神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

救いとは?天国に入るために必要なのは救いだけ?

2020-08-13 20:10:12 | 福音を証しするシリーズ

救いとは? 天国に入るために必要なのは救いだけ?

 

目 次
● 「救い」の真の意味
● いかにして救いを受け、天国に入ることができるか?
多くの人が、主の到来後すぐに救われ、天国に引き上げられることを待ち望みます。主イエスが帰ってきて、人々を救い清めるために、神の家から始まる裁きの働きを行っていると、公然と証しているのは、今のところ『全能神教会』だけです。この知らせを聞いて困惑する人もいるでしょう。彼らは次の節を読みます。「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる」(マルコによる福音書 16:16)。「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ人への手紙 10:10)。この聖句の意味は、主イエスが人類すべての罪を贖うために十字架に掛かられたのだから、主に信じる限り、自分たちは救われるし、いったん救われると永遠に救われるということだと、彼らは信じています。自分たちが最後まで主のみ名を保ち、耐え抜けば、終わりの日に裁きや清めという神の働きを受け入れずとも、主が帰りたもう時、すぐに天国に引き上げられると信じています。このような考えは正しいのでしょうか?

よく考えてみましょう:人が一旦救われたら、天国に入れるなどと主が言われたでしょうか?聖書に書かれているでしょうか?この二つの問いに対する答えは明らかにノーです。主イエスは言われました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイによる福音書 7:21)。この神の言葉によって、天の父の御旨を行う者だけが天国に入ることができるということがわかります。 天の父の御旨を行うとは、神の言葉を実行することができ、神に服従し、どんな状況にあろうと、神の言葉に従って生きることができること、また二度と罪を犯したり神に反抗したりしないことです。とはいえ、私たちは、思わず嘘をつき罪を犯し続け、主の教えを実践しないことさえあります。それでは、罪を犯し、このようになおも主に逆らう可能性のある者が、天国に入ることができるのでしょうか?残念ながら「一度救われると永遠に救われる」という私たちの考えは誤りです。神の国に入るという重要な問題になると、私たちは主の言葉に従わなければなりません。人間の見解や想像で判断することはできません!では、聖書における「救い」の真の意味は何でしょうか?実際、人はいかにして天国に入るのでしょうか?ここでは、この問題について、一緒に、検討し探求したいと思います。

「救い」の真の意味
律法時代の後半、人類はサタンにより次第にひどく堕落していきました。イスラエルの人々はたびたび律法と戒めを破り、ますます罪を犯すようになりました。そのため、どんな多くの犠牲も十分ではなく、民はみな、律法により有罪とされ死刑を宣告される危険にさらされるほどでした。人類を死の脅威から救うために、神は人間の姿になって主イエスとして地上に降り、贖いの働きをなし、人のために十字架におかかりになり、全人類の罪のためのいけにえとなって、人の罪を一思いにお許しになりました。それ以来、主イエスを信じ、主に自らの罪を告白し、悔い改めさえすれば、罪の赦しを得られ、主イエスが与えるすべての祝福と恵を享受できるようになったのです。律法のもとに生きている人々にとって、これは「救い」でした。そのため、主イエスが語られた「救い」とは、私たちが想像するように、主イエスを信じさえすれば永遠に救われるというものではありません。むしろ、罪を犯す人々がもはや律法により罪に定められて死刑になることがなく、人の罪が許されるということです。全能神の言葉の一節を見てみましょう。「人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。……人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きに頼らなければそのような成果を達成することはできない。これによって初めてその時点から次第に人は変えられていくのである」(「受肉の奥義(4)」『言葉は肉において現れる』)。

私たちが主に信じる時、救いの賜物を受け、罪が許されたとしても、罪の束縛から解放されるのではなく、罪の中で生き続けるのです。その例をあげます。私たちは信じられないほど傲慢になる可能性があります。どんなグループの中でも常に最終決定権を持ちたいと思い、他の人たちが自分の言いなりになるようにします。誰かが自分の言う通りにしないと、カッとなってその人をいさめたりするかもしれません。もっと深刻な場合、なんらかの方法でその人を罰し、虐待することもあります。信じがたいほど自己中心的になり、自己の利益という原則をすべての基とし、神への信仰において神と取り引きしようとさえすることがあります。物事が平和で順調に進んでいるときは、神に感謝しますが、つまずきや失敗に直面すると、神に対する誤解と不満でいっぱいになり、神を裏切り捨て去るようにまでなります。あまりに欺瞞に満ちているため、自分の個人的利益が関わると、思わず嘘をついて人をだますこともあります。これは私たちがいかに罪の中に生き続けるかを示すほんの数例にすぎません。聖書には、こう書いています。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある」(ヘブル人への手紙 10:26-27)。「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる」(ヨハネによる福音書 8:34-35)。神は聖です。私たちが真の道について学んだ後、なおも、我知らず罪を犯し神に反抗する可能性があります。ということは、私たちは罪の奴隷であり、神の推薦は受けられないということです。聖書にはこうあります。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙 12:14)。罪が清められておらず、たびたび罪を犯し神に背くなら、その人は永遠に救われるでしょうか?天国に入るにふさわしい者となれるでしょうか?それは明らかに無理です。私たちが罪より完全に清められてはじめて、聖なるものとなり、天国に入ることができるのです。そこで「どうしたら清められて天国に入ることができるのだろう?」と問う人もいるでしょう。

 

 

いかにして救いを受け、天国に入ることができるか?
全能神は言われます。「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた」(「序文」『言葉は肉において現れる』)。このことから分かることは、人間に深く根差したサタン的性質を解決し、人を罪の束縛から完全に開放するためには、主が終わりの日に帰ってきて、神の家から始まった裁きの働きを実行し、人類を清め救うために真実を表す必要があるということです。事実、聖書に書かれている通り、主はこのことについて昔から既に予言しておられたのです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書 12:48)「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙 4:17)。

全能神は、今、主イエスの贖いの働きに基づいて、神の家から始まる裁きの働きを行いつつあります。人の罪深い本性をすっかり清算し、清めて罪の縄目から解き放つために、人類を清め救うための真理をすべて表しておられます。それは、最終的に人が神のものとなり、神の国に導かれるようになるためです。終わりの日における全能神の裁きの働きにより、これらの预言が完全に成就するのです。終わりの日に神の働きを受け入れる者はみな、神の清めと救いを受けるのです。大惨事が到来する前に、勝利者となり、神とともに栄光が与えられ、天国に引き上げられる機会が与えられるのです。それでは、全能神は、いかにして、人々を裁き、清め、罪の縄目から解き放つのでしょうか?

