神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

キリスト教映画「美しき声」抜粋シーン(3)聖書以外に神の言葉や働きは存在しないのか

2020-04-27 00:01:58 | キリスト教映画

キリスト教映画「美しき声」抜粋シーン(3)聖書以外に神の言葉や働きは存在しないのか

神の言葉や働きはすべて聖書に記されており、それ以外には存在しないので、探す必要もないと、宗教界のほとんどの人が信じているが、このような考えを持ってなお、主の再臨を迎え入れることができるであろうか?主の語られる御言葉は聖書だけに限定されているのか?「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」(ヨハネによる福音書21:25)と、聖書にはある。神様は言われる。「聖書に記録されていることは限られており、神の働きすべてを表すことはできない。」(『言葉は肉において現れる』より)

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


質問1

2020-04-25 19:26:49 | 天の国の福音

主は終わりの日に、まずは肉として降臨され、勝利者のグループを作り、雲に乗り現れると、それは理にかなっています。だが2000年間、皆さんは主が雲に乗って来られるのを待ち望んできた。牧師や長老たちもよく言ってきた、我々が聖書の予言に従って待つことは間違いか?牧師や長老たちは皆主に仕える人々、彼らは皆主の再臨を、このように待っている、主がそんな牧師や長老たちを見捨てるのか?絶対にあり得ない!

 

解答: そう言われるにはどのような根拠をお持ちですか?仰ったことは主イエスの言葉に沿っていますか?神の言葉にもとづいていますか?人の思い込みや想像にもとづくものであれば、それは主に対する抵抗です。パリサイ人はどのようにしてメシアの到来を待っていたのでしょうか?主イエスを十字架につけた理由と併せて見てみましょう?当初、ユダヤ教のパリサイ人はメシアについてさまざまな考えをもっていました、彼らは聖書の予言を見ました。「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり……」(イザヤ書 9:6)「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。」(ミカ書 5:2)聖書にある予言の言葉の数々に加え、メシアの到来に関する長期的空想や推論にはこうあります。パリサイ人は、主は必ずメシアと呼ばれ、裕福な家庭に生まれると決めつけていた。さらに、彼はダビデのようでありイスラエルの王となり、ローマ政府の支配から解放してくださる。殆どのイスラエル人はこのように考えていたでしょう。しかし、神は彼らの考えや想像に沿って、これらを実現しなかったため、パリサイ人は主イエスに対してあらゆる言い掛かりをつけようとし主イエスを非難しました。その当時、主イエスは多くの真理を表し、多くの奇跡を働き、神の権威と力を十分に示しました。パリサイ人は主イエスの言葉がいかに深淵で、彼の権威がいかに偉大でも無視しました。彼らが持つ考えや想像にそぐわない限り、また裕福な家に生まれておらず、外見も質素で威厳がないとし、彼の名前がメシアでない限り、彼らは非難し抵抗しました。彼らの真理を憎む本性ゆえに、彼らは真理を表し、贖いの働きをなした主イエスを最後には十字架につけてしまったのです。皆さん、パリサイ人は忌まわしいですか?呪われるべきですか!主イエスに抵抗し非難したパリサイ人の罪は、真理を忌み嫌う彼らのサタン的な本性を完全に暴露しました。彼らの心はメシアにより、罪から救われることを心から願っていたわけではありません。では何を期待したのか?彼らはユダヤの王によってローマ政府の支配から切り離され、苦しまなくてもすむことを期待したのです。神を信じメシアの到来を期待したのは、彼らの個人的欲望を満たし地位を守りたいがためだけでした。考えてみましょう。メシアの到来を待つにあたりパリサイ人は、何の間違いを犯したのか?なぜ彼らは神により呪われ罰せられたのか?本当に考えさせられます。神の働きを行う主イエスに、パリサイ人はなぜ抵抗し非難したのでしょうか?パリサイ人の本性がどう示されていますか?神の出現を待ち望む人々は皆、この問題を理解すべきです!こうした問題を見抜けなければ、再臨の主イエスを迎えるにあたり、我々もパリサイ人と同じように神に抵抗することになる。

パリサイ人はどのようにメシアの到来を待ちましたか?なぜ彼らは主イエスを十字架につけたのでしょうか?これらの質問の根源は一体何でしょう?これから全能神が仰ることを見てみましょう!全能神は言われます。「あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根源を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから今日になっても未だに彼らはメシアを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからである。これほど愚かで頑固で無知な人々が、神の祝福を得ることなどあり得ようか。彼らがメシアを見ることなどできるだろうか。彼らは聖霊の働きの方向を知らなかったために、イエスの語った真理の道を知らなかったために、さらにはメシアを理解しなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみなメシアの名前をむなしく守りながら、どのようなことをしてでもメシアの本質に逆らうという過ちを犯した。これらのパリサイ人は本質的に頑固で、傲慢で、真理に従わなかった。彼らの神への信仰の原則は、『どれほど説教が奥深く、どれほど権威が高かろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない』というものである。これらの見方は不合理でばかばかしくないであろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より)全能神の言葉を読み、メシアを待つにあたり、主イエスに対するパリサイ人の抵抗の本質と原因が、明らかになりました。では主の再臨を迎えるにあたり、もし人が想像だけで主が雲に乗って戻ることだけを待ち、真理の追究や神の声を聴くことをやめたら、パリサイ人のように神に抵抗する道を歩んでいることになるのではないでしょうか?彼らの結末はどうなりますか?

