神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる

2019-10-31 12:54:56 | 書籍

辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる

今日、あなたの神への愛はどのくらい大きなものであろうか。また、神があなたの内に為したあらゆる事のうち、あなたはどのくらいの事を知っているであろうか。あなたは、これらの事を知らなければならない。神が地上に来る時、神が人の内に為した事のすべて、そして神が人に理解させた事のすべては、人が神を愛し、真に神を知るようにするためのものである。人が神のために苦しむことができ、ここに至ることができたのは、ある意味では神の愛により、別の意味では神の救いによるのであり、さらには神が人の内に為した裁きと刑罰の働きによるのである。もしあなたがたが神の裁き、刑罰、試練を受けることがなければ、そして神があなたがたに苦しみを与えることがなければ、率直に言って、あなたがたが真に神を愛することはない。人の内に為された神の働きが大きいほど、そして人の苦しみが多いほど、神の働きがどれほど意義深いものかを示すことができ、同時に、その人の心はより真に神を愛することができる。人はどのように神の愛し方を学ぶのであろうか。苦痛や精錬なしに、また、つらい試練なしに──さらに、もし神が人に与えたものが恵みと愛と慈悲だけであったなら──神への真の愛を全うすることはできるであろうか。神による試練にあって、人は自らの欠点を知るに至り、自分は取るに足らない、軽蔑すべき、卑しい存在であり、自分には何もなく、自分は何物でもないことを知る一方、神による試練にあって、神は、人が神の素晴らしさをより良く経験できるような新しい環境を作り出す。苦痛は非常に大きく、時として乗り越えられない──さらには、身も心も打ち砕くような悲しみにまで達することもある──しかし、それを経験することで、人はその内にある神の働きがいかに素晴らしいかを知り、その礎の上にのみ、人の内に神への真の愛が生まれるのである。今日、人は神の恵みと愛と慈悲だけでは、真に自分を知ることはできず、ましてや人の本質も知ることができないのを知っている。神の精錬と裁きによってのみ、また、そのような精錬の中にあってのみ、自分の欠点を知り、自分には何もないことを知るのである。このように、人の神への愛は神の精錬と裁きという礎の上に築かれる。もしあなたが、平和な家庭生活や物質的祝福を伴う神の恵みのみを享受するのであれば、あなたは神を得ていないのであって、神への信心は成り立っていない。神は肉における恵みの働きを既に一段階行っており、人に物質的な恵みを既に与えている──しかし人は、恵みと愛と慈悲だけでは完全になれない。人は経験により神の愛の一部分に出会い、神の愛と慈悲を知るが、ある一定の期間経験すると、人は神の恵みと神の愛や慈悲では完全になれず、人の内にある邪悪さを明らかにすることもできず、またその邪悪な性質を取り除くことも、その愛と信仰を完全にすることもできないことを理解するのである。神の恵みの働きは一時の働きであった。神の恵みの享受に依存することで神を知ることはできないのである。

神は何を通じて人を完全にするのであろうか。それは、義という神の性質によるのである。神の性質は主として義、怒り、威厳、裁き、呪いであり、神は主に裁きを通じて人を完全にする。一部の人々は理解できず、なぜ神は裁きと呪いによってしか人を完全にできないのかと問う。彼らは「神が人を呪ったら、人は死ぬのではないか。神が人を裁いたら、人は断罪されるのではないか。それにもかかわらず、人はどうやって完全になれるのであろうか」と言う。神の働きを理解しない人々はそう話すのである。神が呪うのは人間の不従順であり、神が裁くのは人間の罪である。神の言葉は厳しく、少しの気遣いもなく、人の内にあるあらゆるものを明らかにし、そうした厳しい言葉を通じて人の内にある本質を顕わにするが、神はその裁きを通じて人に肉体の本質についての深遠な認識を授け、それにより人は神の前に従順を示すのである。人の肉は罪から成り、サタンによるものであり、不従順であり、神の刑罰の対象である──であるから、人に自分を理解させるためには、神の裁きの言葉が人にもたらされねばならず、あらゆる精錬が行われねばならない。それにより初めて神の働きは成果を生むのである。

神の語る言葉を通じて、神は既に人の肉を断罪したことが理解できる。それでは、その言葉は呪いの言葉なのであろうか。神により語られる言葉は人の本性を顕わにし、そのように顕わにされることにより裁かれる。そして、神の心を満足させられないと知った時、心の内に悲しみと悔恨を感じ、神に対し大きな恩があり、神の心に対し不十分であることを感じるのである。時として、聖霊は内からあなたを鍛錬することがあるが、この鍛錬は神の裁きから来るものである。時として神は、あなたを責め、あなたから顔を隠すことがある。また神は、あなたに注意を払わず、あなたの内で働くことなく、無言であなたを刑罰し、精錬することがある。人における神の働きは、主として義という神の性質を明らかにするためのものである。最終的に、人は神に対しどんな証しができるのか。神は義の神であり、その性質は義、怒り、刑罰、裁きであることを、人は証しするのである。人は、義という神の性質を証しするのである。神はその裁きをもって人を完全にし、愛し、救ってきたのである──しかし、神の愛にはどれだけのものが含まれているのであろうか。そこには裁き、威厳、怒り、呪いがある。神は過去に人を呪ったが、底なしの淵に完全に突き落としたわけではなく、そうした手段により人の信仰を精錬したのである。神は人を死に追いやったわけではなく、人を完全にするために行いを為したのである。肉の本質はサタンのものである──それは神が言った通りである──だが、神が為した事実はその言葉通りではなかった。神が呪うのはあなたが神を愛するようになるためであり、肉の本質を知るようになるためである。神があなたを刑罰するのはあなたが目を覚ますためであり、内なる欠点を知らせ、人が全く価値のないことを知らせるためである。このように、神の呪い、裁き、威厳、怒りは、すべて人を完全にするためのものである。今日神が為すあらゆる事、あなたがたの内に神が顕かにする義なる性質──それは人を完全にするためのものである。神の愛はそのようなものである。

