神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

なぜ東方閃電の急伸展の勢いは止まらないのか

2019-06-29 20:08:50 | 書籍

主イエスは「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイ24:27)と仰せられました。東方閃電─終わりの日のキリスト・全能神─がその働きを行うために中国に出現されて以来、全能神の御国の福音はたった10数年の間に中国本土全体に広がりました。今や、それは西洋の多くの国や地域に広がり、様々な宗派を根底から震撼させ、世界中で波紋を呼んでいます。しかし、宗教界の指導者たちを最も悩ませる問題はこれです。宗教界の牧師や長老たちが、全力で東方閃電に反抗し、中傷し、非難し、彼らの教会を抑圧し、中共政府と共謀までして、全能神教会のキリスト教徒を逮捕し、迫害しているのに、良い人柄を持ち、主を真に信じる様々な宗派の信者は、なぜ次々に全能神を受け入れついて行くのか?サタンの勢力の両腕である中共政府と宗教界による必死の反抗と迫害を前にしながら、なぜ東方閃電は潰れも衰えもしない上に、逆に芽が雨の後に成長するように栄えて勢力を増し続け、妥協なく抑えようのないほど急伸展しているのか?

実のところ、その理由を探るのは難しくありません。この問題を検討する前に、まず主イエスの働きを見てみましょう。そうすれば自ずとその答えが見つかります。主イエスが現れ、その働きをなさった時、主はユダヤ人の祭司長、律法学者、パリサイ人たちの必死の反抗と非難に遭いました。彼らはローマの為政者と共謀してイエスを十字架につけさえして、虚しくも主イエスの働きを禁じようとしました。ではなぜ主イエスの福音はユダヤ全土に広がり、異邦人の耳にまで知れ渡ったのでしょうか?ローマの為政者は300年間、キリスト教徒を激しく迫害し、虐殺しました。ではなぜキリスト教徒の数は減少するどころか、逆にこの迫害を通して成長、発展し、ローマ帝国の隅々、そして世界中に広がったのでしょうか?それは、主イエスが肉に現れた神、神の出現であり、主イエスの働きと言葉が神の働きと御言葉からであり、それゆえに誰も主イエスの福音の広がりを止めることもなくすこともできなかったのです。聖書では「その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」 (使徒行伝5:38-39)と言われています。つまり、神から来るものはすべて繁栄し、人から来るものは確実に衰退するのです。全能神の御言葉に、「私たちは、いかなる国家も勢力も神が果たそうと願うものの前に立ちはだかることはできないと信じている。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)とあります。同様に、もし東方閃電が唯一の真の神の出現と働きでなければ、宗教界や無神論の中共政府が次から次へと仕掛ける妨害や反抗や迫害を鉄壁の要塞のように突破することも、中国全土や世界の他の国々に急速に広がることもできたでしょうか?もしそれが聖霊の働きに導かれたのでなければ、「もろもろの民をこの山(主の家の山)に流れ」させ、全ての宗教を一つにする権威と力を持っているでしょうか?もしそれが神の出現と働きでなければ、様々な宗派の真の信仰者、良き羊や先導羊たちを征服し、強固な心で従わせるための真理を表し、裁きを下すことができたでしょうか?以上の事実は、東方閃電が証しする終わりの日のキリスト・全能神が再臨した主イエスであり、確かに終わりの日に現れて働いた神であることを証明するのに十分である。それゆえに東方閃電は、中共政府と宗教界の必死の迫害と残酷な抑圧に直面しながら、誰にも止められない勢いで急伸展できるのです!

私たちは次の事柄にも注目すべきです。恵みの時代における弟子たちがユダヤ教にもローマの為政者にも激しく迫害されながら主に従うことができたのは、何よりも主イエスが非常に多くの真理を表し、天国の奥義を明らかされたからです。また、人々は主の言葉に神の御声を聞き、主イエスがキリストであり、来たるべきメシアであると認めたので、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。」(ヨハネ6:68)というペテロの言葉通り、固い決意で主に従い、主の証しを広めることができたのです。終わりの日に全能神は、人々が清めを得て救われることを可能にする真理を全て表し、神の家から始まる裁きの働きを行われました。これらの御言葉は聖霊が諸教会に言うことであり、それらは黙示録で預言されているように子羊に開かれた巻物と七つの封印です(黙示録5:2-10参照)。終わりの日のキリスト・全能神が数百万もの御言葉を発して明らかにされたのは、神の6000年の経営計画の全ての奥義、人類を救うための神の三段階の働きにおける目的、神の働きの各段階の背景と内幕と本質、聖書の内幕と神の受肉の奥義だけでなく、いかにサタンが人類を堕落させているか、いかに神が人類を救われるか、神がいかに裁きの働きをなさるか、人々がいかにそれぞれの種類によって分類されるか、人類の結末と終着点、そしてキリストの御国がいかに実現されるかといった数々の真理です。これらの御言葉は単に人々の目を楽しませ、人々の視野を広げるだけでなく、人々に神の働き、神の性質と本質を理解させてくれます。また、神の御言葉のおかげで、私たちは性質の変化を遂げることができ、清められるのです。そして正に神の御言葉には、私たち堕落した人々が救われ完全にされるために必要な真理を全て含まれています。神の羊は神の御声を聞くのであり、謙虚に従い神の出現を渇望する信者たちは、真の道を求め学ぶうちに、全能神の御言葉に徹底的に征服されました。彼らは、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代という三段階の働きが一つの神の働きであると確信したのです。彼らは、神の真の働きと御言葉が比類のなきものであり、人類の考え出したいかなる理論や知識でも代用できないことが真にそして明確にわかったのです。神の御言葉は真理の表れであり、それらは受肉の全能神がまさに終わりの日に再臨した人の子であり、唯一の真の神の出現であることを確証しています。それゆえに、全ての人が全能神の前にひれ伏し、全能神を自分たちの父と認め、最後まで従うことを誓うのです。困難や苦難をもはや恐れず、全能神に従う真に信仰熱心な人々が増えているのはそのためです。

さらに、なぜ中共と宗教界の野蛮な迫害と残酷な抑圧の中でも東方閃電の進歩が止まることを知らないかを理解するための鍵は、神を知り神の働きを知ることです。全能神の働きを落ち着いた心で求め学び、全能神によって表された言葉を読み、神の6000年の経営計画全体における三段階を理解することができれば、終わりの日のキリスト・全能神がなされた裁きの働きが、律法の時代におけるヤーウェ神の働きと恵みの時代における主イエスの働きという土台の上に築かれたことが容易に分かります。そこには神の働きの以前の二段階との矛盾はなく、むしろ全ての段階は互いに補完し合い、それぞれに果たすべき役割があり、互いに密接につながっており、徐々に継続しています。働きの三つの段階は一つの神の働きです。 ヤーウェ、イエス、全能神は一つの神、天、地、万物を創造した神ご自身です。