全能神はこう言われます。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)。

このことから、神が多くの真理を用いて、神に逆らい反抗するという、人の悪魔的な性質を裁き暴き出しているのがわかります。全能神の言葉による裁きを経験すると、神の義なるご性質は、どんな罪も許さないということを、私たちは身をもって体験します。神の一つ一つの言葉は私たちの心を貫き、あらゆる種類の堕落の現れを暴き出します。また、誤った考えや見方、不純な動機、心の奥底にある意図や妄想、これらの裏に隠れている悪魔的な本性についても暴き出します。それによって私たちに羞恥心と深い悔恨の念が生じ、神のみ前にひれ伏し、真に神にざんげするようになるのです。しばらくは、神も実践の道を示してくれます。たとえば、神を信じる信仰においてどのような見解を持つべきか、いかにして正直な人となるべきか、いかにして神を崇め、その証人となるべきか、いかにして反キリストの道を避けるべきか、いかにして神への真の服従と真の愛を達成すべきかなどについでです。神の裁きの働きを経験し、神の言葉を実践してはじめて、私たちは正常な人の生きぶりができるのです。これはもっぱら神の裁きの成せる業です。

現在、裁きの体験をした『全能神の教会』の兄弟姉妹たちによる様々な体験的な証が、インターネット上に公開されています。この実際の体験と証からわかることは、神が終わりの日に行う刑罰と裁きの働きを経験しなければ、人は、清められ、神のものとなることができないということです。これが天国に到達する唯一の道です。これまで、真に神を信じる世界の多くの人々が、全能神の言葉を通して天国への道を発見し、神に立ち返っています。私たちが「一度救われると永遠に救われる」という概念に執着し、終わりの日の裁きという神の働きを受け入れないならば、私たちの堕落した性質が、清められ、変えられることはないでしょう。それゆえ、天国に入る機会を得ることは決してないでしょう。それなら、あなたがなおも待ち望むものは何でしょうか?


救いとは? 天国に入るために必要なのは救いだけ?

2020-08-05 21:10:42 | 福音を証しするシリーズ

救いとは? 天国に入るために必要なのは救いだけ?

 

 

目 次

  • 「救い」の真の意味
  • いかにして救いを受け、天国に入ることができるか?

多くの人が、主の到来後すぐに救われ、天国に引き上げられることを待ち望みます。主イエスが帰ってきて、人々を救い清めるために、神の家から始まる裁きの働きを行っていると、公然と証しているのは、今のところ『全能神教会』だけです。この知らせを聞いて困惑する人もいるでしょう。彼らは次の節を読みます。「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる」(マルコによる福音書 16:16)。「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ人への手紙 10:10)。この聖句の意味は、主イエスが人類すべての罪を贖うために十字架に掛かられたのだから、主に信じる限り、自分たちは救われるし、いったん救われると永遠に救われるということだと、彼らは信じています。自分たちが最後まで主のみ名を保ち、耐え抜けば、終わりの日に裁きや清めという神の働きを受け入れずとも、主が帰りたもう時、すぐに天国に引き上げられると信じています。このような考えは正しいのでしょうか?

よく考えてみましょう:人が一旦救われたら、天国に入れるなどと主が言われたでしょうか?聖書に書かれているでしょうか?この二つの問いに対する答えは明らかにノーです。主イエスは言われました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイによる福音書 7:21)。この神の言葉によって、天の父の御旨を行う者だけが天国に入ることができるということがわかります。 天の父の御旨を行うとは、神の言葉を実行することができ、神に服従し、どんな状況にあろうと、神の言葉に従って生きることができること、また二度と罪を犯したり神に反抗したりしないことです。とはいえ、私たちは、思わず嘘をつき罪を犯し続け、主の教えを実践しないことさえあります。それでは、罪を犯し、このようになおも主に逆らう可能性のある者が、天国に入ることができるのでしょうか?残念ながら「一度救われると永遠に救われる」という私たちの考えは誤りです。神の国に入るという重要な問題になると、私たちは主の言葉に従わなければなりません。人間の見解や想像で判断することはできません!では、聖書における「救い」の真の意味は何でしょうか?実際、人はいかにして天国に入るのでしょうか?ここでは、この問題について、一緒に、検討し探求したいと思います。

 

「救い」の真の意味

律法時代の後半、人類はサタンにより次第にひどく堕落していきました。イスラエルの人々はたびたび律法と戒めを破り、ますます罪を犯すようになりました。そのため、どんな多くの犠牲も十分ではなく、民はみな、律法により有罪とされ死刑を宣告される危険にさらされるほどでした。人類を死の脅威から救うために、神は人間の姿になって主イエスとして地上に降り、贖いの働きをなし、人のために十字架におかかりになり、全人類の罪のためのいけにえとなって、人の罪を一思いにお許しになりました。それ以来、主イエスを信じ、主に自らの罪を告白し、悔い改めさえすれば、罪の赦しを得られ、主イエスが与えるすべての祝福と恵を享受できるようになったのです。律法のもとに生きている人々にとって、これは「救い」でした。そのため、主イエスが語られた「救い」とは、私たちが想像するように、主イエスを信じさえすれば永遠に救われるというものではありません。むしろ、罪を犯す人々がもはや律法により罪に定められて死刑になることがなく、人の罪が許されるということです。全能神の言葉の一節を見てみましょう。「人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。……人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きに頼らなければそのような成果を達成することはできない。これによって初めてその時点から次第に人は変えられていくのである」(「受肉の奥義(4)」『言葉は肉において現れる』)。