人の伝統的な概念において、神の愛は人の弱さに対する恵み、慈悲、憐みである。それらも神の愛であるが、それは余りに一方的であり、神が人を完全にするための主たる手段ではない。病気のせいで神を信じ始めた人がいるなら、その病気は神の恵みである。それなしでは、あなたは神を信じることはなかったからだ。そしてもし神を信じなかったら、ここまで到達しなかったであろう──そのような訳で、こうした病気による恵みでさえも神の愛なのである。イエスを信じる際においても、人々は真理を理解しなかったがために神に愛されないような事を多く行った。しかし、神には愛と慈悲があって人をここに至らせた。そして、人が何も理解しないにもかかわらず、神は人が神に従うのを許し、さらには人を今日にまで至らせたのである。これは神の愛ではないのか。神の性質に顕れるものは、神の愛である──これは全く正しい。教会建設がピークに達した時、神は効力者に対し一段階の働きをし、人を底なしの淵へと落とした。効力者の時代の言葉はすべてが呪いであった。肉に対する呪い、堕落したサタンのような性質に対する呪い、神の旨を満たさないあなたの行いに対する呪いであった。その段階で神が行った働きは威厳として顕れた。続いて間もなく神は刑罰という段階の働きを実行し、死の試練がもたらされた。そのような働きにあって、人は神の怒り、威厳、裁き、刑罰を知ったが、同時に神の恵み、神の愛と慈悲も知ったのである。神が為したすべての事、そして神の性質として顕れたすべては人への愛であり、神が為したすべての事は、人が必要とすることを満たすことであった。神がそれを為したのは人を完全にするためであり、人の霊的背丈に従って施したのである。神がそれを為さなかったならば、人は神の前に近づくことはできず、神の真の顔を知ることは全くできなかったであろう。人が最初に神を信じ始めた時から今日に至るまで、神は人の霊的背丈に沿って施し、人がその内にあって徐々に神を知るようにしたのである。今日に至って初めて人は神の裁きの素晴らしさに気づくのである。効力者に対する働きの段階は、創造の時から今日に至るまでで最初の呪いの働きの例であった。人は呪いにより底なしの淵に落とされた。もし神がそれを為さなかったらば、今日人は神に対する真の認識を得ていなかったであろう。神の呪いを通じてのみ、人は正式に神の性質に出会うのである。こうした経験は人に対し、人の忠心は受け入れ難いものであり、その霊的背丈は余りに小さく、神の旨を満足させられず、神を満足させると常に言っているその主張は言葉に過ぎないことを教えたのである。効力者に対する働きの段階において神は人を呪いはしたが、今日見てみると、神の働きのその段階は素晴らしいものであった。それは人にとって素晴らしい転機となり、いのちの性質を大きく変えたからである。効力者の時代[a]の前、人はいのちを追求することや神を信じること、神の働きにおける神の知恵といったものに関して何も知らず、神の働きが人を試すことができることも理解できなかった。効力者の時代[b]から今日に至るまで、神の働きがいかに素晴らしいか、いかにそれが人知を超えているか、そして神がどのように働くか、人間の知能では想像できないことを知り、さらに自分の霊的背丈がいかに小さく、あまりにも不従順であることを知っている。神が人を呪った時、それはある効果を得るために為したのであり、人を死に追いやることはなかった。神は人を呪いはしたものの、それは言葉によって行われたのであり、神の呪いは実際に人に災いをもたらすことはなかった。なぜなら、神が呪ったのは人の不従順であり、従って神の呪いの言葉は人を完全にするためでもあったからである。神が人を裁く際も、呪う際も、それは人間を完全にする。どちらも人の内にある穢れたものを完全にするためのものである。この手段により人は精錬され、人の内に欠けているものは神の言葉と働きを通して完全にされる。神の働きのどの段階も、厳しい言葉であれ、裁きであれ、刑罰であれ、人を完全にする、あくまで適切なものである。あらゆる時代を通じ神はこのような働きを為したことはない。今日、神はあなたがたの内にあって働いているので、あなたがたは神の知恵を理解できた。あなたがたは内にある何らかの苦痛を味わってはいるものの、心は堅固で、平安である。神のこの段階の働きを享受できるのはあなたがたにとって祝福である。将来得られるものが何であるかにかかわらず、今日あなたがたの内に神の働きとして理解できるものは愛である。人が神の裁きと精錬を経験しないならば、その行いと熱い思いは常に外にあり、その性質は常に変わらないであろう。そんな状態は、神に得られたと言えるであろうか。今日、人の内にはまだ傲慢やうぬぼれが多くあるものの、その性質は以前よりずっと安定している。神があなたを取り扱うのはあなたを救うためであり、取り扱われる際には苦痛を感じることはあっても、あなたの性質に変化が起こる日はやってくるのである。その時、あなたは振り返って神の働きがいかに賢明であるかを知る。その時にあなたは真に神の旨を理解できるのである。今日、ある人々は神の旨を理解していると言っている──しかし、それは全く現実的でなく、でたらめなことを言っているのである。なぜなら、神の旨が人を救うためのものか、それとも呪うためのものか、この時点でその人々はまだわかっていないからである。多分あなたがたは、今ははっきりとわからないだろう。しかし、神の栄光が現れる日が来たとわかり、神を愛することがいかに意義深いことであるかがわかり、それにより人生を知り、あなたの肉は神を愛する世界に生きる。あなたの霊は解放され、あなたの生活は歓びに溢れ、常に神のそば近くで神を見上げる、そういう日がやがて来るであろう。その時あなたは、今日の神の働きがいかに価値あるものかを真に理解するであろう。