律法の時代を例に考えてみましょう。神は、人が罪とは何か、いかに神を崇拝すべきかを知るように、モーセを用いて神の律法と戒めを宣布して人の地上での生活を導かれました。律法の時代の後期になると、人類はサタンによってますます深く堕落してしまい、皆否応なしに罪を犯し続け、律法を守ることができずにいました。人類は、その罪が日々増長するにつれて、罪の供え物を捧げることが少なくなり、避けられない罪の罠に陥りました。次第に神に対する畏敬を失い、盲目で不具の家畜をヤーウェ神の聖なる祭壇に捧げるようにまでなったため、律法の呪いの下で死ぬ危険が迫りました。こうした事情を背景として、神が人を救うためには新たな段階の働きが必要となったのです。これは、創造主である神ご自身のみが、堕落し退廃した人類を救うことができるからであり、そのため神は肉となり、主イエスの姿をして現れ、恵みの時代の贖いの働きを始められたのです。神は人類の罪を背負って、人類のための罪の供え物として十字架にかかり、そうして人類の罪を永遠に免じられたのです。主イエスはその追随者たちに、人を赦し、寛容であれ、隣人を自分たちのように愛せよ、十字架を負って私について来なさいと教えられました。またパンを割けること、ぶどう酒を飲むこと、他人の足を洗うこと、自分の頭を覆うことを人々に教えられました。主イエスは人々に、より多くの真理を実践せよと仰せられ、律法の時代に求めていたことよりも多くのことを求め、人が新たな時代において進むべき方向性を与えられました。人々は主イエスを信じて、主に罪を告白して悔い改めている間は、主の十分な恵みを享受し主の贖いを得ることができました。主イエスは恵みの時代の働きをもたらし、2000年を超えた律法の時代を終えられました。それは律法の時代における神の働きという土台に基づいて行われた、より新しくより高次元の働きでした。

私たちは主を信じると、罪を赦され、信仰によって義とされ、救われますが、これは私たちが罪なしになったのではなく、神が私たちを罪人と見なされないことを意味します。それでも私たちは罪を犯すことが多く、絶え間ない罪と告白と悔い改めの悪循環に陥っています。私たちは実際には罪の縛りを破っていません。そしてしかるべき状況になると、私たちの傲慢さと己惚れ、名声と富を狙う心、よこしまさと欺瞞、嘘つきや狡猾さといった、堕落したサタン的な性質が否応なしにさらけ出されます。「なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。」(ローマ7:18)というパウロの言葉通り、私たちはどうしても罪を犯して主のお怒りに触れてしまうのです。明らかに、私たちは主イエスを信じ、罪を赦されても、完全に神のものになったわけではありません。それは、これらの罪の背後にある根本原因、すなわち神に反抗し裏切る私たちのサタン的な性質が解消されていないからです。このように、たとえ神が私たちの罪を覚えておられず、私たちをそれぞれの罪に従って扱っておられないとしても、私たちは肉の中に生きており、自分たちの罪深い本性を捨て去る術がありません。たとえ私たちの罪が1000回や10,000回赦され、恵みの時代がもう2000年続いたとしても、私たちは依然として罪を犯し、神に逆らって裏切るでしょうし、自分たちの罪深い本性の縛りを破れないでしょう。ですから、堕落した人類がサタンの影響から完全に救われるには、神にはより深く徹底的なもう一つの働きの段階を自ら行わって頂かなければなりません。その働きによって、人のサタン的な性質と罪深い本性を完全に解消され、人は完全にサタンの影響を捨てて、神のものになれるのです。それゆえに主イエスは再臨すると約束し、人のためにより完全な救いを用意すると預言されたのです。

事実、聖書には終わりの日における神の救いについての預言が含まれています。ペテロの第一の手紙第1章5節には、「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。」とあります。この聖句では、主イエスに従う我々に、神は終わりの日の救いを用意してくださったと明らかにこう預言されています。では、この終わりの日の救いとは実際には何なのでしょうか? 聖書ではこう言われています。「さばきが神の家から始められる時がきた。」(1 ペテロ4:17) 「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネ 12:48)「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。…』」(黙示録14:6-7).これらの聖句から私たちは、「永遠の福音」とは神の家から始まる裁きの働きを指し、神が人を裁き清めるためにつるぎのように鋭い言葉を用いられていることがわかります。これはまさに黙示録に記されている大きな白い玉座の前の裁きであり、それは羊をヤギから、小麦を毒麦から分け、それぞれをその種類ごとに分けて、人々の結末と終着点を定める働きです。全能神は仰せられます、「『裁き』という言葉を聞けば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉と、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉を思い浮かべるだろう。こうした言葉は非常に厳しいものだが、神の人に対する裁きの言葉ではない。こうした言葉は、いろいろな状況、つまりそれぞれ異なる背景で神が語った言葉にすぎず、神が終わりの日に人を裁くときにキリストが語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より)私たちは神の御言葉から次の事柄が理解できます。終わりの日に、神は裁きの働きを行い、人類を裁き、清め、救う真理を全て表し、全ての人々に神の働き、性質、神であるものと神が持っておられるものをお知らせになります。そしてさらに神は、人がサタンによる堕落のために持っている堕落した性質の全てと、人の堕落の実態とを明らかにし、裁かれます。 こうして人は神の御心をよりよく理解し、神についての真の認識を持つことができ、サタンによる人類堕落の原因と実質を真に理解できます。さらに、人は裁きの働きによって、終わりの日のキリストから授かった真理、道、いのちを真に得ることができます。こうして人の古い考えや性質が変わり、それらから人の罪深い本性が完全にぬぐい去られ、人は真理と人間性を持ち、真に神に従い、真の人間らしく生き、神の救いを完全に獲得し、神のものとなるのです。全能神の裁きの働きは、主イエスの贖いの働きという土台の上に築かれたより徹底的な救いであり、それはまた神の6000年にわたる経営計画を完了させる働きの最終段階、即ち人を征服し完全にする働きでもあります。これこそ神が私たちのために用意し、終わりの日に明らかにされた完全な救いなのです。

兄弟姉妹たちよ、今回の交流はここまでですが、これであなたがたは、なぜ東方閃電が中共政府と宗教界による執拗な迫害にもかかわらず、依然として誰にも止められない進歩を遂げているのかをある程度理解できたと私は信じます。それは、東方閃電が終わりの日における神の出現と働きだからです。全能神は救い主、即ち終わりの日のキリストの到来なのです。全能神の裁きの働きは、全ての真の信仰者たちが長い間待望してきた、終わりの日に現れる救いです。それゆえに、全能神の御国の福音は中国本土の至るところに急速に広がり、さらに世界のあらゆる国々に波及することができました。親愛なる兄弟姉妹たちよ、神の出現と働きを前に、あなたはどのような選択をするべきですか? 主イエスは言われた、「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネ10:27)。分かっているならば、何を待っているのでしょうか?