 

私たちが主に信じる時、救いの賜物を受け、罪が許されたとしても、罪の束縛から解放されるのではなく、罪の中で生き続けるのです。その例をあげます。私たちは信じられないほど傲慢になる可能性があります。どんなグループの中でも常に最終決定権を持ちたいと思い、他の人たちが自分の言いなりになるようにします。誰かが自分の言う通りにしないと、カッとなってその人をいさめたりするかもしれません。もっと深刻な場合、なんらかの方法でその人を罰し、虐待することもあります。信じがたいほど自己中心的になり、自己の利益という原則をすべての基とし、神への信仰において神と取り引きしようとさえすることがあります。物事が平和で順調に進んでいるときは、神に感謝しますが、つまずきや失敗に直面すると、神に対する誤解と不満でいっぱいになり、神を裏切り捨て去るようにまでなります。あまりに欺瞞に満ちているため、自分の個人的利益が関わると、思わず嘘をついて人をだますこともあります。これは私たちがいかに罪の中に生き続けるかを示すほんの数例にすぎません。聖書には、こう書いています。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある」(ヘブル人への手紙 10:26-27)。「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる」(ヨハネによる福音書 8:34-35)。神は聖です。私たちが真の道について学んだ後、なおも、我知らず罪を犯し神に反抗する可能性があります。ということは、私たちは罪の奴隷であり、神の推薦は受けられないということです。聖書にはこうあります。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙 12:14)。罪が清められておらず、たびたび罪を犯し神に背くなら、その人は永遠に救われるでしょうか?天国に入るにふさわしい者となれるでしょうか?それは明らかに無理です。私たちが罪より完全に清められてはじめて、聖なるものとなり、天国に入ることができるのです。そこで「どうしたら清められて天国に入ることができるのだろう?」と問う人もいるでしょう。



いかにして救いを受け、天国に入ることができるか?
全能神は言われます。「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた」(「序文」『言葉は肉において現れる』)。このことから分かることは、人間に深く根差したサタン的性質を解決し、人を罪の束縛から完全に開放するためには、主が終わりの日に帰ってきて、神の家から始まった裁きの働きを実行し、人類を清め救うために真実を表す必要があるということです。事実、聖書に書かれている通り、主はこのことについて昔から既に予言しておられたのです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書 12:48)「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙 4:17)。

全能神は、今、主イエスの贖いの働きに基づいて、神の家から始まる裁きの働きを行いつつあります。人の罪深い本性をすっかり清算し、清めて罪の縄目から解き放つために、人類を清め救うための真理をすべて表しておられます。それは、最終的に人が神のものとなり、神の国に導かれるようになるためです。終わりの日における全能神の裁きの働きにより、これらの预言が完全に成就するのです。終わりの日に神の働きを受け入れる者はみな、神の清めと救いを受けるのです。大惨事が到来する前に、勝利者となり、神とともに栄光が与えられ、天国に引き上げられる機会が与えられるのです。それでは、全能神は、いかにして、人々を裁き、清め、罪の縄目から解き放つのでしょうか?

全能神はこう言われます。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)。

このことから、神が多くの真理を用いて、神に逆らい反抗するという、人の悪魔的な性質を裁き暴き出しているのがわかります。全能神の言葉による裁きを経験すると、神の義なるご性質は、どんな罪も許さないということを、私たちは身をもって体験します。神の一つ一つの言葉は私たちの心を貫き、あらゆる種類の堕落の現れを暴き出します。また、誤った考えや見方、不純な動機、心の奥底にある意図や妄想、これらの裏に隠れている悪魔的な本性についても暴き出します。それによって私たちに羞恥心と深い悔恨の念が生じ、神のみ前にひれ伏し、真に神にざんげするようになるのです。しばらくは、神も実践の道を示してくれます。たとえば、神を信じる信仰においてどのような見解を持つべきか、いかにして正直な人となるべきか、いかにして神を崇め、その証人となるべきか、いかにして反キリストの道を避けるべきか、いかにして神への真の服従と真の愛を達成すべきかなどについでです。神の裁きの働きを経験し、神の言葉を実践してはじめて、私たちは正常な人の生きぶりができるのです。これはもっぱら神の裁きの成せる業です。

現在、裁きの体験をした『全能神の教会』の兄弟姉妹たちによる様々な体験的な証が、インターネット上に公開されています。この実際の体験と証からわかることは、神が終わりの日に行う刑罰と裁きの働きを経験しなければ、人は、清められ、神のものとなることができないということです。これが天国に到達する唯一の道です。これまで、真に神を信じる世界の多くの人々が、全能神の言葉を通して天国への道を発見し、神に立ち返っています。私たちが「一度救われると永遠に救われる」という概念に執着し、終わりの日の裁きという神の働きを受け入れないならば、私たちの堕落した性質が、清められ、変えられることはないでしょう。それゆえ、天国に入る機会を得ることは決してないでしょう。それなら、あなたがなおも待ち望むものは何でしょうか?


救いとは? 天国に入るために必要なのは救いだけ?

2020-08-01 15:30:50 | 福音を証しするシリーズ

救いとは? 天国に入るために必要なのは救いだけ?


