の人間の最後が明かにされるだろう。その時、あなたがどのような種類のものか明らかにされ、もしあなたが勝利者になることや、完全にされることを願っても、それは不可能であろう。人はその反抗心ゆえに、明らかにされてから、懲罰を受けるだけである。その時、人間が追求するものは、他の人達より高い地位ではない。勝利者となることを追求する人があれば、完全にされることを追求する人もあり、また神の長子となることを追求するものや神の子になることを追求する人もいるが、彼らはこれらのことを追求しない。すべての人たちは神の被造物となり、すべての人たちは地上で生活し、すべての人たちは神と共に地上で生活するだろう。今こそ、神とサタンとの戦いの時である。この戦いはまだ終わっておらず、人はまだ完全に神のものとされていないので、これは移り変わりの期間である。それゆえ、人には勝利者になるか、神の民の一員になるかを追求することが要求される。現在、地位に区別があるが、時が来ればそのような区別はなくなるのである。勝利を得たすべての人たちの地位は同じで、彼らはすべて資格のある人間となり、地上で平等に生きるであろう。つまりそれは、彼らはみな資格のある被造物となり、彼らに与えられる物はすべて同じという意味である。神の働きの時代は異なり、神の働きの対象も違うので、もしこの働きがあなたがたになされるなら、あなたがたは完全にされ、勝利者になる資格を持つ。もしそれが国外でなされたとしたら、彼らは征服されるための最初の群、また完全にされるための最初の群になる資格を持つ。現在、この働きは国外ではなされていない。だから、彼らには完全にされ、勝利者になる資格はなく、彼らが最初の群になるのは不可能である。神の働きの対象、神の働きの時代、そして神の働きの範囲が異なっているので、最初の群、つまり、勝利者たちがいて、完全にされる者たちからなる第二の群もいるだろう。完全にされた者たちからなる最初の群ができれば、模範とひな型も存在するだろう。だから将来は完全にされた人達の第二、第三の群が存在するだろうが、永遠においてはみな同じであり、地位においても分類はないであろう。彼らはただ異なった時に完全にされるのであって、地位の違いは全くない。すべての人たちが完全にされ、全宇宙におよぶ働きの終わりが来ると、地位に区別はなく、すべての者が平等になるであろう。現在、この働きがあなたがたの間でなされているのは、あなたがたは勝利者になるためである。もしこれがイギリスでなされたら、イギリスに、あなたがたと同じように、最初の群ができるであろう。わたしがあなたがたの中で現在の働きを実行しているのは、あなたがたに特に恵み深くしているだけのことである。そして、もしわたしがこの働きをあなたがたの間でしなかったら、あなたがたも同じように、二番目の群、もしくは三番目、四番目、五番目の群となるだろう。これは単に働きの順序の違いによるものである。一番目と二番目の群があることは、一方の地位が高く、もう一方の地位が低いという意味ではない。それは単にこの人たちが完全にされる順番を意味しているだけである。現在、これらの言葉があなたがたに伝えられているが、なぜあなたがたはもっと早く知らされていなかったのだろうか。なぜなら、過程がなければ、人々は極端に走る傾向があるからである。たとえば、イエスは当時、わたしは去ったときと同じように、再び来ると言った。現在、多くの人たちはこの言葉に夢中になり、白い衣を着て天に携挙されるのを待つことだけを望んでいる。したがって、早急に語らない方が良い言葉が沢山ある。もし早急に語ってしまうと、人は極端に走るからである。人の霊的背丈はあまりに低く、これらの言葉の真理を見抜くことができない。

人類が地上で真の人間生活を達成し、サタンの全勢力が縛られると、人は地上で楽に生きることになるだろう。物事は現在ほど複雑ではなくなるだろう。人間関係、社会関係、複雑な家族関係など……。それらは厄介で、本当に苦痛である。地上の人間生活はとてもみじめである。一旦征服されると、人の心と思いは変わるだろう。人は神を畏敬する心と、神を愛する心を持つだろう。全宇宙で神を愛することを求めるすべての人たちが征服され、つまりサタンが打ち負かされ、サタン――暗闇の全勢力――が縛られると、地上での人の生活は困難でなくなり、地上で自由に生きることができるだろう。もし人の生活に肉の関係がなく、肉の複雑さがないなら、どれほど楽なことだろう。人の肉的な関係はあまりにも複雑で、人にとってそのようなものを持つことは、その人がまだサタンの影響から解放されていない証拠である。もしあなたが兄弟姉妹と同じ関係を持ち、家族と同じ関係を持っていたら、あなたは何の心配もしないだろうし、誰かを心配する必要もないだろう。これ以上良いことはないだろうし、これなら人は苦しみの半分から解放されるだろう。地上で正常な人間の生活をすると、人は天使のようになる。依然として肉体を持っているけれども、人は天使のようになるだろう。これは最後の約束、人に授けられる最後の約束である。現在、人は刑罰や裁きを受けるが、あなたは、人間がそのような体験をすることを無意味だと思うのか。刑罰の働きや裁きの働きが何の理由もなく行われるだろうか。以前、人を罰し、裁くことは人を底なしの穴に落とすことだと言われてきた。それはつまり、人の運命や前途を奪い取ることを意味する。これはただ一つのこと、つまり人を清めるためである。神は人を故意に底なしの穴に落しておいて、人間に見切りをつけるのではない。むしろ、人の中にある反抗心を取り扱い、最終的に人の中にあるものが清められ、神に対して真の認識を持ち、人が聖なる者のようになるためである。もしこのことがなされるなら、すべてのことが成就されるだろう。実際、人の中にある取り扱われるべきこれらのものが取り扱われ、人が響きわたるような証しをするなら、サタンは打ち負かされ、たとえ人の中に生来あるものがまだ完全に清められず、少しは残っていても、一旦サタンが敗北すると、もはやサタンが困難をもたらすことはなく、その時こそ人は完全に清められるであろう。人はそのような生活は体験したことがないが、サタンが打ち負かされると、すべてに決着がつき、人の中にある些細なことはすべて解決される。主な問題が解決されると、他の全ての問題も解決する。神が今回地上で受肉している期間、彼が人の間で自ら働きをなす時、彼がなす全てのことは、サタンを打ち負かすためである。そして、彼は人を征服し、あなたがたを完全にすることによって、サタンを敗北させるのである。あなたがたが響きわたるような証しをするとき、これもまた、サタンの敗北のしるしとなるであろう。人は、サタンを打ち負かすために、最初に征服され、最終的に完全にされるのだ。けれども、実質的に、これはサタンの敗北であると同時に、全人類がこのむなしい苦悩の海から救われることでもある。この働きが全宇宙で実行されるのか、中国で実行されるのかに関わらず、そのすべてはサタンを打ち負かすためであり、人が安息の地に入ることができるよう全人類に救いをもたらすためである。受肉した神、即ちこの普通の肉体は、正にサタンを打ち負かすためである。肉なる神の働きは、神を愛する天の下にいる全ての人たちに救いをもたらすために用いられ、それは全人類を征服するためであり、さらには、サタンを打ち負かすためである。神の経営(救い)の全ての働きの中核は、全人類に救いをもたらすためのサタンの敗北と切り離せない。この働きの多くにおいて、あなたがたに証しをするように常に言うのはなぜだろうか。そしてその証しは誰に向けられるのか。それはサタンに向けられているのではないか。この証しは神のためになされ、神の働きがその効果を達成したことを証しするためのものである。証しすることはサタンを打ち負かす働きと関係している。もしサタンとの戦いがなかったら、人は証しをするよう要求されないだろう。サタンは敗北しなければならないので、神は人を救うと同時に、サタンの前で人が神に証しすることを要求する。人を救い、サタンと戦うために神はそれを用いるのだ。したがって、人は救いの対象であり、またサタンを打ち負かすための道具でもある。そのため、人は神の経営(救い)全体の働きの核心に置かれており、サタンは滅ぼす対象、つまり敵にしかすぎない。あなたは自分は何もしていないと感じるかもしれないが、あなたの性質が変わることで、証しとなっている。そしてこの証しは人に対してではなく、サタンに向けられている。人はそのような証しを享受するに適していない。神によってなされた働きが、どうして人に理解できようか。神の戦いの対象はサタンであり、一方、人は救いの対象に過ぎない。人は堕落したサタンの性質を持っているので、この働きを理解することはできない。これはサタンによる堕落だからである。それは人の中に生まれつきあるのではないが、サタンによって仕向けられる。現在、神の主な働きはサタンを打ち負かすことである。つまり、人を完全に征服し、その結果、人がサタンの前で、神に最後の証しをするためである。このようにして、全てのことが成就されるだろう。多くの場合、あなたの肉眼では、何もなされなかったように見えるが、実際、働きはすでに完成されているのである。人は完成したすべての働きが目に見えることを要求するが、それがあなたに見えなくても、わたしは働きを完成させたのである。というのは、サタンが服従したからであり、それは、サタンが完全に打ち負かされ、神の知恵、力、権威のすべてがサタンに勝利したという意味である。これこそが立てられるべき証しであって、人に明白な表現はなく肉眼には見えなくても、サタンはすでに打ち負かされたのである。この働きのすべてがサタンに向けられており、サタンとの戦いの故に実行される。したがって、人には成功したように見えない多くの事があるが、神の目にはずいぶん前に成功しているのである。これは神のすべての働きの秘められた真理の一つである。