全能神の国の福音は中国本土中に20年以上かけて広がり、様々な宗派や分派に広がっています。この間、中国共産党政府の取り締まりや共産党系メディアの宣伝活動が合わさり、全能神は今のように誰もが知る名前となったのです。後に全能神が表したすべての真理、全能神教会が作った様々なビデオや映画は、段々とネット上で公開され、世界に広がっています。全能神教会の多様な証しの方法につき、宗教界の人々は皆ご存知だと思います。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)宗教指導者や長老たちはどうして終わりの日における全能神の働きを非難し抵抗するのでしょうか?聖書には主の再臨に関する予言が多くあります、彼らはなぜ主が雲に乗り降臨するという予言に、固執するのでしょうか?彼らはなぜ主の再臨についての証しを求めようとしないのでしょうか?全能神が多くの真理を表していることを知り、神の働きの現実を見ているのに、なぜ終わりの日の神の働きに抵抗し、自分たちの考えに執着するのでしょう?彼らは果たして真理を愛し主の到来を待ち望んでいるのでしょうか?彼らは賢いおとめでしょうか?愚かなおとめでしょうか?彼らが賢いおとめであり、主の到来を待ちわびていれば、なぜ神の声を聞き、神の国の福音が広まっていると知っても、まだ頑固に非難し抵抗をするのでしょうか?彼らは主を待ちわびているのにこれが誠実さの現れなのでしょうか?これは主の再臨を喜ぶ彼らの真の表現なのでしょうか?率直に言えば結局、彼らの信仰と主イエス再臨への切望は偽りで、天国に入りたいという切望は現実なのです!真理を追求し、命を得るために主を信ずるのではなく、真理を得て罪から逃れるためでもありません。彼らの希望は何なのか?降臨された主に天国に連れて行ってもらうこと、肉の苦しみから逃れ、天国の祝福を享受すること、これが彼らが神様を信ずる本当の目的です!この理由以外に、人類を救う真理を表す全能神を彼らが拒絶する理由があるでしょうか?考えてみましょう。ある人が真理を愛し、神の出現を待ちわびているならば、主が来られたと聞いたときに、どうするでしょうか?耳を傾けず状況を見ず接触を避けるでしょうか?それを盲目に否定し非難し抵抗しますか?ないでしょう。神の出現を心から待ち望み歓迎する人ならば、真の光を待ち望み、真理と正義の支配を願うでしょう。彼らは神が人類を救うために来られ、罪から完全に逃れ、神のものとされることを望んでいます。主が雲に乗って来られることだけを待ち、全能神を否定し拒む者もいます。ことに自分の地位と生活を守るために 全能神を猛烈に非難し抵抗する宗教指導者たちは、真理を軽蔑し、真理を憎んでいる者たちと言えます。彼らは皆終わりの日の神の働きにより明らかにされた未信者や反キリストです。受肉された神がその救いの働きを終えた後は、これらの人々はめったにない災害に陥り嘆き、歯ぎしりをするでしょう。そして、雲に乗って公に現れる主についての予言は完全に成就される。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(ヨハネの黙示録 1:7)

全能神の言葉を一緒に見ていきましょう。「真理を受け入れず白い雲に乗ったイエスの再臨を盲目的に待つ人々は、確実に聖霊を冒涜することになり、彼らは滅ぼされる種類である。あなたがたは単にイエスの恵みを望んでおり、この上なく幸せな天国を楽しみたいだけであるが、イエスの語る言葉に従ったことはなく、肉に戻ったイエスが表した真理を受け入れてこなかった。あなたがたはイエスが白い雲に乗って戻るという事実と引き替えに何を差し出すのか。あなたがたが繰り返し罪を犯しては何度もその罪を告白するという誠意か。白い雲に乗って戻ってくるイエスへの捧げ物としてあなたがたは何を差し出すのか。自らを称賛する長年の仕事という資本だろうか。あなたがたは戻ってきたイエスに信用してもらうために何を差し出すのだろうか。それはあなたがたの、いかなる真理にも従わない傲慢な本性だろうか。

……わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。『白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ』という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より)

『呪縛を解く』の映画台本から

 


質問3

2020-04-23 18:14:03 | 天の国の福音
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質問3.聖書にあります。「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。」(使徒行伝 1:11)主が復活されたあと天に上がったのは霊体で、その霊体が雲に乗って戻られるはずです。神が終わりの日の働きのため再び受肉されるど、聖書と矛盾しています。牧師たちは主が受肉して再臨したという証しは嘘だと言っている。だから、主が受肉して戻るなんて証しは、私は受け入れられない。我々はただ主が雲に乗って降りて来られるのを待っていればいい。

 

解答: 主が受肉して再臨されるはずがない、本当にそうですか?このことは聖書にも明記されています。あなたは見つけられなかったのですか?聖書には主が受肉して再臨されることについて特に明白に書かれています。主は言われました。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:24-25) 主は人の子として再臨するのです。人の子とは受肉した神のこと。主イエスと同じです。見かけは普通の人間で、人間と同じように生活しますが、復活後の霊体は違います。壁を突き抜けたり、姿を消したりできたので、人の子とは呼ばれませんでした。主はこう預言されています。「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:25) あなた方は主は霊体として雲に乗って公衆の前に現れ、人々はそれを見てひれ伏し崇拝すると言うのですね。それでは、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:25) これはどう成就しますか?神が人の子として受肉し働かれる時、人々はそれがキリストだとわからずに非難し、拒んでしまうのです。そうではないですか?主はこうも預言されています。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイによる福音書 24:36)「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。」(ヨハネの黙示録 3:3) 主が雲に乗って降りてくるなら、誰でもそれに気付くでしょう。では主の再臨が「だれも知らない」「子も知らない」「盗人のよう」ならば、どう成就しますか?霊体として現れるなら、主が知らないはずがない。終わりの日に神が人の子として受肉するからこそ、「子も知らない」が成就するのです。主イエスはその働きを始められる以前、ご自身がキリストだとはご存じありませんでした。しばしば父なる神に祈り、職分を果たすようになりようやくご自身の身分に気づかれたのです。より現実的な考えでしょう?これでも受肉による再臨の預言がないと仰いますか?主イエスの預言です。「人の子」とは神の受肉なのです。不思議ですよね。主が受肉して戻るなら、なぜ主はそれをはっきりと言わずに、「人の子」と表現されたのでしょう?預言とはそういうもので謎に満ちているんです。「肉体を持つ」と言えば、普通の言葉に聞こえるでしょう。「人の子」の意味を深く掘り下げれば啓きを受け、受肉を意味していることがわかります。全能神が奥義を解き明かして初めて理解できました。「人の子が来る」という聖書の預言は受肉を表しているのだと。主が受肉して戻ることは間違いありませんが、受肉した神をどう見分けるのでしょう?神の声を聞き分けるのです。神が人の子として受肉されたのなら、多くの真理を表すはず、その出現の起源と目的を明確にし、具体的な働きを始められるはずです。終わりの日に受肉した全能神は、真理を表してまずは神の家から裁きの働きを始めました。全能神の言葉は教会に向けられた聖霊の御言葉です。神の出現を待ちわびている者たちに肉体を通して語り掛けているのです。全能神の言葉が真理であり神の声だと理解できた者は、神様の御前に上げられ子羊の婚宴に招かれる賢いおとめなのです。聖霊の真新しい言葉に毎日触れることで、終わりの日の神の働きを確かめられます。そして主が全能神として再臨されたと宗教界に証しします。すると、人々が全能神の御言葉を聴きに来ます、「言葉は肉において現れる」を。主の預言を成就するものです。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20) 神の声に気付かずに神の働きを非難する人々は、愚かなおとめとして捨てられるでしょう。そして、大災害の中で泣き叫ぶでしょう。