目 次
● 「救い」の真の意味
● いかにして救いを受け、天国に入ることができるか?
多くの人が、主の到来後すぐに救われ、天国に引き上げられることを待ち望みます。主イエスが帰ってきて、人々を救い清めるために、神の家から始まる裁きの働きを行っていると、公然と証しているのは、今のところ『全能神教会』だけです。この知らせを聞いて困惑する人もいるでしょう。彼らは次の節を読みます。「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる」(マルコによる福音書 16:16)。「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ人への手紙 10:10)。この聖句の意味は、主イエスが人類すべての罪を贖うために十字架に掛かられたのだから、主に信じる限り、自分たちは救われるし、いったん救われると永遠に救われるということだと、彼らは信じています。自分たちが最後まで主のみ名を保ち、耐え抜けば、終わりの日に裁きや清めという神の働きを受け入れずとも、主が帰りたもう時、すぐに天国に引き上げられると信じています。このような考えは正しいのでしょうか?

よく考えてみましょう:人が一旦救われたら、天国に入れるなどと主が言われたでしょうか?聖書に書かれているでしょうか?この二つの問いに対する答えは明らかにノーです。主イエスは言われました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイによる福音書 7:21)。この神の言葉によって、天の父の御旨を行う者だけが天国に入ることができるということがわかります。 天の父の御旨を行うとは、神の言葉を実行することができ、神に服従し、どんな状況にあろうと、神の言葉に従って生きることができること、また二度と罪を犯したり神に反抗したりしないことです。とはいえ、私たちは、思わず嘘をつき罪を犯し続け、主の教えを実践しないことさえあります。それでは、罪を犯し、このようになおも主に逆らう可能性のある者が、天国に入ることができるのでしょうか?残念ながら「一度救われると永遠に救われる」という私たちの考えは誤りです。神の国に入るという重要な問題になると、私たちは主の言葉に従わなければなりません。人間の見解や想像で判断することはできません!では、聖書における「救い」の真の意味は何でしょうか?実際、人はいかにして天国に入るのでしょうか?ここでは、この問題について、一緒に、検討し探求したいと思います。

「救い」の真の意味

律法時代の後半、人類はサタンにより次第にひどく堕落していきました。イスラエルの人々はたびたび律法と戒めを破り、ますます罪を犯すようになりました。そのため、どんな多くの犠牲も十分ではなく、民はみな、律法により有罪とされ死刑を宣告される危険にさらされるほどでした。人類を死の脅威から救うために、神は人間の姿になって主イエスとして地上に降り、贖いの働きをなし、人のために十字架におかかりになり、全人類の罪のためのいけにえとなって、人の罪を一思いにお許しになりました。それ以来、主イエスを信じ、主に自らの罪を告白し、悔い改めさえすれば、罪の赦しを得られ、主イエスが与えるすべての祝福と恵を享受できるようになったのです。律法のもとに生きている人々にとって、これは「救い」でした。そのため、主イエスが語られた「救い」とは、私たちが想像するように、主イエスを信じさえすれば永遠に救われるというものではありません。むしろ、罪を犯す人々がもはや律法により罪に定められて死刑になることがなく、人の罪が許されるということです。全能神の言葉の一節を見てみましょう。「人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。……人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きに頼らなければそのような成果を達成することはできない。これによって初めてその時点から次第に人は変えられていくのである」(「受肉の奥義(4)」『言葉は肉において現れる』)。

私たちが主に信じる時、救いの賜物を受け、罪が許されたとしても、罪の束縛から解放されるのではなく、罪の中で生き続けるのです。その例をあげます。私たちは信じられないほど傲慢になる可能性があります。どんなグループの中でも常に最終決定権を持ちたいと思い、他の人たちが自分の言いなりになるようにします。誰かが自分の言う通りにしないと、カッとなってその人をいさめたりするかもしれません。もっと深刻な場合、なんらかの方法でその人を罰し、虐待することもあります。信じがたいほど自己中心的になり、自己の利益という原則をすべての基とし、神への信仰において神と取り引きしようとさえすることがあります。物事が平和で順調に進んでいるときは、神に感謝しますが、つまずきや失敗に直面すると、神に対する誤解と不満でいっぱいになり、神を裏切り捨て去るようにまでなります。あまりに欺瞞に満ちているため、自分の個人的利益が関わると、思わず嘘をついて人をだますこともあります。これは私たちがいかに罪の中に生き続けるかを示すほんの数例にすぎません。聖書には、こう書いています。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある」(ヘブル人への手紙 10:26-27)。「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる」(ヨハネによる福音書 8:34-35)。神は聖です。私たちが真の道について学んだ後、なおも、我知らず罪を犯し神に反抗する可能性があります。ということは、私たちは罪の奴隷であり、神の推薦は受けられないということです。聖書にはこうあります。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙 12:14)。罪が清められておらず、たびたび罪を犯し神に背くなら、その人は永遠に救われるでしょうか?天国に入るにふさわしい者となれるでしょうか?それは明らかに無理です。私たちが罪より完全に清められてはじめて、聖なるものとなり、天国に入ることができるのです。そこで「どうしたら清められて天国に入ることができるのだろう?」と問う人もいるでしょう。

 

いかにして救いを受け、天国に入ることができるか?

全能神は言われます。「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた」(「序文」『言葉は肉において現れる』)。このことから分かることは、人間に深く根差したサタン的性質を解決し、人を罪の束縛から完全に開放するためには、主が終わりの日に帰ってきて、神の家から始まった裁きの働きを実行し、人類を清め救うために真実を表す必要があるということです。事実、聖書に書かれている通り、主はこのことについて昔から既に予言しておられたのです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書 12:48)「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙 4:17)。

全能神は、今、主イエスの贖いの働きに基づいて、神の家から始まる裁きの働きを行いつつあります。人の罪深い本性をすっかり清算し、清めて罪の縄目から解き放つために、人類を清め救うための真理をすべて表しておられます。それは、最終的に人が神のものとなり、神の国に導かれるようになるためです。終わりの日における全能神の裁きの働きにより、これらの预言が完全に成就するのです。終わりの日に神の働きを受け入れる者はみな、神の清めと救いを受けるのです。大惨事が到来する前に、勝利者となり、神とともに栄光が与えられ、天国に引き上げられる機会が与えられるのです。それでは、全能神は、いかにして、人々を裁き、清め、罪の縄目から解き放つのでしょうか?