一旦サタンが打ち負かされると、すなわち、人が完全に征服されると、人はこのすべての働きが救いのためであり、この救いの手段はサタンの手から取り戻すということであると理解するだろう。神の経営(救い)の六千年の働きは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代というように三段階に分かれている。これら三段階の働きはすべて人類の救いのためである。すなわち、それらはサタンによってひどく堕落させられてきた人類の救いのためである。けれども、それは同時に、神がサタンと戦うためでもある。したがって、ちょうど救いの働が三段階に分かれているように、サタンとの戦いも三段階に分かれおり、この二つの側面の神の働きが同時に行われる。サタンとの戦いは実際、人類の救いのためであり、また、人類の救いの働きは一つの段階ではうまく完成できるものではないから、サタンとの戦いもまた段階と期間に分けられている。そして戦いは、人間の必要とサタンによる人間の堕落の程度に応じて、サタンに対して遂行される。おそらく人は、二つの軍勢が戦うように、神がサタンに向かって武器を取って戦うのだろうと想像の中で考えているだろう。人の知恵はこれくらいしか想像することができない。それはこの上なく曖昧で、非現実的な考えであるが、それが人の信じることである。そして、人の救いの手段はサタンとの戦いを通してである、とわたしがこうして言うので、人はそのような戦いの様子を想像する。人の救いの働きは三段階で実行された。すなわち、サタンとの戦いは、サタンが完全に打ち負かされる前に三段階に分割されたということである。しかし、サタンとの戦いにおける全ての働きに秘められた真理は、人に恵みを施し、人の罪祭となり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にすることによってその効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、サタンに武器を持って立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、人の性質を変えることであり、それにより人が神を証しすることである。サタンはこのようにして打ち負かされるのである。人の堕落した性質を変えることを通してサタンは打ち負かされる。サタンが敗北すると、つまり、人が完全に救われると、そのとき辱めを受けたサタンは完全に縛られ、こうして人は完全に救われることになる。ゆえに、人の救いの実質はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いに反映される。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階であり、また、人をサタンの領域から完全に救う働きでもある。人の征服の秘められた意味は、サタンの化身、つまりサタンに堕落させられた人間が征服に引き続いて造り主に戻ることであり、これにより人はサタンを見捨て、完全に神に戻る。このようにして、人は完全に救われるだろう。したがって、征服の働きはサタンとの戦いにおける最後の働きであり、サタンを打ち負かすための、神の経営(救い)における最終段階である。この働きがなくては、人の完全な救いは最終的には不可能で、サタンの完全敗北もまた不可能になるであろう。そして、人類は決して素晴らしい終着点に入ることができず、サタンの影響から自由になることもできないだろう。従って、人の救いの働きを、サタンとの戦いが終結する前に完了することはできない。というのは神の経営(救い)の働きの核心は人類の救いであるからである。最初の人類は神の手の中にあったが、サタンによる誘惑と堕落によって、人はサタンに縛られ、悪しき者の手中に落ちてしまった。こうしてサタンは、神の経営(救い)の働きにおいて、打ち負かす対象となった。サタンは人間を自分の所有物としたが、人は神の全経営の資本であるので、人が救われるには、サタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、人間はサタンの虜となった後に連れ戻されなければならないのである。かくして、サタンは、人間の古い性質の変化、人間の本来の理知を回復する変化によって打ち負かされなければならず、こうして、虜となっていた人間をサタンの手から取り戻すことができる。もし人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンは辱められ、人は最終的に取り戻され、サタンは打ち負かされるであろう。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、人はこのすべての戦いの戦利品となり、この戦いが終わるとサタンは懲罰の対象となるそのとき、人類を救う働きのすべてが完了するのである。

神は被造物に対して悪意はなく、サタンを打ち負かすことだけを願っている。神の働きのすべては――それが刑罰であろうと裁きであろうと――サタンに向けられている。それは人類の救いのために実行され、すべてサタンを打ち負かすためであり、目的はひとつである。それはサタンと最後まで戦うことである。そして神はサタンに勝利するまで、決して休むことはない。神はサタンを打ち負かして初めて休息する。神によってなされるすべての働きはサタンに向けられており、また、サタンに堕落させられた人たちはすべてサタンの領域で支配され、みなサタンの領域で生きているので、サタンと戦ってそれを断ち切ることがなければ、サタンはその人たちへの掌握をゆるめないだろうし、彼らが神のものとされることもないだろう。もし彼らが神のものとされなかったら、それはサタンが打ち負かされておらず、征服されていないことの証明となるだろう。したがって、神の六千年の経営(救いの)計画の最初の段階で、神は律法の働きをなし、第二段階で恵みの時代の働き、すなわち、十字架の業をなし、第三段階では、人類征服の働きをなした。このすべての働きは、サタンが人類を堕落させた度合いに応じており、それはすべてサタンを打ち負かすためであり、サタンを打ち負かすためではない段階は一つもない。神の経営(救い)の六千年の働きの実質は、大きな赤い竜に対する戦いであり、人類を経営する(救う)働きもまたサタンを打ち負かす働き、サタンと戦いを交える働きである。神は六千年も戦い、このようにして、人を最終的に新しい領域に連れて行くため六千年も働いてきた。サタンが打ち負かされるとき、人は完全に自由になる。これこそ現在の神の働きの方向ではないだろうか。これこそ正に現在の働きの方向である。つまり、人を完全に解放し自由にすることである。その結果、人はどんな規則にも支配されず、あらゆる束縛や抑制にも制限されなくなる。この働きのすべてはあなたがたの霊的背丈とあなたがたの必要に応じてなされる。つまりそれは、あなたがたが達成できるものは何であれ与えられるという意味である。それは、「アヒルを追いやって木に止まらせる」というような、あなたがたに能力以上のことを強制するものではない。そうではなく、このすべての働きは、あなたがたの実際の必要に応じて実行されるのである。それぞれの段階の働きは、人の実際の必要や人への要求とに応じてなされ、それはサタンを打ち負かすためである。実際、初めは造り主と彼の創造物との間に壁はなかった。それらはすべてサタンが引き起こしたのである。人はサタンによる妨害と堕落によって何も見えなくなり、何も触ることができなくなった。人は犠牲者であり、欺かれた者である。サタンが敗北すると、被造物は造り主を見上げ、造り主は被造物に目を注ぎ、自ら彼らを導くことができる。唯一これのみが、人が地上で送るべき生活である。したがって、神の主な働きはサタンを打ち負かすことであり、サタンが敗北すると、すべてが解決される。現在、あなたは、神が人々の間に来たことが特別なことであることを知っただろう。神はあなたがたの欠点を毎日見つけてあれこれ指摘するために来たのではなく、単に自らの容貌、話し方、生き方を見せるために来たのでもない。神が肉となったのは、単にあなたがたが神を見上げるようになるためでも、あなたがたの目を開くためでもなく、また、自らが語る奥義と自らが開いた七つの封印に関して聞かせるためでもない。むしろ、神はサタンを打ち負かすために肉となったのである。神は人を救うために、またサタンと戦うために、肉となって自ら人の所に来た。そしてこれこそが彼の受肉の意義である。もしそれがサタンを打ち負かすためでなかったなら、彼は自らこのような働きをしないだろう。神は人々の間で自らの働きをなすため、人に自らを現すため、また、人が神を見上げるようになるために地上に来た。これは些細なことだろうか。これは実に驚くべきことである。人の想像とは違い、神が来たのは、人が彼を見上げるようになり、神は実在し、漠然として空しい存在ではなく、いと高き方であるが謙っていることを人が理解するためである。これはそれほど単純なことだろうか。神が肉の姿をとってサタンと戦い、自ら人を牧さなければならないのは、正確に言えば、サタンが人の肉体を堕落させたからであり、人間こそが神の救おうとするものだからである。神の働きに有益なのはこれのみである。神の二度の受肉はサタンを打ち負かすために存在し、また、より効果的に人を救うために存在した。なぜなら、サタンと戦いを交える方は、それが神の霊であれ、神の受肉であれ、神をおいては他にいないからである。要するに、サタンと戦いを交える者は天使のはずはなく、ましてやサタンに堕落させられた人間であるはずもない。天使にそのような力はなく、人間はもっと無力である。そのように、もし神が人のいのちに働くことと、人に働くために自ら地上に来ることを望むなら、神は自ら肉となり、つまり、自ら肉の姿をとり、神の本来の身分と神がしなければならない働きをもって、人を救うために人々の間に来なければならない。もしそうでなく、この働きをしたのが神の霊か、人間であったなら、この戦いは永遠にその効果を達成することはなく、決して終わることもないだろう。神が肉となり、人々の間で自らサタンに戦いを挑むとき初めて、人に救いの機会があるのだ。さらに、その時初めてサタンは辱められ、利用する機会も、企てる計画もまったくないままの状態になるだろう。受肉の神によってなされる働きを、神の霊によって成し遂げることは不可能であり、神の代わりに肉なる人間によって成し遂げることはなおさら不可能である。というのは、神がなす働きは人のいのちのためであり、人の堕落した性質を変えるためであるからだ。人がこの戦いに加わるとしたら、惨めにも混乱してただ逃げるだけで、彼らには人間の堕落した性質を変えることはまったくできないであろう。人には十字架から人間を救ったり、反抗的な人類すべてを征服したりすることは不可能であり、原則に従って古い働きを少しするか、サタンの敗北とは関係のない他の働きをすることしかできないだろう。それならなぜ思い煩う必要があるのか。人間を獲得することも、ましてサタンを打ち負かすこともできない働きに何の意味があるのか。したがって、サタンとの戦いは神自らによってのみ遂行されるのであって、人にはまったく不可能である。人の本分は服従して従うことである。というのは、人は新しい時代を切り開く働きも、サタンと戦う働きを遂行することもできないからである。人はただ神自らの指導の下で、造り主を満足させることができだけで、サタンは、それを通して打ち負かされるのである。これは人ができる唯一のことである。それゆえ、新しい戦いが始まるたびに、すなわち、新しい時代の働きが始まるたびに、この働きは神自らによってなされ、それを通して、神はその時代全体を導き、全人類のために新しい道を切り開く。それぞれの新しい時代の幕開けは、サタンとの戦いの新しい始まりであり、それを通して、人は神自らが導くより新しく、もっと美しい領域と新しい時代に入る。人は万物の主人だが、神のものとされた人たちはサタンとのすべての戦いの実となるであろう。サタンはすべての物を堕落させる者であり、すべての戦いの終わりには敗北者となり、また、これらの戦いに続いて懲罰される者である。神、人、サタンのうち、サタンだけが忌み嫌われ、拒絶される者である。その一方で、サタンのものにされ、神によって取り戻されない人たちは、サタンに代わって懲罰を受ける者たちである。これら三者の中で、神だけが万物に礼拝されるべきである。一方、サタンに堕落させられたが、神によって連れ戻され、神の道に従うようになった人たちは、神の約束を受け、神のために邪悪な者たちを裁く者となるだろう。神は必ず勝利し、サタンは必ず敗北するが、人々の中には、勝利する者と敗北する者がいる。勝利する者たちは勝利者に属し、敗北する者たちは敗北者に属する。これはそれぞれの者を種類によって分類することであり、それは神のすべての働きの最終結果であり、神のすべての働きの目的でもあり、それは決して変わることがない。神の経営(救いの)計画の主な働きの核心とは、人の救いに焦点を置くことである。そして、神は主にこの核心と、この働きのために、またサタンを打ち負かすために、肉となるのである。神が初めて肉となったのも、サタンを打ち負かすためであった。神は最初の戦いの働き、すなわち人類の贖いの働きを完了させるために、自ら肉となり、自ら十字架に釘付けにされた。同じように、この段階の働きも、人の間で働き、自ら言葉を語り、人が神を見ることができるようにするために肉となった神自らによってなされるのだ。もちろん、神がその働きの途中で他の働きもすることは避けられないが、彼が自らその働きを遂行する主な理由は、サタンを打ち負かすためであり、全人類を征服するためであり、また、これらの人たちを自らのものとするためである。したがって、神の受肉による働きは本当に重要である。もし彼の目的が、神はへりくだっていて隠れた存在であり、神が実在することを人に示すことだけで、もしこの働きをするだけのことであったら、神が肉となる必要はなかっただろう。たとえ神が肉とならなかったとしても、神は自らがへりくだり、隠れた存在であること、そして自らの偉大さと聖さを人間に直接現すことができただろう。しかし、そのようなことは人類を経営する(救う)働きとは何の関係もない。それらによって人を救ったり、人を完全にしたりすることは不可能で、ましてやサタンを打ち負かすことなどできはしない。もしサタンを打ち負かすことにおいて、聖霊が霊と戦うだけなら、そのような働きの実践的価値はさらに低いだろう。それなら、人を神のものとすることは不可能となり、人の運命と前途を台無しにしてしまうだろう。そのように、現在の神の働きには深遠な意味がある。それは人が神を見ることができたり、人の目が開かれたり、人に多少の感動と励ましを与えたりするためではない。そのような働きは意味がない。もしあなたがこの種の認識についてしか語ることができないなら、それはあなたが神の受肉の真の意義を分かっていない証拠である。