今日、大抵の人々はそのような認識を持っていない。そういう人々は、苦しみには価値がなく、自分は世の中から見捨てられており、家庭生活には問題があり、神に愛されておらず、将来は暗いと考えている。一部の人々にあっては、苦しみがある点に達し、死を考えるようになる。しかし、それは真の神への愛ではない。そうした人は臆病者であり、忍耐力を持たず、弱く、無力なのである。神は人に愛されることを強く願っているが、人が神を愛するほどその苦しみは大きく、より愛すればより人の試練も大きくなる。もしあなたが神を愛すれば、あらゆる苦しみがあなたにもたらされるであろう──そしてもし神を愛さなければ、多分何もかもが順調にゆき、あなたの周囲では何もかもが平和であろう。あなたが神を愛する時、周囲の多くの事が克服し難いと感じ、あなたの霊的背丈があまりにも小さいために精錬されるであろう。さらに、あなたは神を満足させることができず、神の旨はあまりにも崇高で、人の及ばぬところにあるといつも感じるであろう。そうした事すべてのために、あなたは精錬されるのである──内に弱さが多くあり、神の旨を満足させられないものが多くあるため、内を精錬されるのである。しかし、あなたがたは、穢れは精錬によってしか拭い去れないとはっきり知らなければならない。このように、終わりの日に、あなたは神に対して証しとならなければならない。あなたの苦しみがいかに大きくても、最後まで経験しなければならず、あなたの呼吸が止まるまで神に対して忠実であり続け、神に身を委ねていなければならない。これのみが真に神を愛するという事であり、これのみが強く確固とした証しとなるのである。サタンの誘惑を受けたら、「私の心は神のものであり、神は既に私を得た。私はあなたを満足させることはできない──私のすべてをもって神が満足されるようにしなければならない」と言うべきである。神を満足させるほど、神はあなたに祝福を与え、神へのあなたの愛は強くなる。そして、信仰と決意を持ち、神を愛して生きることほど価値や意義があるものはないと思うであろう。神を愛すれば、悲しみがなくなるとも言える。肉が弱く、多くの深刻な問題に悩む時があっても、その間あなたは真に神に頼り、霊の内に慰めを得、確信を持ち、頼るものがあると感じるであろう。このようにして、あなたは多くの状況を克服することができ、降りかかる苦しみのために神に対し不平を言うことはないであろう。あなたは歌い、踊り、祈り、集って交わり、神のことを考えたいと思うであろう。そして、あなたの周囲にある、神によって整えられたすべての人々や物事はふさわしいものと感じるであろう。もしあなたが神を愛さないならば、見るものすべては退屈で、何も目を楽しませるものはない。霊にあっては自由がなく虐げられており、心では常に神に不平を言い、また、あまりにも悩みが大きく、あまりにも不当だと常に感じるであろう。幸福のために追求するのではなく、神を満足させ、サタンにそしられないために追求するのであれば、そうした追求は神を愛する多大な力を与えてくれる。人は神によって語られたすべてを為すことができ、人が為すすべての事は神を満足させることができる──これが現実性を持つということである。神を満足させることを追求するのは、神への愛をもって神の言葉を実践することである。いかなる時も──他者に力がない時でも──あなたの内にはまだ神を愛し、深く求め、その存在を懐かしむ心がある。これが現実の霊的身丈である。霊的身丈は、神への愛がいかに強いか、試練を受けたときにいかに堅固に立ち続けられるか、ある状況に陥った時に弱いかどうか、兄弟姉妹に受け入れられない時にも自分の立場を守れるかどうかにより決まる。現れる事実により、あなたの神への愛が実際どういうものであるかがわかるであろう。神の働きの多くから、神が本当に人を愛していることが理解できるが、人の霊の目は未だ完全には開いておらず、神の働きの多く、神の旨、そして神についての多くの素晴らしい事が見えないのである。神に対する人の真の愛はあまりにも小さい。あなたはずっと神を信じてきて、今日神は逃れる手段をすべて取り除いてしまった。現実的に言うと、あなたには正しい道を進むしか選択肢はない。その正しい道とは、神の厳しい裁きと最高の救いによりあなたが導かれてきた道である。苦難と精錬を経験して初めて、人は神の素晴らしさを知るのである。今日までの経験により、人は神の素晴らしさの一部を知るようになったと言える──しかし、人はあまりに不完全であるため、それでもまだ不十分である。神の素晴らしい働きと神がもたらすあらゆる苦しみの精錬を、人はさらに経験しなければならない。そうして初めて、人のいのちの性質を変えることができるのである。

脚注

a. 原文に「の時代」という語句は含まれていない。

b. 原文に「の時代」という語句は含まれていない。


私のいのちが幾許も事態に神はその御手で私を御救い下さりました

2019-10-30 17:45:04 | 書籍

私のいのちが幾許も事態に神はその御手で私を御救い下さりました

神に救われなければ 今もさまよっていただろう

もがき罪に苦しんで 虚しく、望みもなく

神に救われなければ 悪魔に踏みにじられて

罪の快楽に溺れ 先のこと考えもせずに

全能神に救われ その言葉に清められ

罰と裁きにより 堕落した心も変わり

明かされた真理で 新たな生命下さり

目の前の神を見て 真実の愛を知る

ようやく気づいた 神の愛のお守り

神の声を聴いて 玉座へ引き上げられ

婚宴を楽しもう 完成され、清められ…

(『小羊に従って新しい歌を歌おう』より)

私は、この讃美歌を耳にする度に、いつも深く感極まる思いになります。もし、この讃美歌が歌うように神から御救いいただいていなければ、私は依然として当ても無く世界中をさまよい、お金を追い掛けて疲れ果て、ずいぶん前に自分の命を失い異国の地で死んでいたかもしれません

私は80年代にごく普通の農家に生まれました。私の兄は幼い頃からいつも体調が悪く病気を患っていました。私の父は私が10歳の時、事故で怪我を負って、その後2年間は体がまひしていました。私の家計の状態は元々厳しく、父の治療で膨大な借金を抱えてしまいました。私達の友人と親戚は私達が借金の返済が出来るようにならない事を懸念して、私達にお金を貸そうとしてくれませんでした。私は、どうすることも出来ずに、16歳の時に学校を中退し実家を出て働くことを余儀なくされてしまいました。 深く静まり返った夜、私はよくこう思いました:“自分と同じ年の子供達は幼かった時、放課後になると自分が畑仕事をしている間自由に遊びまわっていたよな。でも今あの子達は自分と同じように大きく成長してからも未だ学校に通ってるし、親といる時は甘えん坊みたいに振る舞っているのに、自分は家族のサポートをするために若くして仕事を始めて、沢山しんどい思いをする羽目になるなんて…” 当時、私は自分の両親に何で私を生んだのか、何で私は苦しみながらあくせく働くためだけにこの世に生まれてきたのかと文句と言ったことがありました。しかし、私がこれに対して出来ることは何もなく、この現実を受け入れる他ありませんでした。当時、私は一生懸命働き、収入を得て、両親が快適に暮らせるようにして、他人から見下されないようにする事を何よりも望んでいました。

私は最初、民間のアルミ合金工業で働きました。私は児童労働者であったため、上司はいつも私の食事や住宅の事で面倒を見てくれました。1年が過ぎた後、私は自分の賃金は低すぎると感じ、誰もやりたがらなかった家具工場でのラッカースプレー作業に就く選択をしました。当時私は、どんな仕事でももっとお金を稼げるなら法に触れない範囲で働きました。私の目標は、また貧乏人の生活を送る羽目にならないよう金持ちになることでした。その後、親戚が仕事で海外に行ける機会を提供してくれる会社に私を紹介してくれたのです。私は数年後に海外に行けるなんて考えてもいませんでした。

2012年の春、私は日本に来て新生活を始め、自分の願いを叶えました。私は造船業界で、見習いとしてある企業と3年間の契約を結びました。仕事を始めた時、私はくたくたになり、大変な思いをしました。料理の仕方を知らなかった私はカップヌードルを1か月間食べ続けた後、吐き気がして食べれなくなったので料理を学ばざるを得なくなりました。私は芯が残った米を何日食べたか見当もつきません。 日本では、私達は外国人であったため、企業で働く作業員が不公平な扱いから逃れることは容易ではありませんでした。私達は企業から汚くて、しんどくて、危険な仕事をさせられていました。ラッカ―のスプレー作業をしていた時は、非常に怖い思いをしました。なぜからガスが火に触れると発火してしまい、一瞬でも目を離したら命が危ないからです。しかし、私生活で苦しんだり、職場が危険であったとしても、もっとお金を稼いで家族に仕送りをする事を考えたり、帰国してたら車と家を購入して、他人よりも上に行ってもう貧乏にならなくて済むことを考えるている内は当時の苦難はさほど大したことではないと感じました。そこで働きながらあっという間に3年が経ち、私のビザは有効期限が近づいていました。この企業には契約更新のポリシーがあったので、私はもっとお金を稼ごうと契約を更新して日本で働き続ける選択をしました。予想外に嬉しかったのは、契約を更新して直ぐに全能神の神の国に関する福音に巡り合うことが出来たことでした。