全能神はこう言われます。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)。

このことから、神が多くの真理を用いて、神に逆らい反抗するという、人の悪魔的な性質を裁き暴き出しているのがわかります。全能神の言葉による裁きを経験すると、神の義なるご性質は、どんな罪も許さないということを、私たちは身をもって体験します。神の一つ一つの言葉は私たちの心を貫き、あらゆる種類の堕落の現れを暴き出します。また、誤った考えや見方、不純な動機、心の奥底にある意図や妄想、これらの裏に隠れている悪魔的な本性についても暴き出します。それによって私たちに羞恥心と深い悔恨の念が生じ、神のみ前にひれ伏し、真に神にざんげするようになるのです。しばらくは、神も実践の道を示してくれます。たとえば、神を信じる信仰においてどのような見解を持つべきか、いかにして正直な人となるべきか、いかにして神を崇め、その証人となるべきか、いかにして反キリストの道を避けるべきか、いかにして神への真の服従と真の愛を達成すべきかなどについでです。神の裁きの働きを経験し、神の言葉を実践してはじめて、私たちは正常な人の生きぶりができるのです。これはもっぱら神の裁きの成せる業です。

現在、裁きの体験をした『全能神の教会』の兄弟姉妹たちによる様々な体験的な証が、インターネット上に公開されています。この実際の体験と証からわかることは、神が終わりの日に行う刑罰と裁きの働きを経験しなければ、人は、清められ、神のものとなることができないということです。これが天国に到達する唯一の道です。これまで、真に神を信じる世界の多くの人々が、全能神の言葉を通して天国への道を発見し、神に立ち返っています。私たちが「一度救われると永遠に救われる」という概念に執着し、終わりの日の裁きという神の働きを受け入れないならば、私たちの堕落した性質が、清められ、変えられることはないでしょう。それゆえ、天国に入る機会を得ることは決してないでしょう。それなら、あなたがなおも待ち望むものは何でしょうか?


聖書における罪とは何か。クリスチャンはどのように罪から抜け出すか

2020-07-16 18:39:09 | 福音を証しするシリーズ

聖書における罪とは何か。クリスチャンはどのように罪から抜け出すか


「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる』。」(ヨハネによる福音書 8:34–35)主の御言葉では、人々が罪の束縛から逃れることができないなら、そして罪を犯し続けるなら、彼らは罪の奴隷であり、決して神の国に入ることはないとされています。聖書のこの一節を読むと、多くの信心深い兄弟姉妹たちは、自分がいかに日々罪を犯しては晩に懺悔してばかりいるかを思い、そして自分たちが罪の中に生きており神の国には入れないことを思い悩み、心の中で苦悶します。彼らは主を信じているのに、なぜ罪から逃れられないのでしょうか。一体どうすれば、罪の束縛から逃れることができるのでしょうか。今日は真理のこの側面について、交わりを持ちたいと思います。

目次
● 私たちはなぜ主への信仰の中で罪から逃れることができないのか

● クリスチャンはどうすれば罪を逃れられるのか

● 神はどのように人を清め裁くのか

 

私たちはなぜ主への信仰の中で罪から逃れることができないのか

私たちがなぜ主を信じながらも罪から逃れられないのかという問題については、まず神の言葉のこの一節を読んでみたいと思います。「人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。……」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用)神の言葉は、私たちがすでに主イエスの贖いを経ており、私たちの罪は許されているものの、そして私たちが罪を犯した後主に祈り、懺悔し、悔い改めることで主はもう私たちを罪人とは見なさなくなるものの、それでも私たちの罪深い性質は存在し続けている、ということを語っています。私たちはいまだにしばしば罪を犯し、自分の堕落した性質を露わにし、日々罪を犯しては晩に懺悔してばかりいる傾向があります。たとえば他の人が何か私たちの利益を損なうことを言ったりしたりすると、私たちはその人を憎みます。神が正直な者を愛することはよく知っていながら、私たちはしばしば自分の利益のために嘘をつき、人を騙します。そして神の祝福を受ければいつも神に感謝しますが、災難に見舞われると神に不平を言い始め、場合によっては毒づいたり、神に対して大っぴらに口汚い罵りの言葉を浴びせたりさえするかもしれません。そのため、私たちの罪は許されているものの、私たちの中の堕落した性質は清められていないことがわかります。主イエスが行われたのは、磔刑による受難と人類の贖いの働きであり、人を完全に清めて救う働きではないからです。私たちは数千年にわたってサタンに堕落させられており、サタンのような性質は私たちの本性の中に深く根を下ろしています。傲慢、うぬぼれ、利己心、下劣さ、裏切り、狡賢さ、嘘、偽り、嫉妬による不和、悪意、凶暴性、真理への憎悪、神への敵対 ― こうしたものはすべて罪よりも頑なで、人はこうした性質のため、神に直接敵対することもあります。こうした根本原因に取り組まなければ、私たちは今日もそして明日も同様に罪を犯し、罪の束縛や制約を逃れることはまったく不可能になるのです。

クリスチャンはどうすれば罪を逃れられるのか

それではどうすれば、私たちは罪の束縛から完全に逃れることができるのでしょうか。主イエスは次のように预言されました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12–13)「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47–48)

神の言葉には次のようなものもあります。「サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より引用)