神の経営(救いの)計画の働きの全ては神自身によって直接行われた。第一段階、即ち世界創造のあとの律法の時代の働きは、神自身によって直接行われた。神はモーセをもちいて律法を公布した。全人類を贖うという第二段階もまた受肉した神によって直接行われた。肉となった神以外には、それを行なう資格のある者は誰もいない。第三段階は言うまでもない――神のすべての働きを終わらせるためには、なおさら神自身が働くことが必要となる。全人類を贖い、征服し、獲得し、完全にする働きは、すべて神自身が直接遂行する。もし彼がこの働きを自ら行わないなら、彼の身分を人によって表すことはできないし、彼の働きが人によってなされることもないだろう。サタンを打ち負かし、人類を獲得するために、また、地上で正常な生活を人に与えるために、神は自ら人を導き、人の間で働く。神のすべての経営(救いの)計画とすべての働きのために、神は自らこの働きをしなければならない。もし人が、神が来たのは人に見られるため、また人を嬉しがらせるためであるとしか思わないなら、そのような認識には何の価値もなく、また何の意味もないだろう。人の認識はあまりにも浅い。神が自ら遂行して初めて、この働きは余すところ無く完全に行われるのである。人が神に代わってそれをすることはできない。人は神の身分も本質も持っていないので、神の働きをすることは不可能である。たとえ人がそれをしたとしても、何ら効果はないだろう。最初に神が肉となったのは贖いのためであり、それはすべての人間の罪を贖い、人間が清められること、その罪が赦されることを可能にするためであった。征服の働きも神自らによって人の中でなされる。もし、この段階の間、神が預言しか語らないのであれば、預言者か、誰か賜物のある者を見つけて、その人が神に代わることもできよう。もし預言のみが語られるなら、人は神の代役を務めることができよう。しかし、もし神自身の働きを人が自らなし、人が人間のいのちに働くなら、この働きをなすのは不可能であろう。それは神自らによって直接されなければならない。神はこの働きをなすために自ら肉とならなければならない。ことばの時代に、もし預言しか語られないのであれば、この働きをするために預言者イザヤかエリヤを見つけてくればよいし、神自身が直接それをする必要はないだろう。この段階においてなされる働きは、預言を語ることだけではなく、人を征服し、サタンを打ち負かすために用いられる言葉の働きの方が更に重要なので、この働きは人間には不可能であり、神自身によって直接なされなければならない。律法の時代にヤーウェは神の働きの一部を行い、その後、預言者を通していくつかの言葉を語り、働きをなした。それは人がヤーウェの働きの代役を務めることができ、預言者は物事を預言し、神に代わって夢を解き明かすことができたからである。初めになされた働きは、人間の性質を直接変える働きではなく、人間の罪とも関係がなく、人は律法を守ることだけを要求されていた。それゆえ、ヤーウェが肉となって自らを人に現すことはなかった。そして、ヤーウェはモーセや他の人たちに直接語り、ヤーウェの代わりに彼らに語らせ、働かせ、人々の間で彼らが直接働くようにしたのである。神の働きの第一段階は人を指導することであった。それがサタンとの戦いの始まりだったが、この戦いはまだ正式には始まっていなかった。サタンとの正式な戦いは神の最初の受肉とともに始まったが、それは現在に至るまでずっと続いてきた。この戦いの最初の実例は、受肉の神が十字架に釘付けされた事である。受肉の神が十字架に付けられたことによってサタンは打ち負かされたが、それはこの戦いでの最初の成功段階であった。受肉の神が人のいのちに直接働き始めるときこそが、人を取り戻す働きの正式な始まりであり、これは人間の古い性質を変える働きなので、サタンと戦いを交える働きである。初めにヤーウェによってなされた働きの段階とは、地上での人間生活の指導に過ぎなかった。それは神の働きの始まりであって、まだいかなる戦いも、いかなる大きな働きも関与していなかったが、それはこれから来る戦いの働きの基盤を築いた。その後、恵みの時代の働きの第二段階には、人間の古い性質を変えることが含まれたが、それは神自らが人のいのちに働いたことを意味している。これは神自らが行わなければならなかった。それは神が自ら肉となることを必要とした。そして、もし彼が肉とならなかったなら、他の誰ひとりとしてこの段階の働きにおいて神に代わることはできなかっただろう。というのは、それはサタンと直接戦う働きを表していたからである。もし、人間が神に代わってこの働きをしたとしたら、人がサタンに立ち向かっても、サタンは服従することはなかっただろうし、サタンを打ち負かすことは不可能だったろう。サタンを打ち倒すのは、受肉の神でなければならなかった。なぜなら、受肉の神の本質は依然として神性であり、神がまとう肉は人間の命を持っており、これこそが造り主の現れであるからだ。何が起ころうとも、神の身分と本質は変わらないのである。したがって、神は肉の形をとって、サタンの完全服従をもたらす働きをなした。終わりの日の働きの段階で、もし人がこの働きをなし、言葉を直接語らなければならないとしたら、人はそれらを語ることはできないだろう。そして、もし預言が語られるなら、人間を征服することは不可能であろう。神は、肉の形をとって、サタンを打ち負かして完全服従させるために来る。彼が完全にサタンを敗北させ、完全に人を征服し、完全に人を神のものとすると、この段階の働きが完了し、働きが成功する。神の経営(救い)において、人は神の代役を務めることはできない。特に、時代を導き、新しい働きを始めることは、神自身によって直接なされる必要がある。人に啓示を与えたり、預言を与えたりすることは、人間によってなされることが可能だが、もしそれが、神自らがなすべき働き、また神自身とサタンとの戦いの働きであるなら、人間がこれをなすことは不可能である。働きの第一段階で、サタンとの戦いがないときは、ヤーウェは預言者たちによって語られた預言を用いて、自らイスラエルの民を導いた。その後、第二段階はサタンとの戦いとなり、神自らが肉の中に入り、肉となり、この働きを行った。サタンとの戦いが必要とされることは、何であれ神の受肉も必要とする。つまりそれは、この戦いは人間には行うことができないということである。もし人間が戦うことになれば、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。サタンの支配下にある人間に、どうしてサタンと戦う力を持つことができようか。人は真ん中にいる。もしあなたがサタンの方に傾くなら、あなたはサタンに属し、あなたが神を満足させるなら、あなたは神に属す。この戦いの働きを神に代わって人がなすなら、人はそれを成し遂げることができるだろうか。もしそうしていたら、人はとうの昔に滅びていたのではなかろうか。人は黄泉の国にとうの昔に入っていたのではなかろうか。このように、人は神に代わってその働きをなすことはできない。すなわち、人は神の本質を持っておらず、もしあなたがサタンと戦いを交えたなら、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。人にはある程度の働きしかできない。人は幾人かを勝ち取ることはできるだろうが、神自身の働きにおいて神の代役を務めることはできない。どうして人間がサタンと戦うことなどできようか。サタンは、あなたが戦い始めるやさきに、すでにあなたを虜にするだろう。神自身がサタンと戦い、このことに基づいて人間が神に従い服従するとき初めて、人は神のものとされ、サタンの束縛から逃れることができる。人が自分自身の知恵、能力で達成できることは、あまりにも限られている。人には人間を完全にしたり、導いたり、さらには、サタンを打ち負かしたりすることは不可能である。人の知能と知恵では、サタンの計略を阻止することなど不可能である。どうして人がサタンと戦うことなどできようか。

進んで完全にされたいと思う者たちは皆、完全にされる機会がある。だから皆落ち着いていなければならない。将来、あなたがたはみな終着点に入るだろう。しかし、もしあなたが進んで完全にされようとせず、素晴らしい領域に入る意欲がないなら、それはあなた自身の問題である。進んで完全にされようとし、神に忠誠を尽くす者たち、服従する者たち、そして自分の役割を忠実に果たす者たち、――そのような人たちは皆、完全にされることが可能である。現在、自分の本分を忠実に尽くさない者たち、神に忠誠を尽くさない者たち、神に服従しない者たち、とりわけ、聖霊の啓示と照らしを受けたが、それを実践しなかった者たち、――そのような人たちはみな完全にされることが不可能である。神に進んで忠誠を尽くし、従う者は、たとえ多少無知であっても、皆完全にされることが可能である。進んで追求する者たちは皆完全にされることが可能である。この点で心配する必要はまったくない。あなたが進んでこの方向を追求している限り、あなたが完全にされることは可能である。わたしは、あなたがたの中の誰をも、見捨てたり、排除したりすることを願わないが、もし人が一生懸命努力しないなら、あなたは自分自身に破滅をもたらしているだけである。あなたを排除するのは、わたしではなく、あなた自身である。もしあなた自身が一生懸命努力しないなら――もしあなたが怠慢で、自分の本分を尽くすことも、忠誠を尽くすこともなく、真理を追求せず、いつも自分の好き勝手なことをし、無謀にふるまい、自分の名声と富のために争い、異性に対して不道徳な接し方をするなら、あなたは自分の罪の結果を自分で負わなければならない。誰の同情にも値しない。わたしの目的は、あなたがたがみな完全にされることであり、少なくとも、あなたがたが征服され、その結果、この段階の働きが成功をもって完了することである。神の願いは、一人ひとりが完全にされ、最終的に神のものとされ、神によって完全に清められ、神に愛される者となることである。あなたがたは進歩が遅いとか、力量が乏しいとか、わたしが言おうと、気にすることはない――これはすべて事実である。わたしがこう言っても、それは、わたしがあなたがたを見捨てようとしており、あなたがたに望みを失ってしまった証拠ではなく、ましてや、あなたがたを救う意欲が無い証拠などではない。現在、わたしはあなたがたの救いのための働きをなすために来ており、すなわちそれは、わたしがなす働きは、救いの働きの続きだということだ。完全にされる機会は各人に与えられている。あなたが進んで受け入れるなら、また、あなたが追求するなら、最後には、その効果を達成でき、あなたがたの誰一人として見捨てられることはないだろう。もしあなたの力量が乏しければ、わたしはその乏しい力量に合ったことをあなたに要求する。もしあなたの力量が大きいなら、わたしはその大きな力量に合ったことをあなたに要求する。もしあなたが無知で無学なら、わたしはあなたの無学に合ったことを要求する。もしあなたに教養があるなら、わたしはあなたの教養に合ったことを要求する。もしあなたが高齢なら、わたしはあなたの年齢に合ったことを要求する。もしあなたに人をもてなすことができるなら、わたしはそれに合ったことを要求する。もしあなたが人をもてなすことはできず、特定の役割しか果たせないと言うのなら、それが福音を伝えることであれ、教会の管理であれ、その他の一般的なことに対応することであれ、あなたが果たす役割に応じて、わたしはあなたを完全にするであろう。忠誠を尽くすこと、最後の最後まで従うこと、神への崇高な愛を求めること――これこそあなたが達成しなければならないことであり、この三つよりすぐれた実践はない。最終的に、人はこれら三つの事を達成することを要求されている。そして、もしそれらを達成できるなら、その人は完全にされるだろう。しかし何にもまして、あなたは真剣に追い求め、消極的になるのではなく、積極的に前に進み、上を目指さなければならない。すべての人に完全にされる機会があり、完全にされることは可能である、とわたしは既に言った。これは有効だが、もしあなたが、自分の追求において向上しようとしないなら、また、もしこれら三つの必要条件を満たすことができないなら、あなたは最後には排除されなければならない。わたしはすべての人が追い付いて、すべての人が聖霊の働きと啓きを得て、最後まで従うことができることを望んでいる。なぜなら、これは、あなたがた一人ひとりが尽くすべき本分であるからだ。あなたがたがみな本分を尽くし終えたとき、あなたがたはみな完全にされ、響きわたるような証しを持つだろう。証しを持っている者たちは皆サタンに勝利し、神の約束を手に入れた人たちである。そして彼らこそ、素晴らしい終着点で生き続ける人たちである。