 主をお迎えするのに、主が雲に乗って降りてこられることだけに気を取られ、神の声を聞こうともせず、聖霊が語る言葉も求めずに牧師たちの言葉を鵜呑みにして、主の受肉の証しを偽りと決めつけるのは聖書に反しませんか?聖書を見てください。使徒ヨハネは言っています。「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。」(ヨハネの第二の手紙 1:7)「イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。」(ヨハネの第一の手紙 4:3) 神の受肉を否定する牧師たちの姿勢は聖書と一致しますか?主が受肉したという証しはすべて嘘だと言っています。騙されていると思いませんか?ヨハネの言葉に従えば、受肉を否定する牧師や長老こそ、反キリストではないですか?彼らの嘘に耳を傾けて主を迎えることができますか?神の出現を見て、その御前に連れて行ってもらえるでしょうか?

 どうすれば神の出現に気付けるでしょうか?全能神は言われます。「受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

 「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。だから人は探し求め、受け入れ、従うべきである。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

『天国への危険な道』の映画台本から


聖書はイエスの第二の到来における二つの方法を預言している

2020-04-22 13:47:16 | 天の国の福音

聖書はどのようにできたのか。聖書は正確にはどのような種類の本なのか。
神の御言葉による答え:

旧約に記録されている事柄はヤーウェのイスラエルでの働きで、新約に記録されているのは恵みの時代のイエスの働きである。これらは神が二つの異なる時代に行った働きを記録している。旧約は律法の時代の神の働きを記録している。だから、旧約は歴史的な書物で、新約は恵みの時代の働きの産物である。新しい働きが始まると、これらの書は時代遅れになる。そういうわけで、新約もまた歴史的な書物である。もちろん、新約は旧約ほど組織だったものではないし、それほど多くを記録していない。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より

遠い昔、恵みの時代の前、人々は聖書を読んだが、当時は旧約しかなかった。新約はなかった。旧約聖書があったので、人々は聖書を読み始めた。ヤーウェの導きが終わると、モーセが創世記、出エジプト記、申命記などを著した。モーセは当時のヤーウェの働きを思い起こし、それを書き記した。聖書は歴史書だ。もちろん、ここには預言者の予言もいくつか載っている。そしてもちろん、そうした予言は歴史などではまったくない。聖書はいくつかの部分からなっている。預言だけではなく、ヤーウェの働きだけでもなく、パウロの書簡だけでもない。聖書には幾つの部分があるかを知っていなければいけない。旧約には創世記と出エジプトなどが含まれ、そして、預言者の書いた預言書もある。最後に、旧約はマラキ書で終わる。旧約は、ヤーウェの導いた律法の時代を記録している。創世記からマラキ書まで、律法の時代の働きすべての総合的な記録だ。これはつまり、旧約は律法の時代にヤーウェに導かれた人々の経験の記録だということだ。旧約の律法の時代、大勢の預言者がヤーウェに起こされ、神の預言をした。彼らはさまざまな部族や民族に指示を与え、ヤーウェのする働きについて予言した。こうした起こされた人々はみな、ヤーウェからの預言の霊を与えられていた。彼らはヤーウェから幻を見せられ、その声を聞くことができたので、ヤーウェに啓示を受けて預言を書いた。彼らの行なった働きはヤーウェの声の代弁で、それはヤーウェに代わって行われた預言の働きであった。当時のヤーウェの働きは、単に霊を用いて人々を導くことであった。ヤーウェは受肉せず、人々は神の顔をまったく見なかった。そこで、ヤーウェは大勢の預言者を起こして、自分の働きをさせた。預言者たちに神託を与え、彼らはそれをイスラエルのすべての部族や氏族に伝えた。彼らの働きは預言をすることで、彼らの一部はヤーウェが彼らに与えた指示を記述して、他の人々に見せた。ヤーウェはこれらの人々を起こして預言を語らせ、将来の働きや、当時進行中の働きについて予言させた。そこで、人々はヤーウェの知恵と素晴らしさを見ることができた。これらの預言の書は聖書の他の書とは大きく異なっていた。それらは預言の霊を受けた人々、ヤーウェに幻を見せられたり、その声を聞いたりした人々が語り、書き記した言葉だ。預言の書以外は、旧約のすべてはヤーウェがその働きを終えた後に人々が作成した記録だ。これらの書は、創世記や出エジプト記がイザヤ書やダニエル書に比肩できないのと同様、ヤーウェの起こした預言者の語った予言とは同列に置けない。預言は働きが実行される以前に告げられた。一方、他の書は働きが完了してから書かれたもので、それが人々にできたことだった。当時の預言者はヤーウェの啓示を受けて予言を伝えた。彼らは多くの言葉を語り、恵みの時代の物事について、また、終わりの日に世界が破壊されることを預言した──ヤーウェが計画している働きだ。残りの書はみな、ヤーウェがイスラエルで行った働きについての記録である。だから、聖書を読む場合には、主にヤーウェがイスラエルでしたことについて読むことになる。聖書の旧約は主にヤーウェのイスラエル人を導く働きの記録であり、モーセを用いてイスラエル人をパロの虜囚から解放し、エジプトから脱出させ、荒野に連れていき、その後、カナンに入った。その後に起こったことはみな、彼らのカナンでの生活である。これ以外はみな、全イスラエルでヤーウェの行った働きの記録である。旧約に記録されていることはみな、ヤーウェのイスラエルでの働きの記録で、これはヤーウェがアダムとエバを創造した場所での働きである。ノアの後、神が正式に地上の人々を導き始めた時から、旧約に記録されていることはみな、イスラエルでの働きである。では、なぜイスラエルの外では何の働きも記録されていないのだろうか。なぜなら、イスラエルの地が人類の生まれた地だったからだ。始めに、イスラエルの他に国はなかった。そして、ヤーウェは他の場所では働かなかった。このように、聖書に記されていることは、純粋に当時のイスラエルでの働きなのである。預言者たち、イザヤ、ダニエル、エレミヤ、エゼキエルの話した言葉……彼らの言葉は、神の地上における他の働きを予言するもので、ヤーウェの神自身の働きを予告している。これはみな神から出たもので、聖霊の働きであり、これらの預言者の書を除くと、他のすべてはみな当時のヤーウェの働きを経験した人々の記録である。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より