2015年9月、私が日本で知り合った友人が終わりの日における神の働きについて語ってくれたのです。彼女が神への信仰について話してくれていた時、私はこれは単なる信念の一種であり、興味深いことだとは思わず、神を信仰しても私の運命は変わらないと感じていました。そして直ぐに、私はこの友人に自分の考え方と今まで絶えてきた苦難について話した後、彼女にこう聞きました:“神を信じると運命を変えられるの?今まで沢山辛い経験をしてきたから、私は運が悪いんだよね。でも、お金があれば、辛くなくなるだろうから、今一番現実的なのはお金を稼ぐことなんだ。自分が神を信じることはないと思うよ。” 私がこう言ったのを聞いた友人は、神の御言葉のこの箇所を私に読んでくれたのです:「あなたがたが毎日どこへ行き、何をして、誰と会い、何を見て、何を言うか、あなたがたに何が起こるか、といった事柄を予測出来るであろうか。人間はそうした事柄の発生を予測することができず、ましてそれらがどのように展開してゆくかを予測することは出来ない。人生において、予期せぬ出来事は日常的に発生する。こうした日常的に起こる変化や、そうした変化の発生のしかた、発生後の展開形態は、何ら規則性無く発生する物事は無く、発生した物事の結果やその必然性は、人間の意志で変えられないということを、人類に対して継続的に喚起するものとなっている。あらゆる出来事は、人間に対する創造主の訓戒や、人間は自分自身の運命を支配できないという知らせを伝達すると同時に、自らの運命を掌握しようとする人間の大それた、そして無意味な野望や願望に対する反証でもある。こうした出来事は、耳元で連続的に発生する強い衝撃音のように、人間に対して、誰が最終的に人間の運命を支配しているかを強制的に再検討させるものである。人間の野望や願望が繰り返し阻まれ、砕かれてゆくにつれ、結果として人間は、待ち受ける運命や、現実、天の意、そして創造主による統治を、無意識のうちに自然と受け入れる。こうした日常的な変化から全人生の運命に至るまで、創造主の計画や統治を明示しないものは無い。すなわち、『創造主の権威は超越不可能である』という知らせを伝えないもの、『創造主の権威は至高のものである』という恒久の真理を伝えないものは存在しない。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身3」より)これを聞いた後、私はこの御言葉はとても道理になかっていると感じ、更には自分が契約の更新が出来たことも、神が御用意して下さったものであるように考えずにはいられなくなりました。これには自分が生まれた家庭や自分の家族との生活は選択の余地がなかったのではないかとまで考えさせられました。私は、支配権を握る主権者がどこかにいるのではないかと感じました。

私の友人からは、『言葉は肉において現れる』の「唯一なる神自身III」における神の御言葉も読むように促され、それには人が人生を通して経験する必要のあるこの6つの節目について書かれていました:節目1 出生:節目2 成長:節目3 独立:節目4 結婚:節目5 子孫:節目6 死。私は神の御言葉を読んで唖然としました。私は、神が人類の運命についてこれほど明確に語られているとは思ってもおらず、現実は正に神の御説明通りだったのです。一般的な環境において、人はその人生を通してこの6つの節目を経験することになるのです。私は世界中には苦しんでいる人達が沢山いて、自分だけではないという事について考えました。もし人々が自分の運命を選択することが出来て、それをコントロール出来たとしたら、皆が大きく豪華な家に住むことを選び、貧困や苦難で苦しむ人々が存在しているでしょうか?実際には、人がどの家庭に生まれるかを選択する余地などはなく、どんな両親を持つかを選択することも出来ないのです。大人になった後、どの旦那や妻と一緒になるかも私達次第で決まることはないのです。。。私はこれについて考えれば考えるほど、増々神の御言葉が現実的だと感じるようになり、それから全能神の御言葉を心の中で信じ始めたのです。運命は自分で変えられるものではないのです。それ以降、私は神への信仰に増々興味を持ち始め、神の存在を信じ、人の運命は人がコントロールし得るものではないと信じるようになったのです。しかし、神についてあまり知らなかった私は、神をとても遠い存在に感じました。しかし、私は、その後すぐの体験の中で “神は私のすぐ側で、私のことを見守って下さっており、保護して下さっておられる”と実感したのです。

ある雨降りの日、私はいつも通りに職場に着きましたが、まさか大惨事が自分を狙って忍び寄っているとは思いもしていませんでした。午前10時過ぎ、私が現場で勤務中に突然 “ドカーン” と鳴る音がしたのです。私は一体何が地面と衝突したのか分かりませんでしたが、恐怖のあまり体がひんやりゾクッと震えました。振り返ると見ると、直径40センチで長さ4メートル、重量が0.5トンもある鉄パイプがクレーンから落下していたので呆然としてしまいました。それは私が立っていた場所から0.5メートル以内の所で地面に落ちたのです。その瞬間、私はあまりの恐怖感で開いた口が塞がらず、ショックから落ち着きを取り戻すのにも時間がかかりました。私は心の中でこう続けて叫びました:“神様、有難うございます!神様、有難うございます!” もし神がそこで私のことを見守りながら保護して下さっておらなければ、あの鉄パイプは私に向って真っすぐ落下し、私の小さないのちは終わりを迎えていたことでしょう。

仕事が終わって、私が兄弟姉妹達にその日起こったことを話していた時、彼らはそれは神の御加護であったのだと言って話してくれたのです。彼らは私に全能神のこの御言葉も読んでくれました:「基本的に、長い人生の中では、誰もが数多くの危険な状況や誘惑に遭遇します。これは、あなたの傍らには、常にサタンが存在し、あなたを見据えているからです。サタンは、あなたが災害に見舞われたり、災難が降りかかったり、何事もうまくいかなかったりすることを喜び、また、あなたがサタンの罠にかかることを喜びます。しかるに神は、常にあなたを守り、次々起こる逆境や災難からあなたを守ります。これが、平安や喜び、祝福、身体の安全など、人間が持つものは、実際のところ全てが神の支配下にあり、神が各人の人生と運命を導き、決定する、とわたしが言う理由です。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 6」より) 私は神の御言葉を読んで、人々は毎日サタンの罠の中を生きており、残酷なまでに傷つけられているのだと理解しました。神による御見守りと御導きを受けていなければ、人々は随分前にサタンに飲み込まれていたことでしょう。長年の間、私は何度神に見守っていただいた事があったのかは不明ですが、今までずっと神のことを知らなければ、神を敬うことも知らなかったのです。私は本当に全く何の良心も持っていなかったのです。その瞬間から、私は神の御救いの恵みについてより深く理解出来るようになりました。私が今日まで生きてこれたのも、神の愛情こもった御手が私を御導き下さっていたおかげで、私は心からそれを神に感謝しました。また、私は今後、神に従うために自分が出来ること全てを行う決意をしました。それ以降、私は頻繁に兄弟姉妹達と一緒に集会に参加し、普通の教会生活へと移行し、私の生活に少しずつ変化が表れ始めました。すると私はもう以前のような切望、苦しみ、虚しさを感じなくなったのです。私達兄弟姉妹は共に神の御言葉を読んで交流し合い、神を讃える讃美歌を歌い、心に自由と解放感を感じながら霊的生活の中でお互いを助け合っていました。私を見下したり、貧乏人を軽蔑したり、金持ちの機嫌を取るような人はこの中に独りもおらず、私は威厳を以て生きて行ける気になりました。私は、この全能神教会の大きくて、温かくて、恵まれた家庭で暮らしていると、以前よりも大きな幸せと満たされた気分を味わうことが出来たのです。