神の言葉によれば、神は終わりの日に再来し、神の言葉を語って裁きの働きを行い、人の堕落した性質を完全に払拭し、人を罪から救うとされています。今日、主イエスは肉となり、受肉した全能神として再来されました。主イエスの贖いの働きを基盤として、全能神は1段階の働きを行われました。それが教会から始まった裁きの働きです。神は人類の清めと救いについての真理をすべて表され、私たちの罪深い本性を根本から変化させて、私たちが真理を理解し、罪から逃れ、罪を犯し神に反抗することをやめ、神に従い神を崇める民となることで、真に神のものとされることができるようにしてくださいました。私たちは終わりの日の全能神による裁きの働きを受け入れて初めて、堕落した性質から抜け出し、清められるチャンスを得ることができるのです。

神はどのように人を清め裁くのか

では一体、終わりの日の全能神はどのように裁きの働きを行って、人を清め救い、罪から逃れさせてくださるのでしょうか。全能神の言葉の別の一節を読んでみましょう。全能神は言われます。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用)

裁きの働きについて話すと、「裁きとは神による糾弾ではないのか。それでどうやって神に救われることができるのか」と考える人がいるかもしれません。そのように考えるのは、私たちが終わりの日の神による裁きの働きのことを知らないからです。神の言葉によれば、終わりの日に全能神が行う裁きの働きは、おもに人を裁き清めるための真理の表現であり、そして神の言葉の啓示によれば、それによって私たちは自分自身の堕落した性質に気づき、サタンの手による自身の堕落という事実を目にするのだとされています。神の言葉は両刃の剣のようなものです。神の言葉を読むと、まるで神が面と向かって私たちを裁き暴いているかのようで、自分自身のサタンのような堕落した性質に気づくことができます ― 傲慢で、思い上がった、自分勝手で、下劣で、不誠実で、ずる賢く、貪欲で、邪悪な性質に。たとえば主を信じるようになると、私たちは主の恵みを享受するようになり、心には平安と喜びが宿り、特に主によって与えられる祝福と約束を目にしてからは、一層熱意を持って主にすべてを捧げるようになります。集会や聖書の朗読会を休むことは一切なくなり、しばしば弱い兄弟姉妹たちを支えて、行く先々で福音を広め、忍耐強く信仰と愛を貫き、そのように身を捧げれば主は必ずすべてを安全にうまく運ばせてくださると信じ、後に自分は天の国に入り永遠のいのちを得られるのだと信じるようになるのです。しかし不運が降りかかり、主が見守ったり保護したりしてくださらない時は、以前どれほど主に身を捧げたかを後悔し、心の中で神を非難さえし始めます。終わりの日における全能神の働きを受け入れていれば、神が次のように語っているのがわかります。「今日、ほとんどの人がこのような状態にある。祝福を得るには、神のために自分を費やし、代価を払う必要がある。祝福を得るには、神のためにすべてを捨て去り、神が自分に託した物事を残らず済ませ、立派に自分の本分を尽くさなければならない」これは祝福を受ける意図に支配されてのことであり、ひとえに神の報いを受け、冠を得るために自分を費やすことの実例である。」(『キリストの言葉の記録』の「ペテロの道を歩むには」より引用)「それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。この関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しとあわれみとがあるだけである。理解はなく、抑圧された憤りと欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より引用)

全能神の言葉は端的に、神に対する私たちの信仰の誤った動機と態度を暴いています。私たちは自分をふり返ってみて初めて、自分が神への愛のため、神を満足させたいがために努力しているのではないということに気づきます。そうではなく私たちは、神の祝福と約束の見返りとして自分の身を捧げようとしており、私たちの善い行いや行動はあくまで自分自身の目標を達成するためのものなのです。このようなとき、私たちは自分の本性がいかに利己的で下劣かを思い知ることになります。私たちは「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」というサタンの法則に従って生きており、私たちがすることはすべて自分自身の利益のためで、神への信仰のためにいくらか身を捧げているときでさえ、それは神の祝福と利益を得るためなのです。私たちはちょっとした出費を大いなる祝福と引き替えることを望んでおり、今生では100倍の見返りを得て、来世では永遠のいのちを得ようとしています。被造物として自分の本分を尽くし、神の愛に報いるために身を捧げることは一切しません。自分の意図や願望が満たされないと、私たちは後ろ向きになり、不平を言い、神に反抗することもあります。自分がどれほど汚れ堕落しているかを目のあたりにし、良心や分別も失われていて、神の報いや祝福を受けるにはまったくふさわしくないことを思い知ると、心の中で後悔や自己批判を始めます。そして自分を軽蔑し、神の前に倒れ込んで罪を告白せざるを得なくなり、すべてを一からやり直したいと望み、神にすべてを捧げる意志を持って、もうなんの見返りも求めなくなります。神の裁きと刑罰を経験することで、私たちは自分自身のサタンのような性質に気づき、神が人の罪を嫌悪していることを知るのです。汚らわしさがあるところでは必ず神の裁きが行われることを目にして、私たちは神の聖い本質と、その正しく犯すべからざる性質とを知り、それによって私たちの中に神を畏れる心が生まれます。神の言葉の導きのもとで、私たちは徐々に神の旨とその要求とを理解するようになり、被造物という立場を固く守って、いくらか人の本分を尽くすようになるとともに、神との交わりにおける取引は減り続け、神との関係がより密接になって、堕落した性質も何らかの変化を遂げ、最終的には真の人間の姿をなすようになるのです。

私たちが今日のように変わることができたのはすべて、全能神の裁きの働きによってもたらされた効果によるものです。終わりの日に全能神の裁きと刑罰を経験した者で、真理を本当に愛する者はすべて、数年後に明らかな変化を目にし、その収穫を得ることになります。人に対する神の愛がいかに大きなものか、神による人の救いがいかに偉大かを心の中で感じとれるようになり、そして神の働きがいかに本物かを深く感謝するようになるのです。そして神の裁きと刑罰のみが正真正銘の救いであり、終わりの日の全能神の働きを受け入れて神の裁きと刑罰を経験することによってのみ、人は清められ変えられることができるのだと気づきます。それが、私たちが罪から逃れられる唯一の道なのです。