聖書とはどういう書物なのか。旧約は律法の時代の神の働きである。旧約聖書は律法の時代のヤーウェの働きと、創造の働きを記録している。そのすべてがヤーウェの行った働きを記録しており、マラキ書のヤーウェの働きの記録で終わっている。旧約は神の行った二つの働きを記録している。一つは創造の働き、もう一つは律法の布告だ。どちらの働きもヤーウェが行った。律法の時代はヤーウェという名で神の行った働きを示している。これは、主にヤーウェという名で行われた働きの総体なのだ。だから、旧約はヤーウェの働きを記録しており、新約はイエスの働き、主にイエスという名で行われた働きを記録している。イエスの名の意味とその行った働きは、新約に記録されている。旧約の時代、ヤーウェはイスラエルに神殿と祭壇を築いた。地上でイスラエル人の生活を導き、彼らがヤーウェの選ばれた民、つまり彼らが神が地上で最初に選んだ集団で、神の心にかなう者であり、神自ら導いた民であることを証明した。つまり、イスラエルの十二部族がヤーウェが最初に選んだ民であり、神は律法の時代のヤーウェの働き終了まで、いつでも彼らの中で働いた。第二の段階の働きは新約の恵みの時代の働きで、イスラエルの十二部族の一つ、ユダヤ族の間で行われた。働きの範囲が狭かったのは、イエスが受肉した神であったからだ。イエスはユダヤの地でだけ働き、三年半の間だけ働いた。だから、新約に記録されたものは、旧約に記録された働きの量を超えることは到底できないのだ。恵みの時代のイエスの働きは、主に四福音書に記録されている。恵みの時代に人々の歩んだ道は、いのちの性質のもっとも表面的な変化であり、そのほとんどは書簡として記録されている。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より

当時、イエスは弟子たちには理解のできない働きを数多く行ったが、何も説明していない。イエスが去った後、弟子たちはいたるところで説教と働きを始め、その段階の働きのために、彼らは手紙と福音の書を書き始めた。新約の福音の書はイエスが十字架につけられてから二十年から三十年後に書かれた。それ以前には、イスラエルの人々は旧約だけを読んでいた。つまり、恵みの時代の人々は旧約を読んだのである。新約は恵みの時代になって、はじめて現れる。イエスが働いていた間、新約は存在しなかった。イエスがよみがえり、昇天した後になって、人々はイエスの働きを記録した。そうしてはじめて、四福音書が生まれ、それに加えて、パウロとペテロの書簡、そして黙示録が生まれた。イエスが昇天して三百年以上過ぎた後で、後の世代が記録を集め、新約が生まれた。この働きが完了した後ではじめて新約が存在した。それ以前にはなかったのである。神がすべての働きを行った。使徒パウロも自分のすべての働きを行った。その後に、パウロとペテロの書簡が集められ、ヨハネがパトモス島で記録した最大の幻が、終わりの日の働きを預言していたため、最後に加えられた。これらはみな、後の世代の編集したものであって、今日の言葉とは別物である。…彼らが記録したものは、彼らの教養と人間としての能力の程度に従っていたと言える。彼らが記録したものは人間の経験であった。人々にはそれぞれ自分なりの記録と学びの手段があり、それぞれの記録は異なっていた。だから、聖書を神と崇めるなら、あなたは極めて無知で愚かだということになる。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(3)」より

 


神の国の美しさと人類の終着点に関する預言、および神の約束と祝福についての言葉

2020-04-21 11:09:34 | 書籍

神の国の美しさと人類の終着点に関する預言、および神の約束と祝福についての言葉

 

1.わたしの言葉が完成するにつれて、わたしの国は徐々に地に形を現し、人間は次第に正常に戻り、そうして、地上にわたしの心の国が築かれる。その国では、神の民全員が正常な人間の生活を取り戻す。凍える冬は去り、春の訪れた町々の世界となり、一年中春が続く。もはや人々は暗く惨めな人間世界に臨まない。もはや人間世界の凍える寒さを耐えることがない。人々は互いに戦うことなく、国々は互いに戦争を仕掛けることがない。もはや大虐殺が行われて血が流されることはない。地はすべて幸福に満たされ、どこも人と人とのぬくもりが満ちる。わたしは世界を動き回り、玉座の上から楽しむ。わたしは星々の間で暮らす。そして、天使たちがわたしに新しい歌や踊りをささげる。天使たちは、もはや自身のもろさに涙がほほを伝うことはない。もはや天使がわたしの前ですすり泣くのを聞くことがない。そして、もはや誰も苦難をわたしに訴えることがない。今日、あなたがたはわたしの前で生きている。明日、あなたがたはみな、わたしの国で暮らすようになる。これは、わたしが人間に与える最大の祝福ではないか。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十章」より