ある日のこと、私の勤めていた会社にいたある日本人に事件が起きました。彼はその会社の永年勤続者で、既に10年を超える勤続経験を持っていました。彼は安全意識においても、テクノロジーにおいても非常に優秀な人でした。その日、彼は勤務中にリフトトラックを運転していたのですが、それを地上20メートルの位置に上げたまま他の作業をしていました。運転中に、彼は注意不足でトラックから液化ガスを自分に漏出させてしまったのです。同時に他の作業員が彼の上で溶接作業を行っており、突然火花が彼の服に落ち、漏出した液化ガスが火花と接触した瞬間、それが突然炎上して火事が起ってしまったのです。 多くの作業員達はこの年配の作業員がその場で炎に包まれるのをただ呆然と見つめる以外にどうしようもなく、何もしてあげる事が出来なかったのです。彼を助けられる人を探しに行くのは既に手遅れで、数分の内に彼は焼死してしまったのです。この悲劇を見て、多くの人が彼を気の毒に思いましたが、自分達の命について、“私達は結局何のために生きているんだ?”と考えずにはいられませんでした。こんな悲劇がすぐ側で起こった事を踏まえ、私は、神から離れて神の御見守りと御加護を失ってしまったら、人の命は常に保護されていない状態にあるのだと正しく理解出来たのです。人は災難の前では非常に小さな存在であり、容易に潰れてしまい、人の専門性がどれだけ優れていても、どれだけ金持ちであっても、自らを救うことは出来ないのです。

後に、私は神の御言葉のこの1節を読みました:「創造主による統治と定めのために、影形の無いものとして誕生した孤独な魂は、両親と家族を得、人類の一員となる機会、そして人間の生活を体験して世界を見る機会を得る。またその魂は、創造主による統治を経験する機会、創造主による創造の素晴らしさを知る機会、そして何よりも、神の権威を知り、その対象となる機会を得る。しかし大部分の者が、こうした稀少で束の間の機会を本当に掴むことは無い。人間は一生涯のエネルギーを運命に立ち向かうことに費やし、家族を養おうと必至で働き、富と地位の間を行き来して、全ての時間を費やす。人間が大切にするものは、家族、金銭、名声であり、人間はこれらを人生において最も価値の高いものとみなす。あらゆる人々が自分の運命に不満であるが、人間は何故生きているのか、人間はどう生きるべきか、人生の価値と意味は何であるか、という最も喫緊に検討して理解する必要のある問題を心の中で常に先送りする。人々は、その生涯が何年であるかを問わず、若さを失い白髪とシワが現れるまで、富と名声で人間の老化を止めることが出来ず、金銭で心の空虚感を埋められないことを悟るまで、そして出生、老化、疾病、死の法則の例外となる者や、待ち受ける運命から逃れられる者はいないことを悟るまで、一生涯を通して、せわしなく富と名声を追い求めるのみである。人間は、人生最後の節目に直面せざるを得なくなった時に初めて、巨額の財産があったとしても、特権のある高い地位にあったとしても、死を免れられる者はおらず、全ての者が元来の何も無い孤独な魂に還るということを理解する。」 (『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身3」より) 私はこの神の御言葉を読んで深く動揺しました。人々の魂は神から来るもので、それは人類の世界に入り込むよう神によって運命付けられているのです。しかし、人々はそれでも神を信仰して敬おうとしないのです。彼らは創造主である神の権威を体験する機会を大切にせず、金、名誉、親族のためだけに生きることしか知らないのです。彼らは皆、自分達の運命の采配を振り払おうと精力的に走り回り多忙にしていますが、人々はこういったものを求めて一体何を手にすることが出来るのでしょうか?死が差し迫っている時に親戚、名誉、富の内いったい何が命を救ってくれるのかと、考えた事がある人はいるのでしょうか?私の年配の同僚の死について考えてみてください、これはこの事実を示す最良の実例だと言えないでしょうか?私が以前追い求めていた事を振り返ると、私も同じ事をしていたと言えないでしょうか?海外に出稼ぎに行った時、貧乏で恥をかきたくなかった私は、お金を稼いで人から高い評価を得るためなら汚くても、しんどくても、危険でも、仕事なら何でも引き受けていました。 私はありとあらゆる苦難を通ってきましたが、この生き方を変えようと思ったことは一度もありませんでした。私は同じ道をずっと歩み続けていたのです。心の中で、私は神の存在を知らず、人の運命は神の手中にあることも知りませんでした。私は自力で自分の運命を変えようとし、自分の人生において既に運命付けられている神の御計画と御采配から懸命に逃れようとしていたのです。私が歩んでいた道は没落に繋がる道だったのではないでしょうか?神の御救いを受けていなければ、また神の御見守りと御加護がなければ、わたしのちっぽけな命はとっくの昔にサタンにもぎ取られていたことでしょう。さらに言うと、私の人生がどうやって今ほどに充実感のある有意義なものになり得たでしょうか?この瞬間、私は、生きることの意味は富や名誉を求めたり、人から高い評価を受けるために他の人よりも出世することでもなく、むしろ神の存在の中に自ら入り込み、神を敬い、神の御救いを受けてサタンの害から抜け出すことなのだとやっと分かったのです。 このように考えれば考えるほど、私は増々深く感動してしまいます。私は、自分は神を信じることが出来ると言うこと、そして、これは神が特別な御恵みを以て私を御扱い下さったおられるということが分かるようになったのです。私は心に抱く神への感謝の意をどう表現してよいのか分からないので、代わりに“神に救われていなければ”という讃美歌を学んで、神への称賛を示し、全能神に私を御救い下さったことを感謝しました。

リン・ウー(日本)