脚注

a.原文は「人が無事でないのは、サタンが地上のあちこちで問題を引き起こし、神の経営の働きがまだ完全には終わっていないからである」となっている。

 


過ちは人間を地獄へ導く

2020-01-29 10:04:46 | 書籍

過ちは人間を地獄へ導く


わたしはあなたがたを征服するため、あなたがたに何度も警告し、多くの真理を与えた。現在、あなたがたは従前よりも豊かであると感じ、人間のあるべき姿の原則を多数理解し、信心深い者が備えるべき常識を多数得ているであろう。それが、あなたがたが現在まで何年もかけて得た物事である。あなたがたの成果は否定しないが、その長い年月の間におけるあなたがたのわたしに対する数々の反抗や反逆もまた否定しないと、率直に述べる必要がある。なぜなら、あなたがたのうちには聖人は居らず、例外無くサタンにより腐敗させられた人間であり、キリストの敵だからである。現在までのあなたがたの過ちと反抗は無数に有るので、わたしが自分自身の言った事を常に何度も繰り返していることは、少しも奇妙なことではない。わたしはあなたがたとそのように暮らしたくはないが、あなたがたの将来と終着点のため、ここでもう一度、従前述べたことを繰り返す。あなたがたがわたしの望みを叶えてくれること、それ以上に、あなたがたがわたしの言葉を全て信じることが出来ること、そしてさらにわたしの言葉の深い意味を推し量ることが出来ることを願っている。わたしの話に疑念を持たずに居ることや、勝手にわたしの言葉を選んで無視したりすることはさらにひどく、容赦できない。わたしの言葉を非難しないこと。ましてやわたしの言葉を軽視するのはなおのこと、わたしがいつもあなたがたを試しているなどと述べたり、さらにはあなたがたに対して述べた言葉が正確さに欠けるなどとは言わないこと。わたしはこれらの事柄を、容赦できない。あなたがたがわたしとわたしの話をそのような疑念をもって扱い、一切認めようとしないので、わたしはあなたがたそれぞれに対して真剣に言うが、わたしの話を哲学と関連づけたり、偽る者の嘘と一緒にしたり、わたしの言葉に侮蔑をもって応じたりしないこと。わたしがあなたがたに述べている物事を今後あなたがたに伝えたり、それほど慈悲深く語る事が出来る者や、ましてやそれらの要点を辛抱強く説明できる者は居ないであろう。今後の日々は、良き時代を回想し、むせび泣き、悲痛にうめきつつ過ごすか、あるいは暗い夜を、与えられた真理のかけらもいのちも無く過ごすか、あるいは単に絶望的に待って過ごすか、あるいは自分が不合理であることに関する苦い後悔の念とともに過ごすであろう。こうした可能性は、あなたがた各人にとって実質上不可避である。あなたがたのうちには、神を真に崇拝する立場の者は皆無であるからだ。あなたがたは放縦さと邪悪の世界に耽溺し、自分の考えや霊魂、身体に、いのちや真理とは無関係であり、また実際にはそれらに反する無数の物事を採り入れる。そうしたわけで、わたしがあなたがたに望むのは、あなたがたが光の道へ導かれることが出来ることである。あなたがたが自分を思いやり、世話をして、自分の終着点に重点を置きすぎず、自分の行動や過ちに対して無関心とならずに居られることが、わたしの望みの全てである。

現在まで長年にわたり神を信じている者は、美しい終着点を望んで来ており、神を信じる全ての者は、幸運が突然自分に訪れることを望み、また知らないうちに、天国のどこかで安らかに落ち着いていたいと願う。しかし、こうした美しい考えを持った人々は、自分がそのような幸運を得たり、天国で居場所を得たりする資格があるかどうかを知らないとわたしは言っておく。現在のあなたがたは十分に自分のことを知っているが、それでも終わりの日の災いを逃れ、邪悪な者たちを罰する全能者の手から逃れることが出来るよう願っている。美しい夢を抱き、快適な人生を望むことは、誰かの思いつきではなく、サタンが腐敗させた人々全員の共通点であるかのように思われる。そうであっても、わたしはあなたがたの途方もない欲望と祝福を得ることへの熱望に終止符を打ちたいと思う。あなたがたの過ちが多数有り、反抗した事実が多数あり、増え続ける一方であることを考えると、どうしてそうした事柄があなたがたの美しい未来像に含まれることが有り得るだろうか。自分が満足するままに誤ったままで生活を送ることを望み、自分を思い留まらせる物事が全く無いが、それでもなお夢を叶えたいというのであれば、朦朧としたまま意識を取り戻さないよう勧める。なぜなら、あなたの夢は空虚であり、義なる神の前において自分を例外とするためには役立たないからである。ただ夢を叶えたいのであれば、決して夢見ず、永遠に真理と事実を直視しなさい。あなたを救う方法は、これしかない。この方法には、具体的にはどのような項目があるだろうか。

最初の項目として、自分の過ちと、真理と一致しない行動、思想を全て検証する。

これは容易に実行できる項目であり、思考力のある者は、これを実行できるであろう。しかし、過ちと真理の意味を全く知らない者は、基本的に思考力が無い者なので、例外である。わたしは、神に認められ、正直であり、律法の重大な違反を犯したことが無く、自分の過ちを容易に認識できる人々に対して話をしている。これはわたしがあなたがたに要求する項目のうち、あなたがたにとって容易なものであるが、わたしが要求する項目はこれだけではない。あなたがたがいかなる場合もこの必要条件を個人的に笑い飛ばすことが無いこと、またそれにも増してそれを見下したり軽視したりしないことを願う。この項目を真剣に扱い、また無視してはならない。

2番目の項目として、自分の過ちと反抗の各事例について、それに相当する真理を探し、その真理でそれらの事例を解決させ、自らの過ちと反抗的な思想や行為を、真理の実践と置き換える。

3番目の項目として、常に賢く狡猾な者ではなく、正直者になるようにする。(この項目においても、わたしはあなたがたが正直者となることを求めている。)

この3項目全てを達成出来た場合、あなたは幸運であり、夢が叶う者であり、幸運を手にする者である。あなたがたはこの魅力に乏しい3つの項目を真剣に捉えるかも知れないし、無責任に扱うかも知れない。いずれにせよ、わたしの目的は、あなたがたの夢を叶え、自分の理想を実践することであり、あなたがたをからかったりばかにしたりすることではない。

わたしの要求は単純かもしれないが、わたしがあなたがたに伝えている事柄は、「1+1=2」といった単純なものでは無い。あなたがたがこの事柄について出鱈目に意味も無くとりとめの無い大袈裟な話をするだけであれば、あなたがたの将来的な計画と望みは、永遠に白紙のままであろう。長年にわたって苦しみ、大いに努力しているが、その結果を示すことが出来ない者に対し、わたしは全く憐憫を感じることはないだろう。それとは反対に、わたしの要求に満たない者に与えるのは罰であり、報いでも、いわんや同情でも無い。おそらくあなたがたは、長年にわたって付き従ってきた者として、何であれ大いに努力してきたので、いずれにせよ自分は効力者として神の家で1杯の米を得られると想像しているであろう。あなたがたのうち殆どの者がこのように考えると言える。なぜなら、あなたがたは現在に至るまで、常に自分が利用されるのを防ぎ、何かを利用する原理を追求してきたからである。それゆえに、ここで真剣に伝えるが、わたしは、あなたの大いなる努力がどれほど賞讃に値するか、あなたの資格がどれほど素晴らしいか、どれほど忠実にわたしに従っているか、どれほど名高く、あなたの姿勢がどれほど改善されたかは問わない。あなたがわたしの要求した物事を行わない限り、あなたは決してわたしの賞讃を得ることができないであろう。そうしたすべての考えや打算は出来るだけ早く捨て、わたしの要求を真剣に扱い始めるように。さもなければ、わたしはあらゆる者を灰にしてわたしの業を終えるか、せいぜいわたしの長年にわたる業と苦難を無に帰するであろう。なぜなら、わたしの敵と、邪悪の臭気を持ちサタンに倣う者をわたしの国すなわち次の段階に入らせることは出来ないからである。

わたしには多くの望みがある。わたしの願いは、あなたがたが適切かつ行儀良く振る舞い、忠実に自分の本分を尽くし、真理と人間性を備え、神のために全てを、そして人生を投げ打つことが出来ること、などがある。こうした望みは、全てあなたがたに欠如している物事と腐敗、反抗から生まれたものである。あなたがたとの従前の対話それぞれが、あなたがたの関心を集めるに十分でなかったならば、おそらくわたしは話を止めるしかないであろう。しかし、あなたがたはその結果どうなるかを理解している。わたしは休むことがないので、わたしが話をしていない場合は、人々が目を向ける何かをするだろう。わたしは誰かの舌を腐らせたり、身体を分断して死なせたり、誰かに神経の異常を起こして狂気の行動を取らせたりすることもできる。あるいは、一部の人々に、わたしが用意した苦悶を与えることもできる。そのようにすれば、わたしは喜び、きわめてうれしく、大いに満足するであろう。かつては常に「善には善、悪には悪をもって報いよ」のであったから、現在もそうであっていけないことがあろうか。あなたがわたしに反対し、何かわたしを非難したいのであれば、わたしはあなたの舌を腐らせるであろうし、それでわたしは限りなく満足するであろう。なぜなら、あなたは最終的に真理に関することを何もせず、いわんやいのちに関することは何もしなかったのに対し、わたしが行った業はすべて真理であり、わたしの業と、わたしが定めた律法の原則に相応だからである。したがって、あなたがた各人に対し、善い行いを積み重ね、極めて悪い行いを止め、時間がある時はわたしの要求に注意するよう強く勧める。そうであれば、わたしは喜びに満ちるであろう。あなたがたが肉に対して行う努力のうち、千分の一を真理に捧げる(ないしは献じる)のであれば、あなたは頻繁に過ちを犯さず、口が腐ることもないであろうと言っておく。これは明白ではなかろうか。