2.稲光の中、すべての動物は真の姿を明らかにする。そして、わたしの光に照らされて、人間もまた、かつての聖さを取り戻した。ああ、過去の堕落した世界がついに汚い水の中へと崩れ去り、水面の下に沈み、溶けて泥となった。ああ、わたしの創った全人類が、ついに再び光の中でよみがえり、存在のための基礎を見出し、泥の中でもがくことをやめた。ああ、わたしの手の中のもろもろの被造物よ。それらがどうしてわたしの言葉によって新たにならないことがあろうか。どうして、光の中でその機能を果たさないことがあろうか。地はもはや、動きがなく沈黙してはいない。天はもはや荒涼として悲しいところではない。天と地とは、もはや虚無で隔てられてはおらず、ひとつになって、決して再び裂かれることがない。この喜ばしい時、この歓喜の瞬間、わたしの義と聖とが宇宙全域に広まり、すべての人間が終わりなくほめたたえる。天の町々は喜びに笑い、地上の王国は喜びに舞い踊る。この時に、誰が喜ばずにいようか。そして、この時、誰が泣かずにいるのか。地は、そのはじめは天のものであった。そして、天は地とは、ひとつであった。人間は天と地とを結ぶ絆であり、その聖さのおかげで、その再生のおかげで、天はもはや地から隠されてはいない。そして、地はもはや天に対して沈黙していない。人類の顔は安堵の笑顔に飾られ、心には限りない甘美さが満ちる。人間は互いに言い争うことがなく、また、殴り合うこともない。わたしの光の中で他の人々と平和的に生きない者がいるだろうか。わたしの日にわたしの名を汚す者が誰かいるだろうか。人間はみな畏敬のまなざしをわたしに向け、その心が沈黙のうちにわたしに叫んでいる。わたしは人間のあらゆる行いを探った。清められた者の中に、わたしに逆らうものは誰もいない。わたしを裁く者もいない。人間はみな、わたしの性質に満たされている。誰もがわたしを知るようになり、わたしに近づき、わたしを愛する。わたしは人間の霊の中に確固として立ち、人間の目に最も高い頂きに上げられ、その血管を血として流れる。人間の心の喜びにあふれる高揚が地のいたるところを満たし、空気は爽やかに澄み、濃い霧が地面を包むことは、もはやない。そして、太陽がまばゆく輝く。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十八章」より

3.わたしの知恵は地上のあらゆるところにあり、全宇宙にあまねく。あらゆるものの只中にわたしの知恵の果実がみのり、すべての人々の只中にわたしの知恵の傑作が満ち満ちる。何もかもわたしの国にあるすべてのもののようである。すべての人々はわたしの天の下、わたしの牧場の羊のように安心して暮らす。わたしはすべての人々の上を動き、至る所を見ている。何一つ古びて見えるものがなく、誰一人かつてと同じ人はいない。わたしは玉座に座し、全宇宙にわたり横たわり、満ち足りている。すべてのものが聖さを取り戻し、わたしは再びシオンで安らかに暮らすことができるからだ。そして、地上の人々はわたしの導きの下、穏やかで満ち足りた生活ができる。諸国民は、わたしの手の中であらゆることを管理している。諸国民はかつての知性と本来の姿を取り戻した。彼らはもはや塵におおわれてはいない。わたしの国では、人々は翡翠のように純粋で、人の心の中の聖い者のような顔をもつ。わたしの国が人々の間に打ち立てられたからである。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十六章」より

4.わたしの光の中で人々は再び光を見る。わたしの言葉の中で人々は喜びとなる物を見つける。わたしは東方から来て、東方から出ずる。わたしの栄光が輝くとき、すべての国々が照らされ、すべてが明らかにされ、闇の中には何も残らない。神の国では、神と共にある神の人々の生活は比類なく幸せである。人々の祝福された生活に海は踊り、人々と共に山々はわたしの豊かさを楽しむ。人々は誰もが努力し、懸命に働き、わたしの国で忠誠を示す。神の国にもはや反乱はなく、抵抗もない。天と地はお互いをよりどころとし、人とわたしは生の至福を通して、お互いを頼りとしながら親しく深く感じる…。この時、わたしは正式に天の生活を始める。サタンの干渉はもはやなく、人々は安息に入る。全宇宙の至るところで、わたしの選んだ人々はわたしの栄光に住み、比類ない祝福を受け、人々の間に住む人々としてではなく、神と共に住む人々として生きる。誰もがサタンの堕落を経験し、人性の苦しさと甘美を経験した。今、わたしの光の中に住み、喜べない者などいようか。そのような美しい瞬間をただ諦め、見過ごすことなどどうしてできようか。人々よ。今、わたしのために心で歌を歌い、踊れ。あなたがたの誠実な心を引き上げ、わたしに捧げよ。今、わたしのために太鼓を叩き、奏せよ。わたしは全宇宙に喜びを輝かせる。わたしは人々にわたしの栄光の顔を示す。わたしは轟く。わたしは宇宙を超越する。わたしはすでに人々を支配している。わたしは人々により褒めたたえられる。わたしは青い空を漂い、人々はわたしとともに動く。わたしは人々の中を歩き、わたしの人々はわたしを取り囲む。人々の心は喜び、人々の歌は世界を揺るがし、空を砕く。宇宙はもはや霧に閉じ込められず、泥はなく、汚水の集まりはない。宇宙の聖なる人々よ。わたしの監視の下であなたがたの真の顔が明らかにされる。あなたがたは汚れに包まれた人々ではなく、ヒスイのように純粋な聖者であり、すべてわたしの愛する人々であり、すべてわたしの喜びである。すべてのものが生き返る。すべての聖人が天に戻ってわたしに仕え、わたしの暖かい抱擁に入り、もはや涙することなく、もはや憂うことなく、自らをわたしに捧げ、わたしの家に帰り、故郷でわたしを無限に愛する。それは不変である。悲しみはどこか。涙はどこか。肉はどこか。地はもはやなく、天は永遠である。わたしはすべての人々に現れ、すべての人々はわたしを讃える。この生活、この美しさは、はるか昔から、そして永遠に、変わらないであろう。これが神の国の生活である。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「人々よ、歓呼せよ」より