キリスト教混声合唱「神の国の讃歌―神の国がこの世に降臨する」新しいエルサレムが天から下って来た

2019-10-29 11:07:15 | 合唱

キリスト教混声合唱「神の国の讃歌―神の国がこの世に降臨する」新しいエルサレムが天から下って来た
心震わせる神の国の賛歌が鳴り響き、神が人のあいだに降臨したことを全宇宙に告げました。神の国が到来したのです。すべての民が歓声をあげ、万物が歓喜します。天の至るところに喜びが満ちています。こうした魅力的な歓喜の光景はどのようなものでしょう。
苦痛の中に生き、サタンによる数千年の堕落を耐えてきた人間の中に、神の到来を待ち望まない者、切望しない者はいるでしょうか。各時代における神の信者や追随者のうち、サタンの影響の下、苦痛や患難、迫害、疎外に苦しんだ人はどれだけいたでしょうか。神の国が今すぐ到来することを待ち望まない人がいるでしょうか。人間の喜びと悲しみを味わった人の中に、真理と義が人類のあいだで権力を握ることを望まない人がいるでしょうか。
神の国が到来するとき、万国万民の待ち望んでいた日がようやく訪れます。そのとき、天地の万物のあいだでどのような光景が繰り広げられるでしょうか。神の国の生活はどれほど美しいものでしょうか。『神の国の讃歌―神の国がこの世に降臨する』とともに、千年の祈りが成就するのです。

「神の国の讃歌―神の国がこの世に降臨する」
あまたの民が神に喝采を送り、神を賛美する。万民が唯一の真なる神の名を呼び、神の国がこの世に降臨する。

Ⅰ 
あまたの民が神に喝采を送り、神を賛美する。万民が唯一の真なる神の名を呼び、神の業を仰ぎ見る。神の国が人の世に降臨し、神の本体は豊かで充実している。誰がこれを喜ばないのか。誰が歓喜のあまり踊らないのか。シオンよ。勝利の旗を掲げて神を祝え。勝利の歌を歌いあげ、神の聖なる名を広めよ。

Ⅱ 
地の果てまでも存在するすべての被造物よ。直ちに自らを清めて神への捧げ物となれ。大空の星よ。直ちにもとの位置に戻り、神の全能なる力を天空に示せ。神は地上の民の声に耳を傾ける。神への無限の愛と畏れを歌に注ぐ民の声に。すべての被造物が蘇るこの日、神は人の世に降臨する。この瞬間、まさにこの節目、すべての花が一斉に咲き乱れ、すべての鳥が声を揃えて歌い、すべてのものが喜びに打ち震える。神の国の礼砲が鳴り響くと、サタンの国はよろめき倒れ、神の国の賛歌がとどろく中で滅び、二度と立ち上がることはない。

Ⅲ 
地上の誰があえて立ち上がり抵抗するというのか。地に降り立つ神は焼き尽くす火をもたらし、怒りをもたらし、ありとあらゆる災難をもたらす。地上の国々はいまや神の国である。空の雲は激しく動いて渦を巻き、地の湖と川はうねりをあげ、感動的な旋律を喜んで奏でる。休んでいた動物はねぐらから現われ、万民は神により眠りから呼び覚まされる。万民の待ち望んでいた日がついに来た。彼らは最も美しい歌を神に捧げるのだ。
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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あなたはヨハネの黙示録の預言に関する主の再臨についての二つの方法はどういうことなのか知っていますか

2019-10-28 17:42:46 | 書籍

あなたはヨハネの黙示録の預言に関する主の再臨についての二つの方法はどういうことなのか知っていますか

周静

ある日、インターネットで活気ある議論が行なわれているのを目にしました。西半球の夜空で四回観測されたブラッドムーンは最後の日を警告するものだとか、地球全体で大地震がさらに頻発しつつあるといったことが書き込まれていました。私はこう考えました。「ブラッドムーンがもう四回も観測されているし、天体現象も起きている。それに世界中で災害が頻発して、テロ事件も増えていて、いつもどこかで戦争が起きている……これらの現象はすべて、主イエスの再臨の預言が基本的に成就したことを示しているけれど、主が私たちとお会いになるべく雲に乗って降りてこられるのを、いまだに見ていないのはなぜかしら。主イエスはまだ戻られていないということなのか、それとも主はすでに戻られているけれど、自分がまだ主を見ていないということなのか。どうしたら主の再臨をお迎えできるだろう」この疑問が心の中を駆け巡り、私を当惑させました。この件について何らかの理解を得ようと、私は何度も主に祈り始めました。そして主の再臨をお迎えできて主に追い払われることがないよう、私を啓いて導いてくださいとお願いしました。

ヨハネの黙示録, ヨハネの黙示録の預言, 主の再臨

それからしばらくして、数ヶ月ほど顔を合わせていなかった甘姉妹が私に会いに来ました。それが主の采配であることを私は知っていました。甘姉妹は長年にわたって主のために働き、思慮深く洞察力に満ちた人でした。彼女なら自分の問題を解決できるかもしれないと考えて、私はこう言いました。「甘姉妹、ちょっと混乱している問題があって、それを追求したいと思っているんです。聖書には次のように記されています。

そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう』(ルカによる福音書21:27)

見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン』(ヨハネの黙示録1:7)

それによると、主イエスはおいでになるとき、大いなる栄光と力をもって、雲に乗ってこられることになっています。主は公然と姿をお見せになり、誰もが主を見ることができるのです。だから私たちは、主が雲に乗っておいでになり、私たちを天へと導いてくださるのをずっと待ち続けてきました。現在、世界中で災害や地震や干ばつが絶えず、戦争が頻発し、加えて多くの天体現象が起きています。これらの現象はすべて、主の再臨の預言が基本的に成就したことを示していますが、主が私たちとお会いになるべく雲に乗って降りてこられるのを、私たちがいまだに見ていないのはなぜですか。いったいどういうことでしょう」

甘姉妹は私の言葉に耳を傾け、少し考えてから言いました。「あなたのその質問は、主の再臨をお迎えしたいと願う私たち全員が理解したい問題です。主の再臨をお迎えしたいなら、まずは主が終わりの日に実際どうやっておいでになるかを知らなければなりません。それは重大な問題です。実を言うと、聖書の中には、あなたが言ったように雲に乗っておいでになる以外に、主がおいでになるもう一つの方法の預言があります。例えば、黙示録16章15節には『見よ、わたしは盗人のように来る』とあります。また黙示録3章3節には『もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない』と記されていて、マタイによる福音書24章44節にも『だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである』とあります。これらの預言は、主は盗人のように密かに来られ、誰一人知ることはないと述べています。姉妹、ここでいま話した聖句を検討しましょう。その中には、主は公然と雲に乗って戻られると記されている箇所もあれば、主は密かに来られて誰一人知ることはないと記されている箇所もあります。それを考えたことがあるでしょうか。主の再臨という同じことに関する預言が、異なることを述べているのはなぜでしょうか」