あなたの過ちが多ければ多いほど、あなたが良い終着点を得る確率は低くなる。それと反対に、あなたの過ちが少なければ少ないほど、あなたが神に賞讃される確率は高くなる。あなたの過ちが増えすぎて、わたしがあなたを許せなくなったとしたら、あなたは自分が赦される機会を完全に台無しにしたことになるであろう。その場合、あなたの終着点は、天ではなく地の下となるであろう。あなたがわたしを信じないのであれば、大胆に間違ったことをして、その結果を知るがよいだろう。あなたが真理を実践する熱意ある者であるならば、あなたには、自らの過ちの赦しを得る機会が確実にあり、反抗する回数がますます減ってゆくであろう。あなたが真理を実践することを望まない者であるならば、神の前における過ちは確実に増えてゆき、反抗する回数もさらに増加を続けて、終局的には完全に滅ぼされる時が来るであろう。そしてそれこそがまさに、祝福を受けるあなたの美しい夢が無に帰する時である。自分の過ちを、未熟で愚かな者のミスであるとは考えてはならず、また真理を実践しなかったのは、自分の器量が劣っているために真理を実践できなかったからであるという言い訳をしてもならない。またそれにもまして、自分が犯した過ちを、単に他になすすべを知らない者の行動であるように考えてはならない。あなたが自らを赦すのが得意であり、自らに寛大になるのが得意であれば、あなたは、決して真理を得る事の無い臆病者であり、あなたの過ちは決してあなたをつきまとうことをやめず、その過ちはあなたが真理の要求を満たすことを永遠に妨げ、あなたは永遠にサタンの忠実な仲間となるだろう、と言える。わたしの勧告は、依然として同じである。すなわち、自分の終着点のみに注意して隠された自分の過ちを見過ごしてはならない。自分の過ちを真剣に受け止め、終着点に関する懸念のために、自分の過ちを全て見過ごしてはならない。

 

 

征服の働きの内幕(1)

2020-01-28 10:41:15 | 書籍

征服の働きの内幕(1)

サタンによりあまりにもひどく堕落させられた人類は、神が存在することを知らず、神を礼拝することをやめてしまった。初めに、アダムとエバが創造された時、ヤーウェの栄光とヤーウェの証しが地に満ちていた。しかし、堕落させられた後、人間はその栄光と証しを失った。なぜなら、誰もが神に反抗し、神を畏れ敬うことをすっかりやめてしまったからだ。今日の征服の働きは、そのすべての証しとすべての栄光を取り戻し、すべての人間が神を崇めるようにし、それによって被造物の間に証しがあるようにするためである。これが、この段階の業において達成されねばならぬことである。厳密に言って人間はどのように征服されるのだろうか。それは、この言葉の働きを用いて、人間を充分に確信させることによって行われる。それは暴露と、裁きと、刑罰と、情け容赦ない呪いを用いて人間を完全に服従させる。また、人間の反抗的性質を明らかにし、その反逆を裁くことによって人間は人類の不義と汚れを知るようになる。それによって神の義の性質がいっそう強調されるであろう。主に、こうした言葉を用いて人間を征服し、完全に確信させる。言葉は人類の究極的征服の手段であり、征服を受け入れる者はみな、言葉による鞭と裁きとを受け入れなければいけない。言葉を語ることによる現在の過程が人間を征服する過程である。人々は、具体的にどのように協力するべきだろうか。これらの言葉を飲食し、また理解することによってである。人々は自分の力によっては征服されることができない。あなたはこれらの言葉を飲食することによって自分たちの堕落と汚れ、自分たちの反抗的性質と不義とを知り、神の前にひれ伏さなければいけない。もしあなたが神の心を理解し、それを実行に移し、そしてさらにビジョンを持ち、これらの言葉に完全に従い、自分勝手な選択をしないなら、あなたは征服されるであろう。そして、あなたを征服するのは、これらの言葉であろう。なぜ人類は証しを失ったのか。それは、誰一人神を信じず、もはや神を心にもつことが全くなくなってしまったからである。人類を征服するとは、人々にこの信仰を回復させるということだ。人々は常にこの世に迎合する傾向があり、あまりにも多くの望みを胸に抱き、将来にあまりにも多くの期待をかけ、あまりにも多くの途方もない贅沢を要求する。彼らはいつも自分の肉のことばかり思い、肉のために計画しているが、神を信じる道を求めることにはまったく興味をもたない。彼らの心はサタンの虜となり、彼らは神を畏れ敬う心を失ってしまった。そして、彼らはサタンに自分の心を捧げている。しかし、人間は神によって創られたのだ。こうして、人間は証しを失ってしまった。つまりそれは神の栄光を失ったということだ。人類を征服する目的は、人間の神への畏敬による栄光を取り戻すことだ。それは次のようにも言えるだろう。いのちを追い求めない人々が大勢いる。いのちを求める人がいたとしても、それは指を折って数えられるぐらい小数である。人々はもっぱら自分の将来のことばかりに気をとられ、いのちのことには全く注意を払わない。神に向かって逆らい、抵抗し、背後で神を裁き、真理を実践しない人々もいる。わたしは、今の間はこのような人々を無視し、この部類の反逆の子たちを取り扱うことはしない。しかし将来あなたは闇の中に住み、泣き叫んで歯ぎしりするだろう。あなたは、光の中に住んでいるうちはそのありがたさを感じないだろうが、いったん暗い闇夜の中に住めば光のありがたみに気づくであろう。そのときあなたは後悔するだろう。今はいいかもしれないが、後悔する日が訪れるだろう。その日が到来し、暗闇が地を覆い、もはや光がなくなる時、あなたが後悔しても遅すぎるであろう。あなたが今の時を大切にしないのは、現代における業を理解しないからである。いちど全宇宙の業が始まってしまえば、すなわち、わたしが今日言っていることのすべてが現実となる時、多くの人々が頭を抱えて悔し涙を流すだろう。これこそ、暗闇の中に落ち、泣き叫び、歯ぎしりすることでなくて何であろう。心からいのちを追い求め、完全にされる人々は用いられるだろう。一方、役に立たない反逆の子らは暗闇の中に落ち、聖霊の働きを受けることなど決してなく、何の意味も見出せないままで終わるだろう。彼らはこのように懲罰の中に陥り、呻いては泣き叫ぶのである。もしあなたがこの段階の業において充分に整えられており、あなたのいのちが成熟しているなら、あなたは用いられるに相応しい人である。あなたが少しも整えられていないなら、たとえ次の段階の業のために用いられるとしても、あなたはその業に不適格な者となるであろう。この時点でいくら自分を整えようとしても、機会はすでに過ぎ去ったのである。神はもう去ってしまったのである。そうなればあなたは、今あなたの目の前にあるような機会をいったいどこに行って見つけるのか。今、神自身が備えている訓練をいったいどこに行って受けようというのか。その時になれば、神が自ら語り、声を発することはない。あなたにできることは、今日語られていることを読むことだけだろう。あなたはどうやってそれを容易に理解できるだろうか。どうして後の生活を今の生活に比べることができよう。その時点で、あなたが泣き叫び、歯ぎしりするのは、生き地獄そのものではないだろうか。祝福は今あなたに授けられているというのに、あなたはそれをどうやって享受すればよいのか分からない。あなたは、祝福の中で生きているのに、それに気付かない。それは、あなたが破滅し、苦しむように運命付けられている証拠である。現代は抵抗する人々もいれば、反逆する人々もいるし、あれやこれやと人によってさまざまである。わたしはあなたをただ無視する。わたしがあなたたちのそれらの行いを知らないとでも思っているのか。わたしがあなたたちの本質を理解しないとでもいうのか。どうしてわたしに逆らって歩み続けるのか。あなたは、自身のためにいのちと祝福を追い求めるために、神を信じているのではないのか。あなたが信仰を持っているのは、あなた自身のためではないのか。わたしはちょうど今、わたしの言葉によって征服の業を行っているところである。この征服の業が完了すれば、あなたの最後は明らかになるであろう。これ以上はっきりと説明する必要があろうか。