 

 

今回の交わりで迷いは解決されたでしょうか。この交わりで、罪から逃れる道は見つかりましたか? これが役に立ったと思われる方は、引き続きこのウェブサイトを見ていてくだされば、サイトは今後も新しいコンテンツを加えて更新されていきます。また周りにもあなたのように迷っている人がいれば、その人にもこの記事を見せてあげてください。質問や問題があれば、いつでもお気軽にお問い合わせください。一緒に考え、答えを求めていきましょう。

最後に、いくつかの推薦動画をご紹介したいと思います。「神様の裁きを経験し、変化を得た証し」、「大きな白い玉座の裁きは既に始まった」そして「キリストの御前で裁きを受け命を受け取ることについての証」です。これらの動画ではクリスチャンが神の裁きを経験した後、どのように真に悔い改め、変化するかを知ることができます。これらがあなたのお役に立ちますように。


説教:生活の中で私たちはどのように罪から抜け出すか

2020-07-15 21:27:39 | 福音を証しするシリーズ

説教:生活の中で私たちはどのように罪から抜け出すか

「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる』。」(ヨハネによる福音書 8:34–35)主の御言葉では、人々が罪の束縛から逃れることができないなら、そして罪を犯し続けるなら、彼らは罪の奴隷であり、決して神の国に入ることはないとされています。聖書のこの一節を読むと、多くの信心深い兄弟姉妹たちは、自分がいかに日々罪を犯しては晩に懺悔してばかりいるかを思い、そして自分たちが罪の中に生きており神の国には入れないことを思い悩み、心の中で苦悶します。彼らは主を信じているのに、なぜ罪から逃れられないのでしょうか。一体どうすれば、罪の束縛から逃れることができるのでしょうか。今日は真理のこの側面について、交わりを持ちたいと思います。

目次
● 私たちはなぜ主への信仰の中で罪から逃れることができないのか

● クリスチャンはどうすれば罪を逃れられるのか

● 神はどのように人を清め裁くのか


私たちはなぜ主への信仰の中で罪から逃れることができないのか

     私たちがなぜ主を信じながらも罪から逃れられないのかという問題については、まず神の言葉のこの一節を読んでみたいと思います。「人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。……」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用)神の言葉は、私たちがすでに主イエスの贖いを経ており、私たちの罪は許されているものの、そして私たちが罪を犯した後主に祈り、懺悔し、悔い改めることで主はもう私たちを罪人とは見なさなくなるものの、それでも私たちの罪深い性質は存在し続けている、ということを語っています。私たちはいまだにしばしば罪を犯し、自分の堕落した性質を露わにし、日々罪を犯しては晩に懺悔してばかりいる傾向があります。たとえば他の人が何か私たちの利益を損なうことを言ったりしたりすると、私たちはその人を憎みます。神が正直な者を愛することはよく知っていながら、私たちはしばしば自分の利益のために嘘をつき、人を騙します。そして神の祝福を受ければいつも神に感謝しますが、災難に見舞われると神に不平を言い始め、場合によっては毒づいたり、神に対して大っぴらに口汚い罵りの言葉を浴びせたりさえするかもしれません。そのため、私たちの罪は許されているものの、私たちの中の堕落した性質は清められていないことがわかります。主イエスが行われたのは、磔刑による受難と人類の贖いの働きであり、人を完全に清めて救う働きではないからです。私たちは数千年にわたってサタンに堕落させられており、サタンのような性質は私たちの本性の中に深く根を下ろしています。傲慢、うぬぼれ、利己心、下劣さ、裏切り、狡賢さ、嘘、偽り、嫉妬による不和、悪意、凶暴性、真理への憎悪、神への敵対 ― こうしたものはすべて罪よりも頑なで、人はこうした性質のため、神に直接敵対することもあります。こうした根本原因に取り組まなければ、私たちは今日もそして明日も同様に罪を犯し、罪の束縛や制約を逃れることはまったく不可能になるのです。

クリスチャンはどうすれば罪を逃れられるのか

         それではどうすれば、私たちは罪の束縛から完全に逃れることができるのでしょうか。主イエスは次のように预言されました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12–13)「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47–48)

         神の言葉には次のようなものもあります。「サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より引用)

神の言葉によれば、神は終わりの日に再来し、神の言葉を語って裁きの働きを行い、人の堕落した性質を完全に払拭し、人を罪から救うとされています。今日、主イエスは肉となり、受肉した全能神として再来されました。主イエスの贖いの働きを基盤として、全能神は1段階の働きを行われました。それが教会から始まった裁きの働きです。神は人類の清めと救いについての真理をすべて表され、私たちの罪深い本性を根本から変化させて、私たちが真理を理解し、罪から逃れ、罪を犯し神に反抗することをやめ、神に従い神を崇める民となることで、真に神のものとされることができるようにしてくださいました。私たちは終わりの日の全能神による裁きの働きを受け入れて初めて、堕落した性質から抜け出し、清められるチャンスを得ることができるのです。

神はどのように人を清め裁くのか

      では一体、終わりの日の全能神はどのように裁きの働きを行って、人を清め救い、罪から逃れさせてくださるのでしょうか。全能神の言葉の別の一節を読んでみましょう。全能神は言われます。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用)