5.「わたしはすべての人々の上を動き、至る所を見る。何一つ古びることがなく、誰一人、かつてと同じ人はいない。わたしは玉座に座し、全宇宙の上で憩い…」これは神の現在の働きの結果である。神の選民はすべて最初の形に戻り、そのため、長年にわたり苦しんできた天使たちは解放される。神が「人の心の中の聖者のような顔」と言うとおりである。天使たちは地上で働き、地上で神に仕え、神の栄光が世界中に広がるので、天は地上にもたらされ、地上は天に持ち上げられる。したがって、人間は天と地を結ぶ絆である。天と地にはもはや隔たりはなく、もはや分離しておらず、一つのものとしてつながっている。世界の至る所で、神と人間だけが存在する。ほこりも汚れもなく、すべてのものは再び新しくなり、子羊が大空の下で緑の草原に横たわっているように、神のすべての恵みを享受している。そして、この一面の新鮮な緑が現れたことから、生命の息吹が輝き出る。というのも永遠に人間と共に暮らすために神がこの世に来るからである。神の口から「わたしは再びシオンで安らかに暮らすことができる」と語られたとおりである。これはサタンの敗北の象徴であり、この日は神の安息の日であり、すべての人々によって褒めそやされ、称えられ、すべての人に祝われる。神が玉座で安息している時は、神が地上における働きを終了する時でもあり、まさに神のすべての奥義が人間に示される瞬間である。神と人間は永久に調和し、離れることはないだろう――これらは神の国の美しい光景である。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第十六章」より

6.神の国がすっかり地上に降りて来ると、すべての人々は最初の姿を取り戻すだろう。したがって、神は次のように言う。「わたしは玉座の上から楽しむ。わたしは星々の間で暮らす。そして、天使たちがわたしに新しい歌や踊りをささげる。天使たちは、もはや自身のもろさに涙がほほを伝うことはない。もはや天使がわたしの前ですすり泣くのを聞くことがない。そして、もはや誰も苦難をわたしに訴えることがない。」これは、神が完全に栄光を得る日は人間が休息を享受する日であることを示している。人々はサタンの妨害にあって右往左往することはもはやなく、世界は前進することをやめ、人々は安楽に暮らす――天空の無数の星は更新され、太陽、月、星など、そして天や地のすべての山と川はみな変化するからである。そして人間が変化し、神が変化するので、すべてのものも変化するだろう。これが神の経営(救いの)計画の最終的目標であり、最後には達成されるものである。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第二十章」より

7.わたしの働きは六千年しか続かない。そしてわたしは、悪しき者による全人類の支配もまた六千年より長くは続かないと約束した。それゆえもうその時は来ている。わたしはこれ以上続けたり遅らせたりはしない。終わりの日に、わたしはサタンを打ち負かし、わたしの栄光をすべて取り戻し、わたしに属する地上のすべての魂を取り戻して、これらの苦悩する魂が苦しみの海から逃れられるようにする。これにより地上におけるわたしの働きがすべて完了するのである。これより後、わたしは地上で再び受肉することは決してなく、すべてを支配するわたしの霊が地上で働くことは二度とない。わたしが地上で行うのはただひとつ、わたしは人類を、聖なる人類に造り直す。それは地上におけるわたしの忠実な都である。しかし、わたしは世界全体を滅ぼしたり、人類すべてを滅ぼしたりはしないことを知るべきである。わたしはその人類の残りの三分の一、わたしを愛し、完全にわたしに征服された人類の三分の一を保ち、イスラエル人が律法の下でそうであったように、この三分の一を、多くの羊と家畜、そして地のすべての豊かさにより育み、繁栄させる。この人類はわたしのもとに永遠にとどまるであろう。ただし、それは現在のどうしようもなく汚れた人類ではなく、わたしに得られたすべての人々の群としての人類である。このような人類はサタンにより破壊され、混乱させられ、包囲攻撃されることはなく、わたしがサタンに勝利した後も地上に存在する唯一の人類となる。それは今日わたしに征服され、わたしの約束を得た人類である。それゆえ、終わりの日に征服された人類は、残され永遠に続くわたしの恵みを受ける人類でもある。これはサタンに対するわたしの勝利の唯一の証拠であり、サタンとの戦いの唯一の戦利品である。これらの戦利品はサタンの支配下からわたしにより救われたのであり、わたしの六千年にわたる経営(救いの)計画の唯一の結晶であり実りである。彼らはあらゆる国家と教派から、また全宇宙のあらゆる場所と国から来る。彼らはさまざまな民族、さまざまな言語、風習、肌の色の者であり、地球のあらゆる国家と教派、そして世界の隅々にまで広がっている。最終的に、彼らは完全な人類、サタンの勢力が及ばない人間の集団を形成するために集まって来る。

『言葉は肉において現れる』の「肉なる者は誰も怒りの日から逃れられない」より

8.神の国の中の勝利者たちは、彼らの様々な役割と証しに基づいて祭司として、あるいは信者として仕えるであろう。また患難のただ中で勝利した者たちは、みな神の国で祭司の集団となるであろう。祭司の集団は全宇宙における福音の働きが終わった時に形成されるであろう。その時が到来すると、人間がなすべき事は、神の国において自分の本分を尽くし、神と共に神の国で生活することとなるであろう。祭司の集団の中には、祭司長と、祭司がいて、それ以外の者は神の子、神の民となるであろう。これは全て患難の間の神への証しにより決定される。それらは気まぐれで与えられた称号ではない。一旦人間の地位が確立すれば、神の働きは停止する。なぜなら、各人が種類に従って分類され、彼らの本来の地位に戻され、それは神の働きの成果のしるしであり、神の働きと人間の実践の最終結果であり、また神の働きのビジョンと人間の協力との結晶だからである。最後に人間は神の国で安息を得て、神もまた自らの住まいに戻って休息を得るであろう。これが神と人間の六千年におよぶ協力の最終結果である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より