現在の征服の働きとは、人間の結末がどのようになるかを明らかにすることを意図するものである。なぜわたしは今日の刑罰と裁きとが、終わりの日の大きな白い座の前での裁きだと言うのか。あなたにはこれがわからないのか。なぜ征服の働きは最終段階であるのだろうか。これはまさしく、それぞれの種類の人間が最後にどうなるかを明らかにすることなのではないか。それは、すべての人が、刑罰と裁きとによる征服の働きの過程の中で、自分のありのままの姿をあらわし、その種類に応じて分類されるようにするためではないか。これはむしろ人間を征服するというよりも、各種の人間がどのような最後を迎えるのかを示すことだと言った方がいいだろう。つまり、これは彼らの罪を裁き、それから様々な種類の人間を示し、そのことによって、彼らが悪であるか義であるかを判定するのだ。征服の働きの後に、善に報い悪を罰する働きが続く。完全に従う人々、つまり、完全に征服された人々は次の段階に移され、その業を全宇宙に広める。征服されなかった者は闇の中に置かれ、災厄に遭う。このように人間はその種類によって分類され、悪を行う者たちは悪として分類され、二度と陽の光を見ることがない。また、義人は善として分類され、光を受け、永遠に光の中で生きる。あらゆるものの終わりは近く、人間の終わりは目の前にはっきりと示された。そしてあらゆるものはその種類によって分けられる。それなら、どうして人間がこの分類をこうむることから逃れられようか。それぞれの種類の人間の結末は、あらゆるものの終わりが近づいた時に明らかにされる。それは全宇宙の征服の業(現在の働きを含むすべての征服の業)の間に行われる。この全人類の終わりの明示は、裁きの座の前で、刑罰と終わりの日の征服の業の過程の中で行われる。種類に従って人々を分類することは、人々を元の部類に戻すことではない。何故ならそれは、世界創造の際、人間が創られた時には一種類の人間、つまり男と女しか存在しなかったからである。その頃さまざまな種類の人間など存在しなかった。さまざまな部類の人間が現れたのは、何千年にも及ぶ堕落の後になってからである。ある者は汚らわしい悪魔の領域のもとに、またある者は邪悪な悪霊の領域のもとに属する。また、いのちの道を追い求める者は、全能者の統治のもとへ来る。ただこのようにしてのみ、人々の間に種々の部類が形成され、人々は人間という大家族の中でさまざまな部類に分かれるのである。人々はみな、異なる「父」を持つようになる。人間の反抗的性質は、はなはだしいので、すべてのものが完全に全能者の統治のもとにあるわけではない。義なる裁きは、各種類の人間の本性を表に曝け出す。隠しおおせるものは何もない。あらゆる者が光の中でほんとうの顔を現す。この時点では、人はもはや本来あるべき存在ではなく、その先祖の面影はとうの昔に消え去ってしまったのだ。何故ならそれは、数え切れないほど多くのアダムとエバの子孫たちが、もう長らくサタンの虜となり、もう決して天日を知ることはないからである。またそれは、人々があらゆる種類のサタンの毒に満たされてきたからである。こうして人々にはそれぞれに相応しい終着点があるのだ。さらには、彼らの異なる毒を基準にして、彼らは種類ごとに分類されるのである。すなわち、今日彼らが征服された度合いに応じて彼らは分類されるのだ。人間の終わりは世界の創造以来、予め定められているものではない。それは、初めに集合的に「人類」と呼ばれるひとつの種族しか存在しなかったからである。また、人間は、最初はサタンによって堕落させられてはおらず、彼らは神の光の中に生きていて、闇は彼らの上に降りていなかった。しかし、人間がサタンに堕落させられた後、あらゆる類型と種類の人々が地の至るところに広がった──集合的に「人類」と呼ばれる、男と女から成る種族から出たあらゆる類型と種類の人々である。彼らはみな祖先に導かれ、彼らの最も古い祖先──男と女から成る人間(つまり、始祖であるアダムとエバ、彼らの最も古い祖先)──の元から迷い出てしまったのだ。その当時、ヤーウェに導かれて地に生きた唯一の人々はイスラエル人だった。全イスラエル(つまり、最初の部族)から出た様々な種類の人々は、その後ヤーウェの導きを失った。これらの初期の人々は、人間世界のことにはまったく無知で、祖先とともに自分たちのものとした土地で暮らし、それが今日に至っている。だから、彼らはまだ自分たちがどのようにヤーウェのもとから離れ、今日に至るまで、どのようにしてあらゆる種類の汚れた悪魔や邪霊によって堕落させられたかについてはいまだに何も知らない。これまで最もひどく堕落し、毒されてきた者たち、つまり、最終的に救いようのない者たちは、彼らの祖先と共に行くしかない──彼らを堕落させた汚れた悪魔たちと。最終的に救われる者たちは、人類の正しい終着点に行くことができる。つまり、救われ、征服された者たちのために最後に用意された場所に。救うことのできる者たち全てを救うためには、あらゆることが為されるが、鈍感で救いようのない人々は、彼らの先祖たちの後を追って刑罰の底なしの穴へ落ちるしかない。あなたの終わりは最初から予め定められていて、それが今になってやっと明らかにされたと考えてはいけない。あなたがそのように考えているのなら、一番最初に人類が創造された時には、それとは別のサタンの種族などは創られなかったことを忘れたのか。あなたは、アダムとエバから成る一種類の人間だけが(つまり、男と女だけが)創造されたことを忘れてしまったのか。あなたが始めからサタンの子孫であったなら、それは、人間を創造した時ヤーウェはサタンの種族をもいっしょに創造したことになるのではないか。神がそのようなことを為すだろうか。神は自分の証しのために人間を創造したのだ。神は自分の栄光のために人間を創った。なぜ神は意図的にサタンの子孫である種族を自分にわざわざ抵抗させるために創造したりするのか。ヤーウェにそんなことができようか。もしそうなら、誰が神を義なる神だと言えるだろう。わたしが今、あなたたちのうちのある者たちは、終いにはサタンと行くことになると言う時、それはあなたが始めからサタンと共にあったという意味ではない。そうではなく、あなたはあまりにも低い所まで堕落したので、たとえ神が救おうとしても、その救いをのがしてしまったという意味である。あなたをサタンといっしょに分類する他ない。それはただ、あなたは救いようがないからであり、神があなたに対して不公平であるからではない。つまり、神が意図的にあなたの運命をサタンの体現化した者として定め、サタンと共に分類し、意図的にあなたを苦しませようとしているからではないのだ。それは征服の働きの内なる真実ではない。あなたがそのように信じているのなら、あなたの理解はひどく偏っている。征服の最終段階は、人々を救い、また、人々の結末を明らかにすることにある。それは、裁きによって人々の堕落を暴露し、それによって人々を悔い改めさせ、立ち上がらせ、いのちと人生の正しい道を追い求めるようにさせるためである。それは、鈍く頑なになった人々の心を目覚めさせ、裁きによって彼らの内にある反抗的性質を示すためである。しかしながら、もし人々がまだ悔い改めることができず、なおも人生の正しい道を追い求めることができず、これらの堕落を捨て去ることができないのなら、彼らは救いようのないものとなり、サタンにのみ込まれる。これが征服の意味だ──人々を救い、また人々の結末を見せるのだ。良い結末と悪い結末──すべては征服の働きにより明らかにされる。人々が救われるか呪われるかは、みな征服の働きの間に明らかにされる。

終わりの日とは、すべてのものが征服することを通して、その種類にしたがって分類される時のことである。征服することは終わりの日の業である。つまり、一人一人の罪を裁くことが終わりの日の業である。そうでなければ、どうやって人々を分類できるというのか。あなたたちの間で行われている分類の働きは、全宇宙におけるそうした働きの始まりである。この後、すべての国々のいたるところにいる人々も征服の働きの対象となる。これは、被造物であるすべての人々が種類によって分類され、裁きの座の前に進み出て裁かれるということだ。誰一人、何ものもこの刑罰と裁きの苦しみから逃れることはできない。また、誰も、何ものも、この種類による分類を避けることはできない。あらゆるものが種類ごとに分けられる。それは、万物の終わりが近く、天と地のすべてが終結に至るからだ。どうして人間が己の存在の終結を逃れられよう。したがって、あとどれほどあなたたちは不服従の行いを続けられるのだろうか。あなたたちの終わりの日は、もうすぐそこまで迫っているのが見えないのか。どうして神を畏れ敬い、神の現れを待ち焦がれている者たちが、神の義なる出現の日を見ることができないなどということがあろうか。どうして彼らが善への最後の報酬を受けられないなどということがあろうか。あなたは善を行う者なのか。それとも悪を行う者なのか。あなたは義なる裁きを受け入れて従う者か。それとも呪われる者なのか。あなたは、裁きの座の前で光の中に生きているのか。それとも黄泉の闇の中に生きているのか。あなたの終りは報酬を受ける終わりであるのか、それとも罰を受ける終わりであるのかを一番はっきり知っているのは、あなた自身ではないのか。神が義であることを一番明確に知り、最も深く理解している者は、あなたではないのか。そうであるなら、ほんとうに、あなたの行いはどうであり、どのような心をあなたは持っているのか。今日、わたしがあなたを征服することに及んで、あなたの行動が悪の行動であるか、それとも善の行動であるかをわたしがいちいち説明する必要があるのだろうか。あなたは、わたしのためにどれほどの犠牲を払ったのか。どれほど深くあなたはわたしを礼拝するのか。あなたがわたしに対してどのようにふるまっているかを一番よく知っているのはあなたではないか──それは真ではないのか。あなたが最終的にどのような結末を迎えるのか、あなたはそれを他の誰よりも知っているべきである。わたしは、まことにあなたに告げよう。わたしはただ人類を創造した。そして、あなたを創造した。しかし、わたしはあなたたちをサタンには手渡さなかった。まして、あなたたちを意図的にわたしに逆らわせ反抗させて、わたしに罰されるように仕向けたのでもない。あなたたちがこれらの災難を招いたのは、あなたたちの心があまりにも頑なで、あなたたちの行いが極めて下劣であるからではないのか。だから、あなたたちは自分自身の結末を決定することができるということは、ほんとうではないのか。自分がどんな最後を迎えるのかを、あなたたちは内心、他の誰よりもよく知っているということは、ほんとうではないのか。わたしが人々を征服している理由は、彼らを暴露するためである。またそれは、あなたの救いを確かなものにするためでもある。それは、あなたに悪を行わせるためでもなく、あなたを意図的に破滅の地獄に向かって歩ませるためでもない。その時が来れば、あなたのすべての大きな苦しみ、あなたが泣き叫び、歯ぎしりすること―─それらすべてはあなたの罪の故となるのではないのか。したがって、あなた自身の善、あるいはあなた自身の悪が、あなたへの最も正しい裁きではないのか。それが、あなたの終りがどうなるのかを示す一番の証拠ではないか。

現在、わたしは中国の人々への業を用いて、彼らの反抗的性質をすべて明らかにし、彼らの醜さのすべてを暴いている最中である。これが、わたしが言うべきことをすべて言っている背景なのだ。後にわたしは、全宇宙を征服するという次の段階の業を行う。わたしは、あなたたちへの裁きを用いて全宇宙のすべての者の不義を裁く。何故ならそれは、あなたたちは人類の中の反抗的な者たちの代表だからである。向上しない者たちは、単なる引き立て役、仕える者となるが、一方、向上できる者たちは用いられる。わたしは、なぜ向上できない者たちは単なる引き立て役になると言うのだろう。なぜならそれは、わたしの現在の言葉と働きはみな、あなたたちの背景を標的にしており、また、あなたたちが全人類の反抗的な者たちの代表、典型となったからだ。後にわたしは、あなたたちを征服するこれらの言葉を外国に伝え、そこの人々を征服するために用いる。しかし、あなたたちはそれらを獲得しないだろう。それはあなたを引き立て役にするのではないか。全人類の堕落した性質、人間の反抗的行為、人間の醜い姿と顔、それらはみな、あなたたちを征服するために用いられる言葉の中に記録されている。それからわたしは、これらの言葉をすべての国々とすべての宗派の人々を征服するために用いる。なぜならあなたたちは模範、先例なのだから。しかしながら、わたしは意図的にあなたたちを最初から捨てようとして始めたのではない。もしあなたたちの追求が失敗に終わり、あなたたちが救いようのない者となるなら、あなたたちはただの道具、引き立て役なのではないか。かつてわたしは、わたしの知恵はサタンの計略に基づいて働くと言った。何故わたしはそう言ったのだろうか。それは、わたしがちょうど今言っていること、行っていることの背後にある真実ではないのか。もしあなたが向上せず、完全にされるのではなく、むしろ罰されるのなら、あなたは引き立て役になるのではないか。おそらくあなたは、あなたの時に応じて充分に苦しんだだろう。しかし今なお、あなたは何も解かっていない。あなたはいのちにおけるすべてのことについて無知である。あなたは罰せられ裁かれたにもかかわらず、まったく変わらず、あなたの奥底ではまだいのちを獲得していない。あなたの働きを試す時が来ると、あなたは焼き尽くす炎のように激しい試練と、さらに大きな患難を体験するであろう。この炎はあなたの全存在を灰に変えるであろう。いのちを持たない者として、内に一かけらの純粋な金も持たない者として、いまだに古い堕落した性質から抜け出せない者として、また、脇役としてでさえ良い仕事ができない者として、どうしてあなたが取り除かれないことがあろうか。一文の価値もなく、いのちを持たない者のために、征服の業がなんの役に立つのだろうか。その時が来ると、あなたたちの日はノアやソドムの日よりももっと困難になるであろう。その時あなたの祈りは何の役にもたたない。一度救いの業が終わってしまえば、あなたはどうやってまた最初から悔い改めることができるというのか。一度すべての救いの業が完了すれば、さらなる救いの業はない。次に来るのは、悪を罰する業の開始である。あなたは抵抗し、逆らい、自分で悪だと分かっていることをしている。あなたは、厳しい罰の対象ではないのか。わたしは、あなたのためにこのことを今日、一字一句説明しているのだ。あなたがわたしの言うことを聞こうとしないなら、後に患難があなたの上に臨む時にやっと後悔し始め、信じ始めたところで、それはもう遅過ぎるであろう。わたしは今日、あなたに悔い改める機会を与えているが、あなたは悔い改めようとはしない。あなたは、あとどれほど長く待ちたいというのか。刑罰の日までか。わたしは今日、あなたの過去の背きの罪を憶えてはいない。わたしは、あなたを幾度も幾度も赦す。あなたの消極的な面から目をそらし、あなたの積極的な面だけに目を留めて。何故なら、わたしの現在の言葉と業のすべては、あなたを救うためであり、わたしはあなたに対して何の悪意も持っていないからだ。それでもあなたはいのちに入ることを拒む。あなたは善悪を区別することができず、親切の価値に感謝することも知らない。このような人には、ただあの懲罰と義なる報復を待つことしかないのではないか。