私は彼女の言うことがよく分かっておらず、心の中でこう考えました。「確かにそうだわ。黙示録1章7節には『彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう』と書かれているけれど、黙示録16章15節には『わたしは盗人のように来る』と記されている。それはどういう意味なのか。主は実際どうやっておいでになるのか」

私は困惑して、甘姉妹にこう返事をしました。「これらの預言には、主は公然と降りてこられると述べているものもあれば、主は密かにおいでになると述べているものもあります。矛盾しているように見えますが、主の御言葉に欠陥はなく、単にいま自分が理解していないだけだということは分かります。どうかこの件について私と交わってください」

甘姉妹は笑みを浮かべて言いました。「主は誠実でいらっしゃるので、これらの預言はきっと成就します。それはきっと起きるのです。矛盾しているように見えても、まったくそうではありません。『盗人のように』は、主が密かに戻られることを述べており、『雲に乗ってこられる』とは、主が公然とおいでになることを指しています。つまり、主は戻られるとき、まずは密かにおいでになり、それから公然と姿をお見せになるのです」

「まずは密かに、それから公然と」私は驚いて声を上げました。

「そうです。主は戻られるとき、まずは人の子として受肉なさることで密かに来られ、その働きを完了なさったあと、今度は雲に乗っておいでになり、すべての国のすべての人に公然と姿をお見せになるのです」彼女は辛抱強く説明してくれました。

私は待ちきれなくて言いました。「つまり、主は最初に人の子として受肉なさって密かに来られ、それから雲に乗って姿をお見せになるんですね。そんなことは初耳です」

甘姉妹は微笑んで言いました。「聖書の聖句をもっと見ましょう。そうすれば理解できます。主イエスはこのようにおっしゃいました。

ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう』(マタイによる福音書24:27)

いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』(ルカによる福音書17:24-25)

これらの聖句は『人の子』と『人の子の到来』に触れています。『人の子』は人間から生まれ、普通の人間性を有し、普通の人のように食べ、服を着、暮らし、行動なさいます。外見上、人の子は普通の人と同じようにしか見えません。しかし、人の子は神性の本質を有しておられ、真理をあらわして人類を救う働きがおできになります。それはまさに、主イエスが受肉された神様の御霊でいらっしゃったために『人の子』と呼ばれ、外見上こそ普通の一般人に見えたものの、その肉体は本質的に神様であり、完全な神性を有しておられたことと同じです。主イエスがキリストでいらっしゃり、神様ご自身でいらっしゃったのはそのためです。ゆえに、主イエスは『人の子』と『人の子の到来』に触れられたのです。それらはいずれも、神様が終わりの日に肉において戻られることを指しています。聖書には『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』とも記されています。私たち全員が知っているとおり、人が神様を神様として認識できないのは、神様が人の子として肉をまとわれ、人類のあいだに密かに来られる場合に限ります。人間は受肉なさった人の子を普通の人と認識しますが、そのせいで神様を拒み、誹謗し、裁き、ひいては受肉なさった神様に反抗して敵対しさえするのです。神様が『多くの苦しみ』を受けられるのはそのためです。主イエスは肉において現われて働きをなさったとき、人間による拒絶、誹謗、嘲笑、冒涜、断罪を受け、最後は十字架にかけられましたが、まさにそれと同じなのです。主が戻られるとき、雲に乗って降りてこられ、人々に公然と姿をお見せになったら、誰もがそれを見て恐怖に震え、神様の御前にひれ伏して崇拝するでしょう。誰一人、あえて神様に反抗したり敵対したりはしないはずです。それならば、『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』という預言がどうして成就するでしょう。ゆえに、主イエスはまず肉において密かに再臨され、その後雲に乗って公然と姿をお見せになることが確かめられるのです。

ヨハネの黙示録, ヨハネの黙示録の預言, 主の再臨

彼女の言葉を聞いたあと、私はそれを心の中で反芻しました。「つまり、主イエスは戻られるとき、まずは密かにおいでになり、その後雲に乗って公然と姿をお見せになるという主張には、聖書の中に根拠があるのね。何年もずっと聖書を読んできたのに、主の再臨に二通りの方法があると気づかなかったなんて、いったいどういうことなの。すごい。でも、主がまずは肉となられて密かに来られ、それから公然と姿をお見せになるのはなぜかしら。どういうことなの。訊かなくちゃ」そこでこう言いました。「甘姉妹、あなたのお話から、主の再臨がまずは密かになされ、それから公然と姿をお見せになることがわかりました。そう考えれば、もう聖書の預言に矛盾はないように思われます。でも、主がまずは密かに来られ、それから公然と姿をお見せになるのはなぜなのか、私にはどうしても分かりません。これに関する主の御心はどういうものでしょう」

甘姉妹は答えて言いました。「実を言うと、神様がまず肉となられて密かに働きをなさり、次いで終わりの日に公然と姿をお見せになるのは、いずれも神様の働きに必要なことであって、私たち堕落した人類にとっても必要なことなのです。私たちは主を信じ、主イエスに贖っていただきました。私たちの罪は赦されたのです。しかし、私たちの罪深い本性は未だ深く根を張っており、どうしても頻繁に罪を犯したり、神様に反抗することや敵対することをしたりしてしまいます。それは否定できない事実です。ヤーウェ神は『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』(レビ記11:45)とおっしゃいました。また『ヘブル人への手紙』12章14節には『……きよくならなければ、だれも主を見ることはできない』と記されています。いつも罪を犯して告白する私たちのような人間は、主のお顔を拝見するのにまったくふさわしくなく、天国に入る資格もありません。そのため、主イエスははるか昔に次の預言をおっしゃいました。

わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書16:12-13)

わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう』(ヨハネによる福音書12:48)

また『ヨハネの黙示録』2章7節にも『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』と記されています。私がこれらの預言から理解したのは、主は終わりの日に来られるとき、さらに多くの御言葉をあらわされ、神様の家に始まる裁きの働きをなさるということです。主はおいでになって人類を変え、清め、お救いになり、私たちをサタンの領域から完全に救い出されます。また終わりの日の主の働きには、人々を種類に応じて選り分けることも含まれています。つまり、真の信者と偽信者、小麦と毒草、羊と山羊を明らかになさり、その種類に応じて選り分け、そうして善に報いて悪を罰せられるのです。神様が密かに働きをなさっているあいだ、神様による裁きの働きを受け入れる人は神様の玉座の前に引き上げていただけます。そのような人は神様の御言葉による裁きと刑罰を経験し、自分のサタン的な本性と神様に抵抗する根源について真の認識を得ます。また背きを許さない神様の義なる性質も認識するようになります。そのような人の堕落した性質は徐々に清められ、変えられます。そうして真理を求める道に踏み出し、神様によって完全に救っていただけるのです。しかし、神様が密かに働きをなさるあいだ、神様の出現を探し求めず、神様の働きと御言葉を拒んで断罪しさえする人は、終わりの日の神様の働きにおいて、非信者、悪人として暴かれます。神様の密かな働きが終わりを迎えるとき、神様は大災害を降らせて善に報い悪を罰せられ、それらの災害のあと、万人の前に姿をお見せになります。神様を拒んで抵抗した人が、そうしていた相手が実は再臨なさった主イエスだったと知ると、胸を叩き、泣きわめいて歯ぎしりします。これは主イエスの次の御言葉を成就しています。