真の携挙とは何か。

2019-06-28 11:45:53 | 書籍

参照聖書箇所

「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)

「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである。」(ヨハネの黙示録 19:9)

関連する神の言葉

「『引き上げられる』とは、人間が想像するように低い場所から高い場所へと連れて行かれることでは無い。それは大きな間違いである。引き上げられるとは、わたしが予定し、選択することを指す。それは、わたしが予め定め、選んだ者たち全てを対象とする。…このことは、人間の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家に入ることのできる者は皆、わたしの前で引き上げられた者である。これは絶対に真実であり、決して変わることが無く、誰も反論できない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予定した者は誰でも、わたしの前で引き上げられるのだ。」

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

真の携挙

「フィラデルフィアの教会が成立したのは、ひとえに神の恵みと憐れみのおかげであった。聖徒たちは神への愛を示し、自分たちの霊的な道から外れることは決して無かった。唯一の真の神が肉となったこと、神が万物を支配する宇宙の長であることを固く信じなさい。それは聖霊により確証された鉄則である。それが変わることは、決して有り得ない。

…………

あなたは今日全ての教会、すなわちフィラデルフィアの教会を完成させました。それはあなたの六千年にわたる経営(救いの)計画が実現されたものです。聖徒たちは今、あなたの前で謙って服従出来るようになりました。彼らは霊において互いに結ばれ、愛の中を共に歩みます。聖徒たちは泉の源に繋がっています。生けるいのちの泉は絶えることなく流れ、教会のすべての穢れと汚泥を洗い流して浄化し、あなたの宮を再び清めます。わたしたちは実践的な真の神を知り、神の言葉の中を歩み、自らの役割と本分を認識し、自らを教会のために費やすためにできる限りのことを行いました。あなたの意志がわたしたちのうちで妨げられないように、わたしたちはいついかなる時もあなたの前に静まり、聖霊の働きに心を留めるべきです。聖徒たちの間には互いへの愛があり、ある聖徒たちの長所は他の聖徒たちの短所を補う。いかなる時も霊によって歩み、聖霊の啓示と明察を得なさい。真理を理解し、それを直ちに実行に移しなさい。新たな光に遅れることなくついて行き、神の足跡をたどりなさい。

…………

積極的に神と協力し、協調して仕え、一体となりなさい。全能神の旨を満たし、いち早く聖い霊の体となり、サタンを踏みつけ、その命運を終わらせなさい。フィラデルフィアの教会は神の前で携挙され、神の栄光のうちにその姿を現す。」

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

「主イエス・キリストに従う他の何億人もの人々と同じように、私達も聖書の律法と戒めに従い、主イエス・キリストの豊かな恵みを受け、主イエス・キリストの名の下に集まり、祈り、賛美し、仕えている。そして、これら全てを私達は主の配慮と加護の下に行っている。私達は時として弱くなったり、強くなったりするが、自分達の行動のすべては主の教えに従うものであると信じている。言うまでもなく、天の父の心にかなう道を歩んでいることも信じている。私達は主イエスの再来を、その輝かしい降臨を待ち望み、また地上における命の終り、神の国の出現、そしてヨハネの黙示録に予言されていることが全てその通りに実現することを待ち望んでいる。つまり、主が到来し、災いをもたらし、善人をねぎらい、悪人を懲らしめ、そして主に従い、主の再臨を歓迎する全ての人々を天に引き上げ神に会わせる。このことを考えるたびに感動せずにいられない。この世の終りに生まれ、主の来られるのを幸運にも見ることができることに感謝する。確かに私達は迫害の苦難を受けているが、それは「永遠の重い栄光をあふれるばかりに」を受けるための代償なのだ。何と素晴らしい祝福だろうか。この切なる願望と主によって授けられた恵みによって、私達は落ち着いた心でひんぱんに祈ることができるし、さらにひんぱんに集うのである。もしかしたら来年、明日、いや、ひょっとしたらもっと早く、誰も予期していないときに、主は突然やって来て、主をひたすら待ち望んでいる人々の集団のもとに現れるかもしれない。主の出現を見る最初の集団となるために、天に引き上げられる人々のうちの一人となるために、遅れを取りたくないから皆我先にと争っている。

…………

神は沈黙していて、私達に姿を現したことはない。しかし神の働きは止むことがない。神は全世界を見ているし、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神の経営は計画に従って段階的に行われる。それは静かにまた特に驚くような成果もなく進行するが、神の歩みはますます人類に接近し、神の裁きの座が電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座も私達のもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげているライオンのように、聖霊は私達すべてのもとにやって来る。神は賢く、義に満ちて、威厳がある。神は権威を持ち、愛と哀れみに満ちて私達の間に静かにやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰も神を歓迎せず、その上、誰も神がこれからしようとしていることをまったく知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神は、神に従う取るに足らない者として、平凡な一信者として、普通の人のように私達の間に生きている。神には神が従事するものごとや目標があり、その上に普通の人にはない神性を有している。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も神と人の本質の違いを見抜いていない。.…

…………

それでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが私達を救うための新しい働きを行っているのだ。この人は私達のために何も明らかにすることはないし、来た理由を説明することもない。単に為すべき仕事を段階ごとに、自分の計画に沿って行うだけである。彼は益々頻繁に声を発し、発言するようになる。それは、慰め、励まし、忠告、警告などから、非難や懲らしめまである。穏やかで優しい口調から、荒々しく威厳ある言葉使いまであり――どれもが人に哀れみと戦慄を注ぎ込む。彼が言うことは全て、私達の中に深く隠された秘密に命中し、それは私達の心を突き刺し、霊を突き刺し、私達を恥ずかしく、みじめな気持ちにする。…

私達が知らないうちに、この小さな取るに足らない人は私達を神の一つ一つの働きの段階へと導き入れてきた。私達は数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。私達は神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と哀れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じ、神の愛らしさを実際に目にし、そして人類を救いたいという神の強い願いを見る。この平凡な人の言葉を通して、私達は神の性質と本質を知り、神の心を理解し、人の本性と本質をも知り、そして救いと完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は、私達を死なせ、また復活させる。その言葉は安らぎを与えるが、罪悪感と恩義の感情で私達を苦しませもする。その言葉は、私達に喜びと平安をもたらすが、大きな痛みも与える。私達は、時にはその手によって屠られる子羊のようであり、時にはその最愛のものであり、その愛と好意を享受する。時には私達はその人の敵のようでもあり、その怒りのまなざしによって焼かれ灰にされる。私達は彼に救われる人類であるが、その目には蛆のようでもあり、彼が日夜見つけることを考えている迷える子羊である。彼は私達に対し慈悲深くもあれば軽蔑もし、私達を立ち上がらせ、慰め励まし、私達を導き啓示し、刑罰を与え懲らしめ、私達を呪いさえする。彼は、昼も夜も私達のことを心配し、昼も夜も守り、気にかけ、決して私達の傍を離れず、その心血の全てを私達に注ぎ、私達のためならいかなる代償も払う。この小さくて平凡な肉体から出る言葉の数々の中に、私達は神の全てを享受し、神が私達に与えた終着点を見た。……