モーセが岩を打ち、ヤーウェによって授けられた水がほとばしり出たのは、モーセの信仰によるものである。ダビデがわたしヤーウェを賛美して琴を奏でたとき――彼の心は喜びで満たされていたが――それは彼の信仰によるものであった。ヨブが山々を満たすほど多くの家畜を失い、言い表せぬほどの膨大な財産を失い、体が腫物で覆われたとき、それは彼の信仰のためであった。彼が、わたしヤーウェの声を聞くことができ、わたしヤーウェの栄光を見ることができたのは、彼の信仰によるものであった。ペテロがイエスキリストに付き従うことができたのは、彼の信仰によるものであった。彼がわたしのために十字架に釘づけにされ、素晴らしい証となったのは、彼の信仰によるものであった。ヨハネが人の子の輝かしい姿を見たのは、彼の信仰によるものであった。彼が終わりの日の幻を見たのは、なおさら彼の信仰によるものであった。いわゆる異邦の民の群がわたしの啓示を受け、人々の間で働きをするためにわたしが肉となって帰って来たことを知るようになったのは、また彼らの信仰によるものである。わたしの厳しい言葉によって打ち砕かれたが、その言葉によって慰められた者たち、また救われた者たちのすべて、――彼らがそうしたのは信仰の故ではないのか。人々は信仰を通して多くのものを受けたのだ。彼らが受けるのはいつも――ダビデが感じたような幸せと喜びを感じること、又は、モーセがしたようにヤーウェによって水が授けられることなどの――祝福ばかりであるとは限らない。例えば、ヨブの場合は信仰を通して幸いだけではなく、災いも受けた。あなたが幸いを受けようが、災いを受けようが、どちらも祝福されたことなのだ。信仰なくして、あなたはこの征服の業を受けることはできない。まして、ヤーウェの行うことが、今日あなたの目の前に表示されることなどない。あなたはそれを見ることができないだろう。まして、受けることなどできはしないだろう。これらの懲罰、災難、そしてすべての裁き――もしこれらのすべてがあなたの上に臨まなければ、あなたは今日ヤーウェの行いを見ることができるであろうか。今日、あなたを征服されるようにするのは信仰であり、征服されるとあなたは、ヤーウェのあらゆる業を信じられるようになる。ただ信仰の故に、あなたは、このような刑罰と裁きを受けるのだ。このような刑罰と裁きを通して、あなたは征服され、完全にされる。あなたは神を知らないので、あなたが今日受けている刑罰と裁きなしでは、あなたの信仰は虚しいだろう。あなたがどれほど神を信じていても、あなたの信仰はまだ現実に基づかない、むなしい表現に過ぎない。あなたを完全に従順にする、こうした征服の働きを受けてはじめて、あなたの信仰は本物で確固としたものになり、あなたの心は神の方へ向く。たとえこの「信仰」という言葉のためにあなたが大いに裁かれ、呪われても、あなたは真の信仰をもち、最も真実で、最も現実的で、最も貴重なものを得る。何故ならそれは、あなたが神の創造物の終着点を見るのは、裁きの過程においてだけだからだ。この裁きの中で、あなたは創造主が愛すべき方であることを知るのである。こうした征服の働きの中に、あなたは神の腕を見る。この征服の中であなたは人生を完全に理解するようになる。この征服の中で、あなたは人生の正しい道を獲得し、「人間」の真の意味を知るようになる。この征服の中でのみ、あなたは全能者の義の性質と美しい栄光に満ちた顔を見る。この征服の働きの中であなたは人間の起源と全人類の「不滅の歴史」を理解する。この征服の中で、あなたは人類の祖先と人類の堕落の起源を理解するようになる。この征服の中で、あなたは喜びと慰め、また、絶え間ない懲らしめと訓練、自らが創造した人類への叱責の言葉を創造主から受ける。この征服の働きの中で、あなたは幸いを受け、人間の受けるべき災難を受ける……。このすべては、あなたのわずかばかりの信仰故ではないのか。これらのものを得た後、あなたの信仰は成長しなかったのか。あなたは膨大な量を得たのではないのか。あなたは神の言葉を聞き神の英知を見ただけではなく、個人的にその業の一つひとつの段階を体験したのだ。おそらくあなたは、信仰がなければ、こうした刑罰やこのような裁きを受けて苦しまなくてもよかったはずだと言うだろう。しかし、信仰がなければ、こうした刑罰を受けることも、全能者からこのような配慮を受けることもできないだけでなく、創造主に会う機会を永遠に失うだろう。あなたは、人間の起源を知ることは決してないだろうし、人生の意義を知ることも決してないであろう。たとえあなたの体が死んで魂が離れても、あなたはまだ創造主の働きのすべてを理解できはしないだろう。まして、創造主が人類を創造した後、このような偉大な業を地上で為したことを、あなたは知りはしないだろう。神が創造したこの人類の一員として、あなたは不可解にも、自ら進んでこのように闇の中に落ちて永遠の罰を受けようというのか。もしあなたが今日の刑罰と裁きから離れるなら、あなたにはいったいどういう運命が待っているのだろう。あなたは、今の裁きから離れてしまえば、この困難な生活から逃れられるとでも思っているのだろうか。もし「この場所」を去ったなら、あなたが遭遇するのは、悲痛な苦悶と悪魔によって加えられる残酷な傷害であるということは、ほんとうではないのか。あなたは、耐え難い苦しみを日夜受けることになるのではないか。あなたは、今日この裁きを逃れたからといって、将来の責め苦を永久に避けられるとでも思っているのか。あなたの前途にあるのは何だろう。それはほんとうに、あなたが望んでいる理想郷なのだろうか。あなたは、今やっているようにただ現実から逃げることで、その後の永遠の刑罰を逃れられるとでも思っているのだろうか。今日より後、あなたはこのような機会や祝福をほんとうに見出せるのだろうか。災厄が襲ってきた時、あなたはそれを見いだせるだろうか。あなたは、すべての人間が安息に入るとき、それを見いだせるだろうか。あなたの現在の幸福な生活と調和あるささやかな家庭──これらがあなたの永遠の終着点にとって代われるだろうか。もしあなたが真の信仰を持っているのなら、また、あなたの信仰によって多くのものを得るのなら、そのすべては、あなた――ひとつの創られた存在――が獲得すべきもの、また、手に入れていたはずのものではないか。このような征服はあなたの信仰に最も有益であり、あなたのいのちに最も有益なものだ。

今の時点では、あなたは、征服されている者たちから、神が何を求めているのかを理解する必要がある。完全にされている者たちに対する神の態度はどうであるか、また、今あなたが即座に入らなければならない過程は何であるかを理解する必要がある。いくつかのものごとは、あなたが、ほんの少しだけ理解すればそれでよい。奥義についてのいくつかの説話は、苦心して解き明かす必要はない。それらは余りいのちの助けにはならない。またそれは、目を留めるだけで充分だ。例えば、アダムとエバについての奥義などは、目を留める必要がある。当時アダムとエバとは、いったい何を意味していたのか、また神は今日どんな働きを為すことを望んでいるのか、――これらのことをあなたは知る必要がある[a]。人を征服し完全にする中で、神は人をアダムとエバのような状態に戻すことを願っていることをあなたは理解する必要がある。神の基準を満たすためには、人はどれほど完全にされなければならないのか――あなたはそれをよく感知し、それをつかむよう進んで尽力すべきである。それがあなたの実践の意味であり、あなたが理解すべきことである。あなたは、ただ、これらのことに関する言葉に従って、入ることを求める必要がある。「人類発展の歴史は数万年にまでさかのぼる。」ということを読むと、あなたは好奇心を抱き、兄弟姉妹といっしょになってそれを解明しようとする。「神は人類発展の歴史は六千年までさかのぼると言われたでしょ?数万年というのは、いったいどういうことだろう?」こんなことを解き明かしてどうしようというのだ。神自身が数万年働いていようが、数億年働いていようが――神は、あなたがそれを解明することを必要としているのか。これは、創られたものとして、あなたが知る必要のあることではない。このての発言は、ただ目を留めることができるが、それをビジョンのように理解しようとしてはならぬ。あなたが是非知らなければならないことは、あなたが今すぐ何の中に入り、何について明確な理解を得るべきかである。これらのことについて思いを巡らし、はっきりと理解しなさい。その時初めてあなたは征服されるようになるだろう。以上のことを読んで、あなたは普通の反応を示すかもしれない。神は燃えるように切望している。神は私たちを征服し、栄光と証しを獲得することを願っている。私たちはどうやって神に協力すべきだろうか。神によって完全に征服され、神の証となるために、私たちは何をしなければならないのか。神が栄光を得ることができるためには、私たちは何をしなければならないのだろうか。サタンの支配下ではなく、神の統治のもとで生きられるようになるためには、何をしなければならないのか。こういうことが、人々が考えるべきことである。あなたたち一人ひとりが、征服の意義についてはっきりと知るべきである。それはあなたたちの義務である。この明察を得て初めてあなたたちはいのちの道に入るだろう。あなたたちはこの段階の業を知り、完全に従順なものとなるであろう。そうでなければ、あなたたちは真の服従に達することはないだろう。

脚注

a.原本には「これらのことをあなたは知る必要がある。」という語句が含まれていない。

 