9.安息の中の生活とは、戦いも汚れも、継続する不義もない生活である。言い換えれば、そのような生活には、神に敵対するいかなる勢力の侵入もないだけでなく、サタン(サタンとは敵対する勢力を指す)による妨害もサタンの堕落も存在しない。万物がおのおのその種類のものに従い、造物主を礼拝する。天上も地上も平穏になる。これが、人類が安息に入った生活である。神が安息の中に入った時、地上にはもうどんな不義も継続せず、もういかなる敵対勢力の侵入もなくなる。人類も新しい領域の中に入る。すなわち、彼らはもはやサタンに堕落させられた人類ではなく、サタンに堕落させられた後救われた人類である。人類の安息の日々は、神にとっての安息の日々でもある。神は人類が安息の中に入ることができないため、安息を失ったのである。つまり、神は本来、安息に入ることができなかったのではない。安息の中に入ることは、あらゆる事物の活動が止まることを意味するのでもなければ、あらゆる事物の発展が止まることを意味しているのでもない。また、神がもう働くことをやめる、あるいは人がもう生活することをやめることを意味しているのでもない。安息に入ったことのしるしは、以下のようなものである──サタンが滅ぼされている、サタンに同調する悪人たちがみな懲罰を受けて一掃されている、そして神に敵対するすべての勢力が存在しない。神が安息の中に入ることは、神がもう人類を救うという働きをしないことを意味している。人類が安息の中に入ることは、全人類がみな神の光の中と神の祝福の下に生きることを意味する。もはやサタンの堕落がなく、不義な事も起こらない。人類はみな地上で正常に生活し、神の加護のもとで生きるようになるだろう。神と人が共に安息に入るということは、人類が救われたこと、サタンは滅ぼされたこと、人における 神の働きが全部終わったことを意味する。神はもはや人の中で 働き続けず、人ももうサタンの支配下に生きることはなくなる。それゆえに、神はもう忙しく働かず、人はもう忙しく駆け回らない。神と人は同時に安息の中に入るようになる。神はもとの場所に戻り、人も各人それぞれの場所に帰る。これは神の経営(救い)が終わった後に、神と人それぞれが身を置く目的地である。神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。神はもはや人の間には住まず、人も神と一緒に神の目的地で住むことはできない。神と人は同じ領域の中で生活することができない。むしろ、それぞれ自分の生き方がある。神が全人類を導くのであり、全人類は神の経営の働きの結晶である。導かれるのは人類である。人間は、本質的には、神と異なる。安息することとは、神と人がそれぞれの本来の場所に帰ることを意味する。それゆえ神が安息に入るとき、それは神がもとの場所に復帰することを意味する。神はもう地上で生活しないか、あるいは人の間にあっても、人と苦楽を共にしない。人が安息に入るとは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダムとエバの生活に復する。これが、神と人が安息に入った後の、それぞれの生活と目的地である。サタンが打ち負かされることは、神とサタンとの戦いが必然的に向かう方向である。こうして、神が経営の働きを終えた後に安息に入ることと人が完全に救われ安息に入ることは、同様に不可避的に向かう方向になる。人の安息の場所は地上にあり、神の安息の場所は天にある。人は安息の中で神を礼拝し 、地上で生きる。神は安息の中で残りの人類を導くが 、地上から導くのではなくて天から導く。神は依然として霊であり、一方、人は、依然として肉である。神と人にはおのおの異なる安息の仕方がある。神は安息するが、人の間に来て人に現れる。人は安息するが、神に導かれて天を訪ね、天上で人生を楽しむこともある。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

10.永遠の終着点に入るとき、人は造り主を礼拝する。そして、人は救いを得て、永遠の中に入ったので、人は何の目的も追求しないし、その上、サタンによって包囲される心配もない。この時、人は自分の立場を知り、本分を尽くす。そして、罰されたり裁かれたりしなくとも、人はそれぞれ自分の本分を尽くすだろう。その時、人は身分においても、地位においても被造物となる。高低の差別はもはやない。人はそれぞれの異なる役割を果たすだけである。但し、人は依然として人類の秩序ある適切な終着点の中で生きており、造り主を礼拝するために本分を尽くす。そして、このような人類は永遠の人類となるであろう。その時、人は神に照らされた生活、神の配慮と守りの下にある生活、そして神と共に生きる生活を獲得することになる。人類は地上で正常な生活を送り、全人類が正しい軌道に乗ることになる。六千年の経営(救いの)計画は徹底的にサタンを打ち負かすことになるだろう。つまり、神は創造直後の人間の本来の姿を回復させ、そうして、神の本来の意図が成就される。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

11.立ち上がって、わたしに協力しなさい。心からわたしのために尽くす者を、わたしは決して惨めに扱わない。心からわたしに献身するなら、わたしはあなたにわたしのすべての祝福を授けよう。完全に自分自身をわたしに捧げなさい。あなたが食べる物、着る物、あなたの将来、すべてがわたしの手の中にある。わたしはあなたの永遠の尽きることのない楽しみのために、それらのすべてを適切に整える。なぜならわたしは、「心からわたしのために尽くす者へ、わたしは必ず大いにあなたを祝福しよう」と言ったからだ。すべての祝福は、心からわたしのために自分を捧げる一人ひとりのところへ来る。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第七十章」より

12.祝福とは、あなた方が憎むことは将来にはもう起こらないと言うことである。つまり、それらのことは、もはやあなた方の実際の生活に存在しなくなり、あなた方の目の前から取り除かれるということである。家族、仕事、妻、夫、子供、友人や親戚、そしてあなた方が毎日嫌っている一日三食の食事でさえ、消えて無くなるだろう。(これは、時間に制約されなくなり、完全に肉から抜け出すという意味である。あなたの体は、霊に満たされることによってのみ維持される。ここで言及されているのは、あなたの肉ではなく、あなたの体である。あなたは完全に自由になり、超越するだろう。これは、神が世界創造以来示した中で最も大いなる、最も明白な奇跡である。)あなた方の体の中にあるすべての土の要素は取り除かれ、あなた方は完全に、聖なる汚れなき霊の体になるだろう。そして、あなた方は宇宙の果てまで旅するだろう。面倒な洗うことや擦り洗いも、その時から無くなり、あなた方は、ただ目一杯楽しむだろう。その時から、あなた方は、もはや結婚の概念を持たなくなるだろう(何故ならわたしは一つの時代を終わらせるのであり、世界を創造するのではないからである)。そして、女性にとって最も辛い産みの苦しみも、もはや無くなるだろう。あなた方は将来、もう働くことも労することもない。わたしの愛の抱擁に包まれ、わたしがあなた方に与えた祝福を楽しむのだ。このことは確かな事である。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第八十四章」より