神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私達にもう一度命を授け、私達が光を見えるようにし、そして私達の心がさまようのを止めてくれたのだ。私達は神の家に帰り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔をこの目で見て、この先にある道を見た。その時、私達の心は完全に彼に征服された。私達はもはや彼が誰であるか疑わず、その働きや言葉にもはや反抗することもなく、彼の前に完全にひれ伏す。私達の望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、神の恵みと私達への愛に報い、神の指揮と計画に従い、神の働きに協力し、神が私達に委ねたことを完成するためにできる限りのことを行うことだけである。

…………

私達は、堕落したサタンのような性質を持っている人のごく普通の集団で、ずっと前から神によって既に運命が決められていた、神が掃きだめからすくい上げた貧しい者である。私達は、かつて神を拒絶し、糾弾したが、今は神に征服されている。私達は、神よりいのちを受け、そして永遠のいのちの道を授かった。私達がこの地球上のどこに居ようとも、迫害や試練を受けても、全能神の救いから離れることはできない。なぜならこの神こそ私達の創造主であり、唯一の贖い主であるからだ。」

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より


七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言

2019-06-26 23:57:09 | 書籍

わたしは異邦人国家にわたしの働きを広めている。全宇宙にわたしの栄光は閃く。わたしの心はあちこちに散らばる人々の中に現れ、みなわたしの手によって誘導され、わたしが与えた作業をしている。この時点からわたしは新しい時代へと入り、全ての人々を別の世界へ連れて行く。わたしが自分の「故郷」へ戻ったとき、わたしの最初の計画にある働きの別の部分に着手した。その働きにより、人々がわたしをより深く知るようになるためだ。わたしは宇宙全体を眺め、わたしの働きにとっていちばん良い時だと知る[a]。そしてわたしは、人々の中で新しい働きをするため、あちこちを巡る。いずれにしろこれは新たな時代であり、わたしは、もっと多くの新しい人々を新たな時代へ引き入れ、淘汰すべき者達をさらにより多く投げ捨てるために新しい働きをもたらした。大きな赤い竜の国家にあって、わたしは、人々には測り難い段階の働きを実行し、彼らを風の中で揺れさせる。その後、多くの者が吹く風によって静かに漂い去る。まさにこれが、わたしが一掃しようとしている「脱穀場」だ。それがわたしの願いであり、それはわたしの計画でもある。というのは、わたしが働いている間に多くの「悪い者」が静かに忍び込んだからだ。しかしわたしは急いで彼らを追い払いはしない。むしろ、適切な時が来たら、彼らを追い散らす。そうしてはじめて、わたしはいのちの泉となり、真にわたしを愛する人々がいちじくの実やゆりの香りをわたしから受け取れるようにする。サタンがとどまる地、塵の地には、砂があるのみで純金は残っていない。だから、このような状況を見て、わたしはこのような段階の働きを実行する。わたしが獲得するものは砂ではなく、精錬された純金であることを、あなたがたは知らなければならない。悪い者がどうしてわたしの家に残っていられるだろう。狐がわたしの楽園の寄生動物になるなど、わたしが許すだろうか。わたしは考えつくすべての方法でこれらのものを追い払う。わたしの心が表されるまで、わたしが何をしようとしているかを知る者は一人もいない。この機会をとらえて、わたしはこの悪い者たちを追い払うので、彼らはわたしから去るしかない。わたしは悪い者たちに対してこのようにするが、彼らがわたしのために仕える日はまだあるだろう。人々の神の恵みへの欲望はあまりに強すぎる。だからわたしはからだの向きを変え、わたしの栄光に満ちた顔を異邦人の諸国に見せ、人々がみな自分の世界に住み、自らを裁くようにする。そうする間に、わたしはわたしが言うべき言葉を言い続け、人々が必要とするものを与え続ける。人々が我に返るころには、わたしはわたしの働きをずいぶん広めていたことになるだろう。それからわたしは、人々にわたしの心を表し、わたしの人間に対する働きの二番目の部分に着手する。そして、わたしの働きに協力するために人々がわたしにしっかりと付き従うようにし、わたしのすべき働きを共に行うために、人々が能力の限りを尽くすようにする。

誰一人としてわたしの栄光を見る時が来ると信じるものはいない。そしてわたしは人に強要もしない。それよりは、わたしは人々の中からわたしの栄光を移し、他の世界へ持っていく。人々が再び後悔するなら、わたしは信仰を持つより多くの人々へわたしの栄光を示す。これがわたしの働きの原則である。わたしの栄光がカナンの地を去る時があるからであり、わたしの栄光がわたしに選ばれた者から去る時もあるからである。さらに、わたしの栄光が全地を去る時がある、その時、光は暗くぼやけ、暗闇へ陥る。カナンの地にさえ太陽は照らさないだろう。すべての人々は信仰を失うが、誰一人カナンの地の香りから去ることには耐えられない。わたしが新たな天と地へ進む時になってはじめて、わたしの栄光のもうひとつの部分を取り上げ、それをまずカナンの地で現す。そうすると夜の真っ暗闇の底に沈んだ全地にかすかな光が輝き、全地をその光のところに来させる。全地のあらゆるところの人々を来させ、光から力を得られるようにし、わたしの栄光が増し、全ての国々に新たに現れるようにしよう。わたしがずっと前に人間の世界に現れており、ずっと前にわたしの栄光をイスラエルから東方へもたらしたことをすべての人々に気づかせよう。なぜならわたしの栄光は東方から輝きを放ち、恵みの時代から今日までもたらされたからである。しかし、わたしが出発したのはイスラエルであり、そこから東方に到着した。東方の光が徐々に白く変わるとはじめて、全地の暗闇は光に変わり始める。そしてその時になってはじめて、人はわたしがずっと前にイスラエルを去っていて、東方で新たに現れるのだと知るだろう。わたしは以前イスラエルへ下り、その後そこから立ち去った。そのため[b]、わたしは再びイスラエルに生まれることはできない。なぜならわたしの働きは宇宙のすべてを導き、さらに、稲妻が東から西へひらめき渡るからである。だからわたしは東方へ下り、カナンの地を東方の人々にもたらしたのである。わたしは地上のすべての人々をカナンの地へ連れて行きたいと願う。それ故わたしは全宇宙を支配するため、カナンの地で声を発し続ける。この時、カナンの地以外はどこにも光はなく、すべての人々は飢えと寒さにさらされている。わたしはわたしの栄光をイスラエルに与え、その後その栄光を移す、そしてイスラエルの人々を東方へ連れて行き、すべての人々を東方へ連れて行った。わたしは彼らをみな「光」へと導いた、彼らが光と再会し、光と交わり、それ以上探す必要がないように。わたしは探し求めているすべての者が再び光を見て、わたしがイスラエルで持っていた栄光を見られるようにする。わたしはずっと前に白雲に乗って人々の間に降ったことを彼らが理解するようにし、無数の白い雲と豊かな果実、さらにはイスラエルの神ヤーウェを見るようにしよう。わたしは、彼らがユダヤ人の「先生」、待望のメシア、そして歴代の王たちによって迫害されてきたわたしの完全な姿を見上げるようにする。わたしは、全宇宙の働きを行い、偉大な働きをし、わたしの栄光のすべてとわたしの業すべてを、終わりの日に人々に表す。わたしは、わたしの栄光に満ちた全容を、長年わたしを待った人々、わたしが白雲に乗って下るのを熱望してきた人々、わたしが再び現れるのを熱望してきたイスラエル、そしてわたしを迫害するすべての人類に見せる。それによって、すべての者はわたしがずっと前にわたしの栄光を取り去ってそれを東方へもたらしていたことを知るだろう。それはもはやユダヤにはない、なぜなら終わりの日はすでに来ているからである。

宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々と教派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。「贖い主」が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の「オリーブ山」に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、「ユダヤ人の息子」ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた「赤児」である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。


東方閃電はどこに由来するのか

2019-06-24 22:59:17 | 書籍

私たちは今、主の再臨の預言が基本的には成就している終わりの日を生きています。そして何千もの敬虔な信者たちが、主イエスの再臨を待ち望んでいます。しかし同時に東方閃電は、主イエスは終わりの日の受肉をし、全能神として既に再臨しており、神の家族から裁きの働きを既に始めているという証を告げ知らせています。東方閃電の現れは、心から神を信じ、真理に飢え渇くすべての人々のみならず、宗教界全体を揺るがせています。全能神の言葉と働きを追い求め、研究することを通して、全能神が主イエスの再臨であることを多くの人々が認め、1人また1人と、全能神の御前に来ています。このことは宗教界の牧師たちや長老たち、中国共産党政権をパニックに陥れました。東方閃電を迫害し、法的に追放するため、宗教界の牧師たちや長老たちと中国共産党政権は共謀し、数々の噂を作り上げ、東方閃電を異端と呼んで激しく非難、中傷を行い、終わりの日の全能神の出現と働きを求め、研究したいと望む忠実な信者たちに妨害を加えて嫌がらせをしています。当時、ユダヤ教世界はローマ政府と同盟関係にあり、主イエスの残酷な迫害という歴史的悲劇を繰り返しました。全能神が主イエスの再臨であるかどうか、そしてそれが神の働きであるかどうかについてはさまざまな説明や異なる見解があります。否定や糾弾をする宗教界の牧師や長老たちに続く人もいれば、東方閃電は聖書の主イエスの預言に関係があると信じる人もいます。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイによる福音書24章27節)。そして、それは終わりの日の人の子の出現にも関係すると信じているのです。では東方閃電は実際にはどこから現れるのでしょうか。それは神の働きなのでしょうか。それはどのような神秘を伴うのでしょうか。

神の働きを理解するすべての人々は、その働きがかつてない新しいものであり、決して進歩を止めないことを知っています。ちょうど、神が霊を通して働き、人類の地上の生活を導く律法を与えた律法の時代のように。そして恵みの時代には、神は受肉し、人の子として現れ、主の働きを行い、病人を癒し、悪魔を追放し、多くの奇跡的な行いをし、次の言葉に示されている悔い改めの道を表しました。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書4章17節)。 その後、十字架につけられ、全人類を贖うという主の働きを完成させました。しかし、人々は神の働きを知らず、傲慢で自己中心的なサタン的な性質を持っており、非常に独善的で、頑なで強情であり、ついには真理に飽き、真理を憎むようになるほどまで観念と想像に固執しているため、神は新たな働きを行うたびに、権力と宗教界の野蛮な冒涜、迫害および非難に苦しまなければならないのです。神の新しい働きを宣べ伝え、証言する人々は、あらゆる形の罪状と不名誉な呼称のレッテルを貼られるだけでなく、残酷な迫害を受ける場合もあります。この事実は新約聖書に記録されています。守ることのできない律法を破り、罰を受ける危険から人類を救うため、神は主イエスの像として受肉し、恵みの時代に贖いの働きを始めました。主イエスがユダヤで働きを行っていた時、多くの奇跡的な行動をし、病人を癒し、悪霊を追い払い、豊かな恵みを人類に授け、数多くの真理を表現しました。このことは、主イエスが神自身であり、イスラエル人が長く待ち望んだメシアであることの証明として十分です。しかし、ユダヤ人の祭司長たち、律法学者たち、そしてパリサイ人たちは頑固に宗教的な考えに固執し、イエスこそ彼らが長い間待ち望んでいたメシアであると信じることをひたすら拒みました。それどころか、聖書のいたるところからイエスに反対する根拠として使える記述を探し出し、主イエスの働きを異端扱いし(使徒24:14参照)、そしてイエス自身を「ナザレ人らの異端のかしら」と呼んで(使徒24:5参照)、中傷し、裁き、非難したのです。彼らはユダヤ人をだまし、煽り立てて主イエスを非難させたうえ、ローマ政府と同盟して彼を十字架にかけて苦しめました。それゆえ、ユダヤ人の国全体が神の性質に背き、かつてない破壊がもたらされることになりました。それゆえ、宗教界と権力者たちから非難され抵抗されることは必ずしも間違っているわけではなく、それは神から来たことであり、神の働きである可能性は非常に高いと言えます。ですから、何かが神の働きであるかどうかを調べる際は、宗教界と権力者たちがそれを認め、受け入れているかどうかに基づいて判断を下すことはできません。律法の時代と恵みの時代に行われたあらゆる働きを見れば、何かが神の働きであるかどうかを決めるのは、主に、その表現されているものが真理であるかどうか、現時点でそれが緊急に人類に必要とされるものであるかどうか、そしてそれが聖霊の働きであるかどうかです。このようにして初めて、それが神の働きであるかどうかを本質的に見分けることができるのです。これは最も重要です。