見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン』(黙示録1章7節)

このことから、神様の働きにはお知恵が満ちあふれていることがわかりますし、それはまた神様の義なる性質のあらわれでもあるのです。

甘姉妹によるこの話を聞いて、私の心は大いに明るくなりました。主の再臨の預言がそのようにして成就するのだとわかったからです。主はお戻りになるとき、まずは受肉なさって密かにおいでになり、真理をあらわされ、裁きの働きをなさり、勝利者の集団をお作りになります。その後はじめて、公然と人類に姿をお見せになるのです。神様が密かに働きをなさっているあいだ、それを受け入れず、不当にも神様の働きと御言葉を裁いて断罪する人はみな真理を憎む人であり、神様が公然と姿をお見せになるとき、災害に襲われて罰せられるよりほかありません。また神様はこの方法をお使いになることで、小麦と毒草、羊と山羊、良き召使いと悪い召使いを明らかになさり、すべての人を種類に応じて選り分けられます。神様は本当にお知恵があり、かくも全能なのです。私はそれまで、主イエスが実際にはどのようにしておいでになるのかを理解しておらず、空に浮かぶ雲をぼんやり眺めながら、主がその一つに乗って降りてこられるのを待つことしか知りませんでした。主の再臨に関するすべての預言を探し求めも考えもせず、そのせいで主が密かにおいでになる預言を見逃してしまったのです。それは実に危険なことでした。そのように待ち続けていたら、主をお迎えできなかっただけでなく、神様に完全に救っていただき、天国に入る機会を失っていたでしょう。そう考えると少し不安になり、慌ててこう尋ねました。「甘姉妹、それなら主が密かに来られるとき、私たちは主の働きを見つけて再臨をお迎えするために何をしなければならないのでしょう」

甘姉妹は微笑んで言いました。「聖書で預言されていることから、主は終わりの日に戻られるとき、さらに多くの御言葉を発せられ、人類を裁いて清める働きをなさることがわかりました。したがって、主の再臨をお迎えするうえで鍵となるのは、終わりの日の主の御言葉を受け入れ、神様の新たな働きに歩調を合わせることです。主イエスは次のようにおっしゃいました。

夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした』(マタイによる福音書25:6)

わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る』(ヨハネによる福音書10:27)

神様の羊は神様のお声を聞くことができます。神様のご発言を聞き、そこから神様のお声を聞き分けられる人はみな、主の到来をお迎えすることができます。ペテロ、ヨハネ、マタイをはじめとする主イエスの弟子も、まさにそれと同じです。彼らは天国の福音に関する主イエスの説教を聞いて、その働きと御言葉から、イエスが自分たちの待ち望んでいたメシアでいらっしゃると判断でき、かくしてためらうことなくイエスに付き従いました。彼らは賢い乙女なのです。私たちも主の再臨をお迎えしたければ、賢い乙女になって主のお声を聞くことに集中しなければなりません。主はもうお戻りになったとか、主は新たな御言葉を発せられ、人類を裁いて清める働きをなさっているとか誰かが言うのを聞いたら、一刻も無駄にせずそれを調べなくてはなりません。それが神様の働き、神様の御言葉だと確かめられる限り、受け入れて服従しなければなりません。そのようにして、私たちは主の再臨をお迎えし、主と婚宴の席に着くことができるのです。

私は甘姉妹の話を聞いて、胸を躍らせて答えました。「主よ、感謝いたします。主の再臨をお迎えするうえで鍵となるのは、賢い乙女になって神様のお声に耳を澄ますことだと、いまようやくわかりました。その御言葉が神様の発せられたものだと確かめられる限り、私は急いでそれを受け入れなければなりません。それが主の再臨をお迎えする唯一の道なのです。ああ甘姉妹、あなたと出会ってから数ヶ月しか経っていないのに、これだけ多くのことをこんなに早く理解するようになったのはどうしてですか」

すると甘姉妹は嬉しそうに言いました。「主よ、感謝いたします。今日私が話したことはどれも、ある本を読んではじめて理解するようになったことばかりなんです。ここに一冊もってきました。一緒に目を通してみませんか」

私はわくわくしてうなずき、「素敵ね」と言いました。


礼拝賛美ダンス「教会生活の何という喜び」歌詞付き

2019-10-27 17:30:12 | 讃美歌

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兄弟姉妹よ、私たちは神の御前に来た
御言葉を飲み食いすることは何という喜び
神は、私たちがどれほど深く真理を理解するかは気にかけず
私たちの真の言葉を喜ばれる
私たちは経験と認識したことを分かち合い
互いに支え合い、手をつないで進む
私たちは真理を理解し、自分自身を顧み
私たちの堕落と欠点を見る
私たちの祈りは私たちが感じること
私たちは心から神に話す
御言葉について交わるほど
私たちは御言葉と真理をより理解する
私たちは神の愛を味わった
教会生活はこんなにも大きな喜びをもたらす
そして、私たちのいのちは少しずつ成長する
キリストの国は実に私たちの家
神を愛する者たちは神をとこしえに賛美する
全能神にすべての栄光があるように!

兄弟姉妹よ、私たちは神の御前に来た
御言葉を飲み食いすることは何という喜び
御言葉について交わるとき
体験し認識したことを分かち合い
聖霊から啓きを得る
神の光は私たちの上に輝く
教会生活はこんなにも大きな喜びをもたらす
そして、私たちのいのちは少しずつ成長する
キリストの国は実に私たちの家
神を愛する者たちは神をとこしえに賛美する
全能神にすべての栄光があるように!

神は私たちのためにすべてのことを采配し
それらは私たちが完全にされるのに役立つ
今、私たちは神の御旨と心を知る
それはすべて私たちが真理を得るため
神の真理と御言葉を実行することで
より真理と現実を得る
教会生活はこんなにも大きな喜びをもたらす
そして、私たちのいのちは少しずつ成長する
キリストの国は実に私たちの家
神を愛する者たちは神をとこしえに賛美する
全能神にすべての栄光があるように!
そして、私たちのいのちは少しずつ成長する
キリストの国は実に私たちの家
神を愛する者たちは神をとこしえに賛美する
全能神にすべての栄光があるように!
誠意をもって本分を尽くし
神の御心にかなうよう証しよう
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より