13.わたしがあなた方のために用意したもの、つまり、世界中の稀有で貴重な宝があなた方に与えられるのだ。あなた方は、現時点では、それを思い浮かべることも、想像することもできない。そして、このようなことを楽しんだことがある者は一人もいない。これらの祝福があなた方の上に臨むとき、あなた方はいつまでも心から楽しむが、これらはすべてわたしの力、わたしの行為、わたしの義、そして何よりも、わたしの威厳であることを忘れてはならない。(わたしは、恵みを示すよう選んだ者たちに恵みを示し、憐みを示すよう選んだ者たちに憐みを示す。)その時、あなた方は親を持つことはなく、血縁関係もない。あなた方は皆、わたしの愛する民、わたしの最愛の子らである。それ以降は、誰もあなた方を弾圧しようとしないだろう。それは、あなた方が大人に成長する時となり、あなた方が鉄の杖で国々を支配する時となるであろう。わたしの愛する息子たちを妨げようなどとするのは誰か。わたしの最愛の息子たちを敢えて攻撃しようとするのは誰か。父が栄光を受けたので、彼らはみなわたしの愛する子らを敬うだろう。誰も想像すらできなかったことがすべて、あなた方の目の前に現れる。それらは無限で、無尽蔵で、終わることがない。もうしばらくすれば、あなた方はもはや太陽の焼けつく暑さに耐える必要はなくなる。また、寒さに苦しむ必要もなくなり、雨も、雪も、風さえもあなた方には及ばなくなる。それは、わたしがあなた方を愛しているからであり、それは完全にわたしの愛の世界になる。わたしはあなた方が望むすべてのものを与えよう。また、あなた方が必要とするすべてのものをあなた方のために用意しよう。わたしは義ではないなどと言う者は誰か。わたしは直ちにあなたを殺す。それは前に言ったように、わたしの怒りは(邪悪な者たちに対して)永遠に続き、わたしはほんの少しも容赦しないからである。しかし、(わたしの最愛の子らへの)わたしの愛も永遠に続くだろう。わたしは少しもそれを惜しまない。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第八十四章」より

14.わたしは今、わが民の間を歩き回り、わが民の中で生きている。今日、わたしに本物の愛を抱いている者たちは幸いである。わたしに服従する者は幸いである。その人たちは必ずや、わたしの国にとどまるであろう。わたしを知る者は幸いである。その人たちは、必ずや、わたしの国で権力を振るうであろう。わたしを追い求める者は幸いである。その人たちは必ずやサタンの束縛から逃れ、わたしの中にある祝福を享受するであだろう。自らを捨てることのできる者は幸いである。その人たちは、必ずやわたしのものとなり、わたしの国の富を相続するであろう。わたしのために走り回る者を、わたしは記念し、わたしのために尽くす人を、わたしは喜んで抱こう。わたしに捧げ物をする人に、わたしは喜びとなるものを与えよう。わたしの言葉に喜びを見出す者を、わたしは祝福する。その人たちは必ずや、わたしの国の棟木を支える柱となるであろう。その人たちは、必ずやわたしの家で何ものにも及ばない豊かさを得、彼らに並ぶものは一人もいない。あなたがたは、自分に与えられた祝福を受け入れたことがあるか。あなたがたは、あなたがたのために結ばれた約束を求めたことがあるか。あなたがたは、必ずや、わたしの光の導きの下、闇の力の要塞を打ち破るだろう。あなたがたは、闇のただ中にあっても、あなたがたを導く光を絶対に見失いはしないだろう。あなたがたは、必ずや、すべての被造物の主人となる。あなたがたは、必ずや、サタンの前で勝利する。あなたがたは、必ずや、赤い大きな竜の国が滅びるとき、無数の大衆の中で立ち上がり、わたしの勝利を証しするであろう。あなたがたは、必ずや、秦の国にあって、決意を固くし、揺るぐことがないだろう。あなたがたの耐え忍ぶ苦しみによって、あなたがたはわたしからの祝福を相続する。そして、必ずや、全宇宙にわたしの栄光を輝かせるだろう。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十九章」より

15.神に完全にしてもらうことができる人たちは、神から祝福や嗣業を受け取ることのできる人たちである。すなわち、そのような人たちは、神が所有するものそして神という存在を取り入れる。そうすることによって取り入れたものは彼らが内部に持つものとなる。すなわち、彼らは、神の言葉が彼らの中に働いたものすべてを所有している。神という存在が何であれ、あなた方は、その存在のすべてをまさにそのまま受け入れることができる。そうすることによって、真理を生きることができる。これが、神によって完全にされ、神のものとされた人である。そのような人だけが、次に掲げる、神が授ける祝福を受け継ぐ資格がある。

1.神の愛のすべてを受け取ること。

2.あらゆる事柄において神の旨に沿って行動すること。

3.神の導きを受け取り、神の光の下で生き、神の啓示を受けること。

4.地上で神によって愛された象徴のように生きること、すなわち、ペテロと同じように真に神を愛すること、神の為に十字架にかけられ、死が神の愛に対する報いに相応しいと感じるほどに神を愛すること、そしてペテロと同じ栄光を受けること。

5.地上のすべての人によって愛され、敬われ、称賛されること。

6.死やハデスの束縛のすべてを克服すること、サタンに働く機会を与えず、神のものとされていること、新鮮でいきいきとした霊的状態であること、いささかの疲れもないこと。

7.人生のあらゆるときに、あたかも神の栄光の日の到来を見てきた人のように、言語を絶するほどの高揚感や気持ちの高まりをもてること。

8.神とともに栄光を受け取ること、そして神の最愛の聖人たちに似た容貌をもてること。

9.神が地上で愛するもの、すなわち神の最愛の子になること。

10.姿を変えて、神と共に、肉を超越して第三の天まで引き上げられること。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされた人々への約束」より