終わりの日には、人類はますます深く堕落していきます。人間は完全にそのサタンのような堕落した性質の支配下にあり、無意識のうちにしばしば罪を犯し、昼間に罪を犯して夜になればざんげするような生活を送り、耐え難い痛みの中に生きています。人類はどんどん神から離れ、救いを得るという彼らの望みはさらに不確かになっていきます。罪を犯してはざんげし、ざんげしては罪を犯すような状況から人間を救うために、そして人間たちがそのサタン的な堕落した性質と罪深い束縛と足かせを徹底的に捨て去り、清められ、神の救いを得ることができるように、神は再び受肉し、真理を表現し、堕落した人類を裁き、完全に人類を清めて救う新しい働きを行われます。今回、神は世界の東方の中国で受肉して現れ、働かれます。神は恵みの時代を締めくくり、神の国の時代を始められました。神はかつてないほど高く豊かな真理をもたらし、世界の創造以来の神のすべての働きの神秘を明らかにし、人間を清めて救うであろうすべての真理を彼らに授けました。終わりの日に全能神の働きを受け入れる人々は、全能神が表現する言葉から多くの真理を理解します。彼らには、終わりの日に真理を表現する全能神が真に主イエスの再臨であることがはっきりと分かります。彼らは自身の堕落した性質と罪の根本原因を具体的に知るようになり、サタン的で堕落した性質を解決する道を見つけました。彼らの心は明るく、明晰です。神の言葉の裁き、懲らしめ、試練、そして精錬を経験することによって、彼らのいのちの性質は絶えず変化しています。彼らには救いの希望があり、神の良き聖なる本質と神の義と不可侵の性質について真の知識を持っています。彼らは、神が持っているものとその存在そのものについて実践的な理解と知識を得ています。例えば、神の全能性、知恵、権威などです。彼らは皆、神に対する信仰がもはや空でも不確実でもなく、むしろますます現実に近づいていくことを認識できます。彼らは近しく愛するように真に神を体験します。結果として神を畏れる心を起こし、神に真に従順し、神を思うようになります。そして彼らは皆、終わりの日の全能神の裁きの働きは確かに人間を清め、救うことをよく理解しています。終わりの日に、全能神の裁きの働きと清めの時は短く、その速度は稲妻のように速いのです。わずか20年の間に、神の国の福音は中国本土にくまなく広がり、勝利者の集団をつくり出し、今ではその福音は急速に世界のあらゆる方角のあらゆる国々へと拡大しています。これは具体的に主イエスの預言の成就です。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイによる福音書24章27節)。それにもかかわらず、宗教界の牧師たちや長老たちは頑なに宗教的な観念に固執し、人間の観念と相反する神の新しい働きに直面して、それを求めたり調べたりしないだけでなく、聖書を振りかざして神に反するのに利用できる間違いを探しています。終わりの日の全能神の働きを無謀にも裁き、非難して、全能神教会を異端の「東方閃電派」であるとして非難しているのです。彼らのふるまいや行いは、ユダヤ人の祭司長、律法学者、パリサイ人が主イエスを非難したときのふるまいや行いと全く同じです。彼らが終わりの日の神の働きを批判、攻撃して、神の足跡を追い、神の働きに従う人々を妨害するなら、彼らはキリストを否定し糾弾した現代のパリサイ人ということになりませんか? 彼らのふるまいの本質は、真理を憎み、聖霊を冒とくするものではありませんか? 全能神の現れと働きに対する宗教界の指導者たちの猛烈な非難もまた、完全に主イエスが再臨を預言した時の言葉の成就です。「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカによる福音書17章25節)。 

もし、全能神が言葉を語らず、神秘を明らかにしないならば、私たちは決して次の預言の意味を真に理解することはできないでしょう。「いなずまが東から西にひらめき渡る」。 全能神は言っています。「すべての人々が注意を払い、すべてのものが再生され復活し、あらゆる人がためらわずに神に服従し、神の重荷の重い責任を負おうとするのは、東から稲妻が現れ、東から西を照らし、この光の到来で地のすべてを畏怖させるときである。この瞬間、神は再び神の新しい生活を始める。……すなわち、東の世界では、神自身が証しされ始める時から、神が働きを始め、神性が地上で主権を発揮し始めるまでである。これは東の稲妻の輝く矢であり、宇宙全体をいつも照らしていた。地球上の諸国がキリストの国になる時は、宇宙全体が照らされる時である。東の稲妻が現れ、受肉した神が働きを始め、さらには神性の中で直接語るのは今である。神が地上で語り始めるときは、東の稲妻が現れるときと言える。正確に言えば、生ける水が玉座から流れ、玉座から発言が始まるのは、七つの霊の発言が正式に始まるときである。」(『言葉は肉において現れる』の「第十二章」より)「宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々や宗派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。『贖い主』が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の『オリーブ山』に降ったことも知るようになる。…なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた『赤児』である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。」(『言葉は肉において現れる』の「七つの雷が轟く――神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より)全能神の言葉から、終わりの日の神の働きと言葉は東方から閃く稲妻だということが分かります。「稲妻」は偉大な光であり、神の言葉、終わりの日の神の裁きと懲らしめの道です。「東方から閃く」という句は、中国から現れることを意味し、「西へひらめき渡る」は、西方に到達することを意味します。最後に、「人の子も現れるであろう」は、神が受肉することと最初の現れ、そしてその働きを東方の中国で始められることを指しています。そこで神は真に神を知る人々の集団を形成します。彼らは黙示録で預言されている勝利者たちです。そしてこの人々を通して、終わりの日の福音はすべての人々が終わりの日の神の救いを受けられるよう、西方にまで広がるのです。このことは今では達成され、誰でも分かる事実です! 東方の稲妻(中国における終わりの日の神の裁きの働きと同義)によって私たちは神が人間に授けたすべての愛と救いを受けられるようになり、神の真の顔を知ることができます。私たちの中に神に対する真の畏敬の念と賛美が起こります。稲妻のように、神の言葉は人間に光と希望を与えます。東方の稲妻、つまり終わりの日の神の働きを受け入れた人々は皆、このことの証人になることができます。

さて、これを読んだ皆さんは東方閃電の起源は何かという問いに対して明快な答えを得たことと思います。神は天地とすべてのものの創造主です。人間はサタンによって堕落したため、神は人間を救う働きを始められました。神は全宇宙のすべての人々が神の御業を理解し、信仰をひとつにして創造主を礼拝することを望んでおられます。そうすれば神は、神の出現を真に求め、その足跡をたどるすべての人に、清さと救いを達成させるでしょう。神は、みこころに従う人々を神の国に連れて行き、主と共に憩わせるでしょう。ですから、真に神を信じ、主イエスの再臨を待ち望む兄弟姉妹の皆さんそれぞれが、宗教的観念を退け、真の道を研究すべきです。真の道に盲目的に反対する噂に耳を貸さないでください。それは終わりの日には神の救いを失う結果になるからです。私たちは神の働きの段階に歩調を合わせ、神の足跡を忠実にたどらなければなりません。これが、最終的に神の救いを得て、神によって神の国に入れられる唯一の方法です。