       裁きの働きについて話すと、「裁きとは神による糾弾ではないのか。それでどうやって神に救われることができるのか」と考える人がいるかもしれません。そのように考えるのは、私たちが終わりの日の神による裁きの働きのことを知らないからです。神の言葉によれば、終わりの日に全能神が行う裁きの働きは、おもに人を裁き清めるための真理の表現であり、そして神の言葉の啓示によれば、それによって私たちは自分自身の堕落した性質に気づき、サタンの手による自身の堕落という事実を目にするのだとされています。神の言葉は両刃の剣のようなものです。神の言葉を読むと、まるで神が面と向かって私たちを裁き暴いているかのようで、自分自身のサタンのような堕落した性質に気づくことができます ― 傲慢で、思い上がった、自分勝手で、下劣で、不誠実で、ずる賢く、貪欲で、邪悪な性質に。たとえば主を信じるようになると、私たちは主の恵みを享受するようになり、心には平安と喜びが宿り、特に主によって与えられる祝福と約束を目にしてからは、一層熱意を持って主にすべてを捧げるようになります。集会や聖書の朗読会を休むことは一切なくなり、しばしば弱い兄弟姉妹たちを支えて、行く先々で福音を広め、忍耐強く信仰と愛を貫き、そのように身を捧げれば主は必ずすべてを安全にうまく運ばせてくださると信じ、後に自分は天の国に入り永遠のいのちを得られるのだと信じるようになるのです。しかし不運が降りかかり、主が見守ったり保護したりしてくださらない時は、以前どれほど主に身を捧げたかを後悔し、心の中で神を非難さえし始めます。終わりの日における全能神の働きを受け入れていれば、神が次のように語っているのがわかります。「今日、ほとんどの人がこのような状態にある。祝福を得るには、神のために自分を費やし、代価を払う必要がある。祝福を得るには、神のためにすべてを捨て去り、神が自分に託した物事を残らず済ませ、立派に自分の本分を尽くさなければならない」これは祝福を受ける意図に支配されてのことであり、ひとえに神の報いを受け、冠を得るために自分を費やすことの実例である。」(『キリストの言葉の記録』の「ペテロの道を歩むには」より引用)「それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。この関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しとあわれみとがあるだけである。理解はなく、抑圧された憤りと欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より引用)

      全能神の言葉は端的に、神に対する私たちの信仰の誤った動機と態度を暴いています。私たちは自分をふり返ってみて初めて、自分が神への愛のため、神を満足させたいがために努力しているのではないということに気づきます。そうではなく私たちは、神の祝福と約束の見返りとして自分の身を捧げようとしており、私たちの善い行いや行動はあくまで自分自身の目標を達成するためのものなのです。このようなとき、私たちは自分の本性がいかに利己的で下劣かを思い知ることになります。私たちは「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」というサタンの法則に従って生きており、私たちがすることはすべて自分自身の利益のためで、神への信仰のためにいくらか身を捧げているときでさえ、それは神の祝福と利益を得るためなのです。私たちはちょっとした出費を大いなる祝福と引き替えることを望んでおり、今生では100倍の見返りを得て、来世では永遠のいのちを得ようとしています。被造物として自分の本分を尽くし、神の愛に報いるために身を捧げることは一切しません。自分の意図や願望が満たされないと、私たちは後ろ向きになり、不平を言い、神に反抗することもあります。自分がどれほど汚れ堕落しているかを目のあたりにし、良心や分別も失われていて、神の報いや祝福を受けるにはまったくふさわしくないことを思い知ると、心の中で後悔や自己批判を始めます。そして自分を軽蔑し、神の前に倒れ込んで罪を告白せざるを得なくなり、すべてを一からやり直したいと望み、神にすべてを捧げる意志を持って、もうなんの見返りも求めなくなります。神の裁きと刑罰を経験することで、私たちは自分自身のサタンのような性質に気づき、神が人の罪を嫌悪していることを知るのです。汚らわしさがあるところでは必ず神の裁きが行われることを目にして、私たちは神の聖い本質と、その正しく犯すべからざる性質とを知り、それによって私たちの中に神を畏れる心が生まれます。神の言葉の導きのもとで、私たちは徐々に神の旨とその要求とを理解するようになり、被造物という立場を固く守って、いくらか人の本分を尽くすようになるとともに、神との交わりにおける取引は減り続け、神との関係がより密接になって、堕落した性質も何らかの変化を遂げ、最終的には真の人間の姿をなすようになるのです。

       私たちが今日のように変わることができたのはすべて、全能神の裁きの働きによってもたらされた効果によるものです。終わりの日に全能神の裁きと刑罰を経験した者で、真理を本当に愛する者はすべて、数年後に明らかな変化を目にし、その収穫を得ることになります。人に対する神の愛がいかに大きなものか、神による人の救いがいかに偉大かを心の中で感じとれるようになり、そして神の働きがいかに本物かを深く感謝するようになるのです。そして神の裁きと刑罰のみが正真正銘の救いであり、終わりの日の全能神の働きを受け入れて神の裁きと刑罰を経験することによってのみ、人は清められ変えられることができるのだと気づきます。それが、私たちが罪から逃れられる唯一の道なのです。

       今回の交わりで迷いは解決されたでしょうか。この交わりで、罪から逃れる道は見つかりましたか? これが役に立ったと思われる方は、引き続きこのウェブサイトを見ていてくだされば、サイトは今後も新しいコンテンツを加えて更新されていきます。また周りにもあなたのように迷っている人がいれば、その人にもこの記事を見せてあげてください。質問や問題があれば、いつでもお気軽にお問い合わせください。一緒に考え、答えを求めていきましょう。

       最後に、いくつかの推薦動画をご紹介したいと思います。「神様の裁きを経験し、変化を得た証し」、「大きな白い玉座の裁きは既に始まった」そして「キリストの御前で裁きを受け命を受け取ることについての証」です。これらの動画ではクリスチャンが神の裁きを経験した後、どのように真に悔い改め、変化するかを知ることができます。これらがあなたのお役に立ちますように。