今日の神の働きを知る者だけが、神に仕えられる

2020-01-14 08:50:49 | 書籍

今日の神の働きを知る者だけが、神に仕えられる

神の証しとなり、赤い大きな竜を辱めるためには、一つの原則に立つ必要があり、また一つの条件を満たすことが必要だ。それは、心から神を愛し、そして神の言葉に入ること。あなたが神の言葉に入らない限り、サタンを辱めることはできない。あなたのいのちの成長を通して、あなたが赤い大きな竜を断ち切り、それに完全な侮辱を与えてこそ、赤い大きな竜を真に辱めることができる。神の言葉を実践しようとすればするほど、あなたの神への愛の証明と赤い大きな竜の嫌悪は大きくなる。神の言葉に従えば従うほど、あなたの真理を求める証明は大きくなる。神の言葉を求めない人々は、いのちのない人々である。そのような人々は神の言葉の外にあり、宗教に属している。真に神を信じている人々は神の言葉を飲み食いすることを通して、さらに深い神の言葉に関わる認識を持つ。あなたが神の言葉を求めないのであれば、あなたは神の言葉を真に飲み食いすることはできず、もしあなたが神の言葉に関わる認識を全く持っていなければ、神を証しすることも神を満足させることも全くできない。

あなたが神を信じることにおいて、どのように神を知ればよいだろうか。あなたは、逸脱したり誤った考えを持つことなく、今日の神の言葉と働きに基づいて神を知るようにするべきであり、何よりまず神の働きを知るべきである。これが神を知る基礎である。神の言葉の純粋な理解に欠けるこれらの誤った考えはみな宗教的な観念であり、逸脱し、誤った理解である。宗教家は、過去に受け入れられた神の言葉を取って、今日の神の言葉と照合する技術に長けている。過去に聖霊により照らされたことにしがみついたまま今日の神に仕えようとするなら、あなたの奉仕は妨害をもたらし、あなたの行いは古いただの宗教儀式となってしまう。もしあなたが、神に仕える者は外から見てへりくだっていて辛抱強くなければならないと信じているとしたら、そしてもしあなたがそのような認識を今日実践しているとしたら、そのような認識は宗教的な観念であり、そのような行いは偽善的である。「宗教的な観念」とは、(以前に神が語った言葉の理解や直接聖霊により示された光も含む)古くすたれたものを指しており、それらを今日実行するならば、それらは神の働きの妨害であり、人への益をもたらさない。もし人がそのような内に持つ宗教的な観念に属するものを一掃することができなければ、それらは人の神への奉仕における大きな妨げとなってしまう。宗教的な観念を持った人々は、聖霊の働きの歩みについていくことができず、一歩そしてまた一歩と遅れをとる。これらの宗教的な観念が人を非常にひとりよがりで傲慢にしてしまうからだ。神は自らが語ったことや過去に行ったことについて懐旧を抱くことはなく、それがすたれたものであれば、それを取り除く。まことにあなたは、あなたの観念を手放すことができるのではないか。あなたがもし過去に神が語った言葉にすがりついているならば、神の働きを知っているということの証明になるだろうか。もしあなたが今日の聖霊の光を受け入れることができず、過去の光にしがみついているとしたら、神の足跡に従っている証明になるだろうか。あなたはまだ宗教的な観念を手放すことができていないだろうか。もしそうであれば、あなたは神に反対する人になってしまうだろう。

もし人が宗教的な観念を手放すことができれば、その人は自分の考えを使って今日の神の言葉や働きを測ったりせず、直接従うだろう。今日の神の働きが過去のものと明らかに違っていても、あなたは過去の見方から離れて今日の神の働きに直接従うことができる。神が過去にどのように働いたかということに関係なく、今日の神の働きに最も重きをおくべきだということを知っていれば、あなたは自分の観念を捨て、神に従い、そして神の働きと言葉に従い神の足跡についていくことのできる人である。これにより、あなたは真に神に従う人になれるのである。あなたは神の働きを分析したり、調査したりしない。それはあたかも、神が過去に行った働きを忘れ、同様にあなたも忘れたかのようである。現在は現在であり、過去は過去であり、神自身が過去に行ったことを忘れるのであるから、あなたがそれに浸っていてはならない。そうしてはじめて、あなたは神に完全に従う人になり、完全に宗教的な観念を手放したと言える。

神の働きにはいつも新しい進展があるので、新しい働きもあり、当然すたれた古い働きも出てくる。この古い働きと新しい働きは矛盾するものではなく、補い合うもので、そのひとつひとつが過去から続いている。新しい働きがあるから、もちろん、古い働きは取り除かれなければならない。たとえば、長年実践されてきた慣習や習慣的に用いられてきた言い習わしは、人の長年の経験や教えと相まって、人に様々な観念を形成した。人によるそのような観念の形成にとってさらに好都合なことに、古代から長年伝えられた理論の広まりに結びついて、神が自分の顔や本来の性質をまだ完全には人に現していないということである。人が神を信じる過程において、様々な観念の影響により、神に対する様々な観念的な認識は形成され、進歩し続けてきたと言える。結果として多くの宗教家が神の敵となった。人々の宗教的な観念が強ければ強いほど、彼らは神に反対し、神の敵となってしまう。神の働きはいつも新しく古いものは何ひとつなく、規則を形成することも一切なく、むしろ、継続的により大きい範囲で変化したり小さい範囲で変化したりして、新しくなっている。この働きは神自身の本来の性質の表れである。それはまた神の働きの本来の原則でもあり、神が自身の経営を成し遂げる手段の一つである。もし神がこの方法で働かないとしたら、人は変わらず、神を知ることもできず、サタンが打ち負かされることもないだろう。よって、彼の働きのうちに一貫性のないように見える変化は継続して起きるが、それは実は周期的なものである。しかしながら、人が神を信じる方法は全く異なり、古い、親しみのある教えや制度にしがみつき、より古いものを心地よく感じる。石のように頑固で愚かな人の考えが、どのようにして神の計り知れない多くの新しい働きと言葉を受け入れることができようか。人はいつも新しく古いことが一切ない神を嫌悪する。人が好むのは、白髪で不動のアンティーク化した古い神のみだ。つまり、神と人はそれぞれ好みが異なるため、人は神の敵となった。このような不一致は、神が新しい働きをして六千年近く経った今日も多く存在する。故に、もう救済策もないのだ。それは人の頑なさが原因かもしれないし、神の行政命令が人間には不可侵であるが故かもしれない。だが神自身はまた完成されていない経営の働きを隣に誰もいないかのように進め、これらの宗教家たちは未だに、古くさい本や書物にすがっている。これらの不一致により、神と人とが敵対し、和解不可能にさえなっているが、神はそのような不一致は存在しないかのように、目を留めることはない。しかし、人は自分の信念にしがみつき、それらを手放すことはない。それでもひとつはっきりとしていることは、人が自分自身の姿勢を変えることがなくても、神の足はいつも動いており、神はいつも状況によって自分の姿勢を変え、最終的に戦わずして打ち負かされるのは人間である。一方、神は敗北した全ての敵にとっての最大の敵であり、打ち負かされた人々およびまだ打ち負かされていない人々の勝者でもある。誰が神と競って勝利できるのか。人の観念の多くは神の働きが発端となるため、神から来るように思える。しかし、だからと言って神は人を赦すことはしないし、神の働きから外れた「神のため」の多くの製品を次々製造する人を褒めそやすことももちろんしない。かえって、彼は人の観念や古くて敬虔な信仰にとても嫌気がさしていて、これらの観念が生まれた日さえも無視する。人の観念は人により広まり、それらの源は人の考えや心であり、神からのものではなく、サタンによるものであるため、彼はこれらの観念を自分の働きによるものだとは全く認めない。神の意図は、自身の働きを、古いものや死んだものではなく、常に新しく生き生きとしたものとし、人の拠りどころとなるものが時代や期間に合わせて変化し、永遠に続くものであったり不変のものであったりしないことである。彼は人を生かし新たにさせる神であり、人を死に至らせ古くする悪魔ではないからである。あなたがたはまだこれが分からないか。あなたは心を閉ざしているので、神について持っている観念を手放すことができない。神の働きが理不尽だからでも、人間の願望と合致していないからでもなく、無論神がいつも自分の義務に怠慢だからなどでもない。あなたが自分自身の観念を手放すことができないのは、あなたが不従順すぎるからであり、そしてあなたに神の被造物らしさが少しもないからで、神があなたに対してことを難しくしているのではない。全てはあなたに起因していて、神とは関係ない。全ての苦しみと不幸は人が引き起こしている。神の意思はいつも良いもので、彼はあなたに自らの観念を作り出してほしいと願ってはいない。あなたに時代とともに変わり、新しくなってほしいと願っている。それでもあなたは大切なことを見極めることができず、いつも調査か分析をしている。神があなたに対してことを難しくしているのではなく、あなたが神への畏れを持っておらず、あなたがあまりに不従順なだけだ。ごく小さな被造物が、神に与えられたもののほんの一部を取り、それを使って神を攻撃しようとする。これは人の不従順ではないのか。人は神の前で自分の考えを表明する資格などはなく、価値のない、悪臭を伴う腐った格言を思いつくままに持ち出して来る資格などないと言える。カビの生えたような観念など尚更持ち出せない。それらはもっと価値のないことではないか。

真に神に仕える人は、神の心にかない、神に用いられるのにふさわしく、宗教的な観念を手放すことのできる人である。もしあなたが神の言葉を飲み食いすることで豊かな実りを得たいと望むなら、あなたの宗教的観念を手放さなければならない。神に仕えたいと望むなら、まず宗教的な観念を手放すことが尚更必要で、そしてあなたのすること全てにおいて神の言葉に従うことが必要である。これが、神に仕える人が持つべきものである。あなたがこのことを認識として持っていないなら、仕え始めてすぐに妨害や障害を引き起こしてしまう。そしてもしあなたが自分自身の観念にすがり続けるなら、神に打ち倒されることは避けられず、二度と起き上がれないだろう。現在を例えに説明しよう。今日の多くの言葉や働きは聖書に沿っておらず、神が以前に行った働きにも沿っていない。だからもしあなたが従うことを望まなければ、いつでも躓いてしまう。もしあなたが神の旨に従って仕えたいと願うなら、まず宗教的な観念を手放し、自らの見解を正さなければならない。これから語られることの多くは過去に語られたことと相いれず、もし今、あなたに従う意志が欠けていれば、あなたはこの先歩み続けることはできない。神が働く方法のひとつがあなたのうちに根付いていてそれを一切手放すことができなければ、その方法はあなたの宗教的な観念となってしまう。もし神であることがどのようなことか、それがあなたの中に根付いていれば、あなたは真理を得ており、神の言葉と真理があなたのいのちになれるのなら、あなたはもはや神への観念を持っていない。神に関わる真の認識を持つ人々は観念を持たず、教義に固執することはない。

以下の質問を通して自らを問いただし、目覚めなさい。

1.あなたの内にある認識が神への奉仕の妨げになっているか。

2.あなたの日常生活にはどれだけの宗教的な行為があるか。敬虔さを装うだけであれば、あなたはいのちにおいて成長し、成熟したといえるか。

3.あなたは神の言葉を飲み食いする時、宗教的な観念を手放すことができるか。

4.あなたが祈るとき、宗教的な儀式に関係なく祈ることができるか。

5.あなたは神に用いられるにふさわしい人か。

6.あなたの神に関する認識は、どれくらい宗教的な観念を含んでいるか。