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あなたと神との関係はどのようなものか

2019-06-19 13:13:16 | 書籍

神の信仰においては、少なくとも神と正常な関係を持つという問題を解決する必要がある。神との正常な関係がなければ、神を信仰する意義は失われる。神との正常な関係の確立は、神の存在によって心を鎮めることによって完全に実現される。神との正常な関係というのは、神のいかなる業をも疑ったり否定したりせずに従えるということ、そしてさらに、神の前で善意を持ち、自分を顧みず、何をしている時も、神の家族の利益をもっとも重視し、神の監視を受け入れ、神の采配に従うということを意味する。あなたは何をするときにも、神の前で自分の心を鎮めることができる。たとえあなたが神の心を理解していなくても、本分を尽くし、責任を果たすために全力を尽くす必要がある。神の心が明らかになるまで待ってから、それを実践しても遅くはない。あなたと神との関係が正常になったときには、あなたと人々との関係も正常になるだろう。すべては神の言葉という基礎の上に確立される。神の言葉を飲食することにより、神の求めに応じて行動し、自らの見解を正し、神に逆らったり教会の邪魔になるようなことをしたりしないようにしなさい。兄弟姉妹のいのちに役立たないことはせず、他の人々の役に立たないことを言わず、恥ずべきことをしないようにしなさい。何をする時にも、公正かつ高潔に、神に見られても恥ずかしくないようにしなさい。時として肉体が弱いことがあるとしても、あなたは自己の利益に固執することなく、神の家族に恩恵を与えることを最優先し、義を行う。あなたがこのように行動できるなら、あなたと神との関係は正常になる。

あなたが何かをするときには、常に動機が正しいかどうかを吟味する必要がある。あなたが神の求めにしたがって行動できるなら、あなたと神との関係は正常である。これが最低限の基準である。自分の動機を吟味した結果、間違った動機が出てきた場合でも、そのような動機に背を向けて、神の言葉に従って行動できるなら、あなたは神の前で正しい者になるだろう。それは、あなたと神との関係が正常であることを示し、あなたのすることのすべてが、自己のためではなく神のためであることを示すだろう。何かをしたり言ったりするときには、常に心を正して義にかなうようにし、感情に流されたり、自分の意志で行動したりしないようにしなさい。これが神の信徒が自らを律する原則である。人の動機や背丈は小さなことの中に現れる。したがって、神によって全きものとされる道を進むためには、人はまず自分自身の動機や神との関係をはっきりさせる必要がある。あなたと神との関係が正常になって初めて、あなたは神により全きものとなり、そうして初めて、あなたに対する神の取り扱い、刈り込み、訓練、鍛錬が望ましい効果を達成することができる。それはつまり、人々が自分の心の中に神を抱いて、個人の利益を追求せず、個人の将来を考えず(これは肉の思いを意味する)、いのちに入るための重荷を背負って、真理の追求に最善を尽くし、神の業に従うということだ。そうすれば、あなたの追求する目標は正しく、あなたと神との関係は正常である。神との関係を正すことは、霊的な旅を始めるための第一段階であると言える。人の運命は神の手の中にあり、神によってあらかじめ決められており、自分で変えることはできないが、あなたが神により全き者とされるかどうか、神のものとされるかどうかは、あなたと神との関係が正常かどうかによって決まる。おそらく、あなたには弱い部分や従順でない部分がある。しかし、あなたの見解や動機が正しい限り、そして、あなたが神との関係を正して正常な関係にしている限り、あなたには神によって全きものとされる資格がある。あなたが神と正しい関係を持たず、肉のためや自分の家族のために行動するなら、どんなに一生懸命に働いても、何の役にもたたない。あなたの神との関係が正常であれば、すべてがあるべきところに落ち着く。神が見ているのは、あなたの神の信仰についての見解が正しいかどうかだけで、それ以外は何も見ていない。あなたが誰を信じ、誰のために信じ、なぜ信じるか。あなたがこのようなことをはっきり認識し、自分の見識や実践を正すことができれば、あなたのいのちは成長し、あなたはきっと正しい道に進むことができるだろう。あなたと神との関係が正常ではなく、あなたの神の信仰についての見解が逸脱したものであるなら、それによってそれ以外のすべては台無しになるだろう。あなたがどのように神を信仰しても、何も得られないだろう。あなたと神との関係が正常な場合にのみ、あなたが肉に背を向けて、祈り、苦しみ、耐え、従い、兄弟姉妹を助けて、神により多く献身したとき、あなたは神に認められるだろう。あなたのやることが価値や意義を持つかどうかは、あなたの意図が正しいかどうかや、あなたの見解が正しいかどうかによって決まる。近頃の多くの人の神への信仰は、首を捻じ曲げて時計を見るようなもので、その視点はねじ曲がっている。ここを突破できれば、万事が好転する。これが解決されれば万事落着するが、解決されなければ、万事が無に帰す。神の前では行儀よく振る舞うが、見えないところでは逆らってばかりいる人もいる。これはねじ曲がった偽りの現れである。この種の人はサタンの奴隷であり、神を試す典型的なサタンの化身である。わたしの業と言葉にしたがうことができて初めて、あなたは正しい人となる。あなたが神の言葉を飲食し、神に見られても恥ずかしくないことしかせず、公正かつ高潔なことしかせず、恥ずべきことをせず、人々のいのちに害のあることをせず、光の中で生き、サタンに利用されなければ、あなたの神との関係は正常化される。

神を信じるにあたり、あなたは正しい意図と見解を正さなければならない。あなたは、神の言葉、神の業、神によって作られた環境、神によって証しされた人間、そして実践の神を正しく理解し、正しく扱う必要がある。あなたは、あなた個人の考えにしたがって行動したり、自分でささやかな計画を立てたりしてはならない。あなたは、あらゆることにおいて真理を求め、神の被造物の立場に立って、神のあらゆる業にしたがわなければならない。あなたが神によって全きものとなることを求め、いのちの正しい道に進みたいなら、あなたの心は常に神の前で生きなくてはならず、放蕩せず、サタンにしたがったり、サタンが働く機会を与えたり、自分を利用させたりしてはならない。あなたはあなた自身を完全に神にゆだね、神に支配してもらう必要がある。

あなたはサタンの奴隷になりたいか。あなたはサタンに利用されたいか。神によって全きものとされるために、あなたは神を信じ、神を追求しているか。それとも、神の業において引き立て役になるのか。あなたは神のものとされて、意味のある人生を生きたいか、それとも、価値のないからっぽの人生を生きたいか。あなたは神に使ってもらいたいか、それともサタンに利用されたいか。あなたは神の言葉と真理で満たされたいか、それとも、罪とサタンで満たされたいか。これを考えて、選り分けよ。あなたは日々の暮らし中で、自分の言った事やした事の中から、神との関係を異常にするようなものを把握し、自らを正し、正しい生き方を選ばなければならない。常に自分の言葉、行動、やることなすこと、考えや思い付きを吟味せよ。自分の真の状態を把握し、聖霊の業の道へ入ること。このようにすることによってのみ、神との正常な関係を持つことができる。自分と神との関係が正常かどうかを測ることにより、あなたは自らの意図を正し、人の本質を理解し、自分自身を理解することができるだろう。これを通して、あなたは実体験に入り、真に自分自身を捨てて、心から委ねることができる。神との関係が正常であるかどうかを経験するような問題において、神によって全きものとされる機会を見出し、聖霊が働いているような状況を理解し、サタンの策略や陰謀の多くを見抜くことができるだろう。このようにしてのみ、あなたは神によって全きものとなることができる。神との関係を正して、神の采配に全て従うべきである。そうすればあなたは、実体験により深く入り、聖霊の業をもっと多く受け取るだろう。あなたが神と正常な関係を持つことを実践しようとするとき、肉を捨てて、神に真に協力することを通じて実践可能になることが多い。あなたは「協力の心なしでは、神の業を受け取ることは難しい。肉の試練を経ない限り、神からの祝福はない。霊が葛藤しない限り、サタンが恥じることはない」ということを理解する必要がある。このような原則を実践しはっきりと理解すれば、あなたの神の信仰についての見識は正されるだろう。あなたがたは現在の実践において、「飢えを満たすために、パンを探す」という見方や、「すべては聖霊によって成され、人が介入することはできない」という見方を捨てる必要がある。このように話す人々はみな、「人はなんでもやりたいことができ、時が来れば、聖霊が働いて、人は肉を克服する必要も協力する必要もなくなり、必要なのは聖霊に人を動かしてもらうことだけである」と考えている。このような見解はすべてばかげている。このような状況では、聖霊が働くことはできない。聖霊の業に対する大きな障害になるのは、この種の見方である。多くの場合、聖霊の業は、人の協力を通して実現される。協力や決意もなく、人の性質を変え、聖霊の業を受け、神から啓示や啓蒙を得たいと思うのは、まったく虫の良い考えである。このような態度を、「自分を甘やかし、サタンを大目に見る」と言うのだ。このような人々は、神と正常な関係を持っていない。あなたは自分自身の中にサタンの現れをたくさん見つけた。そしてあなたの過去の行動の中には、神の現在の要求に反することがたくさんあった。あなたはそれらを今捨てることができるか。神との正常な関係を獲得し、神の意図にしたがって行動し、新たな人となって新たないのちを得、過去の罪を振り返らず、後悔しすぎず、立ち上がって神と協力することができる、そして、やるべき本分を果たす。このようにすれば、あなたと神との関係は正常になるだろう。

あなたがこのような言葉を読んだ後に、それを単に言葉通り受け止めるだけで、心を動かされなかったら、また、あなたが真剣に神と正常な関係を持とうとしていないなら、それはあなたが神との関係を重視していない証拠であり、あなたの見解はまだ正されておらず、あなたの意図は神のものとされることや神に栄光を帰すことに向けられておらず、むしろサタンの陰謀が蔓延ることや、あなたの個人的な目的を達成することを認める方向に向けられている。この種の人々は、全て間違った意図や見解を持っている。彼らは、神が何をどのように言おうが無関心であり、何の変化も見られない。彼らの心はまったく畏れを感じないし、恥じることもない。この種の人は、霊のない混乱した人である。あなたは、神のいかなる発言でも、読んで理解したら、実践に移すべきである。あなたがかつてどのように実践しようが(かつてあなたの肉は弱かったかもしれないし、反抗的だったかもしれず、反逆していたかもしれないが)、それは大きな問題ではなく、あなたのいのちが今成長することを妨げることはない。あなたが今日神と正常な関係を持つことができるなら、そこには希望がある。あなたが神の言葉を読むたびに、あなたが変わり、あなたの生活がよい方向に変わったと他の人々も認めるなら、それはあなたが神と正常な関係を持っていること、関係が正されたことを示している。神は、人々の罪を基準にして扱ったりしない。あなたが理解し認識した後、二度と反抗したり逆らったりしなければ、あなたにはまだ神の慈悲がある。あなたがこのことを理解し、神により全きものとなることを求める意志があるならば、あなたの神の前での状態は正常である。何をするときにも、必ずこう考えよ。「私がこれをやったら、神はどう思うか。それは兄弟姉妹にどのような影響を与えるか。」あなたの祈り、交わり、発言、仕事、人々との接触の意図を吟味し、あなたと神との関係が正常であるかどうかを吟味せよ。もしあなたが意図と意見がどのようなものであるか見分けることができないとすれば、あなたには判断力がないということであり、それはあなたが真理を知らなすぎるということを証明している。神の行うあらゆることを明確に理解し、神の言葉にしたがって物事を見て、神の側に立って物事を見ること。このようにすれば、あなたの見解は正されるだろう。したがって、神と良好な関係を築くことは、神を信仰する誰にとっても、最優先事項になる。これは誰もが、最も重要な課題として、また、人生における重要な項目として扱うべきである。あなたのやることはすべて、神との関係が正常であるかどうかに照らして判断する必要がある。あなたの神との関係が正常であり、あなたの意図が正しいならば、それをしなさい。神との正常な関係を維持するには、個人的な利益を失うことを怖れてはならず、サタンが蔓延ることを許してはならず、サタンが自分を操ることを許してはならず、サタンがあなたを笑いものにすることを許してはならない。このようなことを避けようとすることは、あなたと神との関係が正常であることの現れである。それは肉のためではなく、むしろ、魂の平安のためであり、聖霊の業を得るためであり、神の心を満たすためである。あなたが正しい状態になろうとするなら、神と良好な関係を築く必要があり、神の信仰についての自分の見解を正す必要がある。それは、自分を神のものとされ、神の言葉の実をあなたの中に示し、あなたをさらに啓発し啓蒙することを可能にする。このようにすれば、あなたは正しい道に進むだろう。神の現在の言葉を飲食し続けて、聖霊の業の現状に溶け込み、神の現在の求めに従って行動し、古臭い慣習に従う事を止め、物事の古いやり方にしがみつくのをやめ、現在の仕事のやり方に素早く溶け込むようにしなさい。このようにすれば、あなたと神との関係は完全に正常になり、神を信仰するための正しい道に進むだろう。